LIVEのために東京に戻ってきた。LIVE以外にやることはないしすぐ実家に帰らないといけないから、なんかよくわからない不安定な日々を過ごしている。ネットもつながってないし、学校に行って友人に会うこともないし、その上まだ余震は来るし駅も店も節電のため暗いから、どんどん気分は暗くなってゆく。持ってるけど今までちゃんと見てこなかったDVDを観たりした。「ウェイキング・ライフ」という映画と、クジラのドキュメンタリーと、「ディープ・ブルー」を。「ウェイキング・ライフ」はおもしろかった。驚いたことに、この映画の音声サンプルを元ネタにした曲を3曲も知っていたのだ。しかも3曲ともサイケ。ひとつはshpongleの「Botanical Dimensions」で、もうひとつはDNAの「Kick Me Up」、そして同じくDNAの「Deamons In My Head」だ。それぞれ全く違う部分をサンプリングして曲に入れてるんだけど、ひとつの映画の中で3曲もサイケの元ネタを見つけたのは初めてだ。まあ映画自体もかなりサイケな感じだったんだけど。この映画は実写をアニメーション加工した映像が全編続き、アニメーションなんだけど動きや声はリアルだ。ある男が車にぶつかる夢から覚めて、様々な人と人間の生きる意味について語りながら、また夢から覚める。そしてそれもまた夢の中で、主人公は「夢から覚め続ける」のだ。生きる意味と夢が大きなテーマになっていて、哲学や分子生物学や脳科学や心理学など様々な分野の人の見解が映画の中で語られている。
夢とは奇妙だ。順序や空間がこの世とはかけ離れ過ぎている。そのくせ僕らはそれが虚構だとは(夢を見ている間は)思わない。
精神分析のジャック・ラカンは、人が夢から覚めることを、「あまりに現実的過ぎて、それに耐えきれずに夢から逃げ出す」と言った。人は夢に逃避するんではなくて、現実に逃避するのだ。いくら恐ろしい現実から目を背けても、いくら恐ろしい過去を忘れ去っても、無意識が支配する夢の世界では自分がコントロールすることはできない。そこでは捏造してきた過去や抑圧してきた恐怖が、隠されることなく現れるのだ。それは「あまりに現実的」だ。息子を死なせてしまった父親は、いくら「息子は幸せに死んでいった」と解釈しても、夢の中では「どうして僕が燃えていることに気づかないの?」と責められるのだ。いくら自分にかぎって突然死ぬようなことはないと安心していても、夢の中ではそうはいかない。検閲され、削除された現実を、夢は否応なく見せつけるのだ。
シュルレアリストたちは、夢が「あまりに現実的」だということを信じ、夢を詩や絵にした。おれもなぜだか震災後は津波の夢も原発の夢も、何度もみた。
そしてまあ、ライブは平和に終わった。俺らのバンドが企画したLIVEだったので、読んだバンドはすべてメンバーの誰かの知り合いだ。
LIVEをみてると、ふと不思議な気持ちになることがある。それはYouTubeでみる大物のLIVEでも、名前も知らない田舎からきた路上ミュージシャンでも同じで、みているとふと疑問に思うことがある。
ーーこいつら一体人前でなにしてんだ?ーーと。
エルトン・ジョンの曲は本当にいい曲が多いが、LIVE映像をみてると、ジョンはニコニコしていて、お客さんもニコニコしていて、かるく肩を揺らしていて、このふたつの需要と供給はいったいなんなんだ?と思う。それでトカトントンと冷めてしまうんだけど、それはどうもうまく言葉にできない違和感だ。LIVEというのは本来ならば、作品を誰かが作り、発表する場だから、それはアーティスト主体によるものじゃないかと思うんだけど、いやだからつまり、カンヌ映画祭なんかだと、その辺の意識がまだある方だと思うから、客はつまらなければ途中で帰るし、おもろければ手を叩いて笑うし、スタンディング・オベーションになったりする。でもエルトン・ジョンのLIVEはそういうことは決して無くて、客が踊りたくなればジョンはスイングして、客が泣きたくなればバラードする。だから演奏してんのは実は客で、エルトン・ジョンが一番楽しんでるんじゃないかって思う。
LIVEとかクラブとかで、同調意識で、みんなと一緒に踊らないといけなくなるときってあるでしょ?でも絶対自分はこんなクソみたいなハウスでは踊れないって思ってるんだけど、踊らなくちゃもっと居心地が悪くなって来る。あれは自分が演奏者になる行為だから、客のいない演奏会といった按配になると思う。
昔、ハードコアのLIVEに友人にといったとき、客たちは暴れ回っていて、音楽は全然好きじゃないんだけど暴れるのはなんか楽しいから暴れてると、友人が急に「わかった!」て叫んだのを覚えている。「わかった!こうやって暴れることで、自分が演奏してる気分になるんや!」と言っていたけど、まさにその通りだろう。客がモッシュしだすのは、その音楽にモッシュさせるだけの神秘的な力があったわけではない。客たちが能動的にモッシュを演奏し始め、演奏者はそれを聴いて、ノッているのだ。
だから俺がLIVEをみてて、こいつら一体人前でなにしてるんだ???って思う瞬間は、そういった受動体と能動体の本来の立ち位置が逆転してしまったときに思うんだろう。だから客を能動的な主体に強制参加させるような台詞ーー"Come on! Put your mother fucking hands up" とか"Make some nooooooise!!" みたいな台詞は大嫌いだ。
でもそれにしても人前で演奏することは馬鹿げている。能動体と受動体という関係性が一番しっかりしているのはクラシックコンサートだ。しかし拍手は強制されている。
そう思うとLIVEというのは、もともと客たちのものかもしれない。アーティストは「お客さんあってのぼくらです」とは言うけど、その実態は理解していないだろう。おそらくその言葉そのまんまに、「客が演奏し、アーティストが喜ぶ」というのが一般的なすべてのLIVEの図式だろう。この図式は、クラブで踊らなければいけないように、強制的である。
だからおれは、最近はLIVEそのものに違和感を感じていて、素直に演奏することができない。客が怖いんだろう。おれと他者の関係はいったいどんなもんなのか。
他人の目を気にしながら行動したりしている自分がすごく嫌になることがあるでしょ。何かをみたり感じたりしながら、他人に見せるためにそういうことをしている自分に虚しくなってくることがあるでしょう。誇れることとはおよそ遠いエピソード、例えば貧乏したことや親族の死や別れ話や自分の短所などを、自慢して聞かせている自分が恥ずかしくなってくることがあるでしょう。
芸術が好きな人なら誰でもそうかもしれないけど、あるときから、異端な音楽が好きになる時期がある。それは音楽でいうなら、調性よりも無調、綺麗な音よりもノイズ、歌モノよりもインスト、メジャーよりもインディーズという風に、難解だったり避けられたものが素晴らしいと思えてくる時期がある。そしてそれは新しい開拓の喜びでもあるんだけど、それは同時に受け手(読者、リスナー、試聴者、客)としての自分の渾沌にも出会うハメになる。それは、そういう音楽が好きであるということを他人に知られたいという欲求で、他人がいなければ成立しないかのように音楽を探して、本当に自分はこういう音楽が好きなんだろうか?とおもったりする。「俺は他人に見せつけるためだけに無調音楽を聴いているんだろうか?」と。
こういう音楽の聴き方を、おそらくほとんどの誠実な人なら「純粋な聴き方じゃない」とか「いやらしい」とか「ひねくれている」とか思って嫌い、恥ずかしく思うものだ。
しかし他人とは一体誰のことなのだろう。
例えばアンジョリーナ・ジョリーとセックス出来さえすれば、一生涯の主演女優賞にノミネートされることは間違いないし、人によっては一生分の運 気を使い果たしたと思って身を投げてしまうかもしれない。アンジョリー ナ・ジョリーとのセックスがどれほど貴重なことかということはいかなる男子にも明白だとしても、なぜ貴重かという理由は男子どもの趣味趣向とは関係がない。アンジョリーナ・ジョリーとセックスをした後に、男どもはただ一つの欲求に駆られるに違いない。それは「他人に話すこと」だ。「なあ、聞いてくれ、大事な話があるんだ。聞いてくれ……ああ、昨日のことは悪かった。連絡できなかった理由があるんだ。だから聞いてくれって、ジェシカ、ヒステリーはやめてくれ。わかったわかった、おれが全部悪い、すまなかった。これでいいだろ?いいかい、深呼吸するんだ。少しは俺の話を聞いてくれ。いや、浮気の話なんかどうでもいいんだ……いや愛がないわけじゃない。そんなはずないじゃないか。愛してる。もちろんだ。浮気なんかするわけない……いや、浮気というか、とにかく聞いてくれ。《17歳のカルテ》観ただろ?アンジェリーナ・ジョ……いや、違うんだ。聞いてくれ、聞いて、聞けって!!おい!聞けよ、聞け!(ガラガラガッシャーン!!!)いいか、俺はな、アンジェリーナ・ジョリーとヤッたんだ!!」
なにも交際相手に言わなくてもいい。親にも言う必要はない。我慢できるなら、信頼できる友人にも秘密にしていればいい。知っているのは自分ひとり(とアンジーだけ)だ。だがこれは勲章になる。おれらはもし仮にアンジーと寝たとして、誰にもそのことを言わなかったとしても、純粋な意味での他人にそのことを言わないでいることはできない。
なぜアンジーなのか?なぜミス東大ではないのか?交際相手ではないのか?今まで出会った女たちでないのか?勲章は常に審査される。その審査基準は自分の中だけで定めることはできない。他人が定め、他人が承認するような制度として通用するものでないとダメなのだ。確かに街中ですれ違った女たちは美しい。だがそれは他人が見て、他者が見て美しいとされている対象でないと意味がないのだ。まさしくアンジーは助演女優賞をとっている。アカデミー賞!だから多くの男たちがアンジーと寝ることで得る満足感は、他者への勝利宣言なのだ。
ん、なぜ他者への勝利宣言とアンジョリーナ・ジョリーと寝る話をしてるんだろう。
しかし内なる他者というものは存在する。そしてそれを常に外部に探し求めている。
安部公房は三島由紀夫との対談で、究極の理想の読者とは一体誰かという話をし、「突き詰めて行けば、それは自分だ」と言った。
しかし人はその鏡像を求めるのだ。
イタロ・カルヴィーノの「冬の夜一人の旅人が」では、小説家がある日望遠鏡で、読書をしている美しい女性を見つけ、「これが理想の読者だ!」と興奮して、その子が自分の本を読むために、作家は書き続ける。
僕も電車の中で背の高い、ツンと反った鼻を持つ美しい女性をみると、ああこの子だけはおれの小説を理解してくれる、と勝手に信じたりする。だがそういった女性は神がかっていて(おそらく八百万のひとりだろう)、目を合わせることもできない。
さてなんの話だっただろう。
そうだ、LIVEは無事に終わり、俺は早々と東京を後にして、富士山に中指を立てながら、新幹線の中でこの文章を書いているのでありました。
さらば
夢とは奇妙だ。順序や空間がこの世とはかけ離れ過ぎている。そのくせ僕らはそれが虚構だとは(夢を見ている間は)思わない。
精神分析のジャック・ラカンは、人が夢から覚めることを、「あまりに現実的過ぎて、それに耐えきれずに夢から逃げ出す」と言った。人は夢に逃避するんではなくて、現実に逃避するのだ。いくら恐ろしい現実から目を背けても、いくら恐ろしい過去を忘れ去っても、無意識が支配する夢の世界では自分がコントロールすることはできない。そこでは捏造してきた過去や抑圧してきた恐怖が、隠されることなく現れるのだ。それは「あまりに現実的」だ。息子を死なせてしまった父親は、いくら「息子は幸せに死んでいった」と解釈しても、夢の中では「どうして僕が燃えていることに気づかないの?」と責められるのだ。いくら自分にかぎって突然死ぬようなことはないと安心していても、夢の中ではそうはいかない。検閲され、削除された現実を、夢は否応なく見せつけるのだ。
シュルレアリストたちは、夢が「あまりに現実的」だということを信じ、夢を詩や絵にした。おれもなぜだか震災後は津波の夢も原発の夢も、何度もみた。
そしてまあ、ライブは平和に終わった。俺らのバンドが企画したLIVEだったので、読んだバンドはすべてメンバーの誰かの知り合いだ。
LIVEをみてると、ふと不思議な気持ちになることがある。それはYouTubeでみる大物のLIVEでも、名前も知らない田舎からきた路上ミュージシャンでも同じで、みているとふと疑問に思うことがある。
ーーこいつら一体人前でなにしてんだ?ーーと。
エルトン・ジョンの曲は本当にいい曲が多いが、LIVE映像をみてると、ジョンはニコニコしていて、お客さんもニコニコしていて、かるく肩を揺らしていて、このふたつの需要と供給はいったいなんなんだ?と思う。それでトカトントンと冷めてしまうんだけど、それはどうもうまく言葉にできない違和感だ。LIVEというのは本来ならば、作品を誰かが作り、発表する場だから、それはアーティスト主体によるものじゃないかと思うんだけど、いやだからつまり、カンヌ映画祭なんかだと、その辺の意識がまだある方だと思うから、客はつまらなければ途中で帰るし、おもろければ手を叩いて笑うし、スタンディング・オベーションになったりする。でもエルトン・ジョンのLIVEはそういうことは決して無くて、客が踊りたくなればジョンはスイングして、客が泣きたくなればバラードする。だから演奏してんのは実は客で、エルトン・ジョンが一番楽しんでるんじゃないかって思う。
LIVEとかクラブとかで、同調意識で、みんなと一緒に踊らないといけなくなるときってあるでしょ?でも絶対自分はこんなクソみたいなハウスでは踊れないって思ってるんだけど、踊らなくちゃもっと居心地が悪くなって来る。あれは自分が演奏者になる行為だから、客のいない演奏会といった按配になると思う。
昔、ハードコアのLIVEに友人にといったとき、客たちは暴れ回っていて、音楽は全然好きじゃないんだけど暴れるのはなんか楽しいから暴れてると、友人が急に「わかった!」て叫んだのを覚えている。「わかった!こうやって暴れることで、自分が演奏してる気分になるんや!」と言っていたけど、まさにその通りだろう。客がモッシュしだすのは、その音楽にモッシュさせるだけの神秘的な力があったわけではない。客たちが能動的にモッシュを演奏し始め、演奏者はそれを聴いて、ノッているのだ。
だから俺がLIVEをみてて、こいつら一体人前でなにしてるんだ???って思う瞬間は、そういった受動体と能動体の本来の立ち位置が逆転してしまったときに思うんだろう。だから客を能動的な主体に強制参加させるような台詞ーー"Come on! Put your mother fucking hands up" とか"Make some nooooooise!!" みたいな台詞は大嫌いだ。
でもそれにしても人前で演奏することは馬鹿げている。能動体と受動体という関係性が一番しっかりしているのはクラシックコンサートだ。しかし拍手は強制されている。
そう思うとLIVEというのは、もともと客たちのものかもしれない。アーティストは「お客さんあってのぼくらです」とは言うけど、その実態は理解していないだろう。おそらくその言葉そのまんまに、「客が演奏し、アーティストが喜ぶ」というのが一般的なすべてのLIVEの図式だろう。この図式は、クラブで踊らなければいけないように、強制的である。
だからおれは、最近はLIVEそのものに違和感を感じていて、素直に演奏することができない。客が怖いんだろう。おれと他者の関係はいったいどんなもんなのか。
他人の目を気にしながら行動したりしている自分がすごく嫌になることがあるでしょ。何かをみたり感じたりしながら、他人に見せるためにそういうことをしている自分に虚しくなってくることがあるでしょう。誇れることとはおよそ遠いエピソード、例えば貧乏したことや親族の死や別れ話や自分の短所などを、自慢して聞かせている自分が恥ずかしくなってくることがあるでしょう。
芸術が好きな人なら誰でもそうかもしれないけど、あるときから、異端な音楽が好きになる時期がある。それは音楽でいうなら、調性よりも無調、綺麗な音よりもノイズ、歌モノよりもインスト、メジャーよりもインディーズという風に、難解だったり避けられたものが素晴らしいと思えてくる時期がある。そしてそれは新しい開拓の喜びでもあるんだけど、それは同時に受け手(読者、リスナー、試聴者、客)としての自分の渾沌にも出会うハメになる。それは、そういう音楽が好きであるということを他人に知られたいという欲求で、他人がいなければ成立しないかのように音楽を探して、本当に自分はこういう音楽が好きなんだろうか?とおもったりする。「俺は他人に見せつけるためだけに無調音楽を聴いているんだろうか?」と。
こういう音楽の聴き方を、おそらくほとんどの誠実な人なら「純粋な聴き方じゃない」とか「いやらしい」とか「ひねくれている」とか思って嫌い、恥ずかしく思うものだ。
しかし他人とは一体誰のことなのだろう。
例えばアンジョリーナ・ジョリーとセックス出来さえすれば、一生涯の主演女優賞にノミネートされることは間違いないし、人によっては一生分の運 気を使い果たしたと思って身を投げてしまうかもしれない。アンジョリー ナ・ジョリーとのセックスがどれほど貴重なことかということはいかなる男子にも明白だとしても、なぜ貴重かという理由は男子どもの趣味趣向とは関係がない。アンジョリーナ・ジョリーとセックスをした後に、男どもはただ一つの欲求に駆られるに違いない。それは「他人に話すこと」だ。「なあ、聞いてくれ、大事な話があるんだ。聞いてくれ……ああ、昨日のことは悪かった。連絡できなかった理由があるんだ。だから聞いてくれって、ジェシカ、ヒステリーはやめてくれ。わかったわかった、おれが全部悪い、すまなかった。これでいいだろ?いいかい、深呼吸するんだ。少しは俺の話を聞いてくれ。いや、浮気の話なんかどうでもいいんだ……いや愛がないわけじゃない。そんなはずないじゃないか。愛してる。もちろんだ。浮気なんかするわけない……いや、浮気というか、とにかく聞いてくれ。《17歳のカルテ》観ただろ?アンジェリーナ・ジョ……いや、違うんだ。聞いてくれ、聞いて、聞けって!!おい!聞けよ、聞け!(ガラガラガッシャーン!!!)いいか、俺はな、アンジェリーナ・ジョリーとヤッたんだ!!」
なにも交際相手に言わなくてもいい。親にも言う必要はない。我慢できるなら、信頼できる友人にも秘密にしていればいい。知っているのは自分ひとり(とアンジーだけ)だ。だがこれは勲章になる。おれらはもし仮にアンジーと寝たとして、誰にもそのことを言わなかったとしても、純粋な意味での他人にそのことを言わないでいることはできない。
なぜアンジーなのか?なぜミス東大ではないのか?交際相手ではないのか?今まで出会った女たちでないのか?勲章は常に審査される。その審査基準は自分の中だけで定めることはできない。他人が定め、他人が承認するような制度として通用するものでないとダメなのだ。確かに街中ですれ違った女たちは美しい。だがそれは他人が見て、他者が見て美しいとされている対象でないと意味がないのだ。まさしくアンジーは助演女優賞をとっている。アカデミー賞!だから多くの男たちがアンジーと寝ることで得る満足感は、他者への勝利宣言なのだ。
ん、なぜ他者への勝利宣言とアンジョリーナ・ジョリーと寝る話をしてるんだろう。
しかし内なる他者というものは存在する。そしてそれを常に外部に探し求めている。
安部公房は三島由紀夫との対談で、究極の理想の読者とは一体誰かという話をし、「突き詰めて行けば、それは自分だ」と言った。
しかし人はその鏡像を求めるのだ。
イタロ・カルヴィーノの「冬の夜一人の旅人が」では、小説家がある日望遠鏡で、読書をしている美しい女性を見つけ、「これが理想の読者だ!」と興奮して、その子が自分の本を読むために、作家は書き続ける。
僕も電車の中で背の高い、ツンと反った鼻を持つ美しい女性をみると、ああこの子だけはおれの小説を理解してくれる、と勝手に信じたりする。だがそういった女性は神がかっていて(おそらく八百万のひとりだろう)、目を合わせることもできない。
さてなんの話だっただろう。
そうだ、LIVEは無事に終わり、俺は早々と東京を後にして、富士山に中指を立てながら、新幹線の中でこの文章を書いているのでありました。
さらば
4. Re:無題
Reviewed by asahi
on
23:47
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ガラガラガッシャーン
ライヴお疲れ様でした!!
次のライヴまで長いねぇ(=(´・ω・)=)
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��あおさん
ありがとう~
この二日間はえらく時間に騙されまくってるわ。
原発が収束したらすぐにでもLIVEするよー
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その間クルマの免許取ればいい:0
SECRET: 0
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��TeTZさん
この前は運転ありがとう。金がないんだわ