歌詞において、日本語のアクセントとメロディが意識されるようになったのがいつのことからか私は知らない。しかし少なくともそのような意識は大正期の童謡の運動のころにはかなりあったように思う。童謡は、文部省唱歌に反発する形で現れ、大正七年に鈴木三重吉が主催した児童雑誌「赤い鳥」がその運動を牽引してゆくことになる。もっと遡れば、各地で日本語のアクセントは収拾がつかないほどばらばらであったことを考慮しなければならない。
とにかく、日本語にはアクセントというものがあり、それにメロディがかぶさらなければ意味が伝わらない、という意識が大正期には形成されてきたようだ。長い間外国語であるお経を意味もわからずありがたく唱え続けてきた日本人とは思えないような意識の変わりようである。たとえば童謡におけるアクセントの問題として、たびたびあげられる『赤とんぼ』という曲がある。三木露風が作詞(作詩とかくべきだろうか)して山田耕筰が作曲したこの曲は大正十年、『樫の実』という童謡雑誌に発表された。この曲の「あかとんぼ」という部分のアクセントが間違っているとか、間違っていないとか、そういうことは度々言われてきた。「赤とんぼ」という言葉には「か」にアクセントがつくのだが、この曲では「あ」にアクセントついている。一方で江戸弁では「あ」にアクセントがくるという人たちがそれに反論する。しかしながら、私にはこの論争は全くもってどうでもよろしい。なぜなら歌詞に含まれた日本語の意味は聴き手が受ける印象に委ねられるものなので、歴史的に検証されるものではない。聴いたときに「おかしい」と思えばおかしいし、「良い」と思えば良いのだ。
しかしこの時代の歌詞の問題は、ある意味で単純であった。というのは、こういったアクセントの問題などは、結局のところ作曲家の問題だからである。たとえば三木露風のような詩人がいて、作曲者がそれをもとにメロディをつくる。初期の山田耕筰は三木露風の詩集『庭園』から多くの曲を作っている。つまり先ほどのような問題は、作曲者さえ気にかけていれば済む問題であった(仮に問題があるとしての話だが)。
歌詞には二つの側面がある、ということは周知のことだろう。ひとつ目は「言葉」であり、もう一つは「音楽」である。この二つは本来切り離すことのできない一つの物体からの変異体にすぎない。しかし歌詞を論ずるときには必ずと言っていいほどこれらのうちのどちらかが脚光を浴びることになる。「この曲の歌詞は聞き取りづらい」と批判したり、「この曲の歌詞は響きがわるい」と批判したり、である。この重要な両側面は同時に語られることを避け、まるで一方さえ存在していれば成立するかのような態度をとっているのだ。「この曲は意味よりもむしろ響きを重視した歌詞である」という言説が、まるでそれが素晴らしいものかのような言われ方をされるときには、私は甚だ疑問を感じざるを得ない。
この二つの側面は、主要な二項対立を導き出すことによって簡単に定義付けすることができる。
ひとつは、モーラと音符の対立である。
もうひとつは、アクセントとピッチ(音の高さ)の対立である。
モーラとは、日本語のリズムにおける最小単位であり、俳句をつくるときに用いられるリズムを考えれば自ずと理解できるだろう。俳句は17のモーラによって構成される。
モーラをm、音符をn、アクセントをa、ピッチをpと表記すると、最も言葉が伝わりやすいと考えられるのは、
m≦nかつa=pである。
m≦nとは、モーラと音符の数が同じか、モーラよりも音符の方が多い状態である。a=pは、アクセントの位置とメロディの上下行が同一な状態である。
逆に、最も言葉が伝わりづらいと考えられるのは、
m>nかつa≠pである。
前者を《言語詞》と呼び、後者を《音声詞》と呼ぶことによって、歌詞が表現し得る限りの限界地点である両極を示し、そのレンジを測ることができる。
しかし、先ほども述べたように、言語詞も音声詞も、ただの変異体に過ぎないので、ほとんどの場合は曲中にこの両極間を行ったり来たりする。ある部分では音声詞だが、ある部分では言語詞であり、ある部分ではその中間である、ということは何も不思議なことではない。しかし平均してその歌詞が「音声詞より」と概することは可能であり、それによってその歌詞の特徴を瞬間的に(ぼんやりとではあるが)つかむことができる。
しかし勘違いしてはならないのは、《音声詞》という呼び名のイメージから、それが音響的に優れているという結びつけは間違いである。音響的な機能がどういうものかはそれに全く関係ないし、言語詞だろうが音声詞だろうが、音響的な機能は絶対的に付随するのだ。どのような方法論で能動的に音響的な機能を導き出すことが(希望的観測として)できるのかについては、また別の機会に述べることにしたい。
とにかく、日本語にはアクセントというものがあり、それにメロディがかぶさらなければ意味が伝わらない、という意識が大正期には形成されてきたようだ。長い間外国語であるお経を意味もわからずありがたく唱え続けてきた日本人とは思えないような意識の変わりようである。たとえば童謡におけるアクセントの問題として、たびたびあげられる『赤とんぼ』という曲がある。三木露風が作詞(作詩とかくべきだろうか)して山田耕筰が作曲したこの曲は大正十年、『樫の実』という童謡雑誌に発表された。この曲の「あかとんぼ」という部分のアクセントが間違っているとか、間違っていないとか、そういうことは度々言われてきた。「赤とんぼ」という言葉には「か」にアクセントがつくのだが、この曲では「あ」にアクセントついている。一方で江戸弁では「あ」にアクセントがくるという人たちがそれに反論する。しかしながら、私にはこの論争は全くもってどうでもよろしい。なぜなら歌詞に含まれた日本語の意味は聴き手が受ける印象に委ねられるものなので、歴史的に検証されるものではない。聴いたときに「おかしい」と思えばおかしいし、「良い」と思えば良いのだ。
しかしこの時代の歌詞の問題は、ある意味で単純であった。というのは、こういったアクセントの問題などは、結局のところ作曲家の問題だからである。たとえば三木露風のような詩人がいて、作曲者がそれをもとにメロディをつくる。初期の山田耕筰は三木露風の詩集『庭園』から多くの曲を作っている。つまり先ほどのような問題は、作曲者さえ気にかけていれば済む問題であった(仮に問題があるとしての話だが)。
歌詞には二つの側面がある、ということは周知のことだろう。ひとつ目は「言葉」であり、もう一つは「音楽」である。この二つは本来切り離すことのできない一つの物体からの変異体にすぎない。しかし歌詞を論ずるときには必ずと言っていいほどこれらのうちのどちらかが脚光を浴びることになる。「この曲の歌詞は聞き取りづらい」と批判したり、「この曲の歌詞は響きがわるい」と批判したり、である。この重要な両側面は同時に語られることを避け、まるで一方さえ存在していれば成立するかのような態度をとっているのだ。「この曲は意味よりもむしろ響きを重視した歌詞である」という言説が、まるでそれが素晴らしいものかのような言われ方をされるときには、私は甚だ疑問を感じざるを得ない。
この二つの側面は、主要な二項対立を導き出すことによって簡単に定義付けすることができる。
ひとつは、モーラと音符の対立である。
もうひとつは、アクセントとピッチ(音の高さ)の対立である。
モーラとは、日本語のリズムにおける最小単位であり、俳句をつくるときに用いられるリズムを考えれば自ずと理解できるだろう。俳句は17のモーラによって構成される。
モーラをm、音符をn、アクセントをa、ピッチをpと表記すると、最も言葉が伝わりやすいと考えられるのは、
m≦nかつa=pである。
m≦nとは、モーラと音符の数が同じか、モーラよりも音符の方が多い状態である。a=pは、アクセントの位置とメロディの上下行が同一な状態である。
逆に、最も言葉が伝わりづらいと考えられるのは、
m>nかつa≠pである。
前者を《言語詞》と呼び、後者を《音声詞》と呼ぶことによって、歌詞が表現し得る限りの限界地点である両極を示し、そのレンジを測ることができる。
しかし、先ほども述べたように、言語詞も音声詞も、ただの変異体に過ぎないので、ほとんどの場合は曲中にこの両極間を行ったり来たりする。ある部分では音声詞だが、ある部分では言語詞であり、ある部分ではその中間である、ということは何も不思議なことではない。しかし平均してその歌詞が「音声詞より」と概することは可能であり、それによってその歌詞の特徴を瞬間的に(ぼんやりとではあるが)つかむことができる。
しかし勘違いしてはならないのは、《音声詞》という呼び名のイメージから、それが音響的に優れているという結びつけは間違いである。音響的な機能がどういうものかはそれに全く関係ないし、言語詞だろうが音声詞だろうが、音響的な機能は絶対的に付随するのだ。どのような方法論で能動的に音響的な機能を導き出すことが(希望的観測として)できるのかについては、また別の機会に述べることにしたい。
対極の歌詞
Reviewed by asahi
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22:39
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