一人称や二人称を含むネーミングについて考えていた。
YouTubeやMySpaceやUstreamについてを。ひょっとしたらこういったネーミングセンスはみうらじゅんの「マイブーム」に始まるのではないかと思っていた。いや、そんなわけはない。もっと始まりがあるはずだ、そう思っていろいろ考えていると、当然かもしれないが、ある歌のタイトルが浮かんできた。
『君が代』である。これこそがYouTubeやMySpaceやUstream、マイブームといった一人称二人称ネーミングの根源である、という風にぼくの方で勝手に決めてしまった。
『君が代』の「君」が「you」ではなくて「天皇」のことだというのはなんとなく知っていたが、それでもこの歌を英語にするなら絶対に『Your Generation』にするべきだろう。これはThe Whoの『My Generation』に匹敵する一人称二人称ソングの予感だ。
「千代に八千代に」の部分は「for ever and ever」で間違いはないだろう。これはベタなポップソングだ。そうなると続きの部分も訳してみたくなるものだが、「さざれ石の巌となりて、こけのむすまて」は急激に堅苦しくなってしまってぼくには手に負えない。ここは大胆に、The Whoの歌につなげてみるというのはどうだろうか。
Your Generation
Your generation is
For ever and ever, baby
People try to put us d-down (Talkin' 'bout your generation)
Just because we g-g-get around (Talkin' 'bout your generation)
Things they do look awful c-c-cold (Talkin' 'bout your generation)
Yeah, I hope I die before I get old (Talkin' 'bout your generation)
英語だとYouは「あなたたち」という複数代名詞として認識されてしまう。それを「baby」をつけたことで「お前」という単数代名詞だとわかるようにした。
しかし、ロッカーたちにとって国歌というのは体制を皮肉るいい材料になる。
セックス・ピストルズはエリザベス女王在位25周年の祝典のとき、テムズ川で『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を歌った。この曲は国家と同名の彼らの代表曲なのだ。
おもしろいことに、エリザベス女王在位50周年の祝典ではブライアン・メイがバッキンガム宮殿の屋上で一人で『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を演奏したのだ。この滑稽な動画をYouTubeでみたときぼくは「なにやってるんだこいつは!!」と手を叩いて歓喜した。この国歌アレンジのインスト曲は、クイーンのアルバムにも収録されていて、発売時はパンク全盛期だったからクイーンはパンクの連中に批判されまくっていた。クイーンとピストルズは同じスタジオでレコーディングしていたこともあるようで、そのさいにシド・ヴィシャスがクイーンのレコーディングを邪魔してきたらしい。当然ながらフレディー・マーキュリーがぶちぎれてシドの胸ぐらをつかんで外にぶん投げたらしい。ブライアンはインタビューで「パンクはファッションだ」と言っていた。
そんなブライアンがバッキンガム宮殿屋上で演奏する国歌はもう思想とか通り越してマグロ一本釣りの漁師のような立ち振る舞いで、わけもわからずかっこ良いのだ。
一人称二人称の話に戻ろう。
「自慰」という言葉もなかなか素晴らしい一人称二人称表現だ。英語で「Fuck you」とか「Fuck yourself」という言い方があるが、これは自慰にすごく似ている。ちなみに英語では自慰は「Hand's wife」という愛すべく表現がある。
ウディ・アレンの『アニー・ホール』という映画で、次のようなセリフが出てくる。
Masturbation is sex with the person you love the most.
(自慰とは、あなたが最も愛する人とのセックスです。)
これを一言でいうなら「自他愛」だろう。自分という他人を愛する行為なのだ。
ウディ・アレンはアメリカという国で(それもほとんどニューヨークを舞台に)映画をつくっているけど、アメリカでは自慰行為の市民権はいまだに肩身の狭いものみたいだ。それは聖書のせいでありキリスト原理主義のせいであるという話はよくきくから、それを考えるとウディ・アレンのこの発言は相当にインパクトのあるものだろう。
アメリカの性事情はどんなものだろうか。
先日『ブロークバック・マウンテン』という映画をみた。アン・リーという人が監督で、今はなきヒース・レジャーが出ていたりする。
町山智浩という映画評論家がこの映画について語っていたのをきいて、「みてみるか」という気になったのだ。
この映画は60年代のワイオミング州が舞台で、カウボーイ二人が恋をするという、ゲイをテーマにした静かな映画。町山智浩曰く「カウボーイはアメリカ人にとって《男》の象徴で、日本でいう侍のようなもの」らしい。その男の象徴カウボーイがゲイというのは、アメリカではあってはならないことだと。
劇中、恋する相手がヒースに「一緒に牧場を経営しよう」と言い寄るが、ヒースは「馬鹿を言うな。この国でそんなことが知られたら殺されちまう」という。ワイオミング州は実際にゲイのカウボーイが撲殺されたりしているところなのだ。
ここでぼくは日本人として大島渚の映画『御法度』を思い出してしまう。なんせカウボーイは日本でいう侍なので。
この映画は新撰組に加納惣三郎という美青年が入隊して、そっから男色沙汰が始まるというフィクション。原作は司馬遼太郎の『前髪の惣三郎』だ。実際、新撰組は男色が流行っていたということがあったらしい。原作では土方歳三は隊内の男色流行に気づいてはいるが、「そんな個人の趣味で除隊にするのもなあ」という感じ悩んでいる。沖田総司は「男が男を追いかけるなんてぼくには理解できません」という。
みな、のんきなもんだ。別にゲイというだけで撲殺したりなんかしない。あの荒くれ者の新撰組であってもだ。
アメリカと日本で、こんなにも違うものか、と思う。
どれもこれもすべてキリスト教のせいなのだろうか。
ここで今度はアメリカ国歌『星条旗』に立ち向かわねばならない。
トマス・ピンチョンというアメリカの作家の『メイスン&ディクスン』という小説がある。独立前のアメリカが舞台で、後に南北戦争の境界線となる「メイスン&ディクスン線」という境界線をひいた測量士の物語だ。
この中で、酒を飲みながらギターを弾き、歌うシーンがある。いずれ自由になれば、こんな下品な歌でも、国歌として歌われる日がくるかもしれんしぜえ、といって笑い合う。そのとき彼らが歌っていた下品な歌というのは、『天国のアナクレオンへ』という歌だ。当時は酒飲みが歌う歌として英米で流行していた。しかしこれは後に歌詞がかえられて『星条旗』というタイトルで本当に国歌になるのだ。
では『星条旗』の元ネタである『天国のアナクレオンへ』とはどういう歌なのか。
アナクレオンというのはギリシアの伝説的詩人で、飲んだくれで、下品な詩ばかりかいていた。この歌は酒飲みの憧れである詩人アナクレオンに捧げた歌なのだ。そしてなにより、このアナクレオンがよく詩にしていたのが「少年愛」なのだ。ギリシア時代、少年愛はおかしなことではなかった。
同性愛の精神を受け継いだ酒飲みの歌が、後に国家になり、その後長い時を経てゲイのカウボーイが撲殺される国になってしまった。
日本では四十八手なんていうものがあるが、西洋では色んな体位が認められたのは実存主義時代、とりわけボーヴォワールの主張に始まる。
ウィリアム・バロウズはそのものズバリ「おかま」という小説を書いているが、発禁になったのはむしろ当然だろう。
グレフェンベルグがいわゆる「Gスポット」についての論文を発表し、始めてクリトリスではなく膣内でオーガズムにいたることが発見されたのも、ボーヴォワールの体位解放と同じ頃だ。それよりはるか以前にフロイトが同じことを主張したが、全く相手にされなかった。
ぼくは、大きな課題を前に、ブログのまとめ方がわからなくなってしまった。
時代は流れていくが、決して進化するというのは良くなるということではない。何かが原因で、どっかでゲイの歌が国家になり、何かが原因でゲイが殺されるようになる。
ところでこんな絶望的な歴史観のなかで、唯一永遠に変わらないといわれている「愛」を、歌にして君に贈ろうと思う。届け、この思い、ってなもんだ。ラヴソングを、君に贈ろうと思う。それが締めだ。はい、ほう、レッツゴー!
細石が巌となって
苔が生えるまで、
君は永遠に、ベイビー
ぼくと君の国歌論
Reviewed by asahi
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