宣伝に始まり憤慨におわる

まずは宣伝を。


11/21(月)
下北沢ERAで、imi/popというバンドでライブをします。これは2年くらいやってるバンド。


12/23(金)に、Cubozoaというユニットでライブをします。
Cubozoaは、もともとジョンと二人でやってたPsyphozoaというサイケユニットの変化系で、構成員も同じだけど、アンビエント色が強くなった感じ。トマス・ピンチョン的な無政府主義的奇跡の宇宙を演奏します。
代々木のクラブでオールナイトのイベントです。


それから、macaroomというユニットの新曲を久しぶりにMySpaceに公開したので聴いてほしいです。「yume」という曲。
MySpace
macaroomもこれまた久しぶりに2月にライブする予定なので、ぜひ訪れてほしい。




最近は、実はぼくはどこぞやの学校の講師になるために論文を書いていて、もうなにをしてもその論文のことをかんがえてしまう。何を見ても何かを思い出す。日本には詞の批評が存在しないから、それじゃあおれがやってやるかというようなノリで始めたパフォーマンスアートです。



最近はなんだか(論文を書き始めたせいか)、色々なことにイライラしてしまう。さまざまな人の、ちょっとした言い方や所作(所作という言葉は僕の中で今のところiPhoneくらいに多機能で便利な言葉になってる。例えば「なんであたし怒られてばっかなんだろう」と落ち込む女の子には「ちょっとした所作やぞ!!!」と一括さえすればすむのだ」)が気になって、はらわた煮えくりかえってる。それはもしかしたら高橋源一郎の『恋する原発』を読んだせいかもしれない。「こんなおじいちゃんでも戦ってるんだったら、俺が戦わないでどうする」と刺激を受けたのかもしれない。とにかく本当に素晴らしい作品だったんだけれど、まあそれはおいといて。

その様々なものというのは、人々がいかに盲目でいたいか、ということだけど、盲目というのは「恋は盲目」という言葉にあらわれているように、すごく美しい響きがある。恋をすれば時間を忘れ、家族を忘れ、社会的地位を忘れ、自分を取り巻く状況を忘れてしまうけれど、それはすごく美しいし、人間とはそうあるべきだ、という意思が、ぼくは「恋は盲目」という言葉の中に感じる。しかしその美しさとはいったいなんだろう。心理学的なり、哲学的なり、様々に解釈するひとがいるだろうけど、それらは本当に分析をする気があるのだろうか?いや、全くない。恋とは、科学的に分析不可能であるし、そういった分析不可能なものこそが唯一人間の美徳だ、という考えが前提にある。これを読んだ人は「そんなの一体何世紀前の哲学だよ」と思うかもしれない。でも、何世紀前だろうが、その前提は確実にある。なぜなら、「恋」という言葉を使った時点で、その何世紀前かの哲学観の範疇にすっぽりとはまってしまうからだ。
だから、事実、恋とは分析不可能だ。なぜなら「恋という言葉は分析不可能なものだ」という前提が「恋」の命題であるからだ。確かにそれは分析可能だろう。人類学や心理学や言語学によって解析することはできるが、そうすればそれはすなわち恋ではなくなってしまう。
ぼくが言いたいのは、「恋」という言葉のルール、規定、前提、に気づかない、もしくは気づいていない方が楽だと思う人間たちの「盲目さ」のことだ。恋というのは単なる言葉遊びだ。恋が分析不可能というのは、サッカーの試合でスリーポイントシュートができないのと同じだ。

ぼくたちは自由に言葉を使っているつもりでも、実はその言葉のルールに操作されている。言葉を使った途端、その言葉が持つルールに則って試合をしなければいけない。
ルールがあるからおもしろい。だからそれでいい。

でも、世界には、疑問がたくさんある。釈然としないことがある。理不尽なことがある。そういったことに直面した時に、それを解決しなくてはならないとき、果たしてそのゲームに参加するべきだろうか?
問題に直面した時、ぼくたちはそのゲームのルールを拒否しないといけない。そのルールを無視して、純粋な分析をしないといけない。
だから例えば「恋」という言葉に隠された問題に直面したとき(例えばその言葉に隠された性差的、社会的圧力を分析するとき)、本来の意味の「恋」という言葉を使うことはできない。だがそれはすごく恐ろしいことだ。なぜならぼくたちは恋愛小説に感動したり、運命的な恋人がいたり、お金をかけてお洒落をしたりしてきたからで、それらを頭の中で一旦すべて忘れ去らないといけないからだ。それはすごく勇気がいる。恋が美しいということを、心の底から知っているからだ。
だからみんな、どんな問題に直面しても、見かけ上はその解決法を探しているように見せかけて、実際はそのルールに従っているのだ。そしてその盲目っぷりが美しいのだと正当化して、自分はその無力さから背を向ける。

ぼくはそうしたチキンっぷり、ヘタレっぷりがすごく腹立たしい。みんなそのチキンを隠すために、盲目であることを美徳とする。
「解釈不可能な何か」とは何だろう。恋であり、芸術であり、キリストであり、正義であり、心であり、笑いであり……

そんな言葉の試合に本気になっていたら、スタジアムの外で何が起こっても気づかない。

宣伝に始まり憤慨におわる 宣伝に始まり憤慨におわる Reviewed by asahi on 23:47 Rating: 5

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