1. 無題

ふと昔のどうでもいい記憶が蘇ってくることがある。

保育園に行っていた頃、保育士のお姉さんが、僕ら子供達に向かって、空について話していた。
お姉さんは昔宇宙飛行士だった頃に、空に飛び立って、「雲は地上からだと見えるが、空に飛び立つと見えない」ということを知った。僕はその話が瞬時に嘘だと見抜くことができた。というのも、ぼくの痛いおかんが、昔箒に乗って空に飛び立った時に、雲が美しかったという話を聞いていたからだ。おかんは魔女だった。だからぼくはお姉さんに「空からでも雲は見える」と言うと、お姉さんは「そういう話はよく聞くんだけど、実はそれは全部嘘なの。空から雲は見えないの。遠くだから見えるの」と言った。ぼくは嘘つきの母親に腹立って、家に帰って母親にその事実をつきつけると、彼女は全く動じることなく、「うんにゃ、空からでも雲は見えるわ。当たり前やろ」と言った。
この空から雲が見えるか見えないかという問題はその後何年も僕の中の壮大なテーマだったが、後にTVの映像を見て解決した。その瞬間、保育士のお姉さんが宇宙飛行士であったということが嘘になり、おかんが魔女だということが事実になったのだ。

実は、この記憶がどこまで真実なのかわからない。保育士が、雲が空でも見えることを知らないくらいアホとは思えないし、子供相手とはいえなぜ元宇宙飛行士なんて嘘をついたのかわからない。僕の記憶の中の映像では、保育園で子供が全員招集され、お姉さんを中心に輪を囲むようにして話を聞いているのだ。

それからもう一つ。これもたぶん5歳くらいの頃だと思う。
兄貴の通い付けの耳鼻科の駐車場で、ぼくは兄と母親が病院から出てくるのを待っている。病院の雰囲気が嫌いだったから、駐車場で暇を潰していたのだ。そこに同い年くらいの少年が近づいてきた。少年は僕に「何してるん」と訊いてきた。ぼくが「母さんと兄ちゃん待ってる」と言うと少年は、「ああいいなあ、親がいて。羨ましいわあ」と言った。「親おらんの」と訊くと、少年は「うん。今日殺してきた。やから親が生きてるの羨ましいわあ」と言った。

まあこんなどうでもいい記憶がたまにぐぐっっと蘇る。本当の記憶なのかもわからない。夢かもしれない。

それから中学生の時に、初めて京都の太秦映画村に行った時に、急に記憶が蘇ってきて、「こっちに行って橋を渡った先に四角い池があって、そんなかに龍が住んでるから、その龍を見たい」と思った。記憶通りに進んでいって橋を渡ったら、本当に四角い池があった。覚えている形と全く同じ池が。確かに来たことあるのだ。しかし池の中に龍はいなかった。
親父に確認すると、確かにぼくはそのときが初めての太秦映画村だった。
TVでみた記憶だろうか。こんなはっきりしたデジャヴは初めてだった。


記憶なんて全くあてにならないもんだよね。

1989年にアメリカで勃発した「ジョージ・フランクリン事件」について。
この事件はある女性がカウンセリングによって抑圧されていた幼児期の記憶が蘇ったことに端を発する。
彼女は自分の父親が20年前に自分の友人をレイプして殺害する現場に立ち会った記憶を思い出し、その証言に基づいて父親が殺人罪で告発された。
文章を作るのが面倒なので以下は内田樹「子供嫌いの文化ーー児童虐待の話」より。

この審理に鑑定人として召喚された「偽造記憶」の専門家であるE・F・ロフタスは、原告女性が「思い出した」とされる記憶がすべてメディアですでに報道されていた情報(誤報も含めて)から構成されていることを論拠として、彼女の言う「抑圧された記憶」なるものが、原告女性がカウンセラーの誘導によって創作した「物語」ではないのかと疑義を呈してアメリカで大論争を巻き起こしました。このハーマンとロフタスの間で戦われた「記憶戦争」と呼ばれる論争については、メディアでも報じられましたから、みなさんもお読みになったことがあると思います。
この論争はその後「我が子から偽りの告発を受けた」とする家族たちによる裁判闘争、さらにはいったん「抑圧された記憶が蘇った」と証言した女性たちがセラピーをやめたあとに「偽造記憶を植え付けられた」として、今度はかつての担当医やカウンセラーを医療過誤で告訴するという何が何だかわからないような泥仕合の様相を呈しています。

ハーマンっていうのはジュディス・L・ハーマンという心理学者で、そもそもこういった記憶回復セラピーの流れは彼女の「心的外傷と回復」というPTSDの論文から始まる。幼児期の性的虐待の記憶が蘇って親を告訴するという事例が90年代に相次いで起こったらしい。

記憶が真実かどうかはさておき、全く覚えてなかった記憶が蘇り、もしくは偽造され、時を超えて親をレイプ犯にも殺人犯にも変えてしまうなんて、もうそんな記憶なんかに頼っているようなことができなくなってしまう。

ぼくも記憶の中で少年を殺人犯に、保育士を宇宙飛行士もどきに、母親を魔女にしたてあげてしまっている。
母親だけは今でも自分が魔女だというし、年齢を訊かれれば三桁の数字を答えるけど。

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撮影中の母親

1. 無題 1. 無題 Reviewed by asahi on 23:47 Rating: 5

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