如何にして私は性同一性障害のフリをして会社で働いたか

ここに書く話が、果たして誰かに伝わるだろうか、とも思うのだけど、ふと数年前の出来事を思い出したのでここにしたためる。


ヴィンチェンゾ・ナタリの映画『Cube』では、立方体に閉じ込められた男女が罠を避けながら脱出を試みるが、一人が「これは国のしわざだ」といい、別のひとりが「国がこんなことをするわけないじゃないか」と笑う。
字幕ではそのような感じだったと思うけど、実際に口から出た言葉は「Big Brother is not watching you」だった。

Big Brother is not watching you.
国がこんなことをするわけないじゃないか。

欧米の映画では会話にBig Brotherという言葉がよく挿入されるが、日本語字幕では大抵カットされている。

ビッグ・ブラザーは、ご存知ジョージ・オーウェルの伝説的なディストピア小説『一九八四年』に登場する独裁者。タイトルはこうやって漢数字で書くのがよろしく、アラビア数字で『1984年』と書いたり、「いちきゅうはちよん」と読んだりするのはよろしくなく、やはり『一九八四年』と書いて「せんきゅうひゃくはちじゅうよねん」と読むのがよろしい。




一九八四年ときいて何を思い浮かべるかはひとそれぞれだが、ぼくの場合、非常にしばしば以前勤めていた会社を思い出す。

ぼくは一昨年、日々のゴーギャン的ゴッホ的生活に耐えかねて、会社に就職した。
どこでも良いから手っ取り早く就職できるところを選んだが、一応出版関係で、編集部に配属になった。

当時ぼくは、たまたま電車の行き帰りにオーウェルの『一九八四年』を読んでいたのだ。

入社すると、まず最初に新入社員がやるべき最初の仕事をいただいた。
それは、『会社脳の鍛え方』という本を読み、その感想を書いて、それをもとに上司とディベートする、というものだった。



ぼくはまるで自分がオーウェルの世界に入りこんだような錯覚をおぼえた。

その会社では、早朝、新入社員はオフィスの掃除をし、会議室に椅子を並べ、ホワイトボードを用意し、先輩方を会議室に案内するところから1日がはじまる。
会議室では、スティーヴン・R・コヴィーの『7つの習慣』をもとに、社長のありがたいお話がはじまるのだ。つまりは社内の自己啓発セミナーだ。もちろん笑いは一切なしで、社員はほんの数ミリも肩を動かすことなく正しい姿勢で拝聴していなければならない。



入社初日にぼくは編集部の課長から気に入られ、二人きりで昼食に連れていってもらった。
そこで彼は、会社から歩いて数分の社員寮に住むことをぼくに提案し、
「もう定員に達しているから、キッチンで寝れば良い」といい、また「プライベートは一切ないから、その分一日中仕事のことだけを考えていられる」といった。
「そのくらいのやる気を見せて欲しい」と、彼は親切にもぼくに言ってきたのだ。

そして、「とりあえずその長い髪を切ろうか」といい、「そのくらいのやる気は見せてほしい」といった。


翌日、人事部長から、ぼくのクレジットカードを課長に預けるように指示された。
ぼくがクレジットカードの借金で苦しんでいるというのをきいて、もうこれ以上使わないようにするためらしかった。


数日後の早朝自己啓発セミナーでは、
22が常に5であることを意識せよ
という文句がテーマだった。

ぼくはちょうどその日の通勤中にジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んで、似たような文句が出てきて、ペンで線を引いたのを覚えていた。

自由とは、2足す2が常に4であるという自由である。

ぼくはその時に、はっきりと自分が現実にオーウェルの予見したディストピア世界にいるのだということを確信した。

そしてぼくは会社を辞めることを決意するとともに、課長および人事部長に長いメールを送信した。入社五日目のことだ。

以下は当時のメールの一部抜粋(個人名などは削除)だ。注釈まで丁寧につけているのがちょっとおもしろい。

(以下引用)

まずはじめに、もしこの文章を読んで不快な思いをしてしまうことがありましたら、それは一重に私の表現力の乏しさ故であることと思います。くれぐれも私は誰か一個人の人間性や言動などを非難するつもりが全くない、ということを知っていただいた上で、読んでくださることを願っています。私が抱える問題は私自身の内側にあるものです(それを会社ではインサイド・アウトとおっしゃっています)ので、それを非難するつもりはありません。そうではなくて、私がお聞きしたいのは、現在私が不当に要求されていることとその「現状」に対してのみです。それだけはどうか勘違いなさらないでいただきたいので、これを序文にかえさせていただきますので、重ねてご容赦ください。

会話文等を記述する際は、なるべくその発言者を()内に表記しましたが、敬称などは省略している場合があります。
注釈については最後にまとめて表記しています。

私は以下の三点にしぼって、お聞きしたいと思います。その三点とは、

・編集部について
・生活について
・身だしなみについて

です。


(中略  : [編集部について]はここでは関係ないので割愛


【生活について】
私が金銭的な理由で通勤用の定期券を買えずに悩んでいる際に、それを聞きつけ心配した課長代理が昼食に誘ってくださいました。そのときに課長代理は、私に社員寮に入るよう勧めてきました。
「君がやる気があるのなら、社員寮に入りなさい。家賃も電車代も払わなくて済むよ。社員寮は今満員で部屋はないから居間で寝ることになる。それにプライベートは一切ないけど、電車に乗らなくてすむから朝まで仕事もできる。そのくらいのやる気は見せてほしい(課長)」
さらに課長は「人生を変えよう」とも言ってくださいました。しかし私はプライベートの一切ない居間で寝るという〈やる気〉を知りません。
それは誰にとっても許されざることで、憲法に明記された「最低限度の文化的生活」から著しく逸脱したものであります。
私は定期を買うお金がない、ということで悩んでました。しかしそれはクレジットカードをつくり、それで定期を購入するということで解決しました。その旨を人事部に伝えたところ、
「クレジットカードを作ったら、課長代理に預けなさい。そのくらいのやる気を見せてほしい(人事部長)」
クレジットカードを第三者に渡すことは禁止されていますし、それをすることの〈やる気〉を私は知りません。
この精神態度は、上司から読むように指示され渡された『会社脳の鍛え方』という本に象徴的に現れています。もちろん私は『会社脳の鍛え方』という本を全く否定しません。一般的によく目にする自己啓発本の範疇であると思います。しかし、私は、ベッドもない居間で寝て、クレジットカードは上司に預け、朝まで仕事する、そういう「会社脳」を育まねばならないという現実を知りました。
人生を変え、会社に服従する奴隷になるのも悪くはないかもしれません。そういう人生を歩んだ人が、後々になって、素晴らしい生き甲斐を見つけることもあるでしょう。
しかし知っておいていただきたいのは、私には私の人生がある、ということです。
私には(中略)小説家になるという夢があります。その夢をいつか叶えるという覚悟をして会社に就職しました。そんな夢がしょうもないと思うかもしれませんが、私は私なりに真剣でした。小説家を志す人が、編集部で働くということは決して珍しくはありません。
私は会社のために全力で働き、会社の利益を考えて最善の行動をするつもりです。
しかし私は自分の魂を売って奴隷的な「会社脳」を育むつもりはありませんし、憲法に明記された「最低限度の文化的生活」を捨てる気もありません。


【身だしなみについて】
実務が始まるにあたって、私は髪を切るように指示されました。
その理由は、以下のようなものでした。
・お客さんになめられないようにするため(課長)
・編集部には髪の長い人はいないから(人事部長)
以上の理由は、大変に全うなご意見であり、その意味も大変よくわかるものです。お客さまと顔を合わせる機会の多い仕事だからこそ、身だしなみは整えなければならないことは当然であると私も認識しております。身だしなみのせいで、お客さまが不快な思いをし、結果的に会社に不利益を与える可能性も考えられます。しかしながら、そうした意見に対して、私は単純なひとつの疑問があるのです。
それは、女性はなぜ髪が長くて良いのか
ということです。
おそらくこの疑問を読んでいるあなた方は、一笑に付しておられるでしょう。まるで子供の意見だとお思いになられるでしょう。なぜなら、男と女とでは、服も違えば果たす役割も違いますし、与える印象も違います。それは生物としての違いでもありますし、文化的な違いでもあります。女性の髪が長いことは当然ですし、男性が髪が長いことは違和感があります。こうした違和感をお客さまにあたえることで、もしかしたら利益に差が生まれるのではないかと考えるのは当然のことだと思います。
しかし現代の社会では、そうした当然のことは、「考えてはいけない」ということになっています。
なぜならば、男女は均等な雇用機会が与えられてなくてはならないからです。
私は、女性社員用の制服を着て出社した男性社員を解雇した会社が、不当解雇だと認定された事例を知っています。もちろん、男性が女性社員用の制服を着ることは「おかしいこと」ですし、お客さまから見れば「不快に感じる」こともあるかもしれません。しかし、そんなことは「考えてはいけない」のです。
そこでさらに私は、失礼ながら重ねてひとつの質問をしたいと思います。
「髪を切りなさい」と命令された男性社員が、もし実は性同一性障害であったとしたら、どうお考えになりますでしょうか。
これは、私が性同一性障害かどうかということとは全く関係ありません。私がもし仮に性同一性障害であったとしても、それは誰にも言いません。なぜなら性的な差別というものは何よりも堪え難いものであるからです。もしそのことをまだ誰にも告白していないのだとしたらそれは、自己同一性に関わる重大な「自分だけの秘密」であり、誰にも侵されてはならないのです。
私は、もし髪が長いことが明らかに業務に支障をきたすような業種に就いており、なおかつ男性も女性も平等に髪を短くしなければならないのであれば、甘んじて髪を切ります。
ひとつ忠告しておかなくてはならないのは、「髪を切るというたったそれだけのこと」でさえ、相当に思い悩む人もいるということです。例えば性同一性障害の方や、宗教的信条などを持つ人などがそうです。
しかしそういう人は、髪を切らなくて良いところに就職すれば良いではないか、とお思いになられるでしょう。当然のご意見です。しかし問題なのは、「性差によってその違いが生じる」ということです。これは男女が同等の内容で業務をする場合の職種に限ったことであり、例えばキャバクラ嬢などの「性差自体が業種に深く関わる業種」などはこれにあたりません。そうでない職業、つまり編集業などの、性差が深く関わる業種でない場合には、完全に男女の均等な雇用機会がなければならないのです。
ある男性にとっては、髪を切る切らないという違いは、その人の自己同一性に関わる重要な問題であります。
以上の問題は、もちろん「個人的」なものではなく完全に「社会的」差別が生み出した問題であることを、どうか認識いただきたいのです。
そうした現代特有の差別という概念にとらわれていては、企業は利益をあげられません。しかし何度も言いますが、「そんなことは考えてはいけない」のです。
二十代の若者の死亡率の半分が自殺であり、その原因のほとんどが就職に関することであることはよく知られています。これは資本主義的な利益優先の、「数字がすべて」という競争社会が生み出した差別の問題であり、憲法にある生存権を著しく乱す問題であります。


【総論】
(中略)
入社後に求められた社員寮とクレジットカードの譲渡は憲法の生存権およびカード会社の規約(※3)に反することです。
男性だけ髪を切らなければ編集ができないというのは、男女雇用機会均等法に反することです。
私の現状は、この不当さを要求されており、受け入れるかどうかの瀬戸際にある、ということです。私は、それを受け入れるかわりに得ることができるであろう金銭的対価、つまり給料を前に、その瀬戸際にいるのです。
私はこの不当な要求を受け入れ、生活していかなくてはなりません。
パワーバランスについてははっきりしていることと存じます。

大変長くなりましたが、私が考えお伝えしたいを考えていることは以上です。稚拙な文ですが、一人で考えしたためたものであります。反駁されたいことも多々あるのではないかと存じます。
以上のことについて、どのようにお考えか意見をお聞かせ願いませんでしょうか。


【注釈】

[※1][※2]は[編集部について]の注釈なので割愛

※3例えば、私がこの度発行したカードの会員規約によると、「カードの所有者は、当社に属しますので、他人に貸与、譲渡、質入れしたり担保提供等に利用したりして、カードの占有を第三者に移転することは一切できません(第34)」「会員が次のいずれかの事由に該当したときは、本規約に基づく全ての債務について当然に期限の利益を失い、直ちに責務の全額を一括して履行するものとします。(略)②商品の質入れ、譲渡、貸与、その他当社の所有権を侵害する行為をしたとき。(第171)」とある。


(以上引用)


翌日になって早速緊急ミーティングが開かれた。ぼくと課長、そして人事部長の三人で。

人事部長はぼくにいった。
「君は性同一性障害なのか?」
「それはどちらでも良いでしょう」とぼくはいった。
「いや、君が性同一性障害なのか、ということで問題はかわってくる」
「いえ、全然かわりません」

ぼくは、会議が開かれる前から、この質問を予測していて、絶対にぼくが性同一性障害かどうかという結論を出さないでおこうと決めていた。
実際問題重要なのは、「もし性同一性障害だったら」ということであり、なおかつ「もしそれを告白できない人だったら」ということだった。

ぼくは、サン=テグジュペリ『夜間飛行』における、危険な橋の建設途中で人が死に、夜間の郵便飛行で若い飛行士が死ぬのなら、それにどれだけ意味があるのかという「橋を渡るだけで人を傷つける」の言葉のような態度であり、オシリペンペンズの『カリスマ太郎』における「今、世界中で起きてるあらゆる問題すべてに俺が関係している」のような態度だった。
ぼくはなぜだろう、すべての性同一性障害に苦しむ若手社員の苦しみをすべて背負い込んでやろう、という気分になっていたのだ。




そしてぼくは入社六日目にして課長、人事部長に対して、次のようにいった。

「日本には、自殺者が年間一万人から三万人くらいだといわれています。若者の死因の半分が自殺で、その大多数が仕事に関係することだといわれています。つまり、ぼくが言いたいのはですね、その三万人は、お前らが殺したんだ、ということです」


ぼくは晴れて退職することがきまった。
しかしながらすぐに退社するわけではなく、その月いっぱいは働くということになった。

そのうち、ぼくと同時期に入社した同い年の男と話すようになり、彼も今月で辞めると言い出した。
彼は兵庫県伊丹市出身で、松本人志のラジオ「放送室」をほぼすべて聴いているというツワモノだった。
「最終日に一緒に漫才しません?」と提案したのはぼくだった。
ぼくらはビッグ・ブラザーたる会社において、月の終わりの同日に退職する。退職する日にぼくらはサプライズで漫才をしてやろうということになった。みんなの勤務中に。

詳しいことは書かないが、当日、「こんなにすべることがあるのか」というくらいにすべった。
誰にも予告せずに急におっぱじめたので、ほとんどの社員はぼくらの方を見向きもしなかったし、ほとんど無視されている中で、ぼくらは「こんな会社は嫌だ」というふうなベタな漫才を勝手に繰り広げた。クスリとも笑いはおきなかった。
そして最後、
「ええ加減にしなさい。辞めさしてもらうわ」といって、どうもありがとうございましたー、と手を振りながらそのまま退社した。拍手はなかった。
結局のところ、会社を辞めるということと、漫才を辞めさしてもらうわ、というのをかけて言いたかっただけの漫才なのだが、それでもすべりっぷりは尋常じゃなかった。

冷や汗をかいたぼくらは漫才衣装のまま会社の外でタバコを吸い、様々な感情が入り乱れながら雄叫びをあげまくった。

一人の社員が会社から走って出てきた。ほとんど話したこともない先輩だった。

「あなたたちの行動は、素晴らしいと思います」と彼はいった。
「ぼくも薄々この会社おかしいなと思ってましたけど、今日、さっきの漫才みてはっきりしました。ぼくも辞めます」

ぼくらは、たった一人でも感動してくれた観客がいたことで、漫才をやってよかったと胸をなでおろしたのだった。


さて、これが、ぼくが性同一性障害のふりをして短い期間を過ごした会社での物語だ。この時以来、ぼくは会社で働いていない。



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