芸術格差を考える(第8回:アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ)

【目次】


第8回: アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ


最近、とある出版社から依頼されて「EDM」の入門書を書くことになった。
EDMというのはElectronic Dance Musicの略で、最近流行っているダンス系の音楽のことだ。
ぼくは長らく「出版歴なき小説家」を自称していたので、晴れて出版されることとなり浮かれていたのだが、よくよく考えてみるとEDMはぼくにとっては天敵のようなものだった。
池袋のタワーレコードにぼくらmacaroomのCDが並べられた際、「エレクトロニカ」のコーナーがあって、あろうことかmacaroomは大先輩ブライアン・イーノと並べられていた。エレクトロニカ・コーナーはたった一つの棚しかなくてタイトル数も少なかったが、その横には広いスペースに所狭しとEDMのアーティストがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。



タワレコの店員は、「今はEDMが人気ですからねえ。でも(エレクトロニカの)この棚だけは絶対に死守します」と熱い思いを告白していた。
まあ、我々のアルバムが大ヒットしていないのは別にEDMのせいではないのだが、しかしながらもし仮に今エレクトロニカが大ブームだったとしたら、我々は結構良い立ち位置にいるんじゃないかと夢想したりもする。
 いやまあそんなつまらない想像は、京劇をやっている人や、ノイズ音楽やってる人や、フレスコ画書いたりしている人など、少数派創作者全員が思っていることだろうからさして意義のあることではない。

 さて著作権を中心としながら芸術格差について考えるという悲しい連続ブログを開始してから8回目となったのだが、だんだんと出来レースたる業界のことや、口に出すのも恐ろしいビッグな企業なんかもぼくなりにわかるようになってきた。最終的にはこの格差から抜け出して、こんなブログなんか忘れてしまえるような覇者たるビッグネームになって、JASRAC大賞でも受賞してしまうのが究極の理想なのだが、このままぼけーっとしているだけではなんにもならないだろう。
 思えば、ぼくが大学生になったばっかりの頃、初音ミクが世間を賑わせていた。あの頃に、自分がやりたい音楽など二の次で、続々と「初音ミクP(正しい使い方ではないかもしれない)」へと変貌を遂げていった友人たちのなんとたくましいことよ。人気を得るために好きでもないものをやる、したたたかさ、下衆さ、こういったことの重要性をいままでどれだけ見てきたかわからない。

ここ最近でもっとも芸術格差について考えさせられたのは、文春がすっぱぬき、テレビでは報道されることのなかった三代目 J Soul Brothersのレコード大賞裏金問題だ。ぼくは本当に何年ぶりのことか、コンビニで文春を購入した。

レコード大賞の問題にしても、プロダクション同士のやりとりなのだから、アーティストは被害者だということもできるわけだ。そういう風に思えば、大賞は返上するより他に道がないように思えるのだが、実際はそういう風にはならない。
自分に対して一億円がかかっていて、プロダクションがそれだけ期待しているというのはとんでもないプレッシャーだろうし、実際の所どんな気分なのか想像もできない。
客を騙して作品を売ることはゆるされないけど、そうはいっても業界では常に騙しあいながらイメージをコントロールするのが当たり前になりすぎているし、それほど悪いことをしているともいえないかもしれない。あるアーティストがどうやってデビューできたかというのは、本当のところには誰にもわからない。誰も本当のことはいえない。津田大介も、レコード大賞の記事に対して、当たり前のことが当たり前にすっぱ抜かれただけだという風なコメントをしていた。業界に長くいればいるほど、こうしたことには驚かないだろうし、自分に果たしていままでそういったことが全く身に覚えがないかと問われるとちょっと答えに苦しむだろう。
 しかしぼくのように、今までにどんなレーベルともプロダクションとも契約したことのないアーティストは、まったくもって鈴木福くん級の純粋無垢なドリーマーなのだから、「えっ! れこーど大賞って金で買われてたの?!」と仰天してしまうのだ。



 福くんたる我々は、純粋に良いものが正当に評価され世に出て行くのだと思っているし、金で大賞を買うなんてのは映画や漫画の中の出来事だと思っている。

 この度文春が書いた記事というのは、バーニングプロダクションから三代目J Soul Brothersの所属するプロダクションLDHへと渡った一億円の請求書がすっぱ抜かれたもので、2015年のレコード大賞グランプリ受賞の働きかけを裏付けるものということだった。文春はこれについてLDHに問い合わせたところ、数日後にLDH代表のHIROが謎の辞職をするということになった。

 ボブ・ディランはともあれノーベル賞を受け入れたが、かつてサルトルはこれを断った。
 そして同じようにミスター・チルドレンもかつてレコード大賞を拒否して、その後数年経って何が起こったのか、またもやグランプリを受賞して今度はそれを受け入れた。

 この連続ブログでは以前、ラジオDJがお金を受け取って楽曲を放送するペイオラというものについて書いた。ラジオはどこまでが企業の宣伝なのか、どこまでがDJの個人的なおしゃべりなのか判断がつきにくく、それでいてなかなか影響力が(かつては)あったので、宣伝なのかそうでないかははっきりとわけなければならない。
 いまでもツイッターで、ステマすれすれの投稿があったりして、よくかけだしの全然名前のしらないモデルなんかが「ここの脱毛よく行っててめっちゃ安いしオススメ」なんて大嘘投稿してたりするけど、それでも下の方にはきちんと「プロモーション」という表記がある。だから一応はこれは広告なのだとわかるのだけど、ラジオはそれがわかりにくい。
だから宣伝は宣伝の時間としてきっちり用意しておいて、それ以外の部分での裏金はゆるされないわけだ。

もっとも、ニヒリスティックや現代の若者からいわせれば、「そんなもん日常茶飯事でしょ?」というだろうし、そもそもレコード大賞や紅白歌合戦などというものに大した期待もないし、存在すらどうでも良いと思っているかもしれない。
しかし、そんなニーチェ的ゆとりティーネイジャーがニコニコ動画やクソつまらないユーチューバーに走るのも、テレビの出来レースっぷりが蔓延しすぎているせいではないのか。

女性蔑視感満載の歌詞で大炎上したHKT48の『アインシュタインよりディアナ・アグロン』、ナチスの将校に扮して顰蹙を買った欅坂46、これらを束ねるドンたる秋元康さん。
そしてLDH元代表でEXILEをたばねるHIRO氏。
彼らが大会組織員会の理事や文化・教育委員会に選ばれている2020年東京オリンピック。
そしてオリンピック自体が大会招致の賄賂がニュースとなった。
レコード大賞にしても、EXILE系列とAKB系列は一騎打ちだし、JASRAC大賞も同じくこの両陣営が常に争っている。
 こういう場所を、ぼくは常に雑誌の記事やネット記事でしか知らず、現実に自分のこととして置き換えて考えれるほど柔軟な頭も持っていない。だから好き勝手に文句を言ったりすることができるのだが、これは売れるための姿勢としては大変よろしくない。もっとも賢い正攻法は、触れない、ということだろうから。
 とても自由に自分の言いたいことを発言しておきながら、核心部分には決して触れない有吉さんやマツコさんのような選択がもっとも求められているに違いないのだから。



 そういえば、勝谷誠彦さんの番組にゲストでロンブーの田村淳さんが出演した際、勝谷さんから「どうして報道番組に芸人が呼ばれるのかね」という質問に対し、淳さんは間髪入れず「バランス感覚が良いからです。突飛なことも言いそうだし、言っちゃいけないことは言わない」と答えていた。
 続けて「視聴者の空気も読むし、テレビ局サイドの空気も読む、今やそれが芸人の立ち位置なんです」
 松本人志さんが、放送禁止用語と戦うよりもむしろ、放送禁止用語という枠内で笑いを追求することにシフトチェンジした結果、過剰な自粛テロップやピー音の連発などの定型が出来あがった。それは本当に面白いし、今のテレビの笑いのスタンダードのようになっている。けれど果たして芸人とはそういうものだっただろうか。

 会社で作り笑いに疲れたOLは自由気ままで媚び諂わない猫に理想の姿を見出すし、反抗精神のなくなったミュージシャンは路上でホームレスと間違われるボブ・ディランや孤独な姿がパパラッチされるキアヌ・リーヴスに理想の姿を見出すし、アニメの児童ポルノに反発するオタクは魔法少女まどかマギカやエヴァンゲリオンに難しい神話や哲学を見出すようになる。

 HKT48の女性蔑視に近いようなことは、差別に敏感なアメリカでもよくみるし、プログレッシブ・ハウスと呼ばれるEDMの多くの曲がステレオタイプ的強いアメリカを歌うものに違いない。しかしながらそれ自体はさほど問題はなく、究極的には無関心であったり黙っていることが問題なのだとしたら、アメリカはほとんどの場合、日本よりも進んでいる。ぼくはロシア出身でアメリカのEDMを支えていたZeddの曲がEXILEとなんら変わらない思想を持っているにもかかわらず、「もしトランプが勝つなんてことがあったらロシアに帰ります」とツイートし、実際にトランプ当選のあと自分のパスポートの画像をツイートしてアメリカへバイバイした。アリアナ・グランデのようなかわい子ちゃんまでがトランプ勝利に対して「恐ろしい」とツイートしている中で、日本のアイドルはどうしてナチスになりすますことができたのだろうか。しかし同時にぼくは、アメリカ的な無関心を最もよく体現している音楽がEDMなんじゃないかとも思っている。あんたらEDMにも責任の一端はあるんじゃないの、と、無責任にも思っちゃうわけだ。


 YouTubeのおかげで、ぼくのようなアーティストでも、もしかしたら奇跡的に大ヒットすることはあるだろう。
 だけど決してPPAPの大ヒットのカラクリは誰にもわからない。
 マスメディアの影響力が弱まり、インターネットを始めとする新たなメディアに分散されたせいで、結局のところどこまでが出来レースでどこまでがガチなのか全然わからないのだ。どこまで福くん的な良い子でいればいいのかわからないし、一見自由で無鉄砲な発言をしているタレントがどこまであらかじめテレビ的にフィルタリングされたものなのかわからない。社会的なニュースが出ると同時にとても真実とは思えないような陰謀論がささやかれるし、得体の知れない人物が一見科学的とおもえるような論調で食品の怖さを訴えるブログがシェアされる。
 急死したAV女優や自殺したアナウンサーの報道にかすかな違和感を感じたとしても、それ以上の詮索はネットに出回るカオスな都市伝説の域を出ない。
 それこそオリンピックや日本最大の音楽レーベルやテレビ局の噂になってしまうと、本当にわからない。大統領選ともなればもっとね。




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