嘘つきアーティストと誠実な政治家(行動批評と我らのホーマー・シンプソン)

ぼくは音楽をやって生活しているくせに音楽家が嫌いだ。

ツイッターで、アーティストがやたらと気高いかっこいい文句を垂れ流しているのを見て、「はいはい、きっと素敵な芸術家のソウルをお持ちなのですね!」と心の中のメディチ家夫人が声を出し「どうぞ自分の世界だけでお過ごしください。哀れな人民を惑わしてしまわぬように、自分の世界だけで!」と付け加え、心の中の朝のチョコレートドリンクを一口。

詩人は危険だから、国外追放でもした方が良いと言った賢者は誰だっただろうか。

それから忘れられない映画『暴君ネロ』でのネロ大帝に対する詩人の最期の言葉。

どうぞローマに火を放ちください、どうぞキリスト教徒を虐殺してください、ですが、その下手な詩の披露だけはおやめください!


心のメディチ家。


ふとした時に、政治哲学の本を読むよりもジョン・レノンの歌の中にこそ世界平和の糸口が見つかるはずだ、などと思い込んでしまう時がある。大抵は、久しぶりにジョン・レノンの曲を聴いて感動した時なんかに。
また、ビリー・アイリッシュの素晴らしい曲を聴いていると、彼女が歌い上げる根暗っぽいティーネイジャー感覚に思いを馳せる一方で、その対極っぽい極端に優等生なティーネイジャーであるグレタ・トゥーンベリの主張をひとつひとつ読んで検討する気が失せてしまう。もちろんこの比較は全然フェアじゃない。

ぼくらはいつでも判断を間違ってしまう。コロナ流行中のオリンピックには反対しても、ミュージシャンのライブイベントには賛成する。なぜなら、政治家やそれに関わる大企業は嘘つきばかりで、ミュージシャンは真実を言うからだ。

ぼくらは直感的に、政治家は嘘つきでミュージシャンは真実を語っていると判断してしまう。

ただしこれにぼくは異議を申し立てる。
ミュージシャンは政治家なんかよりもよっぽど嘘つきで、無知で、自己中心的で、卑怯だ。そのくせ彼らは責任を取らされることもないし、任期もない

音楽家は音楽という自らの武器によってリスナーの感情に直接的に取り入って、彼らを思いのままに操る。良い音楽を聴いていると、本当にそれが真実を語っていて、世界の問題がすべて一瞬にして解決してしまうような錯覚に陥ることがある。音楽という抽象的な表現物に世界の問題の解決を求めるくらいなら、政治や経済や環境問題や哲学の専門書や論文に目を向ける方がよっぽど近道なはずなのに。
良い音楽はとても素晴らしい。存在それだけで素晴らしい。しかしだからといってそれが世界の問題を解決するとは限らない。それに、良い音楽を作るからといって、彼らのSNSでの発言が正しいとは限らない。良い音楽を作るからといって、彼らが嘘つきではないとは限らない。

良い音楽を作るアーティストは嘘をつかないはずだという直感的なエラーには「ハロー効果」というポップな診断名がついているので、その他の膨大に研究されている人間のエラーと比べて多少はそのバグに気付きやすい。ハロー効果は、「よい人間のやることはすべてよく、悪い人間のやることは全て悪い」というように評価に過剰な一貫性を持たせる働きをする。

ちなみに政治家が嘘つきであるという思い込みの原因は、普通の人が嘘をついた時よりも、政治家が嘘をついた時の方が報道されやすいということが原因だ。私たちは直感的に統計を考える時に、思い出しやすいもの、つまり利用可能性が高いものに判断が偏ってしまう。政治家の不正が報道された例はいくつも容易に思い出せるが、ミュージシャンの不正報道は思い出しづらい(というか報道される頻度が少ない)。このタイプの偏りの原因には「利用可能性ヒューリスティック」という名前がついている。

このようにエラーを起こす原因となる、(頭の中の)直感的な近道のことはヒューリスティックと呼ばれ、その結果起こる判断の偏りはバイアスと呼ばれる。ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーはこれらを研究して「ヒューリスティクスとバイアス」としてまとめた。カーネマンは心理学者だが、これらの業績で2002年にノーベル経済学賞を受賞した(トヴェルスキーは惜しくも受賞前に亡くなった)。とりわけ彼らの、ある状況下での選択に関する理論はプロスペクト理論と呼ばれているが、ここでは詳しく話さない。

ところでプロフェッショナルな場所に目を移してみる。音楽理論や作曲法は、これまで音楽の物理現象がリスナーにどのような影響を与えるだろうかということを真剣に考えてきた。例えば(すごく簡単な言い方をすれば)メジャーコードは明るく感じ、マイナーコードは暗く感じる、と言う風に。そこには想定される理想のリスナーというものがいて、メジャーコードを聴いて暗く感じたり、不協和音を聴いて安心感を得る、という変わり者のリスナーは想定されていない。

ある評論家がビートルズの楽曲について「とても独特で不思議なコード進行だ」と表現したとして、その評論を読んだ読者がビートルズのその曲を聴いた時に、その「不思議さ」を体感できない時がある。
批評家は、架空のリスナーを想定している。それは決して間違った聴き方をすることなく、過去のあらゆる先行する音楽を記憶しており、楽曲に関わる時代背景を完璧に理解し、作者の生い立ちまで把握しており、相当な処理速度で楽曲分析ができるようなリスナーだ。

でも実際にはそんなリスナーは存在しない。単純でつまらないと思えるような楽曲が実際には(専門家にいわせると)複雑なコード進行で構成されていたり、また複雑な構成に感じる楽曲は実はその逆であったりということは非常によくある。なんの変化も感じられないようなミニマルでつまらない楽曲が、映画のBGMになった途端に心を動かすのはなぜだろう。逆に映画本編を見たことがないサウンドトラックには心を動かされないことが多い。
リスナーが音楽を体験する時の直感的な判断と、批評家の論理的な解釈には時折ギャップがあるということだ。

また、批評家の頭の中にも、直感と論理的な判断が混在している。
たとえば評論や批評において、楽曲の選択にバイアスがかかっていないことなどない。
生存者バイアスというものを例に考えてみる。

第二次世界大戦中に海軍の分析センターでは、任務から戻った航空機が受けた損傷の研究を行った。研究の結果、最も損傷が多かった部位(敵から最も被弾した部分)を補強する、というためだ。つまり、敵に狙われやすい部分を補強すればさらに安全度が増すわけだ。

しかし統計学者のエイブラハム・ウォールドは、全く逆の提案をした。
つまり、「最も損傷が少ない部位を補強する」ということ。
これには生存者バイアスというものが関わっていて、何かの事象について考える時に、生きている人の話は参考になるが、死んでいる人の話は(死んでるので話がきけないので)無視される、ということ。
つまり、生還しなかった航空機の損傷が考慮されていないのだ。
帰還した航空機が受けた損傷は、「被弾しても助かる部位」であり、それ以外の部位に被弾した航空機は生還していない、ということ。
なので、最も損傷が少ない部位を補強するのが正しいことになる。


生還した機体の被弾部位は、被弾しても帰還できる可能性が高い部位でもある。

これには反省しないといけない教訓が山ほどある。ぼくも常日頃、アーティストはこういうやつばっかりだとか、こういう曲が多いからとか言うのだけど、それはつまり売れてるアーティストや人気のある曲の話でしかない。それをまるで楽曲全般のセオリーかのように話すわけだ。
ぼくらは成功した音楽家の批評や評論しか目にすることがない。
例えば、この曲のコード進行は素晴らしい、という意見は、全く同じコード進行で書かれた全く売れていない(さらに言うと名曲とは感じられない)曲が世界中に存在しているという事実を無視している。
ここでは売れていないアーティストを「非生存者」として喩えているので、非常に不謹慎ではあるけど。

音楽を聴く、また批評する、また表現する、というときには様々な方向性に、普段は気づかないバイアスがかかっている。
ぼくは最近こういうことを行動批評という言葉を使って考えるようになった。

行動批評は、ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーの提唱する行動経済学(Behavioral economics)の考え方を発想の基本軸としている。ちなみにこの英語由来の言葉は態度経済学とも訳せるが、芸術家の坂口恭平さんの提唱する態度経済はアティチュードの方の態度なので全く別物、お間違えなく。
実をいうと、さっきから言及しているバイアスやら直感的な判断のエラーといったカーネマンとトヴァルスキーの研究は、行動経済学の基礎理論になっている。

経済学者というものは、差し迫った問題、たとえば、失業中に仕事を探し出す最適の方法というような問題の解決法の発見に一年もかけておきながら、失業者はとっくの昔にその解決方法を知っていてそれに従って行動するであろうという理論を、平気でつくる類いの人たちなのである。経済学者が一年間も苦闘しなければならないような問題を、普通の人なら誰でも直感で解決できるとする想定は、見上げた謙虚さの発露なのかもしれないが、そんなにあっさり割り切っていいのかどうか、やや疑わしい。どう考えても、人びとが単に間違った答えを出すという可能性だってあるはずだ。
リチャード・セイラー『セイラー教授の行動経済学入門』(ダイヤモンド社)

批評家とリスナーの間にも同じようなことが言えるし、また創作者とリスナーにこれを置き換えることもできる。戦後の現代音楽以後、リスナーを置いてけぼりにしてきてしまった感というのはよく指摘されてきた問題だけれど、かならずしもそれは難解な作品だけにいえるようなことではない。

経済学ではこうした論理的に最適解を導いてすぐさま行動するという架空の人物を想定しており、ホモ・エコノミカスと呼ばれる。
批評の分野でもそうしたことは想定されてきた。
批評家のジョナサン・カラーは「理想的読者」を提唱した。また「理想的読者」はその元にノーム・チョムスキーの提唱する「理想的話者/聴者」がある。またこの対極に、デイヴィッド・ブライヒの提案する「批評家読者」があるし、他にも様々な文芸批評家が架空の読者について論じてきた。

行動経済学の関連書籍はだいたいがビギナー投資家や起業家向けの「成功するための行動法則」的なつまらない本ばかりで、特に「企業が消費者を騙して大成功するための裏技」的な利用のされ方で流行ってる「リバタリアン・パターナリズム」もしくは「ナッジ」という手法についての本が多い。
音楽はリバタリアン・パターナリズムそのものなので、ついでに以下にセイラーの言葉を引用する。

リバタリアン・パターナリズムは相対的に弱く、ソフトで、押しつけ的ではない形のパターナリズムである。選択の自由が妨げられているわけでも、選択肢が制限されているわけでも、選択が大きな負担になるわけでもない。タバコを吸いたいとか、キャンディーをたくさん食べたいとか、続けられないような医療保険プランを選びたいとか、老後の資金を貯められなくてもかまわないとかいう人がいても、リバタリアン・パターナリストはそうしないように強制することはないし、そうしづらくすることさえしない。それでもわれわれが勧めるアプローチはパターナリズムの一種とみなされる。
リチャード・セイラー / キャス・サンスティーン『実践 行動経済学』(日経BP)

よく紹介される例として、男性用小便器に記されている、ダーツのような丸い印。これは的があったら狙いたくなるという人間の習性を利用して、綺麗に公共のトイレを利用してもらおうというナッジのひとつだと言われている。
音楽は作者の意図をもって、リスナーを静かに誘導する。しかしそれに強制力はない。非常に弱い誘導だといっていい。


セイラーは「私たちはみなホーマー・シンプソンだ」と言う。間違った選択をして、矛盾する行動をして、感覚的に生きている。
行動批評は、別に「我々はホーマー・シンプソンから抜け出し、新人類を目指すのだ」と声高く叫ぶわけではない。
そうではなくて、「われわれはみなホーマー・シンプソンである!」と認めることだと思う。
直感的な判断によるエラーが音楽の需要や創作や批評にどのような影響を与えるか、ということは今の所ほとんどわからない。行動批評という言葉は手っ取り早いので批評という言葉になっているが、別にそれは批評のスタイルを指す言葉ではないと思う。音楽や絵画や映画を中心として、その周りにいる読者やリスナーや鑑賞者、それから作者や批評家といった人々のなんらかのアクションの不具合を観察していくことなのだと思う。ああ、ここに、こういう勘違いがありますね。これはあれですね、システム1(心理学では直感的な判断のことをそう呼ぶ)によるエラーですね、と言う風に。

我々ことホーマー・シンプソン


話を劇的に元に戻すと、
アーティストはみな嘘つきだ、と書いたけど、そんなことはない。
正しくは、
アーティストは政治家と同じような頻度で嘘をつく、ということ。
もしそうじゃないと思えるような統計データがあればみてみたい。その可能性は全然あるのだから。
ぼくもアーティストに対するうがった見方がある(つまり何らかのバイアスがかかっている)ので、信用性はとても低い。



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