【目次】
第7回: テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。
音楽をやっている人なら、「好きなミュージシャンは?」ときかれて即座に答えるのは難しいだろう。
それは逆に言えば、「おれは何でも聴くよ」って答えるひとがいかに何一つ聴いていないかを、いままで痛いほど経験してきたからだ。だから願わくば「何でも聴くよ」なんて大嘘は答えないようにしておきたいと、誰しも考えるようになる。
ぼくも、よく「シガー・ロス好きでしょ?」とか、意味もよくわからないが「北欧系好きそう」とか言われたりして、ええ、ええ、好きですよ、ってはにかみながら答えるようにしているが、自ら「私は○○が好きだ」というのはなかなか難しい。
まず最初に思いつくのはサイケデリック・トランスというジャンルがとてつもなく好きだ、というのが本当の真実で、これはもうよだれが出るほど好きなのだ。
サイケデリック・トランスは、省略して「サイケ」とだけ言うことが多いのだけど、そういうとヴェルヴェット・アンダーグラウンドやゆらゆら帝国を想起させてしまうことが多い。
しかし、ギャルが踊りチンピラが踊る「クラブ」というところでは、サイケといえばサイケデリック・ロックではなくサイケデリック・トランスのことを指すにきまっているのだ。それがパリピというのもだ。
同じサイケとはいえ、日本のサイケデリック・トランスのクラブにはヒッピーの香りもフラワーの色合いもビートの倦怠もないし、当然ラブ&ピースもない。ほとんど下着姿でどぎついメイクに肌の黒いギャルと角刈りサングラスにピチピチの黒Tとセカンドバッグで肌の黒いチンピラが、LSDなんていう神聖なドラッグではなく、シャブやMDMAなどの下衆いドラッグとテキーラを服用し、両手をレーザービームにかざしながら「おいっ! おいっ!」と無意味な奇声を発しながら踊る、そういう非常に空気の悪い現場なのだ。
とはいえ、音楽そのものは良い。
サイケデリック・トランスの聖地がイスラエルだということはクラブではよく知られたことなのだが、一般的には知られていない。
最近、イスラエルの大衆文化を紹介する本を読んだのだけど、そこにはサイケデリック・トランスのことは一切触れられていなかった。それを読んだぼくは「!!!!!????」となったのだが、これは一体どういうことだろう。
そう、イスラエルはクラブ文化において世界で最先端であることに間違いなく、街中のど真ん中、それも聖地エルサレムなんかでレイブが勃発するほど平和な場所であり、サイケのDJの多くがイスラエル出身であり、「なぜイスラエルなのか」という問いには誰も答えることができない。DTMで少しでもミックスというものを経験したことがあるひとなら、WAVESというイスラエルの素晴らしい世界標準のプラグインを利用したことがあるだろう。
そこで、なぜイスラエルの文化としてサイケが紹介されないのか。
うん、その気持ちはわかる。
考えてもみたまえ。ニュースでパレスチナ問題についてみたことがあるだろう。アラブ人とユダヤ人の複雑で根の深い争いは島国日本人には到底理解できるわけもなく、ただ我々にはイマジンを合唱することくらいしかやれることはない。しかし、実際には、聖地エルサレムにおいて、アラファトもモサドも関係なくアラブ人やユダヤ人がLSDをキメて安らかにサイケに合わせて踊っているのだとしたら、それはイスラエル的にも、国連やその他西欧諸国にとっても望ましい姿ではない。西洋の中東介入の負の遺産がこんなハッピーな副産物を生み出すことはやっぱりイメージとしてよろしくない。
そういうわけで、イスラエル的には、サイケという文化は、公には認めていない、というか「やるぶんには構わんが、イスラエルという看板は背負わんでくれ」といったところなのじゃないかと思うわけだ。
そして、ぼくはこういった音楽、つまり、「輸出には適さない音楽」こそが真の民族音楽だと思うのだ。
なぜなら、日本がいくら輸出向けに「カブキ、ウキヨエ、素晴ラシイデショ」といっても、歌舞伎も浮世絵も今の日本人にとってみれば馴染みも興味もない。輸出向けの作られた文化で、死んだ文化、まあ遺産ということだ。そうではなくて、現在の生きた民族音楽や民族芸術とは一体何かと考えたら、やっぱりグローバリズムとは逆をいくような「これは恥ずかしくて輸出できない」と国民が思うような音楽だと思う。そしてこれは本当に恥ずかしいことだけど、AKBや嵐なんかがそうなのかもしれない。
全く同じようなことを、アメリカのカントリー音楽に感じる。
アメリカは現在、「EDM」という新たな商業音楽を輸出することに必死だが、これまでのところ概ね成功している。EDMという言葉が一般に浸透したのは2012年ごろで、今やクラブのみならず広くポップスにおいてEDMは業界全体を席巻しているように見える。
しかしアメリカ国内の事情をみればねじ曲がっていて、カントリー音楽という、我々日本人からすれば随分古臭い音楽が未だに聴かれ続けているのだ。
キング・オブ・ポップと呼ばれたマイケル・ジャクソンは全世界で驚異的なセールスを記録したが、アメリカ国内ではカントリー歌手の方が売れている。これは意外だが、事実だ。
カントリーは完全にアメリカ国内向けの音楽で、なおかつアメリカで最も売れている。
それもそのはず。
カントリー音楽というのは、そのほとんどがアメリカ万歳ということを歌詞にしているか、イエス様万歳ということを歌詞にしているかで、カントリー歌手は米軍基地などを主なツアーの拠点とするか、キリスト教右派が多数を占める地区を拠点としているかといった具合で、男尊女卑著しく、女は必ずブロンドで星条旗の柄のビキニにロングブーツとハイハット、男は筋肉あってナンボでたくましいヒゲとウィスキー、古き良き、いや古き悪しきアメリカ白人のステレオタイプを体現しまくっているのだ。
こんな音楽、アメリカ以外の人が聞いてもわけがわからないどころか怒り出すにちがいない。
我々は、ベトナム戦争やイラク戦争に反対し、権力に歯向かってきた自由と平和の「ロック=アメリカ」と世界に憧れて育ったが、一方でセールス的に大ヒットしつつも国外には輸出されないのは「戦争・キリスト・男尊女卑」三拍子揃った「カントリー=アメリカ」だったのだ。
ところでこういってカントリーをディスっているけど、ぼくはカントリーが大好きだ。
特に、南北戦争を題材にしたジョニー・ホートンの戦争バラッドものの歌なんか、一周回ってパンクになっている。
キリスト系の歌も、天才ジョニー・キャッシュのものだと、とてもカッコ良い。
そしてなんだかんだいって、アメリカ人はやっぱりアホだなあ、と感じさせる名曲&名MVが多い。歌詞もキャスティングもテキトーな小道具もロケーションも、全部が全部、墓穴を掘っているようで素晴らしい。
アメリカ国内で大ヒットした新人カントリー歌手は、アーティストの進むべき方向性として、次の二者択一をせまられる。
すなわち、このままカントリー歌手としてアメリカ人に愛され続けるか、もしくは、カントリー以外のジャンルに改造されて世界的なヒットを目論むか。
後者の例のひとつが、テイラー・スウィフトだ。
彼女は未だにカントリー歌手という触れ込みで紹介されることがあるが、多くの人が「あれのどこがカントリーなの?」という鈴木福くん的無垢な疑問を持たざるを得ないだろう。
テイラー・スウィフトはカントリーから脱出し、世界的に愛される存在となったわけなのだが、カントリー出身であるという経歴は拭うことができない。
2015年にテイラーがMTVのミュージックビデオ・アワードの最優秀賞にノミネートされたときのこと。
女性ラッパーとしてEDM周辺の話題曲に引っ張りだこのニッキー・ミナージュが、ツイッター上で「私がスレンダーで違う種類のアーティストだったらノミネートされてたのに」という皮肉たっぷりのツイートをした。彼女の肌はブラックで、それからお肉たっぷりお尻でっぷりの体型で、とても美人とはいえないのだけど、彼女はこのツイートの別の種類(different ”kind”)のkindに強調をつけている。彼女はトリニダード・トバゴ出身で、インドとアフリカのハーフ。
それに対して、(自分に対することだと勝手に思った)テイラーがツイッター上で「女どうしで喧嘩させるなんてらしくないね」とツイート。挙げ句の果てにはお節介にも「私が受賞したら一緒にステージに上がりましょう」と。
彼女は純粋なピースフルな気持ちで言ったのだろうけれども、端からみれば「ややこしいことになってきた」と全員が頭を抱えて思ったにちがいない。
彼女は純粋なピースフルな気持ちで言ったのだろうけれども、端からみれば「ややこしいことになってきた」と全員が頭を抱えて思ったにちがいない。
身長178cm、スリムでブロンド、青い瞳の受賞者テイラー・スウィフトと並んで、お肉たっぷり黒人ニッキー・ミナージュがノミネートすらされていないのにステージで並ぶなんて、なんて皮肉な光景だろう!
さらにそこにケイティ・ペリーも割って入り、混乱を極めたけれども、テイラーは見事大賞を受賞したのだった。
Finding it ironic to parade the pit women against other women argument about as one unmeasurably capitalizes on the take down of a woman...— KATY PERRY (@katyperry) 2015年7月22日
女性を貶めてとんでもなく稼ぎまくった女が、女同士の喧嘩はやめましょうなんて見せびらかすって、なんちゅう皮肉なことよ。
テイラー・スウィフトは、その美しい姿をみれば「はっっ!!」と見惚れてしまう絶世の美女だが、一方でその容姿そのものがカントリー音楽に内包される不都合なアメリカを体現している。
テイラーがカントリー出身でなければこれほど女性蔑視キャラにはならなかっただろう。
そろそろ著作権の話に移りたいのだけど、とっかかりを見失ってしまった。
音楽(芸術)とお金の話、そしてその格差の話を続けてきて今回で7回を迎える。
クラシック音楽の話をしたいなと思いつつ話が全く違う方向に流れてしまった。
クラシック音楽といえば、ロマン派とよばれる時代の音楽のイメージが強いが、著作権という観点から見てもその時代はようやくヨーロッパ全体にそれが定着し始めた時期だった。
それ以前のヨーロッパは、イギリスを除いてまだまだ著作権は整備されていない。
たとえば、あの有名なバッハの末っ子で、同じ名前のヨハン・クリスチャン・バッハは、当時のアン法のもとで訴訟を起こして、適用範囲の拡大を獲得した。1777年のこと。ドイツはまだ論外なので、その後のベートーヴェンは著作権の恩恵には預かれなかった。ベートーヴェンは謝礼金、つまりギャラをもらって大作を書いたのだ。佐村河内氏のニュースで現代のベートーヴェン問題が話題となったが、厳密に言えば佐村河内氏は印税を受け取ってはならないのだ。現代のベートーヴェンならば、だけど。
しかしシューマンやブラームスは著作権の時代を生きている。
ヴェルディはイタリアに新たに導入された著作権制度を経験した初めての作曲家だ。
アン法が現在の著作権の原型だということを見てもイギリスが著作権先進国というか最初は唯一の国であったことは間違いないし、当時ロンドンは世界でもっとも影響力のある世界都市だった。オランダの勢いが劣り始めたころだ。
そんな素晴らしいイギリスで、1780年から1850年までの間に、有名な作曲家が何人いるだろうか。
いや、こういった重箱の隅をつつくような疑問はそもそもいやらしいのかもしれない。しかし、ヘンデルもエルガーもホルストもこれには該当しない。
F. M. Schererの1984年の著作によると、著作権制度の導入は、結果として作曲家を減らすことになった、というわけだ。
ヴェルディの例では、著作権制度を充分に活用することで得られる報酬が増えると、作曲活動は大幅に減少することとあった。
同じくシェラーは、著作権の登場以前と以後で、イギリスの作曲家がどのくらい増えたのかというデータを出している。
人口100万人につき著作権成立前の時期(1700~1752年)の作曲家の数の平均は0.348人だが、成立後(1767-1849年)では0.141と半減している。
全く同じことが特許権にもいえて、1851年の世界初の万博では、特許のある国とない国両方の展示が陳列する形となったのだが、
たとえば19世紀のスイス(特許なし)は、一人当たりの展示物の数が、水晶宮での博覧会に参加した国々の中で二番目に多かった。また、傑出したイノベーションに与えられるメダルのうち、圧倒的に多くが特許法のない国の展示物に授与されている。(ペトロ・モーザー)
ここでの引用はほとんどボルドリン&レヴァインによる共著『〈反〉知的独占』によるところが多いのだけど、現在参照しているのは「知的独占はイノベーションを増加させるか?」という章。
なので著作権や特許権が存在することによって、作品や発明がどれだけ増えのか、ということに関して述べている。
当然著者の結論としては「そんなものはない」と言いたいところだが、彼らの紳士なところは、その真逆にもおもえるような証拠も提出している点だ。とはいえこういったアンチテーゼは適度に出せばより一層真実味が増してくるのだけど。
そこでぼくは、市場が追いつけないような、もしくは市場に置いてけぼりにされるような、もしくは国家に無視されているような、そういった芸術に興味が湧いてきたのだ。それらが流行すればするほど金になるので、もちろんカントリー歌手が稼ぎ出す印税はものすごいんだろうけど、それでもほとんど(他ジャンル改造なしでは)輸出されることはないし、できればサイケのように無視していきたいのだ。
前回の記事で書いたように、著作権は多国籍企業が政府よりもやや上にあるかのようにみえる現在のグローバリズムにおいて精神的にも経済的にもとても影響力を持っているし、これからもっと影響力を持つようになると思う。
9兆円の著作権使用料を握るアメリカが、新規参入をより一層妨げるような仕組みをどんどん強化していくと同時に企業は多国籍化していく。
しかし一方で、アメリカはEDMはばんばん輸出してYouTubeで数十億の再生数を連発しながらも、真にアメリカで愛され続けるカントリー音楽はひっそりと国内に閉じ込めて大事に大事に育てている。秘蔵っ子ってなもんだ。
サイケトランスはカントリーとは事情が違い、イスラエルのみならずインドやフィンランドなど変わった場所で熱狂的に支持されているようだが、それぞれインドはそれがゴアトランスと呼ばれ、フィンランドではスオミトランスとよばれるように、地名がそこに冠されているのはなんとなく「東京ディズニーランド」のようなただたんにフランチャイズ化した地域分類とは違うようにおもえる。
つまり、ぼくは今まさに筆舌を尽くしてとてつもない強引な結論に読者を導こうと必死なのだが、
こういった現代のグローバル化し難い音楽は、かろうじて多国籍化する知的財産と対抗することができるのではないでしょうか、と、ちらっと、思い立ったのだ。
とはいえ、その国特有のどんなに閉鎖的な音楽であっても、稼ぐ見込みがあるなら輸出したいにきまっている。
だから、テイラー・スウィフトのような半人半獣の歌手が現れるのだ。
テイラーの上半身は、ブロンドに青い目、白い肌に高い身長でスレンダーな、そして敬虔で保守的なカントリーガール。下半身はピースフルでLGBTや人種差別にも敏感なEDM的な自由の女神。
テイラー・スウィフトがこの間でどっちつかずな言動を繰り返しながらもグローバルに人気を得続けることは必死だろう。でもこの問題には原宿系から飛び出したきゃりーぱみゅぱみゅやカワイイ文化からkawaii metalを生み出したBABY METALも、それから完全輸出型で頓挫したクールジャパンも、それから日本から七つの海に飛び出した海賊王たちも、やはり閉鎖的な現代の民族音楽からは絶対に脱出したいに違いないのだから。
芸術格差を考える(第7回:テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。)
Reviewed by asahi
on
14:36
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