歴史なきニッポン文学


又吉直樹さんが芥川賞を受賞したことで文壇が多少は(ワールドカップ的一時的なものとはいえ)注目されたことは事実だ。最近では『火花』を読んだという中学生に2人も会った(そして二人とも途中で断念していた)。まず『火花』を掲載した『文學界』は80年の歴史上初めて増刷という快挙だった。芥川賞は、太宰治が受賞を直談判した時代に比べれば名誉も権威も月とスッポンになったとはいえ、かろうじて未だ小説は落語や歌舞伎ほどには伝統工芸化はしていない。かろうじて存命なようだ。危篤状態とはいえ。

ニューヨークタイムズにスティーヴ・エリクソンの批評が掲載されるなど村上春樹の人気は衰えないが、宮崎駿や村上隆と同じように、ただぽつりと奇跡的に人気が出た個人の存在が大きく、クールジャパンのようにまとめてケースごと輸出することには成功しているとは言い難い。日本にやってくる外国人も、以前ほど日本文学に魅せられたマニアの割合が多くなくなった印象。ノーベル文学賞は社会的な目論見が強く、もはや純粋な文学賞ではなくなっている。そのことは昨今ノーベル文学を受賞できないアメリカが多少ひがみも混じった形で批判している。そういった意味では芥川賞はまだまだ非常に文学的な趣があるといえる。決まってお偉い方が口にする「越境する文学」や「ポストコロニアリズム」とはあまり結びついていない印象だ。

困るのは、読まれもしないのに日本文学がナショナリズムの武器としては利用され続けているということだ。テレビでは当たり前のように『源氏物語』が「世界最古の小説」として扱われ、まるで俳句が数百年の伝統があるかのようにいわれ、明治期に言文一致が完成したかのようなことを伝える。『源氏物語』より古い物語は世界中にあるし、俳句は明治になって出来た。そして言文一致は未だ完成していない。
平安時代初期に書かれた日本最古の物語として中学生は『竹取物語』を暗記させられるが、彼らが暗記させられるのは十六世紀の終わりに書かれた写本である。当然原本は残っていない。同時に中学生は「歴史的仮名遣い」をならい、「やうやう」は「ようよう」と、「てふてふ」は「ちょうちょう」と読むことを知るが、この歴史的仮名遣いが平安時代の代物だという風に教わるのはほとんど詐欺に近い。歴史的仮名遣いが成立したのは明治に入ってからで、戦後廃止された。「てふてふ」は「てふてふ」と読むのが正しく、もっと正確に言えば、その発音は時代ごとに異なるのだ。聖徳太子の時代には「でぃえっぷでぃえっぷ」に近い発音だったともいわれる。それをはっきり理論立てて現在学校の古文の授業で習うような「歴史的仮名遣い」としてルールを統一したのは明治になってからで、江戸時代なんかは藤原定家が間違って提案した杜撰な仮名遣いを採用していた。

割と長い歴史を持つ日本の文学は、現在は日本が文化的な国だということを示してくれる証明書としてのみ機能しているようだ。ラフカディオ・ハーン、ドナルド・キーン、ロバート・キャンベルなど、外国人に(特に白人に)褒められると我々はめっぽう弱い。
川端康成は特に文学者の間では現在もなお評価が衰えることはなく、生前のガルシア=マルケスの評価やスウェーデンアカデミーの最も素晴らしい小説として現代の日本作家として唯一挙げられている。彼のノーベル文学賞受賞だって口に出すのが野暮なほど正当な気がしない。彼は日本ペンクラブの代表を辞めてからすぐ受賞したが、ペンクラブはいわばノーベル文学賞の推薦機関といったところだからだ。

日本は果たして世界に誇るだけの文学的な歴史を有しているのだろうか?
シェイクスピアは小説では最も引用される作家だが、同じ時代の最も優れた作家である近松門左衛門は引用されない。これは、日本人にとって近松の言葉が外国語とまではいわないが、ほとんど意味のわからない近世日本語であるせいだろう。
歴史家の宮脇淳子は、故岡田英弘の著書を咀嚼して、歴史とは文字と時間の記述であり、それがないインドとイスラムとアメリカには歴史がないということをいった。インドは輪廻転生の概念から時間の記述が意味をなさず、イスラムはアラーがその時その時を創りあげているのでそもそも時間に連続性がないという概念から時間の記述がなく、アメリカは稀に見ぬ契約国家なので成立前の歴史とは無関係であるという理由から歴史がない。
日本は『古事記』以来脈々と受け継がれる神=天皇の歴史があるが、これが近頃嫌なほど強調され言及されている気がする。天皇が2000年以上も続いているというデタラメをまともに信じる人はいないにせよ、1000年以上続いていることはほとんど確実だからだ。
確かに、竹田恒泰がいうように、『古事記』を西洋でいうところの聖書やギリシア神話のように、共通の神話として日本人に認識されたとしたら素晴らしいことだろう。しかし西洋で旧約聖書をヘブライ語で読む人がいないことと、『古事記』を現代日本語でよむこととは少々事情が違う。『古事記』はほとんど暗号のようなもので、我々には読解の余地などなく、ましてや日常にその文化が根ざしているとは到底思えないのだ(竹田はそうはいわないが)。『古事記』は小説として読むにはほとほとナンセンスすぎる。天皇の成り立ちなどを知る上での教養としての意義はあるにしても、思想的または芸術的に影響を受けることなどこれっぽっちもないだろう。はっきりいってつまらない物語だ。天才本居宣長が『古事記』を評価していることなど再考の素材には値しないだろう。本居宣長はつまり人生を『古事記』に捧げた。ただそれだけのことだ。

文学を教養の武器やナショナリズムとして利用することなかれ。文学を生きた芸術として身近に接していなければならない。国語の授業で受けたことや、「世界が羨むニッポン」的なことは忘れて、とにかく日本だろうがアメリカだろうがかまわず小説を読み、そして書くのだ。小説は誰だって書ける。紫式部が書けたんなら誰だって書ける。清少納言だってかけたのだから、大概の人は書けるはずだ。




歴史なきニッポン文学 歴史なきニッポン文学 Reviewed by asahi on 11:46 Rating: 5

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