ぼくがブルース・ウィリスだったとき




今思いだすのは、地震と原発事故があったときに、「神」ということを口にした連中だ。普段、ぼくは様々な出来事の多大な影響の中にあって、しかしそれが神の仕業であるなんてことをきいたことがない。神を信じる人などいないからだ。しかし地震が起こったときに、何人かの連中は神の仕業だといった。ツイッターや、確か、テレビでも。まるで預言者のように、神にかわって語るかのようだった。
地震が起こったとき、ぼくは千葉県のよく分からない農村地帯の電車の中にいた。電車が止まって、ぼくは最悪の事態を想像した。そして目の前に一人でいる女の子をみて、もし次にでかい揺れがきたときにはブルース・ウィリス並みのジャンプでその子を助けるのだという妄想に必死だった。それから車内の全員に指示をする。その想像の中のぼくの台詞のひとつひとつが、なぜか映画の吹き替えのようなイカした声なのだ。
それから思い出すのは、ニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだときだ。当時中学一年生だったが、ニュースで映像をみたときに、瞬時に「第三次世界大戦が始まる!」とアホみたいに思った。政治も歴史もよくわからないぼくだったが、とにかくなぜかそういう風に感じたのだ。

緊急時に、つまり想定外の事態のときに、人は経験的に事を対処するということが出来ないので(だって経験していないから)、その解決策をフィクションに求める。SF映画やホラー小説や、聖書の中に。そうして出てくる物語は、なるべく壮大に、なるべくドラマチックに、なるべく派手な形をとってお披露目されるのだ。
歴史というフィクションもある。ぼくは第一次、そして第二次世界大戦があったという事実を知っているので、その物語の延長線に、わけもわからず「第三次が始まる!」と早合点したのだ。しかし歴史も、数ある「成り得たかもしれない結果の中のひとつ」だとしてみれば、大いにフィクションだ。
逆にいえば……
   例えば……
スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』という小説がある。その小説では第二次世界大戦でナチスが勝利をおさめることになっている。
現実の、つまり学校で習ったナチスの敗北が「成り得たかもしれない数ある結果の中のひとつ」に過ぎないとしたら、同じく「成り得たかもしれない」ナチスの勝利も、現実と同じだけの意味をもつ。しかしそれは、本で書かれたり、映画を観ることで初めて意味をもつのだ。
緊急の事態においてぼくたちは(今までの実体験は通用しないので)フィクションにその解決を求める。だから、爆発的に様々な場所で物語が語られるのだ。そして、そういうときに語られる物語というのは、たいていの場合、大変つまらない。ただドラマチックでゴージャスに仕立て上げられただけの空虚な大作だ。
震災のときに、「ついに人間が今までしてきた利己追及のしっぺ返しがやってきた」なんていわれてもおもしろくもない。
原発の時にみなが口にした「人間のエゴへのしっぺ返し」というもので真っ先に思い浮かんだのは、リチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』だった。これは第二次世界大戦下のアメリカにおける「日本への仕打ち」と「核開発」がテーマになっていて、自己の利益を追求するあまり最後にアメリカがしっぺ返しをくらう、というかなり壮大な物語だった。それをタイトルの「囚人のジレンマ」という言葉が言い換えているわけだけど、この言葉、みなさんは知っているだろうか。きいたことはあると思うけど。
つまり、ここで肝心なのは、
囚人のジレンマというのは、いくら論理的に考えても「しっぺ返しは免れることはできない」ようなシステムなのだ。原発の問題が、しっぺ返しだか神の御業だかわからないけど、リチャード・パワーズのこの小説は、難しい経済学の概念を、フィクションに置き換えてくれた、という点で素晴らしい。
緊急時においてぼくたちはフィクションによって現実をとらえるのだから、こういうことは物語として語られてこそ意味があるかもしれない。

ところで、ぼくはあの三月十一日にブルース・ウィリスになった。重要なのは、目の前に座る女の子に、なるべく変態だと思われずに、彼女を救い出すことだった。

 ――ありがとうと伝えてくれ。
 ――なんだって?
 ――愛しているとは何度も言ったが、ありがとうとは言ったことがないんだ。
 ――ばかやろう、そういうことは、自分の口から言え。

ぼくはそんな風に架空の黒人警官とやり取りをしながら彼女の様子をうかがっていた。しばらくして電車が緩やかに動き出した。
「最悪の事態を想定しなさい」というのはどういうことかというと、「最も派手なフィクションをつくりなさい」ということだろう。
ぼくはあの日、世界で最も派手な男、ブルース・ウィリスになった。メル・ギブソンにも少しなった。ジャッキー・チェンは強いが、派手さでいえばまだまだだった。
女の子はずっとPSPをやっていた。彼女は現実で大変なことが起きているのも気にせず、ゲームの世界に没頭していた。
彼女の手の中には、果たしてどんなゴージャスなフィクションが展開されていたのだろうか。

      二〇一三年、ミネソタ。













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