少年よ、舌がなくても喋れ

どんなに興味のある内容を話していても、それがつまらない人間であれば「何言ってんだこいつ?」と思ってしまう。内容どうこうではなく、相手の言葉の奥にある魂のようなものを瞬時に感じ取って興ざめしてしまうのだ。これはおそらく誰にでもあることだと思う。話している素材が面白いにも関わらず会話の歯車が合わず、辟易してしまう。そんなときにぼくたちは「ああ、どうして私たち人間ってこうも孤独なんでしょう」と落ち込んでしまう。非常にしょうもないことだか、そういう風にできている。だからぼくたちは「魂の叫び」なるものを無意識に信仰する。人は記号やその活用法など細々した精密機械のような繊細さでもってコミュニケーションするのではなく、得体のしれない「魂の叫び」に突き動かされるのだ!というようなよくわからない信仰である。
この熱い男気のある、パワフルな言葉は同時にすごく寒くてダサい響きも持っているので、「もっと心から言いたいことを作品にしろよ!」なんていわれた日にゃもう赤面すること山のごとしなのだ。
このパワフル且つダサい「魂の叫び」というものは、どういうものなのだろう。

松本人志がラジオで、「音楽はモノラルで十分だ」というようなことを言っていた。彼によると、彼は綺麗な音やリアルな音の再現や音量などは全くどうでもよく、「良い音楽が聴きたい」という一言につきるのだった。彼は良い音楽が聞きたいのだ。それがモノラルだろうがステレオだろうがサラウンドだろうが簡易スピーカーだろうがイヤフォンだろうが関係ない。

ぼくは人々から魂が失われるかたちを、民主主義のようなものだと理解している。ニーチェという偉い人にいわせれば、民主主義とは、独裁者がいなくなって全員が奴隷になった状態なのらしい。
音楽における民主主義とは、十二音技法とよばれる作曲法に例えることができる。十二音技法とは、オクターブ内にあるすべての音、つまり十二音を平等に使用するという非常に理論的な作曲法である。それまでは調性音楽において「主音」とよばれる独裁者が楽曲の内政をコントロールしていたが、十二音技法においては独裁者は失われ、すべての音が平等になってしまった。こに技法を用いた代表的な作曲家にシェーンベルクがいる。思想家であり作曲家のアドルノは、シェーンベルクについて次のように言っている。
「無調の時代はあんなに自由だったのに!十二音技法を始めてからのシェーンベルクは技法に囚われている。自由になるつもりが逆に疎外されている!」
十二音技法にももちろん調性はない。しかし無調と十二音とはどう違うのだろうか。これまた例え話になるが、十二音技法は独裁者のいない完全法治国家だが、無調とは独裁者のいない無政府状態、スラム街のようなものだ。

ぼくらが英語の勉強をするとき、アメリカ人の発音の変化の法則に苦労させられる。「An apple」は「アン・アップル」ではなく「アナーポー」という風に理解するが、アメリカ人が「アン・アップル」に近い発音でいうときもあるし「アン・ナーポウ」みたいなときもある。一体どうなっている?どういうときにどう発音するのだ?どういう原理に基づいて?となる。
発音は、普通は「音声学」によって指導される。音声学とは、発音の発生原理を解明する学問で、口の中の器官の活用によってこういう発音が出る、というのである。普段LとRの発音の区別をしない日本人に、舌の形などを説明することによって理解させるのだ。
ところがどっこい、この音声学というものによって発音を指導するということは、根本から間違っている。
発音は、いくらその発生の原理をもとめても全く意味がない。そのことについて、言語学のロマーン・ヤーコブソンという人が次のように説明している。
「音声学はわれわれの言語の音を、口、蓋、歯、唇などのさまざまな接触形式から導き出そうとする。だが、こうした調音点が、それだけで、きわめて本質的、決定的であるとしたら、おうむは、われわれとほとんど似ていない音声器官をもつにもかかわらず、どうして数々の言語を忠実に再現できるのか?以上の事実はいずれも、実に簡単な、しかし大多数の音声学的研究によって無視されている結論にわれわれを導く。さまざまな調音を分類しうるためには、いや、正確に記述しうるためには、と言おう、たえず次の問を発しなければならないのだ。つまり、これこれの運動行為の音響的機能は何か?と。」
『舌のない娘について』によると、現在は音声学によって「舌音」と呼ばれ、その発出が、本質的に舌の動きをともなう音として定義されるあらゆる音を、ごく小さな舌しかないのに完璧に発音できる人々について詳細に記述している。
発音についての第一人者である医者のヘルマン・グッツマンによると、ぼくたちが発するほとんどすべての音は(必要であれば)、音響的事実を変えることなしに、全く別のやり方で産出が可能であるらしい。発声器官のひとつが欠けているときは、聞き手に気づかれることもなく、他の発声器官の働きによって代用することができるのである。それは腹話術師の巧みな技術をみたことがあれば、誰でも知っていることだ。

音声学によると「歯擦音」は必ず歯を用いた発音だが、門歯がない人間でも完璧に発音できるということが ウィーンの言語学者アルノルトによって報告されている。彼によると、歯の異常が発声の誤りを引き起こす場合は、決まって主体の聴力に欠陥が見られるらしい。

音声学はただ単に一般的な発生原理を解明しているにすぎない。しかし発音する段階では、その方法は自由なのだ。
このことをヤーコブソンは、「なぜ蛇はイヴに話すことが出来たのか?」という問いによって示している。

うん、つまり、蛇は、人間のような調音器官を持っていないが、「魂の叫び」によってイヴに話しかけたのだ!!


ぼくら日本人は、日本語の発音以外の音は、基本的には「きいていない」のだ。フランス語には二種類の「え」という母音があるが、ぼくらにはほとんどその違いは聞き取れない。それは日本語では「え」は一種類だけであり、言いたいことはそれですべて伝わるからだ。この「言いたいこと」を音素という。正確に言えば、弁別的価値をもった音を音素というのだが、弁別的価値というのは、意味の区別というようなことであり、結局は意味に準ずる発音、ということなのだ。
発音がわるいやつは、耳もわるい。
うまく喋れないやつは言いたいこともない。
一方蛇やおうむは、喋ることに強い意味があった。だから喋れるのだ。

「魂の叫び」とかいうよくわからない言葉は、非常に大切だが、それはなにも得体のしれない幽霊のようなものではない。つまり弁別的価値を持った強い意思、なのだ。


「少年よ大志を抱け」という言葉がどこで誰がどんな経緯で言ったのかは知っているような知らないような感じで、「私には夢がある」や「人民による人民のための……」や「飛べない豚はただの……」や「黙れ小僧!!」のように言葉だけが濃霧のようにじーっと流れては現れる、なんとも思わない台詞になっている。がしかし、「少年よ大志を抱け」という言葉は「魂の叫び」なんかよりずっとしっくりくるし、上の牧師や豚や狼の発言にも同じような大志が感じられるのだ。
民主主義とは奴隷になることではない。奴隷になった人間は何を喋っても「何言ってんだこいつ?」ってなる。
だからモノラルだろうが無調だろうが舌がなかろうが歯がなかろうが、豚だろうが黒人だろうが、ぼくらは言いたいことがあればどうにか言う。
死に物狂いで言うのだ。


少年よ、舌がなくても喋れ 少年よ、舌がなくても喋れ Reviewed by asahi on 21:57 Rating: 5

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