芸術格差を考える(第6回:macaroomの未来学会議)(ちょっと休憩)



ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』では、多国籍企業が国家を牛耳るみせかけのユートピアな世界が描かれている。
レムの名前は、映画好きの間ではタルコフスキーの『ソラリス』の原作者として有名だし、文学畑の間では『完全な真空』のようなメタフィクションの現代例として知られているし、SFファンの間では「言わずもがな」な存在だろう。

不思議なラストシーンが有名なタルコフスキー版も良いが、なんてったって原作。『白鯨』そっくりな学術的なパートだけでもおもしろい。


なんとなくの経験では、メタフィクションという技法が説明されるときに、最も良い例として紹介されるのは、古くは『ドン・キホーテ』や『トリストラム・シャンディ』、少し下るとボルヘス、現代文学ではイタロ・カルヴィーノ『冬の夜一人の旅人が』、そしてレムの『完全な真空』が非常に多いイメージだ。(と思ってためしにWikipediaをみてみたら、上記の中から二つが紹介されていた)
レム作品の中で、『泰平ヨンの未来学会議』は、おふざけ満載、というか『博士の異常な愛情』的なブラックジョークのSFなので、どれだけ評価されていたのかよくわからないし、実際問題ぼくがこの本を読めたのは、この本が映画化されたことに出版社が便乗した再販のおかげだった。泰平ヨンとストレンジラブ博士、どっちが多く語られるか考えてみたら、10:0でストレンジラブ博士の勝利だろう。

映画版では、おふざけ感もあるが、どっちかというとシリアスな作り方をしている。映画もとてもおすすめ。

著作権についての連続記事なので、一応説明しておくと、タイトルの借用は著作権侵害にはあたらない。
ということで、ぼくはさっそく自分がやっているmacaroomという音楽ユニットの自主企画イベントのタイトルを『macaroomの世界未来学会議』と名付けることにした。

未来学会議(という名の普通のライブイベント)を開催するにあたって、キュレーターであり日本の芸術振興に携わる、ある女性学者のもとを訪ねた。大学でアートマネージメントなどを教えている先生だ。
というのも、会議室(という名のライブハウス)では、未来予測に関する過去の様々な作品を展示しようと考えていたからで、ぼくはもちろんキュレーションなんかやったこともなかったからだ。

そしてぼくは彼女から良いアドバイスをもらえたらと思い、実に5年ぶりくらいにその女性学者とファミレスで再会した。
彼女にとってはぼくは多くの学生のうちの一人なので、ほとんど初対面も同然だった。
彼女はちょっと話し出すと止まらないタイプの(たとえるならば坂口恭平のような)人で、ぼくがキュレーションについての質問をすると間もなく脱線に次ぐ脱線、イリュージョンと混沌の魔術的討論会がはじまったのだ。

話は未来学についてから始まり、ジャック・アタリからテロの話へ、ISIS、そして相模原の障害施設の事件から知的障害から優性思想と人工中絶、そしてマリファナの話からマジックマッシュルームの話へ飛び、かと思うとバタイユの男根の話からモンサントと遺伝子組み換え、キリスト教原理主義、そしてイスラム原理主義からまたテロの話へ、そしてグローバリズムの問題へと!!
異常気象のおかげで狂ったハエがテーブルの上で交尾を始めるのをよそに、ぼくも負けじと汗をかきながら話しまくった

そこで彼女は、ぼくがジャック・アタリの『21世紀の歴史』を読んだことがないということを不思議がっていた。「当然あなたも読んでるでしょ?」という感じ。そして読んだことがないと知ると、「絶対に読むべき」だと。
なぜ読んだことがないか、といわれるとよくわからないが、本ってそんなもんだろう。
ともかく、買って読んだ。

ジャック・アタリは欧州復興銀行の初代総裁を務めたりしているので、経済学者、ということができるし、ややいかがわしい経歴にする場合は、未来学者、ということもできる。
2006年に刊行された『21世紀の歴史』は、半ば予言書のようなもので、俄かには信じがたいトンデモなお話がたくさん書いてある。
とりわけアメリカのサブプライムローン破綻と世界恐慌を予測したことで世界的に注目を浴びることとなった。
アタリはフランスのミッテラン政権では大統領補佐官を務め、サルコジ政権では『21世紀の歴史』のヒットとともに、アタリ政策委員会が発足された。

市場が民主主義を打ち負かすことにより、国家なき市場という前代未聞の様相を呈する。すべての理論家によれば、国家なき市場は、談合の横行、遊休生産設備の発生、金融投機行為への助長、失業率の上昇、天然資源の無駄遣い、違法経済行為の横行、反社会勢力の拡大などをうながすとの意見で一致している。一九一二年の中国、一九九〇年のソマリア、二〇〇二年のアフガニスタン、二〇〇六年のイラクがまさにこの状態であった。超帝国の行き着く先も同じであろう。

それぞれ、辛亥革命直後、ソマリア内戦からソマリ会議前のソマリア、タリバン政権崩壊後のアフガニスタン、そしてイラク戦争。とくにイラク戦争においては、占領政策が実験的に民営化されていて、運輸、インフラ整備、軍隊などを民間の多国籍企業がやっていた。2006年には民間軍事会社のブラックウォーターがイラクの民間人17人を殺害するという事件が起きている。アメリカ政府はこの殺害に正当性がなかったことを認めながらも、契約を更新している。

ぼくの世代は、地下鉄サリン事件はほとんど記憶になく、2001年の9.11テロ事件が、初めてドラえもんや名探偵コナン以外のテレビ番組、つまりニュース番組を見るきっかけとなった。そのときぼくは13歳だった。
だからブッシュ大統領がスピーチする「悪の枢軸」という言葉も非常によく覚えていて、子供ながらに「なんちゅうこと言うんや」と思っていた。

《超帝国》というのはジャック・アタリの造語で、多国籍企業が国家のかわりに台頭してすべてがお金で解決されるような社会のことをいう。

こういうことは現実にも起きているので、すぐに思い浮かべることができる。依然としてなくならないタックスヘイブンの問題や、企業のレントシーキングなど。
今話題のオリンピックなんかその代表だろう。東京オリンピックの招致委員会のマネーロンダリング問題も話題になった。実際、アタリも、オリンピックやFIFAのような機関は、超帝国、つまり民間が国家をガバナンス(統治)する良い見本だと書いている。

FIFAは、メディアがサッカーに注ぐ莫大な資金をすでに管理しているが、資金の管理体制が確立されているわけでもなく、またその使途についても不明瞭である。FIFAは選手の禁止薬物使用を管理するFIFA独自の検査機関をもっているが、これはFIFAの意のままである。世界の果ての極小サッカー・クラブまでが、FIFAが本部のあるスイスから発令する、ごくわずかなルールの変更にもしたがう義務がある。



この本によると、超帝国において支配的立場となる《サーカス・劇場型企業》になる資質を備えている娯楽産業として、ディズニーの名を挙げている。

デ・ィ・ズ・ニ・ー・の・レ・ン・ト・シ・ー・キ・ン・グ。

これでぼくが書きたかったことというのは大体おわった。

アメリカの著作権が、俗にミッキーマウス法と呼ばれていることが、だんだんおもしろくなってきた。
実際、以前にも書いた知財部門のニューヨーク州弁護士、福井健策もTPPの著作権条項の話をしながら「誰のための著作権か」といっている。

レムの描くふざけた未来は、すべての人々が、自由に生きることができ、全員が常になんらかの娯楽、芸術を体験しながら生活している。
映画版だと、ミラマウントという大企業が世界を制していて、長崎支社が画期的な発明をする。

アタリの予想においても、芸術家は《超ノマド》と呼ばれ、超帝国をぐいぐいひっぱっていく存在だ。

観客の感情は常にモニターされ、監視され、見世物の展開に組み込まれていく。無償行為は新たな消費をサポートするために利用される。自己監視は結局のところ、不安を解消するためのものだということを悟られないために、情報・ゲーム・娯楽で粉飾する。政治に置き換わるものとは、人気のないフリーの興行関係者である政治家が演じる純粋なパフォーマンス・ショーである。

著作権の問題は、こうした未来の市場のあり方を明確に反映している。

たとえば、前回の記事で書いた、先行優位性や補完物売り上げ、というもの。

楽曲はmp3で違法に出回り、誰もCDを買おうとしない。
しかし、mp3を違法に手に入れた人たちは、実際にお金を払ってアーティストのライブに足を運ぶし、その場でサインをしてくれたらCDだって買う。
これは、mp3とインターネットによって住所不確定となった芸術作品の台頭によって、芸術家がまずノマドにならなくちゃいけないということだ。
ぼくら音楽家は、ノマドなコンテンツをほとんど無料で提供するかわりに、実際に世界を旅しながら芸術活動をしていかなくてはならない。

こういったノマド化の先駆けとなるのがまずアーティストなので、アタリは《超ノマド》と区別した。
日本国が、モンサントなどの企業というよりは、無形で住所不確定なTPPという怪物によって脅かされているように、企業もまたノマド化して、そして国家を統治していくことになる。(いや、ぼくは実際、極度の経済音痴なので、盲目的に「TPPは悪だ!」と言いたいわけではないし、何も知らない。そう言えるくらい経済に明るくなりたいものだ)

オリンピックがいまも行われているみたい。

オリンピック(エンブレム)にしても、STAP細胞(コピペと特許)にしても、佐村河内さん(ゴーストライター)にしても、知的財産によって、だれかがスケープゴートされるようなニュースが頻発している。

こうしたことを考えながら、我々は9月10日の『macaroomの世界未来学会議』の準備を進めている。

この機会にぜひmacaroomのライブを観に来て、未来について考えていきましょう。
未来作品は、ほとんどがディストピアばっかりで気が滅入ってくるのだが、中にはふざけた愉快なものもある。
あまり絶望的になりすぎないように良い展示ができたらな、と考えているので、みなさん遊びにきてください。





『macaroomの世界未来学会議』
下北沢mona records

出演
ハイとローの気分
Jobonashi
loma
macaroom

OPEN:18:00 / START:18:30
前売:2,000円 / 当日:2,500円


そしてたまには、ぼくらmacaroomの音楽を紹介。



今日はボルドリン&レヴァインの著作からの引用は無し。


芸術格差を考える(第6回:macaroomの未来学会議)(ちょっと休憩) 芸術格差を考える(第6回:macaroomの未来学会議)(ちょっと休憩) Reviewed by asahi on 19:11 Rating: 5

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