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2014/08/22

小説を読むか読まないか

爆笑問題の太田光さんが、自身のラジオで、文学との出会いについて、思春期の読書遍歴について語っていた。それをきいていて、ぼくは、太田光とぼくの読書の遍歴はずいぶん違うんだなと再認識した。
太田さんが若い頃に出会い夢中になった島崎藤村や太宰治は、ぼくも大好きだ。しかし太田さんは島崎の作品をすべて読んでいるのに対してぼくは『破壊』しか読んだことないし、たぶん太田さんは太宰もすべて読んでいると思うんだけど、ぼくは何冊かしか読んだことがない。
今日、日本ではほとんどの人が本を読まなくなった。とはいってもみんなTwitterやFacebookには一日中かじりついているから、活字離れとはいえないけど、本に関していえば、90年代より減少していることは事実みたいだ。これは年齢はあまり関係なく、20代から50代まで、半数の人が全く本を読まない。最も読まれるのが新書で、小説でいえば最も読まれるのがミステリー、次いで歴史小説だ。
太宰治は毎年2万部売れるといういかがわしいデータもあるくらいだから、そこそこは読まれているのかもしれないけど、島崎藤村はもはや誰も読んでいないだろう。

ところで、先日『水曜日のダウンタウン』という番組をみた。そこではゆとり世代がいかに馬鹿かを立証するために、「逆高校生クイズ」が行われていた。つまり、誰が一番馬鹿かを競うクイズである。例によって、珍解答をする高校生をスタジオでみている芸能人たちが大爆笑するという悪趣味な内容だったのだが、そこで以下のような問題が出題された。

アメリカの首都はどこでしょう

それに見事に「ニューヨーク」と答えるギャルにスタジオは大爆笑。
しかしその後、チャラい男が「ワシントン」と答えると、司会者が「正解!」といって、スタジオも「おお~」ってな感じの雰囲気になって次の問題へとうつった。
スタジオの芸能人も、クイズの司会者も、番組の編集スタッフも、「ワシントンD.C.」と「ワシントン州」が全く別のものだということは知らなかったのだろうか。ぼくは番組をみながら、「馬鹿はお前らだ」と思った。
他の問題は「川端康成の作品で「国境の長いトンネルを抜けると○○だった」の○○に入るのは何か」というようなものがあり、アホな高校生たちが「栃木」などと答えていたが、スタジオにいて大爆笑するダウンタウンや陣内智則やサバンナの高橋は果たして川端康成の作品を読んだことがあるのだろうか。

先ほどの太田光さんの話に戻ると、僕がおよそ中学生くらいから本を読んできて衝撃を受けてきた作品というのは、全く傾向が違っている。これは考えてみれば当たり前のことなのだけど、とにかくそれをラジオをきいていて実感した。
たとえばぼくが若いころ衝撃をうけて読みあさった作家というのは、まず安部公房である。
この人は批評家のドナルド・キーンをもって「日本で唯一の前衛」といわしめたほど、文学の最先端をずっと走っていた人である。いわゆる「まともな」作品はほとんどない。その後も、ぼくがとくにはまってきた作家というのは、多かれ少なかれ、その当時の「前衛」や「実験」に近いものが多かった。ポール・オースターやウィリアム・バロウズやイタロ・カルヴィーノ、ウィリアム・フォークナーやトマス・ピンチョンらである。もちろん夏目漱石や三島由紀夫やサリンジャーやヘミングウェイを読めばとてつもなく感銘を受けたし、彼らの作品の読書体験はぼくの人生の中で素晴らしいものになったことは間違いないのだけれど、しかしなんというか、いわゆる「はまった」というのとは違うのだった。

と、ここまえで書いてみて、先にぼくが書いたことが正しいのならば、こんな長ったらしい文章はおそらく誰も読んでないだろうし、もし読んでいる人がいるとしたらよっぽどぼくという人に興味があるか、もしくは読むことに全く抵抗のない人だろう。だからそれ以外の大多数の人には全く響かないであろうけど、まあいいや。

もちろん小説家というのは常に新たなことを考え模索し戦っているので、多かれ少なかれ、それらはすべて「実験」であり「前衛」だろう。しかし世の中には「あからさまな前衛」というものがあって、簡単にいえば「わけのわからないもの」なのだけど、本当にわけがわからないというわけではなくて、一見するとわけがわからない、という感じの、そういう雰囲気を持った小説、という感じのことなのだ。
たとえば有名な作品を例にとると、作中人物がその作品自体を読んでいるというセルバンテスの『ドン・キホーテ』や、射精から始まる自伝でページが真っ黒に塗られた『トリスタラム・シャンディ』や、言葉遊び甚だしい『不思議の国のアリス』や、意識の流れをそのまま文章にしたプルーストやフォークナーやケルアック、何の教訓を感じ取れば良いのかわからないそして誰も来ない不条理すぎるカフカやベケット、文章をハサミで切ってつなぎ合わせたウィリアム・バロウズ『ソフトマシーン』、メタファーや引用が細かすぎてストーリーそっちのけのナブコフ『ロリータ』、普通の田舎ののほほんとした話なのに普通に人が空飛んだりするガルシア=マルケス、生物と無生物の間を空想科学で書いたサイバーパンク、博学で猥雑で荒唐無稽でストーリーぐちゃぐちゃだけどくそまじめなピンチョン、あり得たかもしれない複数の歴史をパラレルに同時に描くエリクソン『黒い時計の旅』、適当に言葉を並べただけのオートマティスム、全人類の歴史をひとつの家族に凝縮した多国語ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』、何も起こらない探偵小説であるオースターの『幽霊たち』、SFで自伝を書くヴォネガット『スローターハウス5』など、そういう作品に、なぜか特別に魅力を感じてきたように思う。

しかしそれはあたりまえのことで、人によってなんとなくの好みがあることは何の主張にも値しない周知のことだろう。

しかし今や本を誰も読まないので、そうした個人の好みは無視され、本を読むというだけで「読書家」と呼ばれ、どことなくまじめな印象を与えるのだ。ぼくは中学生の頃、学校で漫画を読むと先生に取り上げられるにも関わらず、授業中にいくら安部公房の小説を読んでいても取り上げられないことに甚だ怒り心頭であった。いや、テスト中に一度だけ取り上げられたことがあったが、すぐに返却してもらったし、全く怒られなかった。一方で『いちご100%』を読んでいた生徒は取り上げられて怒られたあげく結局返却してもらえなかった。『いちご100%』と安部公房の『密会』のどちらが中学生にとって教育上好ましくないもしくは不道徳もしくはエロいかと問われれば、どう考えても安部公房に違いないことは断言できるのだが。

アメトーークという番組で、『読書芸人』というのをやっていたが、全くもってこの状況を露呈している悲しい企画だった。なぜなら漫画やアニメでは『ガンダム芸人』や『エヴァ芸人』や『ジョジョ芸人』など、その作品を愛好する芸人たちが集まりその魅力を話し合う企画であったはずが、小説に限っては「読書芸人」という趣味もへったくれもないくくりなのだから。蓋を開けてみるとそれぞれの芸人が今まで触れてきた本には決定的に隔たりがあって、全く相容れない読書遍歴を持ち合わせているにも関わらず、まるで全員が同じ気持ちでわかりあってでもいるような嘘っぱちの演技で持って「読書は素晴らしい」ということを謳っていたのだ。
今や小説に関していえば、読書は「するかしないか」の二者以外にはありえなく、その中にある細々とした差異など誰も目もくれないのだ。

なのでぼくが今述べたような太田さんとぼくの違いなど、あってないようなものである。

2014/07/25

ビニール傘は所有できるのか?



無個性なビニール傘。安価で、壊れやすく、メーカーごとの区別もほとんどない。
匿名性……(安部公房ならきっとこう言っただろう)……誰のものでもないということは、同時に誰のものでもあり得ると。
傘の歌と言えば、井上陽水の『傘がない』……傘の問題とはつまり、所有の問題なのだ。(よく、記憶の偏りを指摘するための例として、肝心なときに傘がない、もしくは雨が降って傘を買うと雨がやむ、というものがある)

傘は年間一億以上の売上があり、95%が中国からの輸入品であり、7割がビニール傘らしい。
平成二十五年度の警視庁の遺失物取扱状況
によると、拾得物の第二位が傘だった。第一位は衣類。
しかし第一位の衣類は、遺失届が拾得の10%程度であるのに対して、傘は1%程度であった。
実際、取りにきた人は1%に満たなかったらしい。例えば第三位の証明書類は、拾得よりも遺失届の方が多かった。
つまり、傘は衣類に次いで最も忘れられ、最も誰も取りにこないものなのだ。

文化的にも、置き傘という言葉があるし、置き傘が化けたとされる「から傘お化け」という妖怪も知られている。傘がなくなり、なくなったこと自体どうでも良いと思うことは、もはや伝統なのである。

傘は置き忘れることも多いが、パクられることも多い。
もちろんこれは窃盗罪である。法律では10年以下の懲役または50万円以下の罰金。
しかし弁護士の東山俊によると、傘の窃盗は被害届を出しても証明が困難であり、かりに証明ができたとしても、被害額が少ないので逮捕する事も罰する事もないという。

気象情報会社ウェザーニューズの08年の調査によると、4割の人が家に3本以上のビニール傘があるという。

忘れられた傘は、処分される。
ビニール傘は分解が困難なため、土に埋め立てられる。
年間数千万本が埋め立てられているらしい。

最初の年間のビニール傘の売上に戻ると、年間数千万円の売上があることになる。
一本が何円の売上なのかはわからないが、年間数千万本が埋め立てられていることを考えると、驚異的であり、おそらく売上「本数」を超えているだろうと推測できる。

傘は最も忘れられ、最も処分され、パクったところで罰せられない。放っておけばお化けになる。

ぼくの見解としては、ビニール傘は、個人が所有できるものではない、というところ。
ビニール傘は、急に雨が降り出して、尚かつ近くにコンビニがなかったり、金銭的に困難な状況のときには、多いにパクって良いし、パクられても文句をいうべきではない、というのがぼくの意見。

傘はシェアするものだ、というのは「相合傘」という日本語にも現れている。
相合傘は、相思相愛の二人を表す言葉である。
互いを思い合う二人なら、その傘がどちらの所有物かなど関係はないし、一つあれば十分。

みんなよく、無個性なビニール傘がパクられるということを知っていて、パクられないように工夫しているひともいる。パクられないためのアイデアをまとめているサイトもみたことがある。
でも、みんなパクられたという経験は話にするけど、パクった経験については話したがらない。
傘をパクった経験くらい、みんなあるでしょう?




2014/04/11

個性的なコピペをしよう

ぼくと兄の間では、2014年は勝負の年ということになっている。具体的にどうという理由もないのだが、そういうことになっている。昨年末に二人で会議した結果、どうも2014年は勝負の年になるらしいな、という感じになったのだ。根拠なき自信に突き動かされているのは我々だけではない。友人のジョンは急な電話をしてきて、「2014年に何か良くなってきている気がしないか?」と言ってきた。
ぼくは「いや、実は2014年は勝負の年なのよ」というと、彼は「やっぱりそうか」と言った。理由を聞いても彼も根拠はないらしい。
彼の疑問はやがていいとものグランドフィナーレを観たことにより確信へと変わる。「2014年は歴史上最も豊かな年になる!」確かに、いいとものグランドフィナーレは、近年のテレビ史上最も豊作な番組だったといえる。ジョンは全く信じて疑わなかった。
emaruも同じだ。パチンコにいけば大当たり、競馬にいけばすべて的中、自販機でジュースを買っても当たり、会社の大喜利大会では優勝。
そして早くもぼくは中国武術の世界大会に出るという流れになってきている。突然の流れでそうなったことで、ぼくは金銭的なことや仕事のことなどを考えてどうするか迷っている。そんなぼくに兄は松田劉智の「男は金のことなど考えるな」という名言を引用することで説得を試みたが、まだぼくは不安だ。
勝負の年、というテーゼからみても、ここ最近のぼくのモットーである「軽さ」という観点からみても、世界大会に出場するべきだということは薄々勘付いている。しかしまだ迷っている。

ところで最近メディアの大きな関心の的となっている、STAP細胞についてのニュース。これについても友人ジョンは、急にスカイプで「ばかばかしいわ!」と、珍しく怒りに満ちたチャットを送ってきた。
彼が「ばかばかしいわ」と思うのも当然の話で、なぜなら大学時代の彼のレポート、小論文はひどかった。Wikipediaをそのままコピペして内部リンクの部分が青く表示されたまま印刷したり、何かのプリントの裏に印刷したり、彼女に書かせたり、やりたい放題であった。
一方のぼくはレポートや小論文でコピペをあからさまにすることはなかったが、この「ばかばかしい」という気持ちは同じであった。
この度の報道について、中部大学の武田邦彦教授が、日本とアメリカの論文の違いについてコメントしているのをみた。彼によると、日本は内容よりもその形式を重視し、アメリカではその逆に、英語がむちゃくちゃでも内容がよければ掲載される、というものだった。
このことはぼくも経験上すごく納得なのだ。ぼくは大学で作曲を先攻していたので、論文ではなく作品を提出する(卒業制作)のだったが、それにおいても如実に形式主義的な思い出がぶりかえしてきた。
ある日大学から電話がかかってきた。
「君が出した楽譜だけど、0点だから」と一言。
ぼくが提出した曲というのは、作曲したアンビエント曲で、音源(CD)と楽譜の二点である。そのうち、どうも楽譜がまずいらしかった。
とりあえず再提出ということらしい。
「楽譜がまずいのはわかったんですが、曲自体はどうでした?」と先生にきくと、
「曲はきいてないよ。楽譜がよくないから」
と、こういう返答であった。
ぼくは作曲の学科長を呼び出し、ぼくの楽譜が何がまずいかを問いただした。
ぼくの曲はアンビエント曲であり、楽譜には通常記符が不可能な環境音などがふんだんに入っているのだが、その中でも人の話し声のサンプリングの部分の記符が違うと指摘された。
ぼくは「10人くらいの人たちの話し声」というような説明を英語で書き、なんとなくメインとなっている周波数のあたりを五線譜上にぶぁーーっと黒く塗りつぶしていた。
「これじゃ、どんな音が鳴るのかがわからない。記符というのは、論理上、どんな音でも書くことができるのだ」と先生はいった。
「そうは言っても先生、人の話し声なんて完全に記符する意味ありますかね」
「完全でなくていい。とにかくどんな音が鳴るかわからなければならない」
「じゃいったいどうすりゃいいんです」
「がやがや、と書くのだ」
「がやがや?」
「そう、がやがや、だ」
「がやがや、ですか」
「そう、がやがや、だ」
ぼくはその場で楽譜の横に「がやがや」と書き、提出した。
驚くべきことに、それで合格したのだ。
以上の例は卒業制作ではなくて、2年生の終わりに提出しなければならなかった作品課題なのだが、こんな頭のおかしい形式主義は日常茶飯事だった。

ゴーストライターの問題にしろコピペの問題にしろ、人がいかに幻想をみているかということが露呈したニュースだったと思う。誰も曲を聴かず、誰も科学的発見を見ず、作者や書かれた形式にばかり注目する。

昨日、喫茶店でコーヒーとタバコをばかすか服用していたら、隣にすわっていた老紳士に話しかけられた。
「ちょっとあらぬことをお聞きしまずがね、コピペは、悪いことだと思いますか?」
「は?」
「いやね、最近話題になってるでしょ、例の……」
「STAP論文のやつですか」
「そう。どうもテレビでね、コピペがどうとかいうもんでねえ。コピペは悪いことですか?」
「いや、別に悪いこととは、思いませんがね……そんなには……もっとも、あまり見上げたものではないですが」
「ほう。では、見下げたものですか」
「いや見下げてもいないんですがね、まあ、なるべくなら自分の言葉で書かなければいけないんじゃないでしょうか」
「なぜ、自分の言葉じゃなければならないんでしょうか」
「いや、まあ、大人ですからね。自分の発言に責任を持つということが大事なわけで……」
「自分の発言に責任を持つ……何か、どこかできいたことがあるような言い回しですが、あなた、今、コピペしましたか?」
「いやそんなわけないでしょう。私は私が考えたことをそのまま言っただけです」
「しかし、それにしてはよく聴く台詞だ。自分の発言に責任を持つというのは……」
「そりゃ別に、特殊な言い回しではないですからね。確かに、よく聴く台詞ではありますよ」
「とすると、あなたは以前、似たような台詞をどこかできいたことがあるんですね?」
「まあ、どこかできいたことがあるような台詞ですね」
「とすればコピペですね」
「ある意味では、コピペかもしれません」
「であればその発言は却下します」
「は?」
「コピペされたものは却下されるんでしょう、この世界では」
「いやそりゃ論文のような責任が問われるような場ではそうですけど、こんなただの世間話で……」
「あなたさっき、大人なら自分の発言に責任を持つべきであるとおっしゃったではないですか」
「いやそうですけど……あれ、その発言は却下したのではないんですか?」
「いや、却下しますとはいいましたけど、もう聞いてしまってますからね。忘れることは不可能ですから」
「あなたさっきから何が言いたいんですか?」
「それが、わからないんですよ」
「は?」
「何か言いたいんですけど、言おうとすると、コピペになってしまう」
「どういうことですか」
「何を言おうとしても、ありきたりな言い方しかできないんですよ。どこかで聞いたことのある台詞が出てくるだけなんですよ。もっと、こう、オリジナリティのあることをいいたいんですがね」
「オリジナリティですか」
「はい」
「意味のわからないことを言ってみてはどうですか?」
「川走」
「ジェイムズ・ジョイスのコピペですね」
「俺セキュイン!」
「バロウズですね」
「ちっきしょー!」
「たぶん何かの芸人ですね」
「あの、思ったんですがね、コピペという言葉の反対は、オリジナリティでしょうか」
「まあ、そうともいえるかもしれませんね」
「コピペという言葉は、すでにコピペされてますね」
「そうともいえますね」
「つまり、コピペを使ってはいけない、というのであれば、そのコピペという言葉自体を、人それぞれがその都度、思いついた造語で言わなければならないんです。じゃないと矛盾してしまう」
「なるほど。たとえば、なんて言えばいいんです」
「使いまわし、とか」
「なるほど。据え置き、はどうでしょう」
「なかなか乙ですな。おふる、というのはどうでしょう」
「いいですね。ちょっと趣向をかえて、輪廻、というのはどうでしょう」
「さすがですな。こっちも負けてられませんぞ。リサイクル!」
「食物連鎖!」
「デジャ・ヴ!」
「シャトルラン!」
「永劫回帰!」
「再放送!」
「リバイバル!」
「フーガ!」
「ただいま!」
「おかえり!」

著作権を曖昧にさせるお騒がせなジャンルたちは、今でも著作権法と奇妙に共存しながら存続している。
写真や絵を切り貼りして作品をつくるコラージュ(ピカソ)、既にあるものをそのまま使って作品とするレディメイド(デュシャン)、他人の言葉をメタファーとして使用するアリュージョン(ジョイス)、文体を模倣するパスティーシュ(清水義典)、言葉を切り貼りするカットアップ(バロウズ)、映像を切り貼りするMAD(ニコニコ動画)、音を切り貼りするマッシュアップ(SoulWax)、模倣により別のメタファーを創作するパロディ、先行する作品への尊敬の意を込めた作品であるオマージュ、誰でも記事を書いて更新され続けるWikipedia、他人のレコードに重ねて歌うラップ音楽。現在のところ、奇妙なことに、これらのジャンルで活躍したアーティストや団体の作品は著作権の保護のもと、大きな金を生んでいる。ピカソは絵画においてコラージュを創始したが、彼の作品は莫大な金額で取引される。デュシャンの作品もそうだ。

以下コピペ

「それは何かの引用ですか?」と私は尋ねた。
「たしかに。もはや、われわれには引用しかないのです。言語は、引用のシステムにほかなりません。」
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』

いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべてもうひとつのテクストの吸収と変形になっていく
ジュリア・クリステヴァ

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である
ロラン・バルト

言語はウイルスだ
ウイリアム・バロウズ(セス・ゴーディンの「アイデアはウィルスだ」のパクり)

彼らがやろうとしているのは、今私達が持っているテープレコーダーとかコピー機とか、自由にコピーができるものを全部奪おうということだ。
彼らがやろうとしているのは私達の自由を奪おうということだ。だから私達はそれに対して自由を守らなければならないし、戦わなければならないだろう。
リチャード・ストールマン

以上コピペ。
参考文献:インターネット他

この度の論文コピペに関するぼくのまとめ。
コピペは、コピーしてペーストする、方法です。CTR+C→CTR+V
まずひとつめに、コピペをすること自体は、全然悪いことではない。どんな科学者でもコピペくらいするわ。
二つ目に、他人の文章をコピペをした場合、参考文献などの表記をする必要もない。当たり前で、参考文献の表記をすることによって、先行するテクストの正当性が認知されるというだけなので、それをするかしないかは自由。参考文献を載せた場合は「引用」に該当し、基本的には一字一句変えてはならない(というか変えたら意味がない)。
三つ目に、論文には、著作権はないので、引用のルールにのっとる必要はない。論文は事実を掲載するものであって、著作権法によって定義されている「感情」や「思想」を表現するものではないので、著作物ではない。論文によって発表されたものは、誰かが所有する「作品」ではなく、人類共通の財産である。誰でも使用が可能。芸術作品などの著作物に該当するものである場合のみ、無断で使用する場合に引用のルールを守らなければならない。
四つ目に、引用した場合の参考文献などの不遜によって、論文の信憑性が疑われることがある。
五つ目に、引用の不完全さによって信憑性が疑われたところで、別に悪いことではない。
六つ目に、論文では何をしようとも、世間にとやかく言われることではない。よく今回のニュースで、「会社であればすぐにクビ」とかいう人がいるけど、これは会社ではないし、論文は利権のためにやるものでもない。誰かが困るものでもない。
七つ目に、論文は形式などどうでもよく、内容が重要。コピペしようがしまいが、何が書かれてあるかが重要。そのことは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』において、批判的に論じられる。作品中にめちゃくちゃな形式を持った論文が全文掲載されてる。
八つ目に、そもそも著作権など滅んでしまった方が良い。すこぶる問題の種。理由は、まず思想として、次いで技術的に、定義が不可能だから。大前提で大文字の「作者」という存在が必要だが、そんなものは定義が不可能。






2014/03/10

「曲自体が良いことに変わりはない」という欺瞞

作曲家の詐欺の例のニュースに関連した一般人の意見を聞いていると、「作曲者が誰であれ、曲自体が良いということに変わりはない」というのをよくきいた。 しかしこの言葉は、全くの欺瞞である。なぜなら、話題となった作曲者の曲が「良い曲」であるという根拠などあるわけがなく、そもそも彼らの曲が有名になり、オリンピックにまで持ち込まれることになったきっかけというもの自体が、欺瞞に始まっているからである。具体的に言うと、
「全聾の作曲者」
「現代のベートヴェン」
 という言葉である。この二つのキーワードをよりどころにして、人々は感動し、「良い曲」であるという証明をしてきていたのだ。そうであるにも関わらず、作曲者が曖昧になった段階で、「誰が作ったものであれ、聞いたときの感動が失われるはずはない」という極めて根本的な原理に問題を還元してしまうことが、そもそもの欺瞞である。
たしかに、テクストにはテクスト以外存在しないはずである。 曲を聴くときには、誰がどんな過程で何の目的でどんな時代的背景で作ったかなど一切関係なく、「ただ曲だけ」を聴いて感動する、というのが批評の第一条件であった。
しかし、人々は幻想の中に生きている。 人々は海外でブランドのバッグを購入する際に、それが本物かコピーかということにこだわる。 美しいダイアモンドは、美しいから購入するのではなく、鑑定士のお墨付きの「本物」であるから購入する。 ウィスキーがうまいのは、それ自体がうまいのではなく、スコットランドのどこそこの島で蒸留され、あんな樽に入れて何年保存され、あの著名人も愛した一品だからうまいのだ。
 しかしその幻想がただの嘘にすぎなかったと知ってしまったら、人は自己反省し、今までの自分を否定するか肯定するかの瀬戸際にたたされるのだ。そして大概は、こういう結論にいきつくのだ。つまり——
「もともと、おいしいからおいしいと思ったのであり、どんな製造工程でつくられたかなど、はなから興味などなかった」と。
本当にそうだろうか?

2014/03/07

良いボーカル

良いボーカルってなんだろう。

みなさんは、お気に入りのボーカルや、こいつあすごい、というボーカルがいますか?
そのボーカルのどこがすごいでしょうか。
そのすごいところは、他のボーカルと比べて、どの程度の差があるでしょうか。
そのすごさは真似できるものでしょうか。
そのすごさは他のボーカルや機械的な技術などで代用可能なものでしょうか。
そのすごさを拡張、または縮小するとどうなるでしょうか。

以上の質問の中で、ボーカルの本質とは別の答え(例えば、そのボーカルの見た目、性格、生い立ちなど)をしてしまった人は、もう一度歌唱という範囲にだけ的を絞って考えた方が良いかもしれない。


ボーカルはちょうど俳優が監督や脚本家の決めた通りに演技するように、作詞家と作曲家に決められた通りに歌わなければならない。決してそれと違うことはしてはならず、仮にボーカルが作詞家のつくったものと違う歌詞を歌ったとしたら、それはボーカルが作詞家になったということだ。
しかし作詞家、作曲家の決めた範囲の中でも、ボーカルは常に言葉を選んでいる。つまり、ボーカルは常に《作詞》をしているのだ。しかしそれは通常の日本語の意味を変化させるような作詞ではなくて、音響的機能を変化させる作詞だ。
ボーカルは、たとえば、歌詞に「だ」と書いてあっても、[da]と発音する必要はない、ということだ。発音は無限に存在している。無限に存在する発音の中で、ボーカルは自分で最も良いものを選び取らなければならない。
そうした発音の取捨選択の中で重要なことは、取りも直さず、音素である。
音素とは、無限に存在する発音の中で、弁別的な機能を持った範囲の集合体である。
たとえば仮に、
[daisuki]と発音しようが
[taisuki]と発音しようが、
聞き手が「だいすき」と認識される場合、[d]も[t]も同じ/d/という音素の中に収まることになる。音素とは、意味として認識される音の境界線をさす。なので、
[maisuki]と発音して「まいすき」と聞き取られてしまった場合、[m]は/d/ではなく/m/という音素の中にある。
今あげた例は、発音記号として書ける程度のものだが、実際の発音は無限にある。表記できないものもある。しかしどんな発音をしようとも、それが歌詞に書かれてある言葉の音素の中に収まるのであれば、何も問題はない。
 「ん」という発音はそれを言うときの直前の言葉によって変化するので
[n, m, ŋ, ɴ, ã, ẽ, ĩ, õ, ɯ̃] とたくさんあるが、聞き手は(発話者も)全く意識することなく同じ「ん」であると認識している。これも前記のすべての発音が/n/というひとつの音素の中におさまっているということである。
話す際には、これらの中から自動的に選択されて発音されるのだが、歌うときには、やや自由度が高くなる。旋律の具合や音の長さによって発話とは全く勝手が違うので、ボーカルはこれを意識的に選択することができる。
しかし、記述できる範囲での発音だけでこれだけあるのに、ボーカルは一体どうやってこれらの中から最も最適な発音を選び取って歌うことが出来るのだろうか。
ボーカルは、もともと自分の歌うべき発音を心得ている。それはその人それぞれ違うが、自分が最も好みな、あるいは最も歌いやすい、発音というものを無意識的に実践しているのだ。それらはリスナーに到達される段階で、無限にある発音がすべて音素という弁別機能によって統一されてしまうが、音響的な機能が損なわれるわけではない。リスナーは同じ歌を歌っている別の歌手の発音をきいて、なんだかよくわからないが、それぞれに違ったオリジナリティを感じ取るのだ。そこに、作詞家が手の入れようがない到達不可能なボーカルの作詞があるのだ。
それらは、容易に真似することはできない。よっぽど音響に敏感なものでなければ、あらゆるボーカルの発音を真似することなど到底出来ない。
音声詞学では、これを《スティル》と呼ぶが、ボーカルの真の「オリジナリティ」というものは、ここにつきる。もともと作詞家が作った歌詞によっては、このスティルが発揮されない、もしくは別のスティルが生まれてしまう。例えば普段関西弁を喋る人が標準語の歌詞を歌った場合のイントネーションの変化などが、スティルを封じ込める可能性はある。つまり、作詞の段階である程度のスティルの可能性は決定され得るのだ。
ボーカルの特徴は、他のボーカルとの差異によって認めることができる。あるボーカルの良さについてそのファンたちに聞いてみても、「他のボーカルにはない○○が良い」と言うだろう。しかしその○○とはなんだろうか。

アイドルグループのスティル

AKB48のように大勢が一斉に歌う場合、ミックスの段階で一人のボーカルにフォーカスが絞られるばあいが多い。
例えば「恋するフォーチュンクッー」でも、一人のボーカルがセンターを陣取り、その他の声がコーラス的にまわりに並んでいる。たぶん映像でもセンターを飾っている指原莉乃さんの声だろう。指原さんのスティルはその他大勢の声とともにミックスされ、かなり一般化されるが、失われてはいない。もしミックスの段階で均等な音量やPANの振り分けをしていたら、合唱コンクールのようなかなり一般化されたスティルになってしまうだろう。
たぶんAKB48のファンなら、センターで歌うボーカルの声が瞬時にわかるだろう。ぼくは全くわからない。これは、大勢が歌うことによって若干の一般化されたスティルという理由もあるが、それ以上にボーカルのエクリチュールの問題が大きいかもしれない。
エクリチュールはスティルのようなきわめてパーソナルな偏りとは違い、共同体ごとに定義される歌い方だ。
AKB48という共同体の中では、AKB48らしい歌い方や発音が存在する。それがAKB48のエクリチュールだ。
ぼくはAKB48の曲をほとんどしらないのでこの共同体のエクリチュールについては言及する資格がないのだが、この曲に的を絞ってみると、単語内の連続する母音の間の無音がやや長い長いように思う。
「おお」と母音が重なる場合の二つの「お」間の無音の時間の長さ、だ。
しかしこうしたことは通常は聞いていても意識されることはない。ただなんとなく、ファン以外の人たちからしてみれば「AKBってみんな同じような歌いたしてんな」と思うだけである。それは当然のことで、ラッパーはみんな同じ歌い方をするし、ギャルはみんな声が枯れてるし、髪をサイドだけ刈り上げるオカマみたいな男はみんなインテリアに興味を持っている。これは当然のことだ。
エクリチュールは一旦決まってしまうと、そこから抜け出すのは至難の業だ。アイドルグループをやめてソロデビューしたボーカルが、曲調はがらりとかわっても発音や発声がグループ時代のそれとなんら変わりないものになってしまうのはそういうことだ。
しかしスティルは共同体によって変化することはない。繊細な洞察力でソロデビューをしたアイドルの歌を聴いてみれば、だれしもそのオリジナリティに気づくことができるだろう。
すでに述べたが、歌唱におけるスティルは、発話におけるそれとは違い、ある程度は選ぶことが可能だ。だから、曲によってスティルは変化する、と考えた方が良い。個人的な偏りである発音その他のスティルは、しかしながらそのボーカルのオリジナリティそのものである。それは他のボーカルと区別されて初めて認識される。
これはつまり、結局のところ、ボーカルがオリジナリティを獲得し、リスナーに認知されるには、そのボーカルの人格そのものに関わってくるということだ。
ぼくはカラオケに行って椎名林檎そっくりな歌い方で歌う女の子をみると、ほとんど人格障害の疑いを持ってしまう。それは他人のスティルを高度な洞察力でもって真似するモノマネとは違い、他人のスティルが自分のスティルだと信じてしまっている、もしくはそう思い込みたい人格障害の兆候をぼくが受け取ってしまうからだと思う。
しかしノーマ・ジーンがマリリン・モンローという人格になりきったように、ボーカルとして別のスティルになりきることは悪いことではない。それは、良いボーカル、悪いボーカルという区別とは何も関係ないこと。
しかしどうしたって、それはその人のスティルとしてリスナーに伝わってしまう。それは作詞家には到達不可能な領域の作詞だ。それがその他大勢のそれと比較され、ひとつのオリジナリティとして認識されるとき、そのボーカルの価値が露になるのだ。

最初の質問に戻って、そのボーカルのスティルを再確認することができる。具体的には、例えば初音ミクのようなボーカルと比べたときに、あなたのお気に入りのボーカルが歌唱の範囲内だけでどのように違い、どのような特徴を持っているか、ということ。


2014/02/13

道路について

ケルアックが路上を指差したときには、不満や不安がそこらじゅうにころがっていた
ウイリアム・バロウズ

道路について書きたい。

秋葉原駅を電気街方面に出ると、ちょっとしたロータリーがある。そこでタバコを吸っていると、なんだかよくわからんおじさんにやや強い口調で「ここは通路ですので、禁煙です」といわれる。通路だから禁煙だというのも意味不明だが、とりあえずここは禁煙なのだ。周りには喫煙を禁止する立て札がいくつもたっている。それに加えて千代田区は全域で路上喫煙が禁止なのだ。なんでも、2000円の罰金が発生するらしい。つまり、そんな場所でタバコを吸うぼくとなんだかよくわからんおじさんとでは、完全に後者が正しいわけだ。
しかしぼくはここで多くの人がタバコを吸っているのを知っている。現にぼくの周りで何人もタバコを吸っている。
この「通路」は、すぐ横にエクセルシオールというカフェがある。以前そこに入ったとき、「タバコ吸えますか?」ときいたら、「店内全席禁煙です。外でお吸いください」と言って灰皿を渡された。なのでぼくは外でタバコを吸いながらコーヒーを飲んでいると、通りすがりのサラリーマンやなんかが、すぐ横でタバコを吸いはじめ、ぼくの灰皿にタバコを押し付けて去っていった。
その時とは打って変わって、この度、喫煙を注意されたぼくは、コーヒーも灰皿も持っていない。しかし周りでコーヒー片手にタバコを吸う人は誰も喫煙を注意されたりはしない。
つまり、ここにコーヒー代という賄賂が成立しているのだ。コーヒー代さえ払えば、同じ場所でも堂々とタバコを吸える。
なぜか。
それは、どんな通路にもその管理者がいるからだ。ぼくが喫煙を注意された通路は、一見すると千代田区のものだが、実際はエクセルシオールというカフェが実権を持っているのだ。エクセルシオールに金を渡せば、千代田区は黙る。賄賂を渡した証明書がコーヒーというわけだ。

ぼくは毎朝丸ノ内線で御茶ノ水駅まで行き、そこから秋葉原方面へ歩いて行く。つまり、とりあえず今のところ、ぼくにとっての道路の問題は、千代田区から始まることになる。

まずはその御茶ノ水駅から歩いてみたい。右手に神田川を見下ろしながら、緩やかな坂を下ってゆく。するとすぐにアーチ上の大きなコンクリートが目の前に大股を開いて待ち構えるのに出くわすことになる。聖橋という厳かな名前を持ったその橋は、下をくぐってゆくと、ホームレスが必ず寝ている。
しかし、ホームレスたちが寝る橋の壁の部分には、一メートルおきくらいに立て札がかかっている。
この通路において、物品 の埵積及び寝泊まりを禁止する。 
東京都第六建設事務所
この全く機能していない言葉は何を意味しているのだろうか。それは、秋葉原のエクセルシオールと同じ、道路の管理者の問題だ。
ホームレスたちは、千代田区の警察が千代田区の道路にしか現れないことを知っている。つまり、東京都が管理する道路には、誰も注意する人が現れないのだ。東京都建設局の看板は、あたかもホームレスたちに住むことを禁止させるようにみえるが、ホームレスたちはその逆に、この看板があるからこそここに寝泊まりするのだ。
とはいえ、彼らがここに寝泊まりしているのが、完全に自由なことかどうかはわからない。ここは道路であり、彼らが所有する土地ではないからだ。

そこで、そもそも道路とは何か、ということが気になってくる。おそらく法的にある程度は解決できるものかもしれない。道路法、道路交通法、建築基準法、などなど。
そして最近、その答えのヒントになってくれるものに出会った。
高村光太郎の『道程』である。
学校の教科書に載っていたのだが、これは少し違う。
初出の時のものらしく、少し長い。
そして、どうして後に大幅に削って出版したのかと思ってしまうほど、衝撃的に名作だ。


道程

どこかに通じている大道を僕は歩いているのじゃない

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立っている
何という曲がりくねり
迷い まよった道だろう
自堕落に消え 滅びかけたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
幼い苦悩に もみつぶされたあの道
ふり返ってみると
自分の道は 戦慄に値する
支離滅裂な
また むざんなこの光景を見て
誰がこれを
生命の道と信ずるだろう
それだのに
やっぱり これが生命に導く道だった
そして僕は ここまで来てしまった
このさんたんたる自分の道を見て
僕は 自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命の意味を はっきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては 目をはじき
もう此処と思うところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切ったありがたさを 僕はしみじみと思った
どんな時にも 自然の手を離さなかった僕は
とうとう自分をつかまえたのだ
丁度そのとき 事態は一変した
にわかに眼前にあるものは 光を放射し
空も地面も 沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして 僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そしてその気魄が 宇宙に充ちみちた
驚いている僕の魂は
いきなり「歩け」という声につらぬかれた
僕は 武者ぶるいをした
僕は 子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなった
そして 僕はもう たよる手が無くなった
無意識に たよっていた手が無くなった
ただ この宇宙に充ちている父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕は はじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は 心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足は ひとりでに動き出した
不思議に僕は ある自憑の境を得た
僕は どう行こうとも思わない
どの道をとろうとも思わない
僕の前には広漠とした 岩疊な一面の風景がひろがっている
その間に花が咲き 水が流れている
石があり 絶壁がある
それがみないきいきとしている
僕はただ あの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし 四方は気味の悪いほど静かだ
恐ろしい世界の果てへ 行ってしまうのかと思うときもある
寂しさは つんぼのように苦しいものだ
僕は その時また父にいのる
父はその風景の間に わずかながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を 僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に 僕はふるえ立つ
声をあげて祝福を伝える
そして あの永遠の地平線を前にして 胸のすくほど深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従って
四方の風景は その部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に 小さい人間のうじゃうじゃ はいまわって居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類というものの一部分だ
しかし人類は 無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は 鮭の卵だ
千萬人の中で百人も残れば
人類は永遠に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類のため 人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものは みな腐る
僕はいまのところ 彼等にかまっていられない
もっと この風景に養われ 育まれて
自分を自分らしく 伸ばさねばならぬ
子供は 父のいつくしみに報いた気を 燃やしているのだ
ああ
人類の道程は遠い
そしてその大道はない
自然の子供等が 全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出てきても 乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に 踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため

ややテーマは壮大だが、ぼくにはこれが、純粋な「道」の考え方であるように思える。獣道、というものにしろ、そこは通らなければならない何かがあるのだ。獲物を追うため、天敵から逃れるため、水場に行き着くため、様々な理由があって、通らなければならないということになる。その思いと行動の結果として、道というものが自然に出来る。
しかし道路はどうだろう。ぼくは道路が「ここを通らなければならない」という思いと行動の結果であるようには思わない。それどころか全く逆だろう。
道路は、まず最初に作られる。そしてぼくたちは、「そこを歩け」と言われる。
その極端な形が鉄道だ。
目的よりも先に鉄道が敷かれ、そこを通らざるを得なくなる。その後、それぞれの目的が決まる。
だから鉄道は獣道とは逆に、全員が同じ道を通るが、目的はバラバラである。
通勤する人もいれば、自殺する人もいる。

お茶の水の道路に突如現れる千代田区ではない道路ーー聖橋の下の道路。ここにある、ホームレスたちに警告する看板を出している東京都建設局とは何か。
関東大震災や東京大空襲からの復興に重要な役割を担ってきた局である。戦後すぐに自動車の普及を見越して放射状・環状の道路を骨格とした道路網を計画しているものの、いまだ完成には至っていない。 
wikipedia 
日本の道路は、少なくとも法的に機能しているものとしては、戦後に形作られた。GHQの旧道路法の解体、田中角栄議員らの議員立法。
田中角栄が初当選した1947年、GHQは内務省を廃止し、建設省をつくった。
1949年、国道と都道府県道あわせて13万1923キロメートルのうち、舗装されているものは2.1%だった。
そこで、道路特定財源というものが確保されることになる。
揮発油税を、道路にまわす、ということだ。
道路整備費の財源等に関する臨時措置法
この法は、今も名前と形を変えて生き残っている。
田中角栄は高速道路の父と呼ばれる。
彼は東京の家から、新潟の実家まで二回ハンドルをきれば帰ることができるらしい。
戦後GHQの引き上げ以降、日本復興のために形作られた道路周辺の様々な法律は、根本的には今も変わっていない。
ぼくは、日本が未だに復興を続けていると思っている。東京都建設局の計画は未だ完成していない。
バイパスのおかげで全国どこでも、都心まで数時間でいくことができるようになった。これによって、全国の至る所に都会が出来て、日本中が発展するという目論見だった。しかし結果はどうだろう。バイパスに吸収された地方は完全に過疎化し、ドーナツ化現象が起き、東京はますます人が増え、地方はますます人がいなくなる。これは鉄道にも同じことがいえるだろう。副都心線が埼玉を活性化させるだろうか。それは甚だ疑問だ。

連中はぼくらを車からおろして胸をなで下ろした。ぼくらの疲れたスーツケースがまたも歩道に積み重ねられた。前途は遠かった。しかしそんなことはどうでもよい。道路が人生なのだから。  
ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』

都会 ━━━ 閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。だから君は、道を見失っても、迷うことはできないのだ。

今日から少しずつ道路について考えていこうと思う。その理由はよくわからないのだが、とにかくぼくは毎日道路の上を歩く。毎日。だから道路のことについて少し考えてみてもよかろう。






2014/01/14

喪中につき。



昔から、ぼくは小さな空想のテンプレートみたいなものがいくつかあって、というか子供なら誰しも自分だけの空想を持っているかもしれない、そして度々、今でもこの空想がハッとフラッシュバックしてくることがある。本当にジャンキーのように突然空想の世界に引きずり込まれる。
そのテンプレートというのが、自分が巨人になる、というものだ。家や電信柱は実際は自分より背が高いのだが、これを見下ろしながら歩いているような感覚になる。大抵は普通の住宅街なんかを歩いている時に発作的に起こるのだが、これがなんとも気持ちが良いような悪いような感じなのだ。
そしてそれは必ず、アスファルトの上で起こる。
確かに、この国の道路は巨人が歩くために作られているのかもしれない。広く長い道路はどこまでも続く。日本が世界でもとりわけ道路だらけであるというのを知ったのは大人になってからだが、それにしてもこの国は道路がいたるところにある。安部公房はこの国の道路について、『燃えつきた地図』でこう切り出した。

都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。

日本の可住面積あたりの高速道路の距離は、カナダのそれと比べると20倍もあり、アメリカと比べても6倍である。面積当たりの公共事業費ではアメリカの二十五倍に及ぶ。

そしてぼくは、巨人になって巨人仕様の道路を歩いていると、アスファルトの下に地球があるという当たり前のことに気づくのだ。しかしアスファルトの下にあるのはただの土ではない。ぼくの考えでは、江戸時代の街道が建設され始めたあたりから、道路の下には常に隠さなければならないものが埋められるようになった。今でもそれが(当時よりずっと加速して)続いている。それは、少女の死体だ。

ぼくは普段、このブログをiPhoneで書いている。
そしてぼくは最近、iPhoneの組み立てを行う中国のFOXCONN工場で、過酷な労働条件で働く若い女性の自殺問題が解決していないことを知った。
大好きなチョコレートもそうだ。カカオ豆の原産国で、過酷な労働に子供がかり出されている。バレンタインデーを控えてフェアトレードのチョコを贈るという運動を耳にするようになった。チョコだけじゃない。流行したファストファッションや毎日飲むコーヒーも。
若者の過酷な労働者は、日本も負けてはいない。二十代の死因の半数が自殺という国だ。東京では毎朝、人身事故の影響で電車が止まるが、それによって乗客は悲しみよりは憤りを覚え、電車がホームに着いた途端ダッシュだ。「電車に飛び込み自殺したら、遺族に一億の請求がいく。だから電車自殺はアホだ」というのを聞いたことがあるが、こういうことを言う人たちは、決定的に想像力が足りないか、喪に服す心を持ち合わせていないかのどちらかだろう。まさに通勤中に、(無計画に)そのまま地獄へ飛び降りてしまうような状況と、その現場に遭遇した人がそれでもなんとか路線を変えて会社に向かおうとする意識、もしくはそうしなければならない社会、がまずは異常だと思わなければならないのに。
日本はどこを歩いても綺麗に舗装された道路が続いているから気がつかないが、ひとたびアスファルトをひっぺがせば、そこら中に少女の死体が埋まっているのだ。iPhoneを買い、チョコを食べ、死体の上にアスファルトを敷いてその上を歩いてゆく。

何のために働くか、など考えていても埒が明かない。多くの人は、自分の労働に生きがいを感じるほどの余裕はない。結婚生活にしろ、労働にしろ、ぞっとするのは「これが永遠に続くのではないか」と感じる時だ。
だから、ぼくは喪に服すことにした。社会に取り込まれ死んでいった少女たちの喪に服すために。
ぼくは自分の生活環境が今のところ最悪ではないことを知っている。いつ頓死するか牢屋にぶち込まれるか通り魔に合うか家を失うかもわからないが、今は最悪というには程遠い。だから働かなくてはならない。生きようと試みたが諦めざるを得なかった労働者たちや、アスファルトの下に無数に埋められた少女たちの喪に服すために。


2014/01/09

口先だけで億万長者になる方法



ぼくはもはや口論というものを恐れなくなった。もしかしたら勘違いしている人もいるかもしれないが、口論というのは、口論それ自体の強さ弱さだけで決着がつくスポーツだ。口論の勝ち負けに、議題に関わる分野への知識の深さはもちろん、どちらが悪いかやどちらが立場が上かなど関係ない。法律などもっての他だ。どんな状況においても、口論に勝利する方法はある。そういう意味で、口論は紳士的なスポーツだ。
ぼくは高校生のころによく、先生と口論になった。ぼくはいかにふざけて学校生活を送るかばかりを考えていたから、教師という弊害は大きな摩擦であった。毎年命日に墓参りをするほど高杉晋作に憧れていたから、おもしろきこともなき世をおもしろくすることを常に考えていた。しかし学校の先生と口論になるときに、必ず関わってくる問題があった。それは校則違反、法律違反、であった。教師はその学校の校則をよく知っているが、ぼくはほとんど知らない。教師は法律を(まあ常識的には)知っていた(ように見える)がぼくはほとんどしらない。口論の時に教師から校則や法律のことを持ち出されては、もはやぼくに勝ち目はないように思えた。
そこでぼくはまず、校則をじっくり読み込むことにした。生徒手帳を読破することは、六法全書を読み込むよりは簡単に思えたからだ。ぼくは、ぼくの金髪に染めた美しい長い髪が、果たして校則違反なのかを調べ始めた。そしてすぐにぼくの金髪は校則違反ではないことがわかった。
しかし問題は山積みであった。ひとつの問題を解決するために、またひとつ、またひとつと問題が出てきて、それらがすべて校則違反、法律違反でないかを調べなければならなかった。それは日々更新されてゆく問題なので、とてもいちいち生徒手帳や六法全書を読み込んでいるのではスピードが追いつかなかった。
そもそもほとんどの人は、日常生活において法律違反とそうでないものとの区別を法学的に説明できるわけがないのだ。もしできる人がいたら、それはもう法学者だろう。
そこでぼくは父親に相談をした。教師と毎日口論をしているが、うまく勝つ方法はないか、と。そのころのぼくは、文字通り毎日、生徒指導室に呼び出されていたのだ。
父親は、すぐさま適切なアドバイスをぼくにくれた。何を隠そう、父親も学校の教師であった。
父親がぼくにしてくれたアドバイスは、まず、教師はだいたい馬鹿だ、ということだった。それはぼくも薄々は感づいていた。そして父親はぼくに具体的な口論のテクニックを教えてくれた。それは「オウム返し」というものだった。この技は簡単で、相手が言ったことを反復するというだけであった。
「それは校則違反だ」と言われたら
「これは校則違反なんですね?」と言えばいい。
これは議論により正確さを期待して相手にプレッシャーを与えるという効果がある。人はすべての言葉に責任を持って論理的に正確なことだけを言っているわけではないので、聞き返されると不安になるのだ。
ぼくはこの単純な方法をひとまず実践してみた。
効果は思った以上で、ほとんどの口論において負けたと感じることは少なくなった。
口論に勝利するようになってから、ぼくは完全に勘違いしていたことを悟った。
それは、口論の勝敗は決して知識量に左右されない、ということだった。

では口論において必要なことは何なのか。

ぼくはそれを究めるために高校三年間修行をした。

口論において必要なことは、たったひとつだ。相手の(極小の)ツボを優しく刺激してあげるだけでいい。それもほんの一突きだ。
その極小のツボというものを、ぼくたちは《オカマ》と呼んでいる。ここでオカマの説明をするのは大変なので、簡単にいえば、相手の「ごまかし」や「コンプレックス」だと思ってもらうとわかりやすいだろう。
ぼくが高校生のときに父親から教わった「オウム返し」は、誰でもできる簡単な方法だが、あなどってはいけない。口論はオウム返しに始まり、オウム返しに終わる。修練をつめばつむほど、オウム返しの奥の深さがわかってくる。すべての口論はオウム返しの応用に過ぎない。
口論に確実に勝利する方法は、単純だ。
まず、相手の発言にオカマが現れるのをじっくり待つ。チーターのように執念深く。重要なのは、決して感情的にならないことだ。感情の起伏はオカマを呼び寄せる。
そして、一突き。
突く方法はもうみなさんご存知だろう。そう、「オウム返し」だ。

オウム返しの応用、そしてオカマについての説明は今は省くが、とりあえずこれだけ頭の中にいれておいてもらいたい。

あなたも、確実に口論に勝つことができる。知識量では太刀打ちできない上司や先輩、商品のクレームや商談、スピード違反で捕まったときや浮気がばれたとき……あらゆる場面であなたは相手をけちょんけちょんにし、心をへし折り、夢も希望も奪い去り、辱め、羞恥心と劣等感と絶望で苦しめあげた挙句、再起不能にさせることができるのだ。
今日からあなたは口論のヒクソン・グレイシーだ。言葉の李書文だ。べしゃりの羽生さんだ!





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木石岳(キイシ・ガク)
ハーバード大学、イエール大学、カーネギーメロン大学など数々の名門校を未受験。世界中の起業に口論をふっかけて渡り歩くことから「面倒な男」の異名がある。2012年にニューヨーク・タイムズが選ぶ『マン・オブ・ザ・イヤー』において一位に選ばれた唯一の日本人の名誉を惜しくも逃す。日本のみならず世界からいまだその名は知られていない。