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2014/03/07

良いボーカル

良いボーカルってなんだろう。

みなさんは、お気に入りのボーカルや、こいつあすごい、というボーカルがいますか?
そのボーカルのどこがすごいでしょうか。
そのすごいところは、他のボーカルと比べて、どの程度の差があるでしょうか。
そのすごさは真似できるものでしょうか。
そのすごさは他のボーカルや機械的な技術などで代用可能なものでしょうか。
そのすごさを拡張、または縮小するとどうなるでしょうか。

以上の質問の中で、ボーカルの本質とは別の答え(例えば、そのボーカルの見た目、性格、生い立ちなど)をしてしまった人は、もう一度歌唱という範囲にだけ的を絞って考えた方が良いかもしれない。


ボーカルはちょうど俳優が監督や脚本家の決めた通りに演技するように、作詞家と作曲家に決められた通りに歌わなければならない。決してそれと違うことはしてはならず、仮にボーカルが作詞家のつくったものと違う歌詞を歌ったとしたら、それはボーカルが作詞家になったということだ。
しかし作詞家、作曲家の決めた範囲の中でも、ボーカルは常に言葉を選んでいる。つまり、ボーカルは常に《作詞》をしているのだ。しかしそれは通常の日本語の意味を変化させるような作詞ではなくて、音響的機能を変化させる作詞だ。
ボーカルは、たとえば、歌詞に「だ」と書いてあっても、[da]と発音する必要はない、ということだ。発音は無限に存在している。無限に存在する発音の中で、ボーカルは自分で最も良いものを選び取らなければならない。
そうした発音の取捨選択の中で重要なことは、取りも直さず、音素である。
音素とは、無限に存在する発音の中で、弁別的な機能を持った範囲の集合体である。
たとえば仮に、
[daisuki]と発音しようが
[taisuki]と発音しようが、
聞き手が「だいすき」と認識される場合、[d]も[t]も同じ/d/という音素の中に収まることになる。音素とは、意味として認識される音の境界線をさす。なので、
[maisuki]と発音して「まいすき」と聞き取られてしまった場合、[m]は/d/ではなく/m/という音素の中にある。
今あげた例は、発音記号として書ける程度のものだが、実際の発音は無限にある。表記できないものもある。しかしどんな発音をしようとも、それが歌詞に書かれてある言葉の音素の中に収まるのであれば、何も問題はない。
 「ん」という発音はそれを言うときの直前の言葉によって変化するので
[n, m, ŋ, ɴ, ã, ẽ, ĩ, õ, ɯ̃] とたくさんあるが、聞き手は(発話者も)全く意識することなく同じ「ん」であると認識している。これも前記のすべての発音が/n/というひとつの音素の中におさまっているということである。
話す際には、これらの中から自動的に選択されて発音されるのだが、歌うときには、やや自由度が高くなる。旋律の具合や音の長さによって発話とは全く勝手が違うので、ボーカルはこれを意識的に選択することができる。
しかし、記述できる範囲での発音だけでこれだけあるのに、ボーカルは一体どうやってこれらの中から最も最適な発音を選び取って歌うことが出来るのだろうか。
ボーカルは、もともと自分の歌うべき発音を心得ている。それはその人それぞれ違うが、自分が最も好みな、あるいは最も歌いやすい、発音というものを無意識的に実践しているのだ。それらはリスナーに到達される段階で、無限にある発音がすべて音素という弁別機能によって統一されてしまうが、音響的な機能が損なわれるわけではない。リスナーは同じ歌を歌っている別の歌手の発音をきいて、なんだかよくわからないが、それぞれに違ったオリジナリティを感じ取るのだ。そこに、作詞家が手の入れようがない到達不可能なボーカルの作詞があるのだ。
それらは、容易に真似することはできない。よっぽど音響に敏感なものでなければ、あらゆるボーカルの発音を真似することなど到底出来ない。
音声詞学では、これを《スティル》と呼ぶが、ボーカルの真の「オリジナリティ」というものは、ここにつきる。もともと作詞家が作った歌詞によっては、このスティルが発揮されない、もしくは別のスティルが生まれてしまう。例えば普段関西弁を喋る人が標準語の歌詞を歌った場合のイントネーションの変化などが、スティルを封じ込める可能性はある。つまり、作詞の段階である程度のスティルの可能性は決定され得るのだ。
ボーカルの特徴は、他のボーカルとの差異によって認めることができる。あるボーカルの良さについてそのファンたちに聞いてみても、「他のボーカルにはない○○が良い」と言うだろう。しかしその○○とはなんだろうか。

アイドルグループのスティル

AKB48のように大勢が一斉に歌う場合、ミックスの段階で一人のボーカルにフォーカスが絞られるばあいが多い。
例えば「恋するフォーチュンクッー」でも、一人のボーカルがセンターを陣取り、その他の声がコーラス的にまわりに並んでいる。たぶん映像でもセンターを飾っている指原莉乃さんの声だろう。指原さんのスティルはその他大勢の声とともにミックスされ、かなり一般化されるが、失われてはいない。もしミックスの段階で均等な音量やPANの振り分けをしていたら、合唱コンクールのようなかなり一般化されたスティルになってしまうだろう。
たぶんAKB48のファンなら、センターで歌うボーカルの声が瞬時にわかるだろう。ぼくは全くわからない。これは、大勢が歌うことによって若干の一般化されたスティルという理由もあるが、それ以上にボーカルのエクリチュールの問題が大きいかもしれない。
エクリチュールはスティルのようなきわめてパーソナルな偏りとは違い、共同体ごとに定義される歌い方だ。
AKB48という共同体の中では、AKB48らしい歌い方や発音が存在する。それがAKB48のエクリチュールだ。
ぼくはAKB48の曲をほとんどしらないのでこの共同体のエクリチュールについては言及する資格がないのだが、この曲に的を絞ってみると、単語内の連続する母音の間の無音がやや長い長いように思う。
「おお」と母音が重なる場合の二つの「お」間の無音の時間の長さ、だ。
しかしこうしたことは通常は聞いていても意識されることはない。ただなんとなく、ファン以外の人たちからしてみれば「AKBってみんな同じような歌いたしてんな」と思うだけである。それは当然のことで、ラッパーはみんな同じ歌い方をするし、ギャルはみんな声が枯れてるし、髪をサイドだけ刈り上げるオカマみたいな男はみんなインテリアに興味を持っている。これは当然のことだ。
エクリチュールは一旦決まってしまうと、そこから抜け出すのは至難の業だ。アイドルグループをやめてソロデビューしたボーカルが、曲調はがらりとかわっても発音や発声がグループ時代のそれとなんら変わりないものになってしまうのはそういうことだ。
しかしスティルは共同体によって変化することはない。繊細な洞察力でソロデビューをしたアイドルの歌を聴いてみれば、だれしもそのオリジナリティに気づくことができるだろう。
すでに述べたが、歌唱におけるスティルは、発話におけるそれとは違い、ある程度は選ぶことが可能だ。だから、曲によってスティルは変化する、と考えた方が良い。個人的な偏りである発音その他のスティルは、しかしながらそのボーカルのオリジナリティそのものである。それは他のボーカルと区別されて初めて認識される。
これはつまり、結局のところ、ボーカルがオリジナリティを獲得し、リスナーに認知されるには、そのボーカルの人格そのものに関わってくるということだ。
ぼくはカラオケに行って椎名林檎そっくりな歌い方で歌う女の子をみると、ほとんど人格障害の疑いを持ってしまう。それは他人のスティルを高度な洞察力でもって真似するモノマネとは違い、他人のスティルが自分のスティルだと信じてしまっている、もしくはそう思い込みたい人格障害の兆候をぼくが受け取ってしまうからだと思う。
しかしノーマ・ジーンがマリリン・モンローという人格になりきったように、ボーカルとして別のスティルになりきることは悪いことではない。それは、良いボーカル、悪いボーカルという区別とは何も関係ないこと。
しかしどうしたって、それはその人のスティルとしてリスナーに伝わってしまう。それは作詞家には到達不可能な領域の作詞だ。それがその他大勢のそれと比較され、ひとつのオリジナリティとして認識されるとき、そのボーカルの価値が露になるのだ。

最初の質問に戻って、そのボーカルのスティルを再確認することができる。具体的には、例えば初音ミクのようなボーカルと比べたときに、あなたのお気に入りのボーカルが歌唱の範囲内だけでどのように違い、どのような特徴を持っているか、ということ。


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