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2014/03/10

「曲自体が良いことに変わりはない」という欺瞞

作曲家の詐欺の例のニュースに関連した一般人の意見を聞いていると、「作曲者が誰であれ、曲自体が良いということに変わりはない」というのをよくきいた。 しかしこの言葉は、全くの欺瞞である。なぜなら、話題となった作曲者の曲が「良い曲」であるという根拠などあるわけがなく、そもそも彼らの曲が有名になり、オリンピックにまで持ち込まれることになったきっかけというもの自体が、欺瞞に始まっているからである。具体的に言うと、
「全聾の作曲者」
「現代のベートヴェン」
 という言葉である。この二つのキーワードをよりどころにして、人々は感動し、「良い曲」であるという証明をしてきていたのだ。そうであるにも関わらず、作曲者が曖昧になった段階で、「誰が作ったものであれ、聞いたときの感動が失われるはずはない」という極めて根本的な原理に問題を還元してしまうことが、そもそもの欺瞞である。
たしかに、テクストにはテクスト以外存在しないはずである。 曲を聴くときには、誰がどんな過程で何の目的でどんな時代的背景で作ったかなど一切関係なく、「ただ曲だけ」を聴いて感動する、というのが批評の第一条件であった。
しかし、人々は幻想の中に生きている。 人々は海外でブランドのバッグを購入する際に、それが本物かコピーかということにこだわる。 美しいダイアモンドは、美しいから購入するのではなく、鑑定士のお墨付きの「本物」であるから購入する。 ウィスキーがうまいのは、それ自体がうまいのではなく、スコットランドのどこそこの島で蒸留され、あんな樽に入れて何年保存され、あの著名人も愛した一品だからうまいのだ。
 しかしその幻想がただの嘘にすぎなかったと知ってしまったら、人は自己反省し、今までの自分を否定するか肯定するかの瀬戸際にたたされるのだ。そして大概は、こういう結論にいきつくのだ。つまり——
「もともと、おいしいからおいしいと思ったのであり、どんな製造工程でつくられたかなど、はなから興味などなかった」と。
本当にそうだろうか?

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