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2014/04/11

個性的なコピペをしよう

ぼくと兄の間では、2014年は勝負の年ということになっている。具体的にどうという理由もないのだが、そういうことになっている。昨年末に二人で会議した結果、どうも2014年は勝負の年になるらしいな、という感じになったのだ。根拠なき自信に突き動かされているのは我々だけではない。友人のジョンは急な電話をしてきて、「2014年に何か良くなってきている気がしないか?」と言ってきた。
ぼくは「いや、実は2014年は勝負の年なのよ」というと、彼は「やっぱりそうか」と言った。理由を聞いても彼も根拠はないらしい。
彼の疑問はやがていいとものグランドフィナーレを観たことにより確信へと変わる。「2014年は歴史上最も豊かな年になる!」確かに、いいとものグランドフィナーレは、近年のテレビ史上最も豊作な番組だったといえる。ジョンは全く信じて疑わなかった。
emaruも同じだ。パチンコにいけば大当たり、競馬にいけばすべて的中、自販機でジュースを買っても当たり、会社の大喜利大会では優勝。
そして早くもぼくは中国武術の世界大会に出るという流れになってきている。突然の流れでそうなったことで、ぼくは金銭的なことや仕事のことなどを考えてどうするか迷っている。そんなぼくに兄は松田劉智の「男は金のことなど考えるな」という名言を引用することで説得を試みたが、まだぼくは不安だ。
勝負の年、というテーゼからみても、ここ最近のぼくのモットーである「軽さ」という観点からみても、世界大会に出場するべきだということは薄々勘付いている。しかしまだ迷っている。

ところで最近メディアの大きな関心の的となっている、STAP細胞についてのニュース。これについても友人ジョンは、急にスカイプで「ばかばかしいわ!」と、珍しく怒りに満ちたチャットを送ってきた。
彼が「ばかばかしいわ」と思うのも当然の話で、なぜなら大学時代の彼のレポート、小論文はひどかった。Wikipediaをそのままコピペして内部リンクの部分が青く表示されたまま印刷したり、何かのプリントの裏に印刷したり、彼女に書かせたり、やりたい放題であった。
一方のぼくはレポートや小論文でコピペをあからさまにすることはなかったが、この「ばかばかしい」という気持ちは同じであった。
この度の報道について、中部大学の武田邦彦教授が、日本とアメリカの論文の違いについてコメントしているのをみた。彼によると、日本は内容よりもその形式を重視し、アメリカではその逆に、英語がむちゃくちゃでも内容がよければ掲載される、というものだった。
このことはぼくも経験上すごく納得なのだ。ぼくは大学で作曲を先攻していたので、論文ではなく作品を提出する(卒業制作)のだったが、それにおいても如実に形式主義的な思い出がぶりかえしてきた。
ある日大学から電話がかかってきた。
「君が出した楽譜だけど、0点だから」と一言。
ぼくが提出した曲というのは、作曲したアンビエント曲で、音源(CD)と楽譜の二点である。そのうち、どうも楽譜がまずいらしかった。
とりあえず再提出ということらしい。
「楽譜がまずいのはわかったんですが、曲自体はどうでした?」と先生にきくと、
「曲はきいてないよ。楽譜がよくないから」
と、こういう返答であった。
ぼくは作曲の学科長を呼び出し、ぼくの楽譜が何がまずいかを問いただした。
ぼくの曲はアンビエント曲であり、楽譜には通常記符が不可能な環境音などがふんだんに入っているのだが、その中でも人の話し声のサンプリングの部分の記符が違うと指摘された。
ぼくは「10人くらいの人たちの話し声」というような説明を英語で書き、なんとなくメインとなっている周波数のあたりを五線譜上にぶぁーーっと黒く塗りつぶしていた。
「これじゃ、どんな音が鳴るのかがわからない。記符というのは、論理上、どんな音でも書くことができるのだ」と先生はいった。
「そうは言っても先生、人の話し声なんて完全に記符する意味ありますかね」
「完全でなくていい。とにかくどんな音が鳴るかわからなければならない」
「じゃいったいどうすりゃいいんです」
「がやがや、と書くのだ」
「がやがや?」
「そう、がやがや、だ」
「がやがや、ですか」
「そう、がやがや、だ」
ぼくはその場で楽譜の横に「がやがや」と書き、提出した。
驚くべきことに、それで合格したのだ。
以上の例は卒業制作ではなくて、2年生の終わりに提出しなければならなかった作品課題なのだが、こんな頭のおかしい形式主義は日常茶飯事だった。

ゴーストライターの問題にしろコピペの問題にしろ、人がいかに幻想をみているかということが露呈したニュースだったと思う。誰も曲を聴かず、誰も科学的発見を見ず、作者や書かれた形式にばかり注目する。

昨日、喫茶店でコーヒーとタバコをばかすか服用していたら、隣にすわっていた老紳士に話しかけられた。
「ちょっとあらぬことをお聞きしまずがね、コピペは、悪いことだと思いますか?」
「は?」
「いやね、最近話題になってるでしょ、例の……」
「STAP論文のやつですか」
「そう。どうもテレビでね、コピペがどうとかいうもんでねえ。コピペは悪いことですか?」
「いや、別に悪いこととは、思いませんがね……そんなには……もっとも、あまり見上げたものではないですが」
「ほう。では、見下げたものですか」
「いや見下げてもいないんですがね、まあ、なるべくなら自分の言葉で書かなければいけないんじゃないでしょうか」
「なぜ、自分の言葉じゃなければならないんでしょうか」
「いや、まあ、大人ですからね。自分の発言に責任を持つということが大事なわけで……」
「自分の発言に責任を持つ……何か、どこかできいたことがあるような言い回しですが、あなた、今、コピペしましたか?」
「いやそんなわけないでしょう。私は私が考えたことをそのまま言っただけです」
「しかし、それにしてはよく聴く台詞だ。自分の発言に責任を持つというのは……」
「そりゃ別に、特殊な言い回しではないですからね。確かに、よく聴く台詞ではありますよ」
「とすると、あなたは以前、似たような台詞をどこかできいたことがあるんですね?」
「まあ、どこかできいたことがあるような台詞ですね」
「とすればコピペですね」
「ある意味では、コピペかもしれません」
「であればその発言は却下します」
「は?」
「コピペされたものは却下されるんでしょう、この世界では」
「いやそりゃ論文のような責任が問われるような場ではそうですけど、こんなただの世間話で……」
「あなたさっき、大人なら自分の発言に責任を持つべきであるとおっしゃったではないですか」
「いやそうですけど……あれ、その発言は却下したのではないんですか?」
「いや、却下しますとはいいましたけど、もう聞いてしまってますからね。忘れることは不可能ですから」
「あなたさっきから何が言いたいんですか?」
「それが、わからないんですよ」
「は?」
「何か言いたいんですけど、言おうとすると、コピペになってしまう」
「どういうことですか」
「何を言おうとしても、ありきたりな言い方しかできないんですよ。どこかで聞いたことのある台詞が出てくるだけなんですよ。もっと、こう、オリジナリティのあることをいいたいんですがね」
「オリジナリティですか」
「はい」
「意味のわからないことを言ってみてはどうですか?」
「川走」
「ジェイムズ・ジョイスのコピペですね」
「俺セキュイン!」
「バロウズですね」
「ちっきしょー!」
「たぶん何かの芸人ですね」
「あの、思ったんですがね、コピペという言葉の反対は、オリジナリティでしょうか」
「まあ、そうともいえるかもしれませんね」
「コピペという言葉は、すでにコピペされてますね」
「そうともいえますね」
「つまり、コピペを使ってはいけない、というのであれば、そのコピペという言葉自体を、人それぞれがその都度、思いついた造語で言わなければならないんです。じゃないと矛盾してしまう」
「なるほど。たとえば、なんて言えばいいんです」
「使いまわし、とか」
「なるほど。据え置き、はどうでしょう」
「なかなか乙ですな。おふる、というのはどうでしょう」
「いいですね。ちょっと趣向をかえて、輪廻、というのはどうでしょう」
「さすがですな。こっちも負けてられませんぞ。リサイクル!」
「食物連鎖!」
「デジャ・ヴ!」
「シャトルラン!」
「永劫回帰!」
「再放送!」
「リバイバル!」
「フーガ!」
「ただいま!」
「おかえり!」

著作権を曖昧にさせるお騒がせなジャンルたちは、今でも著作権法と奇妙に共存しながら存続している。
写真や絵を切り貼りして作品をつくるコラージュ(ピカソ)、既にあるものをそのまま使って作品とするレディメイド(デュシャン)、他人の言葉をメタファーとして使用するアリュージョン(ジョイス)、文体を模倣するパスティーシュ(清水義典)、言葉を切り貼りするカットアップ(バロウズ)、映像を切り貼りするMAD(ニコニコ動画)、音を切り貼りするマッシュアップ(SoulWax)、模倣により別のメタファーを創作するパロディ、先行する作品への尊敬の意を込めた作品であるオマージュ、誰でも記事を書いて更新され続けるWikipedia、他人のレコードに重ねて歌うラップ音楽。現在のところ、奇妙なことに、これらのジャンルで活躍したアーティストや団体の作品は著作権の保護のもと、大きな金を生んでいる。ピカソは絵画においてコラージュを創始したが、彼の作品は莫大な金額で取引される。デュシャンの作品もそうだ。

以下コピペ

「それは何かの引用ですか?」と私は尋ねた。
「たしかに。もはや、われわれには引用しかないのです。言語は、引用のシステムにほかなりません。」
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』

いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべてもうひとつのテクストの吸収と変形になっていく
ジュリア・クリステヴァ

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である
ロラン・バルト

言語はウイルスだ
ウイリアム・バロウズ(セス・ゴーディンの「アイデアはウィルスだ」のパクり)

彼らがやろうとしているのは、今私達が持っているテープレコーダーとかコピー機とか、自由にコピーができるものを全部奪おうということだ。
彼らがやろうとしているのは私達の自由を奪おうということだ。だから私達はそれに対して自由を守らなければならないし、戦わなければならないだろう。
リチャード・ストールマン

以上コピペ。
参考文献:インターネット他

この度の論文コピペに関するぼくのまとめ。
コピペは、コピーしてペーストする、方法です。CTR+C→CTR+V
まずひとつめに、コピペをすること自体は、全然悪いことではない。どんな科学者でもコピペくらいするわ。
二つ目に、他人の文章をコピペをした場合、参考文献などの表記をする必要もない。当たり前で、参考文献の表記をすることによって、先行するテクストの正当性が認知されるというだけなので、それをするかしないかは自由。参考文献を載せた場合は「引用」に該当し、基本的には一字一句変えてはならない(というか変えたら意味がない)。
三つ目に、論文には、著作権はないので、引用のルールにのっとる必要はない。論文は事実を掲載するものであって、著作権法によって定義されている「感情」や「思想」を表現するものではないので、著作物ではない。論文によって発表されたものは、誰かが所有する「作品」ではなく、人類共通の財産である。誰でも使用が可能。芸術作品などの著作物に該当するものである場合のみ、無断で使用する場合に引用のルールを守らなければならない。
四つ目に、引用した場合の参考文献などの不遜によって、論文の信憑性が疑われることがある。
五つ目に、引用の不完全さによって信憑性が疑われたところで、別に悪いことではない。
六つ目に、論文では何をしようとも、世間にとやかく言われることではない。よく今回のニュースで、「会社であればすぐにクビ」とかいう人がいるけど、これは会社ではないし、論文は利権のためにやるものでもない。誰かが困るものでもない。
七つ目に、論文は形式などどうでもよく、内容が重要。コピペしようがしまいが、何が書かれてあるかが重要。そのことは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』において、批判的に論じられる。作品中にめちゃくちゃな形式を持った論文が全文掲載されてる。
八つ目に、そもそも著作権など滅んでしまった方が良い。すこぶる問題の種。理由は、まず思想として、次いで技術的に、定義が不可能だから。大前提で大文字の「作者」という存在が必要だが、そんなものは定義が不可能。






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