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2014/01/14

喪中につき。



昔から、ぼくは小さな空想のテンプレートみたいなものがいくつかあって、というか子供なら誰しも自分だけの空想を持っているかもしれない、そして度々、今でもこの空想がハッとフラッシュバックしてくることがある。本当にジャンキーのように突然空想の世界に引きずり込まれる。
そのテンプレートというのが、自分が巨人になる、というものだ。家や電信柱は実際は自分より背が高いのだが、これを見下ろしながら歩いているような感覚になる。大抵は普通の住宅街なんかを歩いている時に発作的に起こるのだが、これがなんとも気持ちが良いような悪いような感じなのだ。
そしてそれは必ず、アスファルトの上で起こる。
確かに、この国の道路は巨人が歩くために作られているのかもしれない。広く長い道路はどこまでも続く。日本が世界でもとりわけ道路だらけであるというのを知ったのは大人になってからだが、それにしてもこの国は道路がいたるところにある。安部公房はこの国の道路について、『燃えつきた地図』でこう切り出した。

都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。

日本の可住面積あたりの高速道路の距離は、カナダのそれと比べると20倍もあり、アメリカと比べても6倍である。面積当たりの公共事業費ではアメリカの二十五倍に及ぶ。

そしてぼくは、巨人になって巨人仕様の道路を歩いていると、アスファルトの下に地球があるという当たり前のことに気づくのだ。しかしアスファルトの下にあるのはただの土ではない。ぼくの考えでは、江戸時代の街道が建設され始めたあたりから、道路の下には常に隠さなければならないものが埋められるようになった。今でもそれが(当時よりずっと加速して)続いている。それは、少女の死体だ。

ぼくは普段、このブログをiPhoneで書いている。
そしてぼくは最近、iPhoneの組み立てを行う中国のFOXCONN工場で、過酷な労働条件で働く若い女性の自殺問題が解決していないことを知った。
大好きなチョコレートもそうだ。カカオ豆の原産国で、過酷な労働に子供がかり出されている。バレンタインデーを控えてフェアトレードのチョコを贈るという運動を耳にするようになった。チョコだけじゃない。流行したファストファッションや毎日飲むコーヒーも。
若者の過酷な労働者は、日本も負けてはいない。二十代の死因の半数が自殺という国だ。東京では毎朝、人身事故の影響で電車が止まるが、それによって乗客は悲しみよりは憤りを覚え、電車がホームに着いた途端ダッシュだ。「電車に飛び込み自殺したら、遺族に一億の請求がいく。だから電車自殺はアホだ」というのを聞いたことがあるが、こういうことを言う人たちは、決定的に想像力が足りないか、喪に服す心を持ち合わせていないかのどちらかだろう。まさに通勤中に、(無計画に)そのまま地獄へ飛び降りてしまうような状況と、その現場に遭遇した人がそれでもなんとか路線を変えて会社に向かおうとする意識、もしくはそうしなければならない社会、がまずは異常だと思わなければならないのに。
日本はどこを歩いても綺麗に舗装された道路が続いているから気がつかないが、ひとたびアスファルトをひっぺがせば、そこら中に少女の死体が埋まっているのだ。iPhoneを買い、チョコを食べ、死体の上にアスファルトを敷いてその上を歩いてゆく。

何のために働くか、など考えていても埒が明かない。多くの人は、自分の労働に生きがいを感じるほどの余裕はない。結婚生活にしろ、労働にしろ、ぞっとするのは「これが永遠に続くのではないか」と感じる時だ。
だから、ぼくは喪に服すことにした。社会に取り込まれ死んでいった少女たちの喪に服すために。
ぼくは自分の生活環境が今のところ最悪ではないことを知っている。いつ頓死するか牢屋にぶち込まれるか通り魔に合うか家を失うかもわからないが、今は最悪というには程遠い。だから働かなくてはならない。生きようと試みたが諦めざるを得なかった労働者たちや、アスファルトの下に無数に埋められた少女たちの喪に服すために。


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