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2013/12/19

死と隣り合わせdeath




ぼくと兄は毎日のように電話で、互いの近状や本についてや映画についてなどいろいろ話しているが、ぼくも兄も同時多発的に「そろそろビートな生活に一旦区切りを」というので意見が一致した。

そもそもビートな生活というのは好景気の時代にやるもので、かの有名なケルアックなどは、一ヶ月仕事をして三ヶ月旅に出る、という生活の中『オン・ザ・ロード』を書いた。
一方我ら兄弟のビートな生活というのは、始まりがまず2011年の大震災に端を発するから、いわば日本中が若干ビートになった時期に、率先してより一層ビートになった、という感じだ。
こんな時期にそういうことをしていて良いことなどなく、簡単に押し潰される危険性に怯えた二年間を過ごしてきたぼくらは、「そろそろ区切りを」という結論にいたったのだ。
秘密保護法が採決されたことがさらなる決定打となった、というのは結果的な話かもしれない。
みんながこの法によって戦争やファシズムやスターリン主義を連想してしまうのは仕方がなく、ぼくらは改めて、日本が対外的な問題を抱えていることに気づかされた。道端にやたら右翼が多くなり、汚染水の問題を水に流すかのようにオリンピックに一丸となったり、共産党員は地下活動のように深夜ひっそりと赤旗新聞をポスティングし、テレビの観光客インタビューは全員が白人で、ニューヨークタイムズは放射能の夕暮れの風刺画を載せ、テラスハウスという小綺麗な部屋におかま達が大集合し、やることといったら恋愛か部屋の掃除くらい、それがYouTubeのあなたへのお勧めになっているから知らずに見てしまう、ある朝満員電車の中で女二人が笑いながら言う、「こんなときに変態がいたら嫌だよね」その瞬間ぼくを含めたまわりの男たちの空気が一瞬で変わったのだが、それは普段の何気無い通勤の一風景とは打って変わって、自分の身の潔白を証明する白旗揚げ紛争の始まりだったのだ、私は決して変態ではない、なぜならこんな風にiPhoneのゲームに夢中ですから、ほら、両手はここにちゃんとありますよ、男たちがそれぞれの方法で無関心のピーアール、女はそれに関して無敵であるということを知っているのだ、ぼくらは白旗を必ずあげる、一度でも「それでもぼくはやってない」という映画をみたことがある男なら、悲しいかなそういう風に反応してしまうものなのだから、こういう女たち、こいつらが戦争をおっぱじめるのだし、こいつらが秘密保護法を採決したのだとそのときにわかったが、もうデモに参加するには十分すぎるほど立ちっぱなしで、そのときに男たちが「はて?なんでまた男性専用車両がないのだろうか?もしあったところで私は乗るだろうか?それに乗りたいと思うだろうか?」と思ったとしても、全員が考えるまでもなくそれに即答することができるだろう、つまり「乗るわけがない」と、さて道端にやたら右翼が多くなり、オリンピックに一丸となり、そこいらにヒントはありすぎるほどあふれていたのだ。毎日異常なほど道路工事をしまくっている日本は、これからもっと工事をするだろう。戦後六十年間「復興」を続けてきた日本はようやくこれからは復興ではなく、軍事的な道路工事を再開することができるのだから。
「おててのしわとしわをあわせてしあわせ、なーむー」という仏壇のCMをみて、しわとしわを合わせても決してしあわせにはならないことにずっと疑問を持っていたのだが、では何を合わせればしあわせになるとかと考えれば、答えはすぐにわかる、つまり「死」だ。この仏壇のCMが言いたいことというのはすなわちこういうことだ、「幸せは死と隣り合わせ」
幸か不幸かこれは死に関連したCMなので、両手を合わせる仕草は決して違和感がなく、こうしたサブリミナルには気づかずみんなが死かもしくは幸せまでまっしぐら。なーむー。





2013/11/07

コミュニケーション・ブレイクダウン


近頃はとんとライブに行っていなかったが、久しぶりに行った。友部正人、オシリペンペンズ、友川カズキの御三方を。
この御三方は「よく喋る」歌を歌うので、ぼくはほとんどそういうものは作らないということもあって、こういう歌への憧れはわりとあるのだ。
この人たちの歌詞を、ぜひ一度分析してみたいと思うのだけど、その前に、ライブをみて思った感想を書きたいと思う。

とさらにその前に、実はぼく自身も久しぶりにライブをするので、その告知から。

(以下主催からのコピペ)
エレクトロバンドLOWBORN SOUNDSYSTEM主催で
偶数月の第三土曜に四谷アウトブレイクで開催中の
Electronic BandのLive、DJ(Techno,House,Juke)、
お笑い芸人も出演する
カオティック・エレクトロニック・オールナイトパーティー!!

今回は男女コンビのエレクトロユニットmacaroomと、
テクノエレクトロポップユニットCue:Specが参戦!!

2013年12月21日(sat)
LOWBORN SOUNDSYSTEM プレゼンツ
「ギリギリシティ」vol.77
@四谷アウトブレイク

イベント公式サイト
http://www.girigiricity.com/

OPEN&START24:30予定
前売&当日1500円
(共にドリンク代別)
※iFLYER( http://iflyer.tv/ja/event/159558/ )
見たで500円オフ!

(LIVE)
LOWBORN SOUNDSYSTEM
macaroom
Cue:Spec
(FOOD)
四谷アウトブレイク名物おつまみ
(お笑い)
ボクオオクボ
倉富益二郎
シュウソウランド
ぜんぶ松本
(DJ)
OCCHIII(伊達男ナイト)
古澤彰(LOWBORN SOUNDSYSTEM)
budspackers
TAKASHI FURUSAWA
アウトブレイク佐藤
(以上コピペ)

何度か出演させていただいたイベントなのだけど、オールナイトだし、四谷とかいう場所なので、なかなかみんな来てくれない。

ところで、ライブの感想に戻るんだけど、一緒にライブに行ったemaruが、「(オシリペンペンズの)コミュニケーションブレイクダウンがどうしても歌えん」と言っていた。
「コミュニケーションブレイクダウン」という曲なのだが、ボーカルの真似もできないし、かといって自分流に歌うとダサくなってしまうらしい。とくに「ブレ」と歌う部分の発音が難しいらしい。
実際、emaruはコミュニケーションブレイクダウンを歌う必要など全くないので、彼女がなぜこれに悩んでいるのか理解はできないが、この話をきいたとき、ふと思い出すところがある。
町田康が講演会で、大阪でINUというパンクバンドをやっていた頃の話をした。
町田康曰く、大阪でパンクバンドをやってる連中が、歌になった途端、関西弁ではなくなるらしい。実際は関西弁の歌詞を書いているのだが、歌った途端に本来の関西弁ではなくなってしまうと。そして町田康は「自分はほんまの関西弁で歌おう」と思ったらしい。
同じようなことをぼくは、関ジャニの曲をきいたときに思った。ぼくは関西人ではないが、関ジャニの歌う歌が関西弁に聞こえない、何というかエセ関西弁に聴こえるのだ。
これはもちろん旋律とアクセントの問題や、発音の問題は大きいだろうけど、もっと別の問題も関わっているんじゃないかと思っていた。
同じようなことは、日本語で歌った途端ロックではなくなってしまう「日本語ロック論争」という話の中心でもある。

ところで、友川カズキの話にうつるが、彼がナインティナインのANNに出演した際、岡村は友川のことを「魂の叫び」と何度も形容した。ラジオでは、リスナーから送られてきたテキトーなフレーズを友川が叫ぶ、という企画があった。しかし友川は、送られてきたフレーズを、叫ぶときと叫ばないときがある。彼はそれを、「言葉に勃起するかしないかの違い」と言った。そしてなぜこのフレーズに勃起するか、なぜしないか、ということを毎回説明するのだが、あまり一貫した理論はないようで、かなり矛盾した説明になっている。
言語のパーソナルな偏りのことをロラン・バルトが「スティル」と呼んだが、友川にとってフレーズが自分のスティルと合致していないと叫べないのだ。それが魂の叫びというものだろう。
そして日本語ロック論争では、日本語のロックにスティルが邪魔をする、という問題だ。しかし歌は言語運用とは違うので、スティルを変えることができる。例えば英語は日本語に比べて単語の中にある母音性が低いということがあるが、これは無理矢理日本語の詞の母音性を下げれば解消される。しかしそうして出来上がった英語的な日本語の歌を歌ったところで、今度は「普段は俺らこんな喋り方しないのにな」ということに悩んでしまう。それもそのはずで、スティルとは言語のパーソナルな偏りであり、それを普段の自分と違うものを歌い続けるということはつまり、人格障害と同じ状態だからである。
だから、こうして考えてみると、ぼくは関ジャニの歌をきいたときに、人格障害者の語りと似たような「嘘つけや」という感想を持ち、町田康は当時の大阪パンク界隈でそう思っていたのだろう。
だからemaruはもちろんオシリペンペンズのスティルを取り入れる必要はないわけだし、誰しも自分のスティルがあって、それをどう歌詞にするか、もしくはそれをどう偽装して「嘘」のスティルを作り上げるか、の二者択一になるのだ。
スティルに正直になるか、もしくは「嘘」のスティルを作り上げるかは、その人それぞれの方法論なのでどちらでもいいのだが、友部正人、友川カズキ、オシリペンペンズは前者だということだ。

ところで、ライブではアーティストはたいてい曲の合間なんかにMCをするのだが、この際に僕の中で「ベタなフレーズ」として真っ先に思い浮かぶものがある。

俺らには、歌うことくれえしかできねえから。

この言葉を最初に言ったのは誰なのか。
今やコントなどでしか聞かなくなってしまった響きだが、遠い昔、これを真面目に言っていたバンドマンたちがいたのだろう。いや、今でもいる。確か、2011年の大震災があったときに、ファンキーモンキーベイビーズが朝の情報番組に生出演してそのようなことを言い、ライブを始めた気がする。震災時はほとんどのアーティストが何らかの言い訳をしなければならなかったが、彼らも違わず言い訳がましい。この言葉は、ちょうど嘘つきのパラドクスと同じように、真偽を判断することができない。しかし意味を考えてみれば、その正しさがわかる。このパラドクスは、彼らが自分でそれを言うことで生じているのであり、「あんたらは歌うことくれえしかできねえからな」と指摘されるのであれば、まことに正しい。実際のところ、彼らは歌うことくれえしかできないし、ぼくたちは聴くことくれえしかできない。
なぜこのようなことを言っているのかというと、ネットである記事を読んだことに始まるわけです。

日々の音色とことば:
10 FEETの「つなぐ言葉」と、くるりの「まぜる言葉」
http://shiba710.blog34.fc2.com/?no=523

ぼくはこの評論のようなものを読んで、この人は何を言っているんだろうかと考えた。そしてそれほど考えるまでもなくわかったのは、この人にとって音楽(歌)とはつまり、①社会的背景、②本人のインタビュー、③歌詞カード、だということで、この三つを通して彼は最終的に、④メッセージ、を炙り出すことに精魂込めているということ。この人はメッセージ、意味を炙り出すことが大好きなんだろう。記事の最後の方ではヤブイヌという動物の鳴き声にまで「世界中にバラバラに散らばって拾い集められるのを待っている面白さの種というメタファーだ」と解説なさっている。なかなかの炙り出し狂だと思う。
このやっかいな炙り出し狂には、「変だな」とは思っても、なかなか反駁できないものだ。「こういう肉は生くらいが一番いいんだよ」といって網から勝手に皿にのせてくるもんだから、食べてみて「もうちょっと焼きたいな」と思っても、なかなか言い出せない。
歌はメッセージではないし、そもそも社会的背景やインタビューは作品に何も関係ないと考えるのが妥当だと思うのだけれど。ぼくの言葉よりも、ジャン=ジャック・ナティエの『音楽記号学』から引用したい。

1)象徴形式(詩・映画・交響曲等々)とは作り手が意味を受け手に送る《コミュニケーション》過程の仲介物のようなものではない。
2)それはむしろ作品の形式や内容に関わる複雑な創造《過程》(創出過程)の産物なのである。
3)また、送られたメッセージを《再構成》する複雑な受容《過程》(感受過程)の出発点なのである。
4)だから、創出過程と感受過程とは必ずしも一致するわけではない。モリノが言うように「創出過程は必ずしもコミュニケーションを目的とはしていない」。つまり、人は象徴形式の痕跡を残さないことができるし、また仮に残したとしてもその痕跡に気がつかないでいることもできるのである。明らかに、音楽におけるそのような例はヴェーベルンやブーレーズの構造はむろんのことシェーンベルクの十二音列のうちに見られる。

確かに、上の記事の人がいうような話は、聞くに耐えうるものがあるし、評論家たちがいうことはいつだってこの程度のことだろう。ぼくも、好きな曲の歌詞カードをじっと見て、そこに隠されているとされる「メッセージ」を探し出そうとすることがないわけではない。それに、一人のアーティストの曲について語るときに「あの人のメッセージは強烈だね」と言った方が楽に会話ができるものだ。しかし一端の批評家であれば、そんなものが幻想であることは百も承知なはずだ。確かに、曲に隠された作者の思いや仕掛けや社会的背景などについて語ることは楽しい。バッハの曲が楽譜をみると鏡のようになっていたり、音符にバッハの名が隠されていたり、そういうことを知るととても知的欲求が満たされて気持ちの良いものだ。しかしそれは決してバッハの曲を聴いていることにはならないし、曲が良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう根本的な話から随分遠ざかってしまっている。
日常会話ならよくても、批評家が言うべきではないことがある。批評のマナーである。
1、音楽は、雑誌のインタビューの中にも歌詞カードの中にも、時代的背景の中にもない。音楽は聴くものである。
2、従って、音楽は音楽そのものの中でしか批評することはできない。
3、歌詞は歌詞カードの中にはない。歌詞は「歌われる言葉」であり、「書かれた文字」ではない。
4、従って、歌詞は引用して論ずるだけ無駄である。

そこで、話は戻るのだけど、彼らアーティストは、歌うことくれえしかできない、ということ。そしてぼくらはそれを聴くことくれえしかできない、ということ。
ただ、それを自分で言ってしまってはパラドクスが生じてしまう。ファンキーモンキーベイビーズが言い訳がましくそれをいったことは、彼ら自身が「歌うこと以外もできます」と言おうとしていることを反証している。なぜなら意味というものには常に別の意味によって邪魔を受けるからだ。だから震災の時に「こういう時だからこそ音楽が必要だ」とか、「正直、それで多くのアーティストは沈黙せざるをえなかったんです」という説明書きが必要になる。ファンキーモンキーベイベーズが選んだ意味はたぶん「応援」だったと思う。彼らは歌うことくれえしかできないにも関わらず、同時に「応援」することを禁じ得なかった。歌に意味を持たせたと同時に、言い訳がましく「歌うことくれえしかできねえから」となるのだ。応援したければすればいいが、歌うことくれえしかできない彼らは、歌を使って応援するというのだ。一見理にかなっているようだが、褒められたものではないだろう。どう考えてもそれを歌にする「意味」はないのだから。
歌詞について語るときに、必ずアーティストの「メッセージ性」について皆が言いたがる。そろそろ歌がコミュニケーションではないことを多くの人が自覚した方がいいと思うのだけど、そう簡単にはいかないだろう。このブログを最後まで読んでくれる人もたぶんいないだろう。ぼくが言いたいのはつまり、それが、コミュニケーションブレイクダウンやでえ、ということだ。




2013/09/26

歌詞の響きについて



嵐というアイドルグループの歌の歌詞がいかに気持ち悪いか、ということを説明することは簡単だろうし、ビートルズのレットイットビーの歌詞がいかに良いものか説明するのも簡単だろう。そしてそれらは多くの場合、真実だろう。「ダサっ」と思ったり、「きゅんっ」としたりしたことを説明するのは、混じり気のない純粋な感想に他ならないからだ。
しかし、なぜそれらがダサく感じたのかという原因を突き止めることは若干難しく、それこそが批評家のすることなのだと思う。原因がわかれば、それが今度は理論として使うことができ、作詞のときに役立つこともあるだろう。
しかしながら現在、様々な場において批評家のすることは単なる評論家のそれと変わりない。歌詞の文学的な意味について解説し、それが作られるにいたったきっかけなどの出来事を話し、挙げ句の果てにそのアーティストの波乱万丈な人生について語り出す。アーティストだけならまだしも、その母親の話まで始め、「このような母親への愛が、この歌を書かせたのだ」と締めくくる。もはやそこから音楽はほど遠く、無垢な音楽少年だけがライナーノーツ片手に「なるほど、だからジョンの歌詞は悲しい響きなのか」と騙されるのだ。数年後、バンドマンとなった少年は、自分のつくる歌詞がジョン・レノンのつくるそれとは似ても似つかぬ駄作ばかりであることに気づき、きっとそれは自分の両親が離婚しておらず、つまらない母親を持ってしまったせいだと嘆くのだ。
このような評論家たちのせいで我々は、歌詞を批評する際に本来「あたりまえ」であることを再確認しなければならない。
ひとつは、歌詞を批評する際は、歌詞以外のことを語ってはならない。(作者や時代背景など)
もうひとつは、歌詞は文学ではなく歌である。(つまり「歌われる詩」である)

私はこれまで歌詞の音響的な機能に的を絞ってあれこれと考えてきた。もちろん歌詞は言葉で出来ているので、音響的な機能だけで論ずることは間違っている。しかし、なぜ誰もが歌詞を文学としてだけで論じようとしたがるのだろうか?

歌詞の音響的機能について、どんなことを説明することができるだろうか。それは、「なぜ」嵐の歌詞がえげつなく気持ち悪いか、また「なぜ」ビートルズの歌詞が気持ちがいいか、という「理由」を解明することである。
たとえば、レットイットビーという歌を例に取れば、タイトルにもなっているサビの「let it be」という部分が、滑らかな旋律をになっていることをまず指摘できる。これは英語(とくに米語)において、文中の「t」が、有声音に挟まれた場合に有声音化するという現象で説明される。「t」は[t]という無声閉鎖音であるが、これが有声音化して[l]になる。よってカタカナでかけば「れりびー」という風になる。これによって、この文の中に閉鎖音が存在しないことになる。閉鎖音とは空気を完全にストップさせることで生じる発音なので、閉鎖音を歌にいれた場合、約0.05秒の無音が生まれる。これは例えばフルートなどのスラー表記の演奏とはずいぶん印象が変わり、同じ旋律であっても前者は断続的なもの、後者は継続的なものになる。「レットイットビー」という歌のサビで連続する三つの音の順次進行のモチーフが、Aメロと対比的にメロディアスにきこえるのは、こうした効果がひとつの要因だということができる。しかしいま私が簡単に説明した部分は、音響機能を解明するほんの序盤にすぎない。


作詞において、例えばメタリリックという方法論

《メタリリック》とは、「歌詞についての歌詞」である。しかしこういうことを言えば、多くの人がそれを《メタフィクション》と勘違いしてしまうだろう。
たとえば、ある歌の歌詞の中に、「この歌を君に届けるよ」という部分があったとしよう。これは間違いなくメタフィクションである。文学的な方法論でもって、それ自体について語っているからである。つまりこの歌詞は「文学についての文学」という側面を持った歌詞ということができる。
では《メタリリック》、つまり「歌詞についての歌詞」とはどういうものだろうか。これは、Perfumeの『ポリリズム』という曲を例にあげることができる。この曲のサビの最後で、八分音符5個によるポリリズムが連続する場面があり、音楽的に緊張状態を引き起こす部分である。ここで歌詞が「ポリリズム」となっているのは、ポリリズムという五つのモーラがそれ自体でポリリズムになっているという点で《メタリリック》的だろう。こうした試みが、どのような心理的効果を期待できるのかはわからないが、少なくとも歌詞を《脱文学化》していることは間違いないだろう。
このような音響的効果は絶対的なものではないので、ある程度の対立部分が必要になってくる。二項対立で音響について考えてみると、例えばモーラと音節の対立、無声音と有声音の対立、などが真っ先に思い浮かぶだろう。
前者のモーラと音節の対立は、ミニモニ。の『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』を思い浮かべれば良い。
「白あげて 赤上げて」という、音符=モーラの部分と、「ジャンケンぴょん」という音符=音節の部分の対立である。
後者の無声音と有声音の対立では、同じアイドルグループを例にとればももいろクローバーZの『ココ☆ナツ』がある。サビの「こ」の連続と、それ以外の部分である。
このような無声音と有声音の対立で今日わかっていることは、共感覚における神経心理学的法則の成果がある。無声閉鎖音と有声閉鎖音の対立は、明と暗、鋭角と鈍角、細さと太さ、軽さと重さ、などのイメージを暗示させることがわかっている。もしリスナーが『ココ☆ナツ』を聴いたときにサビで急に明るくなったような印象を持ったとして、なおかつこの印象をより劇的なものにしたい場合は、サビ以外の部分に有声閉鎖音を多用した歌詞に変えればいいのだ。

このように、歌詞の音響的機能はある程度予測することができる。これによって文学的な意味とは真逆の効果を生み出すことでリスナーに暗示を与えることは容易である。
これは今日様々な場面できく「緊張と緩和」という芸能論ひとつをとってみても理解することができる。和声においてもっとも有名な緊張と緩和はドミナントとトニックだろう。日本語の歌詞の発音において最も緩和されるものは言語学的に「あ」、次いで「い」である。緊張では無声閉鎖音、もしくは日本語にはない発音であろう。言語学者のロマーン・ヤーコブソンが指摘しているように、幼児における母音の獲得は最初に[a,i,u,e,o]の順であり、失語症における母音の消失は逆に[o,e,u,i,a]の順である。サビにおいて「愛」、もしくは英語の「I」から始まる傾向が多いのは、何も文学的な意味によるものばかりではない。しかし「愛」という音響的な緩和を助長するための緊張の部分を明確に示そうとする方法論を持った作詞家は、残念ながら見当たらない。つまり、『ミニモニ。ジャンケンぴょん』や『ココ☆ナツ』をきいたときに、私はただ「ああ、またか」と思い、作詞家のつくった「なんとなく」の手探り作詞っぷりに、幻滅するしかないのである。

2013/09/19

対極の歌詞

歌詞において、日本語のアクセントとメロディが意識されるようになったのがいつのことからか私は知らない。しかし少なくともそのような意識は大正期の童謡の運動のころにはかなりあったように思う。童謡は、文部省唱歌に反発する形で現れ、大正七年に鈴木三重吉が主催した児童雑誌「赤い鳥」がその運動を牽引してゆくことになる。もっと遡れば、各地で日本語のアクセントは収拾がつかないほどばらばらであったことを考慮しなければならない。
とにかく、日本語にはアクセントというものがあり、それにメロディがかぶさらなければ意味が伝わらない、という意識が大正期には形成されてきたようだ。長い間外国語であるお経を意味もわからずありがたく唱え続けてきた日本人とは思えないような意識の変わりようである。たとえば童謡におけるアクセントの問題として、たびたびあげられる『赤とんぼ』という曲がある。三木露風が作詞(作詩とかくべきだろうか)して山田耕筰が作曲したこの曲は大正十年、『樫の実』という童謡雑誌に発表された。この曲の「あかとんぼ」という部分のアクセントが間違っているとか、間違っていないとか、そういうことは度々言われてきた。「赤とんぼ」という言葉には「か」にアクセントがつくのだが、この曲では「あ」にアクセントついている。一方で江戸弁では「あ」にアクセントがくるという人たちがそれに反論する。しかしながら、私にはこの論争は全くもってどうでもよろしい。なぜなら歌詞に含まれた日本語の意味は聴き手が受ける印象に委ねられるものなので、歴史的に検証されるものではない。聴いたときに「おかしい」と思えばおかしいし、「良い」と思えば良いのだ。
しかしこの時代の歌詞の問題は、ある意味で単純であった。というのは、こういったアクセントの問題などは、結局のところ作曲家の問題だからである。たとえば三木露風のような詩人がいて、作曲者がそれをもとにメロディをつくる。初期の山田耕筰は三木露風の詩集『庭園』から多くの曲を作っている。つまり先ほどのような問題は、作曲者さえ気にかけていれば済む問題であった(仮に問題があるとしての話だが)。
歌詞には二つの側面がある、ということは周知のことだろう。ひとつ目は「言葉」であり、もう一つは「音楽」である。この二つは本来切り離すことのできない一つの物体からの変異体にすぎない。しかし歌詞を論ずるときには必ずと言っていいほどこれらのうちのどちらかが脚光を浴びることになる。「この曲の歌詞は聞き取りづらい」と批判したり、「この曲の歌詞は響きがわるい」と批判したり、である。この重要な両側面は同時に語られることを避け、まるで一方さえ存在していれば成立するかのような態度をとっているのだ。「この曲は意味よりもむしろ響きを重視した歌詞である」という言説が、まるでそれが素晴らしいものかのような言われ方をされるときには、私は甚だ疑問を感じざるを得ない。
この二つの側面は、主要な二項対立を導き出すことによって簡単に定義付けすることができる。
ひとつは、モーラと音符の対立である。
もうひとつは、アクセントとピッチ(音の高さ)の対立である。
モーラとは、日本語のリズムにおける最小単位であり、俳句をつくるときに用いられるリズムを考えれば自ずと理解できるだろう。俳句は17のモーラによって構成される。
モーラをm、音符をn、アクセントをa、ピッチをpと表記すると、最も言葉が伝わりやすいと考えられるのは、
m≦nかつa=pである。
m≦nとは、モーラと音符の数が同じか、モーラよりも音符の方が多い状態である。a=pは、アクセントの位置とメロディの上下行が同一な状態である。
逆に、最も言葉が伝わりづらいと考えられるのは、
m>nかつa≠pである。


前者を《言語詞》と呼び、後者を《音声詞》と呼ぶことによって、歌詞が表現し得る限りの限界地点である両極を示し、そのレンジを測ることができる。
しかし、先ほども述べたように、言語詞も音声詞も、ただの変異体に過ぎないので、ほとんどの場合は曲中にこの両極間を行ったり来たりする。ある部分では音声詞だが、ある部分では言語詞であり、ある部分ではその中間である、ということは何も不思議なことではない。しかし平均してその歌詞が「音声詞より」と概することは可能であり、それによってその歌詞の特徴を瞬間的に(ぼんやりとではあるが)つかむことができる。
しかし勘違いしてはならないのは、《音声詞》という呼び名のイメージから、それが音響的に優れているという結びつけは間違いである。音響的な機能がどういうものかはそれに全く関係ないし、言語詞だろうが音声詞だろうが、音響的な機能は絶対的に付随するのだ。どのような方法論で能動的に音響的な機能を導き出すことが(希望的観測として)できるのかについては、また別の機会に述べることにしたい。

2013/09/11

旅路の果て

下関のアート・カフェの店長マキコさんは、「こっちにもアート系のイベントはあるけど、みんな腐っとる」とぼやきながら、注文したギネスを泡だらけにして流しに捨てた。マキコさんは、2011年にぼくらが彼女の店で「ああたいくつだ」という映像と音楽のイベントをさせていただいて以来、同じようなことを定期的にぼやいている。ぼくやぼくの兄が来店する度に「便器がアートなん?」と現代アートについてきいてきたり、「日本にはもう慣れてきましたか?」とコントをふっかけてきたり、彼女の言動のすべてが「ああたいくつだ」に尽きている。そこでぼくらは、まるで幕末の長州過激派が池田屋を拠り所としたように、下関に帰る度にマキコさんの店によって、地方のアートを嘆いているのだ。
とはいえぼくらも彼女も東京などの都会にかぶれているわけではなく、マキコさんにいたってはおそらく絶対に東京なんかで店をやりたくないのだという固い意思がある(と思う)。

今回のぼくの帰郷の目的は、両親の還暦祝いだった。母親には、彼女が書いた本を製本して装丁してプレゼントした。
そもそも、母は誰に頼まれたわけでもなく、小説を書いている。それは祖父も同じだった。そしてぼくも同じだ。
このよくわからないカルマは、その小説が出発されて大ヒットして、本屋大賞のようなよくわからん賞をもらえればあっぱれなのだが、なかなかそう結実するものではない。
だからぼくは母の小説を「まるで本物の本のように」製本したのだ。
一方で父親は毎日歌を歌っている。突如長年の教職を放棄してライブバーを経営し、毎日歌っている。父親には真っ赤なサロンエプロンをつくってプレゼントした。
この二つは、息子たちからの感謝の意だけど、一方で芸術功労賞でもある。「あなたはこの世知辛い世の中で、小汚い田舎町で、たくましく芸術に勤しみ、その発展に貢献しました。たとえこれで下関の文化が何も変わらなかったとしても、あなたの努力と戦い抜いた記憶を、ここに評します」

大阪のあるバーで、兄は「世知辛いですなあ」とつぶやいた。あまりにも小さな声でつぶやいたので客に何度か聞き返され、三回ぐらい繰り返して「世知辛いですなあ」と言うはめになった。このバーも我々は様々なアート関係の企画でお世話になっているのだ。
店長のジュンコさんは「あたしは南くん大好きで大ファンやねんけど、南くんもっと自分をアピールした方がいいと思うやよ。あたし間違ってるかな」とアドバイスとも説教ともとれる口調で兄に言った。兄はジュンコさんから半ば強制的に「来週までに名刺を作ってくること」を約束させられた。

今回の帰郷の二つ目の目的は、武術の練習だった。
兄は大阪で中国武術を指導しているのだが、ぼくもその練習に参加させてもらった。生徒たちはどういうわけか音楽家が多く、音楽の上では大先輩であるにも関わらず、武術では先輩であるぼくに丁寧な言葉遣いで接してくれるのだ。ぼくは武術では様々なアドバイスをしたが、本当は音楽について彼らに御教授願いたいこと山々なのだった。
ぼくは練習終わりに先輩ミュージシャンたちに囲まれて、西成の路上でワインを飲みながら武術についての様々な話をして楽しんだ。遠く道の向こうではパトカーのランプと怒鳴り合いが聞こえ、ホームレスが寝転がり、自転車で看板に激突する男性を尻目に、スラム街の真っ只中(すぐ近くの居酒屋の店長はここのスラム具合を「デトロイトとここだけや」といった)で、武術を真剣に学ぶ者たちと語り合うのだ。

音楽や文学や武術やなどそれぞれ小さなコミュニティの中で幸福な会話を交わしながら、なぜこれほど虐げられているのかと嘆かずにはいられない。「世知辛いですなあ」と兄はものすごい小さな声でいう。
武術の練習終わりに天下茶屋か西成かどちらで飲むかという話になり、兄が「どちらかといえば西成がいい」と言って、ぼくが「それは安いから?」ときいた。生徒たちは一斉に「それは言ったらだめです」というのだ。

夢にまっしぐらな人たちは、Facebookでライブ情報をどんどんアップする。新しく買った機材の写真をアップする。
ぼくは貧困にはこりごりなので、父親に電話で「しばらくは仕事に専念する」と言った。父親は「仕事もええけど音楽をやりいよ」という。

東京まで戻ってくるための青春十八切符が一枚余ったので、もったいないので鎌倉に行くことにした。臨済宗の寺をみたかったからだ。すると母からメールがきた。
「ミッション…鎌倉は外人多いからなるべく沢山の外人と話して知り合い、フランスのサイトを紹介する。またはキーワード抱えてでて音楽してくる。」
キーワードだろうがキーボードだろうが、母も父も、ぼくに劇的な何かを期待しているようだった。

「フランスのサイト」というのは、ぼくがやっているmacaroomというエレクトロニカユニットの曲がフランスのレーベルから配信されて、そのことを言っている。
Social Alianationというレーベルで、そこから送られてきた書類には、「我々は《絶対に》そのアーティストの知名度に関わらず、良いものをフランスに紹介していきます」と力強く太字で書かれていた。

旅から帰ってきて、ゴッホのドキュメンタリーをみた。貧困を肯定するための芸術家がゴッホを取り上げることは、劣等生がエジソンのエピソードを引用して自分を肯定する以上に寒いものがあるけど、とにかくこれに耐え抜くための覚せい剤的な強みにはなる。

とにかく、ひとつでも希望となることがあればそれでなんとかやっていけるものだ。希望のあるいい旅ができて、非常に満足した。

macaroomの曲は日本でもダウンロードできるので、みなさん聴いて下さい。

http://asian-sounds.net/


還暦祝いに


帰郷して、両親に還暦祝いを。
母親の小説を印刷して製本し、父親のサロンエプロンを制作した。


 印刷して製本。

 表紙の布を貼り付ける

そしてくっつける。

 真っ赤。

 表紙は二種類あって、通常版と

 ペイパーバック版


背表紙はこんな感じ


 こっちはエプロン

 みなさん制作を手伝ってくださいました。綺麗に赤く染まりました。


 教職を辞退して今は下関でバーを経営している父。


 歌うときもエプロンははずさない。



父はここ数年来k moonを自称している





 母は普段はインディオだが


たまに作家になる。

2013/06/27

オタクに愛想がつきた日

この頃はオタクが非常に多くて、大学のころも卒業後も職場でも、アニメや漫画の話は盛り上がることがあっても、小説の話で盛り上がることはあまりない。
なんとなく、漠然と考えていたのだが、オタクっていうものは、著作権についてゆるい認識なんだと思っていた。というのも、ニコニコ動画でみるMAD(動画を編集し直してつくる二次創作物)や、コミケなんかでみる漫画やアニメの二次創作物、ゲームから派生した様々な二次創作物である「東方シリーズ」、無記名の拠り所である掲示板「2ちゃんねる」、実在しないボーカルに曲を歌わせるという「ボーカロイド」、他人の曲に勝手に歌をのせる「歌ってみた」、自身が二次創作物になる「コスプレ」など、どう考えても著作権を無視したものや著作権を曖昧にさせるようなものばかり目立っていたからだ。そういう意味では、ぼくの「オタク」というイメージは、2ちゃんねるやニコニコ動画やコミケ的なものなんだろう。ネット文化とオタクは切り離すことができないと思うけど、実際、YouTubeやFacebookやGoogleはかなり著作権に反対な立場をとっている。テレビにせよ新聞にせよ、その媒体にはイデオロギーはかならずあるもので、Twitterなどのソーシャルメディアにおいては、情報共産主義的なイデオロギーがぷんぷんしている。そこがmixiと違うところで、mixiは情報を共有することを困難にさせる、むしろすごく排他的なグループをつくりだすものだった。もちろんニコニコ動画もなんらしかのものがあるんだろうけど、著作権について、なんとなく寛容な立場をとっているのが、ニコニコ動画や2ちゃんねるやコミケなどのオタク文化なんだろうと思っていた。

しかしそれは大きく違っていた。

それは、音楽を通して彼らと付き合うようになってから、少しずつ感じてきたのだ。コミケに参加する同人サークルに曲を頼まれたりするうちに、だんだんと彼らの気持ちがわかってきたような気がする。
ある同人サークルに対する「パクリ疑惑」のバッシングや、勝手にアップされたYouTube動画への削除申請、ある曲を商業で使う際の様々な制限など、そういうものを知っていった。
同人サークルの方々に「あなたはパクリで曲作ってるけどそれについてどう思う?」ときくと、あっさりとパクリは認め、「どうせたかだか同人サークルなんだから、やりたいことをやるべきだよ。たかが同人なんだから」とこたえる。
「たかが同人」というのは彼ら特有の自虐的な言い訳で、今まで本人たちがそう言ってきたのを何度も耳にした。
しかし、たかが同人で、好きなことをただやるだけというのは、著作権を侵害するという理由にはならない。好きなことをやるから法律を犯していいということはない。
それでいて彼らは、同人業界が商業に対抗できるだけのパワーがあることを自負している。パクリをバッシングし、YouTube削除申請をし、二枚組のベストアルバムを発売し、直筆サインをつけ、特典でポスターをつける彼らが、なぜ「たかが同人」などというまるで商業とは一線を画すかのような言い方ができるのだろう。彼らは商業の模倣に過ぎない。しかし自身は著作権を曖昧にし、無断で他人の著作物を利用し、違法ダウンロードをする。
オタクたちの著作権に対する考えは、消費者のエゴに過ぎないとぼくは思う。消費者としては著作権などない方がいい。無料で音楽を聞き放題で、それに歌をのせて発表できる。しかし一度自分の著作権が危うくなり始めた途端、オーソドックスな「アーティスト」に早変わりして、権利を主張する。この矛盾に気づいてぼくは、よほど愛想がつきてしまった。いや、もともと彼らに愛想などないけれども。つまり彼らは著作権について「とくに何も考えていない」か、「自分のことしか考えていない」のだろう。

先日、ニコニコ生放送で、社会民主党の福島みずほが登場し、視聴者にアンケートをとった。それは自民党の憲法草案で人権について「公共の福祉」が「公の秩序」と変えられていることをどう思うかというものだった。
結果は約50パーセントが賛成、約20パーセントが反対、約30パーセントがどちらでもない、というものだった。
やや右翼的な傾向はあっても、「表現の自由」がニコニコ動画の大前提であったのではないかと思う。それは2ちゃんねるにしても同じで、そのせいで元管理人のひろゆきは様々な訴訟を抱えることになった。しかし2ちゃんねるもニコニコ動画も、管理人の思想とは裏腹に、テレビとなんらかわりない「空気」に流されるものに成り果ててしまった。ぼくはあのニコニコ生放送で、こんなアンケート結果になったことに愕然とした。ニコニコ動画もマスメディアの、自民党の、空気的なイデオロギーの元で自由も何もないのだ。もちろんどんなツールにもイデオロギーはあるが、少なくともFacebookは今のニコニコ動画とは逆行しているはずだ。その思想が正しいとか正しくないは別にして、ただ、みな何も考えなくなってしまったんじゃないかと、絶望している。



2013/05/11

益若つばさからぼくらが学んだこと

職場で小説を書いていたら同僚がひょいっと覗いてきたので、「いやっ、見ちゃダメですっ!」と女みたいにノートを隠す感じになった。
しかし勘違いしてほしくないのは、ぼくが「小説を書いていること自体に酔っている」ような段階ではないということだ。そんな初々しい段階は中学生のころに終わってしまった。本当に最近は何のために書いてるのかわからないが、いよいよ「自分のため」という風な感じが強くなってきてしまった。
自分が書いた小説に注釈を百二十個もつけ、解説まで書いている。自分の小説に注釈と解説をかく作家がどこにいるだろうか。いや、それだけじゃない。製本して装丁までつくったりしている。一体何がしたいんだ、と自分で思うが、これはほんとうに自分がただただ満足したいだけなのだ。
なんか、こうやって小説を書き、注釈をつけ、解説をかき、印刷して製本し、表紙をつくり、カバーをつくることが、ただただ楽しくなってしまっている。自分でも「これじゃまずい」と思っている。このまま自分一人がただただ楽しんでしまえば、ヘンリー・ダーガーの例をみてみなさい、アウトサイダーなアーティストまっしぐらになってしまう。それだけは絶対に避けねばならない。
かといってぼくは人に読まれるという前提を忘れているわけではない。ただ、どんどんその辺りがいい加減になってきている。数年前にある小説を書いて、それはとてつもなく下衆なエロスな話で、その書き終えた猥雑な小説を、読書好きだという彼女の母親にあげてしまった。読み終えた彼女の母は「なんで私にこれを読ませるのか」と少し怒っていたらしく、この件に関しては完全にぼくがどうかしていた。もう、人が嫌な気分になるとかならないとかそういう次元の話ではなくて「純粋な文学です」という気持ちで猥雑なポルノを様々な人に読んでもらった。

そして、いまぼくは新しい小説を書いているのだが、ますますわけがわからない。なんのために書くのか??

実は兄も最近小説を書いているらしい。
兄は喫茶店で小説の重要なシーンを書き終えたあと、帰り際に無性に風俗にいきたくなったらしく、そのときの思いをぼくに電話で告白した。
「あれだけの名文を書いたんやから、風俗に行こうが誰も文句いわんやろ」
「いや……いわんやろ」
しかし後の金銭的絶望感を容易に想像できる生活環境にいる兄はその気持ちをぐっとこらえ、帰宅したそうだ。帰宅した兄は「AVでもみたろうかな」と思いつき、実に四ヶ月ぶりにAVをレンタルしたらしい。
「あんだけの名文書いたんやから、誰も文句いわんやろ」
「いや……いわんやろ」
「やからな、AVをな、見たったんや!」
「なにAVみるのに勢い込んどるんや。AVみるのにフンドシしめてどうするんや、フンドシ脱いでみるもんや」
「うまいこと言うてる場合か、ええ加減にせい」(どうも、ありがとうございました)(暗転)
何の確認ごとかわからないことをぼくに電話してくる時点で、兄も「何のために書くか」という作家なら誰しも考える形而上学に苛まれ、葛藤しているのだろう。
AVはあまり勢い込んでみるものではないのだ。

それでぼくは自分の過去のブログを読んでみたのだが、同じようなことをやはり何度か書いている。
ある記事では、偉人たちの言葉を引用してその問いに答えようとしている。


「動物は考えないから、話さないのではない。たんに話さないのだ」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

「つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。」
柄谷行人

「お前は何を書き直してる?」
ウィリアム・バロウズ『おかま』

「それなのに、誰か私のことを小説に書いたらどうだろうなんて、バカなことを思ってしまったものだなあ。そもそも私は書かれたから存在していたのに」
清水義範『私は作中の人物である』

「砂と同じくその本にも、はじめもなければ終わりもない」
J・L・ボルヘス『砂の本』

「この文章を書いたのは、ほんとうに私だろうか。確かにひとつの想念に捉えられていたのは私だ。その想念がひとつの文章になったのだ。だが、想念と文章とは正確に一致しているのだろうか。いや、そもそもかつて捉えられていた想念というものは、つまりいまでは文章から逆に遡って思い描かれるほかない想念でしかないのだが、それははたしてかつて私が捉えられていたというあの想念なのだろうか。そもそもその想念を私のものという根拠はどこにあるのか。いや、この作品を私のものという根拠はどこにあるのか」
ポール・オースター『幽霊たち』

「どこにもないし、なんでもない。でも、なにかがある。言葉はいつも裏切っている。(あたかも「衣服が口を開けている所」をもっているように)。誰をか。作者ではない。読者でもない。なにかを、だ」
ロラン・バルド『テクストの快楽』

「ぼくの小説はおおむね消しゴムで書かれたものばかりだった」
安部公房



そしてぼくの知る限り、読むことと書くことについて徹底的に研究し実験した作品が、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』という小説だ。

この小説がどういう小説か、というのを説明するのはすごく難しいので、「とにかく読んでみてよ!」といいたいのだけど、そういうときは読書会のスーパーアイドル、松岡正剛さんの『千夜千冊』から拝借してかわりに説明してもらおう。

 "この一冊は、中断された10冊の小説の第1章だけでできているという設定で、なんと男性読者と女性読者が分けられている。しかも、「あなたはいまイタロ・カルヴィーノの新しい小説を読み始めようとしている」という有名な出だしで始まる。
 やたらに推理が好きな男性読者は乱丁本を返しにいった書店で女性読者と会う。そこで男性読者は、自分が読んでいた本はカバーもまちがっていて、それはカルヴィーノの本ではなくて、ポーランドの作家タツィオ・バザクバルの『マルボルクの村の外へ』だったことを知らされる。こんな、とんでもないプロットがいくつも用意されている一冊だ。"

結局これを読んでもどんな話なのか想像できないかもしれないけれど、とにかくそんな『冬の夜ひとりの旅人が』のなかに、どうしても引用して紹介したい場面があるから、以下に書きます。


 "思考の客観性は考えるという動詞を非人称三人称形で用いることによって表現できるということをある本で読んだ、つまり《私は考える(io penso)》と言わずに、《雨が降る(piove)》と言うように、非人称三人称形で、《考える(pensa)》と言うというのである。宇宙の中に思考がある、このことをそのつど確認してわれわれはそこから出発しなければならないのだ。《今日は雨が降る》とか《今日は風が吹く》というように、非人称三人称形で《今日は書く》といったい言い得るものだろうか、書くという動詞を非人称三人称形式でごく自然に私に使えるようになって初めて私を通して個人の個性の限界を超えたなにかが表現されることを望みうるのだろう。
 では読むという動詞は?《今日は雨が降る》と言うように非人称三人称形で《今日は読む(oggi legge)》と言い得るものだろうか?よく考えると、読むということは書くということよりもはるかに必然的に個人的な行為である。書物が作者の限界を超えうると仮定しても、それはある個人によって読まれ、その思考力の回路を通過して初めて意味を持ち続けるのだろう。ある限定された個人によって読まれうることのみが書かれたものが書物の力、個人の粋を超えたなにかに基づいた力を帯びていることを証すのだ、宇宙は誰かがこう言って初めて自己を表現するのだろう、《われは読む、ゆえにそれは書く》と。"


実はこれと似たようなことをロラン・バルトという人も言っているらしく、時系列がよくわからないから「どっちが先に言い出した」とか「どっちが影響された」とかは曖昧にしておくけど、とにかくバルトは「《書く》は自動詞か?」といっている。


安部公房は、確か三島由紀夫との対談の中でだったと思うが、書く時に想定する《読者》というのは、結局のところ自分なのだといっていた。
つまりですね!
ようするに、読者モデルなんですよ!
はっはー!
モデル益若つばさがポージングしてカメラの先に見つめるものは、もちろん読者益若つばさ、それが読者モデルだ、ということは誰でも知ってるけど、同じことを作家も考えているのだ。
読者作家なのだ。

だとしたら先に引用したカルヴィーノの『われは読む、ゆえにそれは書く』を安部公房的に再構成するとしたら、こういうことになる。


「われは読む、ゆえにわれはポージングする」(益若つばさ)

「われは読む、ゆえにわれは書く」(安部公房)

「われはAVみる、ゆえにわれは書く」(兄)



今日のブログタイトルはなんとなく村上春樹風にした。


2013/04/16

詞の音響分析

【詞の音響分析】



アジアの純真

作詞 井上陽水
作曲 奥田民生
歌 PUFFY

【A】
北京 ベルリン ダブリン リベリア
束になって 輪になって
イラン アフガン 聴かせて バラライカ

【A'】
美人 アリラン ガムラン ラザニア
マウスだって キーになって
気分 イレブン アクセス 試そうか

【B】
開けドア 今はもう 流れでたら アジア

【C】
白のパンダを どれでも 全部 並べて
ピュアなハートが 夜空で 弾け飛びそうに
輝いている 火花のように

【A''】
火山 マゼラン シャンハイ マラリア
夜になって 熱が出て
多分 ホンコン 瞬く 熱帯夜

【B'】
開けドア 涙 流れても 溢れ出ても アジア

【C'】
地図の黄河に 星座を 全部 浮かべて
ピュアなハートが 誰かに めぐり会えそうに
流されて行く 未来の方へ

【C''】
白のパンダを どれでも 全部 並べて
ピュアなハートが 世界を飾り付けそうに 輝いている
愛する限り 瞬いている

今 アクセス ラブ





【作詞におけるボーカルの諸問題】

ポピュラー音楽の歌詞に私たちが出会うとき、それは誰が作ったものであるのかというのが、非常に曖昧なまま議論しなければならない。私たちが良い歌詞とそうでない歌詞について話すときに、それは真に誰によって創作されたものであるかは本人にも意識されないままに語られることになる。しかし歌詞カードをみてそこに作詞家の名前が掲載されているのをみたときには、それがこの人物によるものであるということを知って、この人物ーー例えばA氏ーーがこの素晴らしい歌詞を書き、それによって私たちは感動したのだ、ということを知るのである。
しかしこれは壮大な誤解である。詞をつくるのは作詞家であるというのは、詞というものを単なる歌詞カード上の文字に還元する作業でしかない。なぜなら、作詞家が書いた《文字》は、作曲家のメロディーによってアクセントが歪められ、イントネーションは変化し、リズム、つまり音符を当てはめる作業によってモーラや音節を切り刻むし、それがボーカルによって歌われたときには、文字や音符では表記の困難な部分、例えば発声や発音によって聴覚的印象は変わり、ナラティブが変化するからである。
作詞家、作曲家、ボーカルというこの三者が、歌詞という領域を囲んで互いの権利を取り合っている、そういう動的な状態を私たちは音楽として聴いているのだ。歌詞は作詞家だけがつくるものではない。
私はここで、歌詞の中に潜んだボーカルの領域について私自身の見解を述べようと思う。歌詞創作における歌い手の諸問題である。
ポピュラー音楽において決してそればかりではないが、ここではより理解しやすいように、読者には《作詞家》と《作詞家》と《ボーカル》がそれぞれ別の人物であると想定してもらいたい(幸いなことに『アジアの純真』においてはこれにあてはまる)。これはただ単にこの三者の領域闘争の図を明確に想像しやすくするための想定であり、この三者が同一人物であった場合(例えばシンガーソングライター)にこの議論自体が無意味になったりするようなものではない。
ボーカルが作詞家がかいた歌詞を旋律にのせて歌う際に、そこに書いてある文字以外のことは歌うことができない。文字という側面からしてみれば歌い手は管理された作詞家であり、その領域を侵すことはできない。しかしそこにおいて侵してはならないのは日本語の意味という認識においての機能という側面においてだけであり、それ以外の部分は歌い手に委任された作詞作業なのである。これは作詞という創出に関する限り「最後に」なされる業であるから、ここで作詞家と作曲家の紡ぎ合わせた言葉が集結し、完了するのである。
例えば、ウィスパーボイスという発声法である。ウィスパーボイスは音声学的に解釈するなら、声帯を振動させない発声法である。日本語にはそれぞれ声帯の振動を伴う発音とそうでない発音があるが、後者は子音にのみ存在し、特に《無声音》という言い方をする。ウィスパーボイスとは、すべての発音を無声音化する作業であり、これは作詞家が意図した日本語の発音とは異なってしまう場合がある。事実、聴音上は全く違う発音である。ウィスパーボイスのもう一つの側面は発声である。まず極端に小さな音量と、複雑な倍音構成である。複雑な倍音構成は旋律を不明確にさせるが、これは歌詞ではなく作曲にかんすることであるのでここでは割愛する。ちなみにこのウィスパーボイスの特徴的な倍音構成は一部の専門家の間で《非整数次倍音》と呼ばれ、《整数次倍音》との心理的な対立が研究されている。
ウィスパーボイスは発声と発音という両側面において、作詞家と作曲家には創出できないボーカル独自の仕事を成している。その点で、これはボーカルの「作詞」であるといえる。
このウィスパーボイスが、本来の発音とは異なるにも関わらず、作詞家の書いた詞を変化させた、つまり作詞家の領域を侵したといえないのは、音韻論的に解釈できる。
つまり、日本語には阻害音という総称でまとめられた子音以外には有声音と無声音の対立関係が存在しないからである。例えば日本語の母音はすべて有声音であるが、無声音で母音を発音しても、その二つに意味を変化させる違いがない(これを弁別的機能がないという)ので、聴音上は印象は違っても、意味は違って認識されないのだ。しかし母音の有声音と無声音の対立があるような言語においては、無声母音は弁別的機能を持つので、意味が変化することになり、その場合のウィスパーボイスは作詞家の領域を侵したといえる。
このように、作詞家や作曲家の領域を侵さない範囲で歌い手に任された作詞作業は、聴き手には決定的な印象を与える。つまりこのボーカルの作詞作業が、作業自体はミクロなものにみえるとしても、聴き手にとってはそれが良い詞かどうかの判断基準になり、さらには歌い手の個性として認識されるのだ。
このようなボーカルの作業、つまり三者の対立関係の中で最後に成される作詞作業のことを、詞の分析において《声体(スティル)(style)》と呼ぶ。これは読み方が同じ「声帯」とは違い、外来語の「スタイル」とも違う。両者を聴覚的に混同しないためにフランス語の「スティル」と呼ぶのが望ましいが、ここでは漢字に内包された意味合いが理解に役立つと期待して漢字で「声体」と表記する(つまり文体に対する声体である)。

私がここでいう声体という用語は、詞学において聴音上重要な役割を果たすが表記が困難であり、事実上歌い手に任せるしかないような曖昧な領域のことである。楽譜は論理的にはすべての旋律を記譜することが可能であるが、それは伝統的に避けられてきたし、二十世紀に入ってすべての音価、微妙な音程を管理しようとする試みも流行したが、結果的には譜面は音楽ではないという事実を再認識させることとなった。同時期に楽譜によって音を管理することを拒否するようなケージのような音楽が、記譜法の歴史の中で依然鮮やかな色味を帯びていることも忘れてはならない。
楽譜は、言語学でいえば音素のように、認識に基づいた記号である。音声学によって聴音上無限に存在する発音を、弁別的機能によってひとまとめにする作業が記譜である。
歌詞、そして旋律によって大まかな作業は決定されるが、その細部は歌い手が選び取る権利がある。発音や発声を意識的または無意識的に選択することで、歌い手は声体を形成するのだ。これは単に「その人らしい歌い方」という程度のものである。声質そのものは変えることは困難であるが、声体を意識的に変化させることはある程度可能である。モノマネは声体模写の芸である(《声帯》模写では決してない)。
声体は主体にとって歌唱のアイデンティティにあたるものである。言語活動においてバルトが示したスティルという用語がそうであるように、詞学におけるスティル(すなわち声体)も、自由に選び取って好きなだけ変化させることはできない。しかし同時に決定的に変化しないものでもない。詞の構造上や旋律の具合によってある程度予想可能なものであるし、曲というものが歌い手にとって一曲ごとに別の人生を生きるようなものだと考えればわかりやすいが、声体は詞や旋律や主体の意識によって常に変化する。しかしもちろん本人の決まったパターンは存在していることにかわりはなく、モノマネ芸人は様々な声体を真似するが、自分自身の声体というものが変化することはない。声質、つまり楽器でいうところの音色は、声体には含まれない。これは大きくは性別や年齢による声質の違いがあるが、まったく本人の意識や曲の構造に関わらず変化することはなく、奏法のひとつとは認められない。
声体に含まれる重要な要素のひとつが発音である。歌詞によって定められるのは音素という弁別的機能に他ならないので、歌い手は歌唱の際に弁別的機能を損なわない程度に発音を選び取る権利がある。英語の[t]の発音は有声音に囲まれると有声化するという同化現象が起こる傾向があるが、歌唱の際に有声化された[r]で発音するか無声音のままの[t]で発音するかは、普段の発話における傾向とは関係なく選び取る権利がある。(例:《shut up》の[t]→[r])
この選び取るという作業は、ほとんどの場合、歌い手の感覚に左右される。それによって意味は変化しないので、別の歌い手が別の発音で歌唱した場合にも、聴覚上それほど違和感はないだろう。ただし印象は違うので、有名な楽曲を別の歌い手がカヴァーしたときに、その発音の違いが違和感となって聴き手に心理的な対立関係を認識させる。声体を似せれば似せるほどモノマネとしての印象が強くなり、声体を全く変えてしまえばオリジナリティあふれるものだという印象になるだろう。しかしどちらも言葉の意味は変わらない。
批評家が今日しなければならないことは、これら無限の声体をいちいち分析することだろう。声体は作詞家がつくる詞ではなく、歌い手がつくる詞なのである。つまり、文字と音楽によって音響機能が(ある程度)決定された本来の意味でいう《歌詞》を分析するこことは別に、歌い手が意識的や無意識的に選択する声体という《歌詞》を、同時に分析しなければならない。歌詞におけるこの二つ目の側面は、聴音音声学がそうであるように、無限のものを相手にする壮大な作業であり、完結は不可能なばかりか、歌い手の数だけ違った分析をしなければならないイタチごっこのようなものであろう。
しかし批評家はそれを分析しなければならない。今日の詞における諸問題の根源がまさにそこにあるからである。
つまり、こういうことだ。歌い手を含むすべての作詞家は、「ブリコラージュ」の芸術に他ならないのだ。レヴィ=ストロースによると、「ブリコレ bricoler という動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブリコルール bricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう)(『野生の思考』大橋保夫訳 P22)。
作詞家、歌い手は、器用な職人だ。経験的に良い詞とそうでない詞を判断し、理論的には全くなぜそうなるかはわからないままに気持ち良い言葉を選び、歌っているのだ。批評家はこの天才的な素人、器用な野生人の脅威となるような、対抗勢力でなければならない。ブリコラージュの詞を余すところなく分析しつくして、作詞家を挑発しなくてはならない。天才的な素人は、私のような分析者を困らせる無理難題をふっかけるであろう。それは研ぎ澄まされた勘と経験哲学の独自の理論に基づいて華麗になされるのだ。しかし私たちは臆してはならない。丁寧に分析するのだ。これが野生の芸術家にとってどれほど恐ろしいことだろう。しかしこの対立関係は、一時的な、仮の対立であることに読者は気づかなくてはならない。ブリコラージュかそうでないかは、テクストからは判断できないのだ。教養ある作詞家、声体を意識的に論理的に計算し選び取る歌い手が、我々と対峙するとき、この対立はもはや意味がなくなるだろう。真の目的は、この対立が全く無意味になるということなのだ。そのために批評家は挑発的に分析を繰り返し、作詞家を手の中で転がすふりをし続けるのだ。理論は捜索活動において必須ではない。理論を習得した者と無教養の者との作品の間に、違いはないのだ。問題なのは、私が統計学的な根拠もないままに身勝手に「すべての作詞家はブリコラージュ」であると断言し、それがまかり通ってしまうような現状にあるのだ。それをそうでなくさせるには、ちょうど植民地政策の時代に白人が野蛮人を相手に西洋主義的な哲学でもって手篭めにしようとしたように、ひたすら私たちの方法で分析を続けることが重要だ。そして最終的にはこの対立が無意味になるはずなのだ。つまり野蛮人の中から教養ある人が生まれ、西洋哲学者が現地で暮らし始めてから長い年月を経てようやく、西洋主義的哲学も野蛮人の思考も、優劣の判断が不可能であるということが真に理解されるように。
創作の段階で声体という要素が誰に権利があるのかという問題は非常に微妙である。
永六輔は『上を向いて歩こう』のレコーディングのときに坂本九の歌が「うえをむいて」ではなく「ウヘホムフイテ」ときこえ、その歌い方に激怒したという逸話がある。これは声体の権利の問題である。結果的にはこの声体は坂本九のものとなり、大ヒットしたのであるが、永六輔は自分の詞の領域を歌い手に侵略された思いであっただろう。「うえをむいて」という詞が「ウヘホムフイテ」にきこえるとすれば、それはその通りである。しかし結果はそうではない。聴き手にとって坂本九の歌唱は多少の違和感があったにせよ「うえをむいて」ときこえるのだ。音声学的にはこれは母音の有気化である。有気は声帯の振動に先んじて空気を出すものであり、日本語には有気と無気が音素的対立関係にない(通常は無気)ので、同じ一つの音素の異音であるといえる。このような場合、どちらかを選択しても歌詞が変化して聴こえないので、歌い手に選ぶ権利がある。これが声体である。声体について作詞家が口出しすることは可能だが、細かな発音の違いは歌い手に意識されない場合が多く、修正は困難である。しかし歌い手がその発音の違いを明確に意識していた場合、作詞家と歌い手のどちらの希望を優先させるかは微妙な問題である。これは作詞家の意識の問題であり、「作詞」という行為がどの部分までの領域をいっているのかという定義の曖昧さが原因である。多くの場合は作詞家と歌い手の権力関係によって解決される。歌い手の方が権力が上であれば、作詞家は文字に書いていない部分、つまり声体について要求はできるが、強要はできない。

しかしながら、このような分析がボーカル自身にとって有益かそうでないかということは、全く無意味な心配だろう。ボーカルがブリコラージュかそうでないかということは、全く彼らにとって関心の対象にはならないだろう。つまり、私がいま述べたような考察は、分析者という専門家にとって有益であるだけであり、創作者にとって有益かどうかは、本人の意識によるだけであろう。
しかしボーカルにとってこの考察が意識された場合に、それが悪影響であったり無意味であったりという心配も無用なことだ。つまり彼ら次第、ということだろう。
実際、歌い手によってこの理論は不可欠ではないが、利用することは可能である。声体は意識しなければ変化は難しい。それを直感的に成せるのがブリコラージュであるし、そうでなく理論的に生み出す玄人にとっては有益であるだろう。直感という最も速いスピードで創出された歌詞は、声体の分析の手の届かないほどの即効性がある。しかし、適当に繋ぎ合わせた音符が偶然フーガのような曲になることが(論理的にはあり得ても)到底不可能であるように、理論によって生み出さざるを得ないものもある。例えば声体によるサブリミナルをつくろうと思えば、声体の分析から始めなければならない。それがボーカルにとってどれだけ有益であるか、もしくは必須であるかというのは、本人の意識に委ねられるのだ。単に彼ら次第であろう。


【ことばに内包された音楽】

演奏法では、カンタービレ(cantabile)という発想記号がある。これは演奏家に歌唱をイメージさせるような奏法を要求するものである。
私は、坂本九が歌唱する『見上げてごらん夜の星を』の間奏部において、弦楽器の奏でる主旋律が「見上げてごらん夜の星を」と歌っているようにきこえることに非常に不思議に思ったことがある。これはカンタービレという奏法による魔術だろうかとも思ったが、実際は作曲の段階で意図されたものであることが後になって理解した。主旋律と出だしの歌詞のアクセントが完全に一致しているこの曲は、ボーカル不在であってもなお、言葉を呼び起こさせるのだ。
日本で作詞家という言葉が、専門的で威厳のある響きでもって重宝されていた古き良き時代には、作詞家は彼らの生きた証をテクストに刻印させるために、旋律とアクセントを一致させることを非常に重んじていた。これは今日私が《言語詞》と呼んでその対極にある《音声詞》との差異を見出そうとしているものであるが、その真髄に流れるテーマは「聞き取りやすい詞」という風にいえるが、これは取りも直さず「作詞家の権威」の象徴である。
私はポピュラー音楽という業界から離れて教育現場に身を置いた坂田晃一氏とこのようなことを長い時間議論したが、彼は私に、やや批判的に「メロ先が詞を衰退させた」と仰った。
作詞家と作曲家がそれぞれの領域を真面目に守っていた平和な時代には、メロディー先行で詞がつくられる「メロ先」と、詞が先行で作曲される「詞先」という業界用語が存在していた。現在では圧倒的に旋律を先行させる傾向があることで、言葉が持つ豊かなリズムやイントネーションは失われたと彼は言ったのである。
これはちょうどオペラにおけるレチタティーヴォとアリアの対立関係に例えることができる。旋律を度外視した朗唱と、旋律が優先されるアリアが交互に合わさって、オペラという全体を構成している。
この坂田晃一氏の台詞には、私はたった一つの台詞でもって反駁することが可能である。「詞先がメロディーを衰退させた」と。
私たちは、普段の発話行為の中で、様々な点で「カンタービレ」を実践している。日本語のリズムの最小単位である「モーラ」が伝統的に「拍」と呼ばれることは、会話の中にすでに内包された音楽的要素を証明するものだろう。「詞先」という作曲上の方法論は、その内包された音楽要素を損なわないように、ときに過剰にして創り出す再構築に過ぎないだろう。それは作詞家という権威が常に音楽の向こうに見え隠れし、神のような侵すべからざる領域として保存する行為なのだ。

男性中心主義的な西洋文明において、「Ladies and gentlemen」という言い方は何を意味しているだろうか。なぜ男性ではなく女性をあらわす「Ladies」が先行しているのか。これはレディーファーストと呼ばれる紳士の幻想的な遊びに他ならないのか。これは、言葉にすでに内包された音楽性が、そうさせているのだ。これはこのことばを音節(Syllable)とよばれるリズムの最小単位で区切ってみたときに、そのアクセントの位置によって証明される。「.」は音節間の区切りであり、大文字はアクセントをあらわす。

LA.dies and GEN.tle.men

上のことばは明らかに三拍子を刻んでいる。二つの語を入れ替えた場合、

GEN.tle.men and LA.dies

となり、4+2の変拍子になってしまう。この慣用表現の語の並びから私たちがわかるのは、発話においてリズムの複雑化を防ごうとする無意識の作業があらわれているということである。これこそが、発話行為に内包された作詞作業(メロ先)である。複雑な6拍子ではなく3拍子の音楽を奏でるために、語を並び替えるのだ。


【曲について】
さて『アジアの純真』の分析に取り掛かるわけだが、この詞を選んだ理由はあまりない。大学の図書館の譜面棚から無作為に選んだ本の中で私の知っている曲を半ば恣意的に選んだに過ぎないが、それでも、私はどれでもいいと思ってこの楽譜(歌詞)を選んだわけではない。理由は、ひとつには、この歌詞が「意味がわからなかった」からだろう。私はこの曲を知っていて、尚且つその詞の内容をある程度覚えていたが、それが文学的に示しているもの(これをシニフィエとよんでいいかわからないが)が何なのかはわからなかった。私はこの詞に全くナンセンスな香りを感じていただけなのだ。
そしてこの詞を選んでから、私はこの詞が文学的に示すもの(やはりシニフィエと呼んだほうがわかりやすいかもしれない)に関する、様々な憶測がインターネット上に存在していることを知った。
以下にその一例を示す。
これは左側の語(歌詞)がシニフィアンで、対応する右の語がシニフィエ(著者の憶測)であると考えていいだろう。
【北京、ベルリン、ダブリン、リベリア】 → 【中国、ドイツ、英国、リベリア】
【束になって、輪になって】 → 【結束して、戦争になって】
【ピュアなハートが、夜空で弾け飛びそうに】 → 【無実の人々が、爆弾によって】
(http://www.asyura.com/0505/asia2/msg/275.html 『『阿修羅♪』より「君はPuffyの『アジアの純真』を素直に歌えるか?」を問うてみる』から引用)

これら憶測は著者の独り言に過ぎないことは言うまでもない。ダブリンがなぜ英国なのか、なぜロンドンではなくダブリンか、ということは一切説明がない。
しかしこうした読解の在り方を私は否定しないし、意味を追い求める作業が(例えそれがこじつけであっても)どれほど楽しい暇つぶしになるかを私は知っているからである。

しかしながら、こうして引用しておきながら、最初に断っておきたいのは、私がこれからする分析は、このような憶測とは一切相入れない全く別のものである。先に引用したシニフィエの憶測は、これからの分析に関して読者にとってなに一つとして手助けとはならないだろう。
私は作者が意図したことになど全く関心がない。
私はこれから詞が聞き手にもたらす音響的機能を注意して観察するのだ。


【母音性の尺度】

母音性というのは発声時の声道の広さをあらわす概念であり、空気がどのくらい自由に流れるかを定量的にあらわすものである。音声学では「聞こえ度(sonority)」とよぶ場合もある。
詞の中の大量の音素をつかまえてこれをあらわすのは少々大変な作業である。私はこれを、五線譜を用いてあらわした。
五線譜は五つの線とその間の空間、つまり九つの場所が用意されているので、母音性の尺度を九つの段階にわけて点で示した。五線の上に上がるほど母音性が強くなる。横は言うまでもなく時間である。それから五線譜にあらわした音素(これは一見音符に見えるが、縦はピッチではないことに注意)を語ごとに直線でつなげ、実際の音符の数と対応するように旗でまとめた(つまりすべての音素は一見八分音符のように見え、音符と同じ数だけ旗でまとめてある)。音素のしたにその発音記号を表記し、モーラごとに下線でまとめた。楽譜上の縦線は小節線である。これで母音性の尺度が折れ線グラフとなり、モーラと音符の対応、どの子音がどのくらい使用されているかが一目瞭然となる。
九つにわけた母音性の段階は次の通りである。

9、低母音[a,e,o]
8、高母音[i,u]
7、半母音[w,j]
6、流音[r]
5、鼻音[m,n,ŋ]
4、有声摩擦音[z, ʒ]
3、無声摩擦音[s,ʃ]
2、有声閉鎖音[b,d,g]
1、無声閉鎖音[p,t,k]

子音の連続する破擦音(つ)や撥音(ん)、促音(っ)などは、連続する音をそのまま表記した。
音符の数は聴覚上よりも楽譜を優先させたが、聴覚上明らかに音符を分割するべきである場合には分析の対象とした。
作詞家がかいた詞をそのまま音素に分解したが、発話の際に通常は発音されない音は対象外とした。


この分析からまず最初に目に付くのは、【A】(ペキン~)と【B】(ひらけドア~)の母音性の差である。この差は簡単に数値化することができる。最も母音性の高い低母音が9、最も母音性の低い無声閉鎖音が1であるから、1から9までの間の平均値を計算することができる。
一番の【A】の母音性の平均値を小節ごとに表すと、
5.7, 6.5, 5.3, 6.3, 6.6, 5.9, 5.0
である。【B】の母音性の平均値は
6.0, 7.0, 7.8, 7.0, 6.3, 7.7, 9.0
である(ただし最後の小節は低母音がひとつあるだけである)。
【B】は【A】に比べ、音符が倍の長さになるが、それと同時に母音性が急激に高くなっている。【A】全体の平均値は5.9、【B】全体の平均は7.2である。
この差は歴然である。これは比喩的に「声の解放」とよべるかもしれない。母音は閉鎖音に比べると明確な調音点がないので、もっぱらその発出を声帯に頼っている。子音性の高い(つまり母音性の低い)阻害音などはそれに比べ口内に明確な調音点をもち、無声音は声帯の振動を伴わないので、忠実なリズムを再現することが容易である。八分音符で構成された子音性の高い【A】が、【B】で四分音符になりタイトなリズムから解放されると同時に、母音性の高い発話が求められるのは自然だろう。母音性の尺度が空気の流れ安さを示す概念であることからわかるように、母音性が高くなればその分声量も豊かになる。
幼児の母音獲得と失語症の母音喪失という点から考えても、母音の解放は本能への回帰である。母音性の尺度は空気とともに心理的な自由度の尺度でもある。
【C】に入ると、【A】と【B】の中間にあたる母音度を形成している。ただし最後の二小節(【C''】)、「アクセス ラブ」の部分は重要な印象を持った響きである。「アクセス」という語は【A'】に出てくる。この語と「ラブ」は、母音の無声音化が起こるので、それぞれ[akses][rab]となる。音符で分割すると[ak.ses][rab]である。撥音と促音以外の子音で終わるモーラおよび音符は、曲全体でこの部分しか存在しない。これが心理的にどのような影響を与えるかということは容易にはいえないが、重要なのはCVC(Cは母音、Vは母音)の音符が八分音符で二つでてくる【A'】が、【C''】になり四分音符で三度連続し、曲が終わるという、この部分の「特殊性」である。音声学ではこれを《有標性》という。この最後の二小節は、極端に有標性の高い音韻構造の音符が続くといえる。CVCという音節(とくにCが阻害音の場合)は日本語という言語体系の中ですでに有標性が高いが、この曲の中で他の音節との差異によって、有標性はさらに高まるのだ。他の音節との対立関係によって、聴覚的印象は変化する。


【旋律とリズム】

詞の旋律とリズムを分析するにあたって、最初に用語を確認しておく必要があるだろう。まずモーラと音節である。モーラ(mora)は伝統的に「拍」と訳されることからわかるように、日本語のリズムを構成する単位であり、俳句などはすべてモーラによってリズムを構成する。古い日本語ではすべてのモーラがCV(Cが子音、Vが母音)であったが、現代日本語はCCVやC(促音など)も許容している。窪薗晴夫によると童謡の詞の三分の二がモーラを音符に当てはめている(『日本語の音声』岩波書店)。残りが音節である。モーラをここではMと表記する。
音節は英語のSyllableにあたる言葉で、母音を中心とした語のまとまりであり、英語圏ではこれがリズムの最小単位となる。日本語においても音節とリズムは深い関係にあり、鹿児島方言では音節とモーラが同一関係にあることが良く知られている。現代日本語では音節はモーラよりも大きな単位である。2モーラが1音節である場合(重母音や促音)など、二つの微妙な違いは重要である。音節はここではSと表記する。
音符(note)をN、その高さ(pitch)をPと表記した。
アクセントをAと表記するが、これは日本語のピッチアクセントのことであり、音程が他の部分に比べて高い部分のことである。急激に音程が下がるアクセント核は略さずにそのまま表記する。
a a=bはaとbが対等(同数、同一)であることをあらわし、a≠bはaとbが対等ではないことをあらわしている。


【A】のモーラと音符の関係を見てみると、
M=N, M>N, M と変化する。
アクセントと音程は「わになって」の部分以外は一致していない。(P≠A)
しかし【A'】では「キーになって」の部分もP≠Aである。
【A】~【A''】はモーラと音節が入り乱れている。「たばになって」は「なっ」で一音符なのでN=Sであり、「キーになって」は「キー」が二音符なのでN=Mである。この部分はモーラと音節が区別されているのでS≠Mである。
【B】に入ると、このすべての要素が結ばれる。最初の二小節「ひらけドア」の部分である。この部分は、
A=Pであり、
N=M=Sであり、モーラと音節の区別がない。
この「A=PかつN=M(=S)」を、《言語詞》と呼ぶ。これは、曲の旋律とリズムが、発話を模倣する形で詞を構成しているという意味であり、《音声詞》と対立する。
《音声詞》の定義は
「A≠PかつN≠M(もしくはN≠S)」
である。
【A】~【A''】は言語詞と音声詞の中間にあたる。
【B】の二小節の後はまたアクセントと音程の不一致に戻り、音楽的な展開部に入る「アジア」の部分でA=PかつN=M=Sになり、言語詞となる。

【C】ではまた言語詞になり、「よぞらで~」の二小節でアクセントから離れて、「かがやいている」でまた一致する。
【C'''】の最後の二小節(「アクセス ラブ」)は、すでに述べたように、CVCでありかつCが阻害音である唯一の部分(ただし「アクセス」は【A'】において出てくる)であり、母音の無声音化がおこっている。ここは[Ak.ses RAb](大文字は高い音程、「.」は音節の区切りをあらわす)となっており、アクセントに準じて語彙を判断すると、「アクセスラブ[ak.ses RAb]という複合語ではなく、「アクセス」「ラブ」という二つの語である。

旋律とアクセントの不一致が弁別的機能を持つ場合もある。この曲では一箇所にそれがみられる。
【B'】の「なみだながれてもー」である。【B】の「いまはもう」にあたる部分だが、それぞれ通常の発話における発音とアクセントを示すと
[I.ma.wa MO.o]
[Na.mi.da na.GA.re.te.mo(.o)]
である。しかし旋律は「もう」には一致するが「も(ー)」には不一致である。つまり【B】と【B'】は語のアクセントが違うにも関わらず、旋律では区別がつかない、よって聴覚上は「涙流れても」ではなく「涙流れてもう」と判断される。

言語詞が発話に準ずる(発話を模倣する)構造をもつことはすでに述べたが、詞の文学的な内容、つまりシニフィエはこの部分において特に重要だろう。言語詞は意味伝達において優れている。
【A】と【B】の対立を、音声素性によってわけてみる。
【A】−母音度、−言語詞
【B】+母音度、+言語詞

この変化は「音から声へ」、「響きから意味へ」の対立である。【A】は音声詞ではないが、A≠Pなのでシニフィエよりもシニフィアンが重要となる。語の意味ではなく音楽としての響きである。それが【B】に入ると「開けドア」という言葉の意味が明確に意識される。これが「響きから意味へ」である。言語詞は童謡に多くみられるが、曲中がすべて言語詞であった場合は対立関係が生じないので、音響的には展開の感じ方が弱い。そこがこの詞と童謡の違いである。
とはいえこの詞の場合もそれほど過剰な演出はない。【A】を完全な音声詞にすれば劇的な変化が生まれるだろうが、そうではない。子音も一貫性が感じられない。例えば閉鎖音の無声音と有声音の対立([p]ー[b]など)は、共感覚における神経心理学的法則では嗅覚や触覚、視覚などを想起させる([明るい]ー[暗い]など)。

最後に、歌い手(PUFFY)の声体について見落としてはならない部分をあげておく。私は1996年に発売されたシングルCDから分析したが、声体は、ライブ演奏やリミックスや他人からのカヴァーによって、無限に変化する可能性があることは忘れてはならない。
PUFFYの声体で特徴的なのは、「かな」への忠実さである。発話における発音よりも歌詞の「かな」を優先させているのが見受けられる。
例えば「ように」という部分では[jooni]ではなく[jouni]と発音している。これはボーカルのパーソナルな偏りなのか、もっとほかに理由があるのかはわからない(例えばレコーディングの際にフリガナのついた歌詞を見ながら歌唱したことが原因など)。

この分析ではもちろん私が気がつかなかったところや見過ごしているところが多々あるだろうことをお許し願いたい。


【分析の意味】

ここまでの分析から私たちは詞の中に何を見出したのか?私は容易に読者の失望を想像できる。分析によって今まで隠れていたものが可視化され、新たな解釈と体験を私たちに与えると、読者はお考えかもしれない。しかし私がいますでに行った分析からわかることは、おそらくほとんどの部分が、読者がすでに知っていたことにすぎない。読者が分析に求める「予想だにしなかった事実」を私は提示することができない。『アジアの純真』に隠されているかもしれない社会問題の隠喩を、私は暴き出すことができない。
私は読者の失望に僅かばかりの釈明をするべきだろう。それは、この分析の核心といえるようなものであるが、それを、私自身の言葉ではなく、随分前に物語の構造分析をしたロラン・バルトの引用によって代弁してもらいたい。

「このレベルの分析は、多くの場合むくわれることがありません。というのも、シークェンスは、わかりきったことという印象を与えるので、それを評定したところで無意味なように見えるからです。それゆえ、その無意味さそのものが、物語の正常さを構成しており、われわれがまだほとんど解明していないある非常に重要な問題の研究をうながす、ということをとにかくよく考えてみなければなりません。ある物語が読解可能であるのはなぜでしょうか?その限界はどのようなものでしょうか?ある物語が意味をもっているように見えるのは、どのようにしてであり、またなぜでしょうか?正常なシークェンス(たとえば、われわれの物語のシークェンス)を前にしたときは、つねに、行為の連鎖が、とっぴさによるか、またはひとつの項の欠如によって論理的にスキャンダラスなものとなる可能性を考えてみなければなりません。そうすることによって、読解可能なものの文法が浮かび上がってくるのです。」ロラン・バルト『物語の構造分析』( 『記号学の冒険』みすず書房 花輪光訳 172頁)

私は《音声詞学》と名付けた詞の分析の最も重要な問いをここで提示しなくてはならない。それは、「詞の音響的機能は何か』である。
ロマーン・ヤーコブソンとクロード・レヴィ=ストロースのボードレール分析が画期的だったのは、文学的な、詩的な分析家にとって最後の切り札を暴き出したことだ。それは、それをエクリチュールを文学たらしめる「何か」という切り札だが、古い批評家はそれを「何か」という状態のまま、大事に温めておいた。全能の神にも似た信仰でもって、芸術というものは究極的には分析不可能であるという自信が、彼らにはあった。であるから彼らはそれを「何か」のままに留めておきたかったのだ。しかしヤーコブソンとストロースはそれを全くもって冷徹な科学者のような精神で分析してみせた。それによって分析が成功したかはさて置いて、少なくともボードレール(もしくは芸術)が「神ではない」ということがわかったのだ。
しかしながら歌詞においては、こうした分析はむしろもっと早くから実践されるべきだった。音響という問題は音楽の問題そのものだからだ。言葉に旋律が乗るとき、音響的機能は完全に変化する。通常の詩の分析が歌詞において通用しないことはもはや明白なのだ。実のところ、この「詞の音響的機能は何か」という問いは、偉大なヤーコブソンから始まった。彼の講義録(『音と意味についての六章』みすず書房)は、音声詞学の始まりである。
私は詞の物語の分析を否定しない。しかし、物事には順序がある。詞の物語分析は、書かれてある文字通りにはいかない。なぜなら、ーーくどいようだがーー詞とは書かれたものではないからだ。そして非常にあたりまえでありながらいままでの分析で無視され続けた詞の本質ともう一度向き合わなければならない。詞とは、歌われるものなのだ。
『アジアの純真』でも、「涙流れても」と書かれた言葉が、歌われることによって「流れて、もう」と変化することはすでに述べた。批評家は、私がすでに行った分析を踏まえて、物語の分析に取り掛からなければならない。
すでに私の役目は終わった。ここから先は別の批評家によって引き継がれるべきだろう。

(完)

2012年8月1日

2013/03/09

オカマ考① オカマまでの距離

今日はオカマ理論について解説します。


●なにがオカマなのか。

一、翻訳
私たちは会話をしているときに知らず知らずのうちにそれを「翻訳」して発言します。言葉のそのままの意味だけで会話をしているのではなく、ある程度遠回しな言い方をあえてして「言いたいことわかるでしょ?」と相手に期待することで会話は成立します。そういえば、こんなCMが昔ありましたね。
家族の朝の食卓。父親と娘が食事をしています。父親は新聞を読みながら味噌汁をすすります。母親はいません。
「おい」と父親がいいます。
すると娘が醤油の瓶をとって父親の前に置き、
「《おい》じゃわかりません。お母さんじゃないんだから」と言います。
おそらく、娘の母親は離婚して出て行ったばかりなのでしょう。しかしこの娘と父のコミュニケーションは見事なものです。「あ・うん」の呼吸ならぬ「おい」の呼吸でしょう。父親が朝の食卓で奥さんに向かって「おい」というのは、「醤油をとってくれ」という意味であり、それ以外の会話が夫婦間にほとんどなかったことがわかります。
私たちは普段、このような方法で意思疎通を図ります。それは言葉というものの豊かさによって広がりを増して、文脈という横軸によって意味を理解します。

二、行きすぎた翻訳
しかし、この「翻訳」が行き過ぎる場合があります。それは、「本当に言いたいこと」が恥ずかしいことであったり、エゴによるものであったり、ナルシズムによるものであった場合などです。
例えば、喫茶店でこのような男女の会話を想像してください。
「ねえ、めっちゃおもろそうな映画あるんだけど、見に行かない?」
「どんな映画?」
「SFなんだけど。マトリックスの監督がつくったんだって。なんかいろんな時代の話でね……」
「ああ、ウォシャウスキー監督ね。それはおもしろいだろうね」
みなさんはこの会話の中の「いやらしさ」を感じたでしょうか?彼女が映画の雰囲気についてを語っているにもかかわらず、彼氏は「マトリックスの監督」という言葉を拾って、それが「ウォシャウスキー監督」だと補足しています。しかしこの補足はこの会話では全く意味を成しません。この場合の彼氏の「ああ、ウォシャウスキー監督ね。それはおもしろいだろうね」という言葉を「翻訳」すると、次のようになります。
「おれは映画には相当詳しくて、監督や脚本、ディレクターや配給会社などを常に意識しながら観ているんだ。まあ、インテリな見方ってことさ。おれはウォシャウスキーを非常に評価しているから、次の新作も相当なものになるだろうという自信があるね」
これをさらに翻訳すると、次のようになります。
「おれは文化人だ」
このように、彼の会話は非常に複雑な形で「翻訳」されています。そしてその原本となる「言いたかったこと」は、文脈とは全く関係のないナルシズムからきているものです。
このような「いやらしい瞬間」が「オカマ」です。その瞬間にどの程度オカマ度数があるかということは、会話の複雑化によってわかります。

(本心のいやらしさ+文脈との相違)×(翻訳の複雑度)=(オカマ度)

これはオカマ理論を学ぶ学生たちが最初に理解しなければならない《エルトンの定理》をわかりやすく譬えたものです。正しいエルトンの定理は以下のようになります。

(感情+環境)÷(オカマまでの距離)=(オカマ度)

三、オカマまでの距離
この《オカマまでの距離》は「どれほど翻訳を複雑化するか、ということです。恋愛の過程をみれば、そのような状態が多く観察できます。
女性が「大丈夫だよ」といえば「かまってほしい」という意味であり、「ばかばか!」といえば「好き好き」という意味であり、「微妙」といえば「特に何も考えていないが好きではない」という意味であり、「かわいい」といえば「特に何も考えていないが嫌いではない」という意味であり、「うけるー」といえば「特に何も考えていない」という意味であり、SNSで「朝から一人でワイン飲んでます♪」とかけば「大人な愉しみ方を満喫しています。セックスがしたいです」という意味であり、それらはすべて卑しさからくる「翻訳」であり、「ちゃんと意味をわかっていないといけない」という前提になっています。
「発言したもの」と「実際の意味」が、関連性がなくなればなくなるほどオカマまでの距離が短い状態になります。(ちなみにここでの《オカマまでの距離》が短いほど《オカマの直径》が長くなり、それによって《ポエトリック・フィールド》は距離の三乗で大きくなります)
つまり複雑化するほどオカマ度があがる、ということです。


距離と複雑化。このグラフでは複雑度を時間(Time)によって明記している。複雑度が増すごとにオカマまでの距離(OkmSv: オカマイクロシーベルト)が接近する。





複雑化の例。複雑化が進行するともう手におえない。中世ヨーロッパではオカマを「イタズラ好きの子供」に喩えていたのがわかる。中心に円形のポエトリック・フィールドが描かれている。







2013/02/11

ぼくがブルース・ウィリスだったとき




今思いだすのは、地震と原発事故があったときに、「神」ということを口にした連中だ。普段、ぼくは様々な出来事の多大な影響の中にあって、しかしそれが神の仕業であるなんてことをきいたことがない。神を信じる人などいないからだ。しかし地震が起こったときに、何人かの連中は神の仕業だといった。ツイッターや、確か、テレビでも。まるで預言者のように、神にかわって語るかのようだった。
地震が起こったとき、ぼくは千葉県のよく分からない農村地帯の電車の中にいた。電車が止まって、ぼくは最悪の事態を想像した。そして目の前に一人でいる女の子をみて、もし次にでかい揺れがきたときにはブルース・ウィリス並みのジャンプでその子を助けるのだという妄想に必死だった。それから車内の全員に指示をする。その想像の中のぼくの台詞のひとつひとつが、なぜか映画の吹き替えのようなイカした声なのだ。
それから思い出すのは、ニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだときだ。当時中学一年生だったが、ニュースで映像をみたときに、瞬時に「第三次世界大戦が始まる!」とアホみたいに思った。政治も歴史もよくわからないぼくだったが、とにかくなぜかそういう風に感じたのだ。

緊急時に、つまり想定外の事態のときに、人は経験的に事を対処するということが出来ないので(だって経験していないから)、その解決策をフィクションに求める。SF映画やホラー小説や、聖書の中に。そうして出てくる物語は、なるべく壮大に、なるべくドラマチックに、なるべく派手な形をとってお披露目されるのだ。
歴史というフィクションもある。ぼくは第一次、そして第二次世界大戦があったという事実を知っているので、その物語の延長線に、わけもわからず「第三次が始まる!」と早合点したのだ。しかし歴史も、数ある「成り得たかもしれない結果の中のひとつ」だとしてみれば、大いにフィクションだ。
逆にいえば……
   例えば……
スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』という小説がある。その小説では第二次世界大戦でナチスが勝利をおさめることになっている。
現実の、つまり学校で習ったナチスの敗北が「成り得たかもしれない数ある結果の中のひとつ」に過ぎないとしたら、同じく「成り得たかもしれない」ナチスの勝利も、現実と同じだけの意味をもつ。しかしそれは、本で書かれたり、映画を観ることで初めて意味をもつのだ。
緊急の事態においてぼくたちは(今までの実体験は通用しないので)フィクションにその解決を求める。だから、爆発的に様々な場所で物語が語られるのだ。そして、そういうときに語られる物語というのは、たいていの場合、大変つまらない。ただドラマチックでゴージャスに仕立て上げられただけの空虚な大作だ。
震災のときに、「ついに人間が今までしてきた利己追及のしっぺ返しがやってきた」なんていわれてもおもしろくもない。
原発の時にみなが口にした「人間のエゴへのしっぺ返し」というもので真っ先に思い浮かんだのは、リチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』だった。これは第二次世界大戦下のアメリカにおける「日本への仕打ち」と「核開発」がテーマになっていて、自己の利益を追求するあまり最後にアメリカがしっぺ返しをくらう、というかなり壮大な物語だった。それをタイトルの「囚人のジレンマ」という言葉が言い換えているわけだけど、この言葉、みなさんは知っているだろうか。きいたことはあると思うけど。
つまり、ここで肝心なのは、
囚人のジレンマというのは、いくら論理的に考えても「しっぺ返しは免れることはできない」ようなシステムなのだ。原発の問題が、しっぺ返しだか神の御業だかわからないけど、リチャード・パワーズのこの小説は、難しい経済学の概念を、フィクションに置き換えてくれた、という点で素晴らしい。
緊急時においてぼくたちはフィクションによって現実をとらえるのだから、こういうことは物語として語られてこそ意味があるかもしれない。

ところで、ぼくはあの三月十一日にブルース・ウィリスになった。重要なのは、目の前に座る女の子に、なるべく変態だと思われずに、彼女を救い出すことだった。

 ――ありがとうと伝えてくれ。
 ――なんだって?
 ――愛しているとは何度も言ったが、ありがとうとは言ったことがないんだ。
 ――ばかやろう、そういうことは、自分の口から言え。

ぼくはそんな風に架空の黒人警官とやり取りをしながら彼女の様子をうかがっていた。しばらくして電車が緩やかに動き出した。
「最悪の事態を想定しなさい」というのはどういうことかというと、「最も派手なフィクションをつくりなさい」ということだろう。
ぼくはあの日、世界で最も派手な男、ブルース・ウィリスになった。メル・ギブソンにも少しなった。ジャッキー・チェンは強いが、派手さでいえばまだまだだった。
女の子はずっとPSPをやっていた。彼女は現実で大変なことが起きているのも気にせず、ゲームの世界に没頭していた。
彼女の手の中には、果たしてどんなゴージャスなフィクションが展開されていたのだろうか。

      二〇一三年、ミネソタ。













2013/02/09

みんなよく読むし書く。がしかぁし!

母が書いた小説を読んだ。母は一昨年ころからなぜか小説を書き始め、ぼくはこの度初めて読んだのだが、もうすでに三作目らしい。一昨目はすでに新人賞に送ったらしい。iPhoneにWordを添付して送られてきたので、苦労してベッドの中で読むことになったが、なんとか読了した。
読み終えてすぐ母に電話した。感想を伝えると、母は冒頭の出だしの文章を自慢し、「宮本輝みたいやろ?」と言ってきた。実に宮本輝みたいな書き出しなのだ。母は昔から宮本輝に一途だ。
ぼくはこの小説を読んで、田中慎弥に通ずるテーマ性を見出したが、母は田中慎弥が嫌いだった。
「こんな小説をかくおかんが田中慎弥嫌いっていうのがよくわからんわ」
と言うと、母は田中の小説について
「宮本輝は、ああいう風には書かん」
と言って、それから笑って
「宗教みたいやな、おかん」
と自分でいった。
これには二重のブラックな笑いを含んでいる。


ぼくも実は小説を書いている。小説は書き終えたらまず誰かに読んでほしいと思うのだが、なかなか読んでくれる人がいない。5分ほどで読める短い話ならいいが、長編となると印刷だけで大変だし、最近は本を読みたいと思う人があまりいない。
いつも知り合いが数人と、家族が読んでくれるだけだ。身内が読むために小説を書いているわけじゃない。ルイス・キャロルじゃあるまいし。
音楽もぼくは作っているが、音楽は誰でも聞いてくれる。Skypeで送れば5分後には感想を言ってくれる。
小説はなかなか読んでくれない。
あまり普段小説を読む人も少ない。
職場で小説を読んでいると、ほめられたりする。
本を読むのが好きだというと、かっこいいといわれたりする。
なぜあんたは本を読まないんだときくと、難しいからとかいう。

しかしみなさんSNSのリーディングには必死だ。電車でも、食事中でも、話しながらでも、寝ながらでも、FacebookやTwitterやブログの精読をしている。そしてそこに書いてあることについて考え、イラついたり、悲しんだり、喜んだりする。
読むだけじゃなく、書いたりもする。好きな歌の歌詞や、時事ネタや、職場の文句や、友人との出来事や、食事のことや、行った場所などを、書いたりする。そしてその反応がどうであるか必死の思いで追走する。

しかし彼らは小説を読みも、書きもしない。

ぼくはSNSの流行とともに、一般の人と文学は近い関係になったのだと思っていたけど、たぶん違うだろう。
なぜならSNSやブログの読み書きというのは、結局のところコミュニケーションだからだ。作者と読者とのメッセージのやりとりが、より迅速なものとなって一般化したのがSNSだ。
しかし文学はコミュニケーションなど全く存在しない。小説は、作者が読者になんらかのメッセージを伝えるものではないし、伝えようとしても伝わらないものだ。
僕たちは中学生のころに「作者の意図はなにか」ということを三十字以内で書かされたりしたが、そんなものは誰にもわからないし、作品とは関係がない。
言葉とはコミュニケーションツールであり、人から人へメッセージは伝わるはずだ、という架空の信仰は、ブログやSNSによって特に根付いてしまったような気がする。
そういう人は「Facebook辞めようと思います」ということをFacebook上に書いたりすることや、「リツイートしまくる人はなんなんだ」ということをツイートしたりすることの矛盾や下品さを省みないだろう。美意識よりも言葉の内容そのものが重要なので、批判や自慢だけが一方的にばら撒かれてしまう。

よくぼくは小説を「わけのわからないまま」読むことがある。それで結局最後までわけのわからないことがある。別に前衛的なものに限ったことじゃなくて、例えばヘミングウェイみたいな小説を読むときもそういうことがある。実をいうとほとんどの小説がそうかもしれない。これがもし会話なんかでそんなことになればぼくはただのコミュニケーション障害になってしまうだろう。つまりSNSではそういう事態は許されない。
そういうとSNSは自由なもので、わけのわからない文章なんかざらにある、と反論されるかもしれない。
しかしわけのわからない文章だと断定できるものは結局はコミュニケーションだとう前提がそうさせている。
だから小説は能動的なようである意味受動的なものなのだ。
わからないまま、とにかく読み進めていって、気がついたら読了している。その読後感は、とても口では言い表せないにしても、とにかく「作者の意図がわかった」とかそういうことじゃない。

そうは言っても、本を読むことが好きな人はたくさんいるだろう。ぼくの知り合いにも、多くはないが、そこそこいる。
SNSをやっている人はというと、友人のほとんど全員だ。

今日は特に意味のない文章を書いたが、ぼくの意図が伝わっただろうか。それともわけがわからないだろうか。どちらにしても本望です。