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2013/09/26

歌詞の響きについて



嵐というアイドルグループの歌の歌詞がいかに気持ち悪いか、ということを説明することは簡単だろうし、ビートルズのレットイットビーの歌詞がいかに良いものか説明するのも簡単だろう。そしてそれらは多くの場合、真実だろう。「ダサっ」と思ったり、「きゅんっ」としたりしたことを説明するのは、混じり気のない純粋な感想に他ならないからだ。
しかし、なぜそれらがダサく感じたのかという原因を突き止めることは若干難しく、それこそが批評家のすることなのだと思う。原因がわかれば、それが今度は理論として使うことができ、作詞のときに役立つこともあるだろう。
しかしながら現在、様々な場において批評家のすることは単なる評論家のそれと変わりない。歌詞の文学的な意味について解説し、それが作られるにいたったきっかけなどの出来事を話し、挙げ句の果てにそのアーティストの波乱万丈な人生について語り出す。アーティストだけならまだしも、その母親の話まで始め、「このような母親への愛が、この歌を書かせたのだ」と締めくくる。もはやそこから音楽はほど遠く、無垢な音楽少年だけがライナーノーツ片手に「なるほど、だからジョンの歌詞は悲しい響きなのか」と騙されるのだ。数年後、バンドマンとなった少年は、自分のつくる歌詞がジョン・レノンのつくるそれとは似ても似つかぬ駄作ばかりであることに気づき、きっとそれは自分の両親が離婚しておらず、つまらない母親を持ってしまったせいだと嘆くのだ。
このような評論家たちのせいで我々は、歌詞を批評する際に本来「あたりまえ」であることを再確認しなければならない。
ひとつは、歌詞を批評する際は、歌詞以外のことを語ってはならない。(作者や時代背景など)
もうひとつは、歌詞は文学ではなく歌である。(つまり「歌われる詩」である)

私はこれまで歌詞の音響的な機能に的を絞ってあれこれと考えてきた。もちろん歌詞は言葉で出来ているので、音響的な機能だけで論ずることは間違っている。しかし、なぜ誰もが歌詞を文学としてだけで論じようとしたがるのだろうか?

歌詞の音響的機能について、どんなことを説明することができるだろうか。それは、「なぜ」嵐の歌詞がえげつなく気持ち悪いか、また「なぜ」ビートルズの歌詞が気持ちがいいか、という「理由」を解明することである。
たとえば、レットイットビーという歌を例に取れば、タイトルにもなっているサビの「let it be」という部分が、滑らかな旋律をになっていることをまず指摘できる。これは英語(とくに米語)において、文中の「t」が、有声音に挟まれた場合に有声音化するという現象で説明される。「t」は[t]という無声閉鎖音であるが、これが有声音化して[l]になる。よってカタカナでかけば「れりびー」という風になる。これによって、この文の中に閉鎖音が存在しないことになる。閉鎖音とは空気を完全にストップさせることで生じる発音なので、閉鎖音を歌にいれた場合、約0.05秒の無音が生まれる。これは例えばフルートなどのスラー表記の演奏とはずいぶん印象が変わり、同じ旋律であっても前者は断続的なもの、後者は継続的なものになる。「レットイットビー」という歌のサビで連続する三つの音の順次進行のモチーフが、Aメロと対比的にメロディアスにきこえるのは、こうした効果がひとつの要因だということができる。しかしいま私が簡単に説明した部分は、音響機能を解明するほんの序盤にすぎない。


作詞において、例えばメタリリックという方法論

《メタリリック》とは、「歌詞についての歌詞」である。しかしこういうことを言えば、多くの人がそれを《メタフィクション》と勘違いしてしまうだろう。
たとえば、ある歌の歌詞の中に、「この歌を君に届けるよ」という部分があったとしよう。これは間違いなくメタフィクションである。文学的な方法論でもって、それ自体について語っているからである。つまりこの歌詞は「文学についての文学」という側面を持った歌詞ということができる。
では《メタリリック》、つまり「歌詞についての歌詞」とはどういうものだろうか。これは、Perfumeの『ポリリズム』という曲を例にあげることができる。この曲のサビの最後で、八分音符5個によるポリリズムが連続する場面があり、音楽的に緊張状態を引き起こす部分である。ここで歌詞が「ポリリズム」となっているのは、ポリリズムという五つのモーラがそれ自体でポリリズムになっているという点で《メタリリック》的だろう。こうした試みが、どのような心理的効果を期待できるのかはわからないが、少なくとも歌詞を《脱文学化》していることは間違いないだろう。
このような音響的効果は絶対的なものではないので、ある程度の対立部分が必要になってくる。二項対立で音響について考えてみると、例えばモーラと音節の対立、無声音と有声音の対立、などが真っ先に思い浮かぶだろう。
前者のモーラと音節の対立は、ミニモニ。の『ミニモニ。ジャンケンぴょん!』を思い浮かべれば良い。
「白あげて 赤上げて」という、音符=モーラの部分と、「ジャンケンぴょん」という音符=音節の部分の対立である。
後者の無声音と有声音の対立では、同じアイドルグループを例にとればももいろクローバーZの『ココ☆ナツ』がある。サビの「こ」の連続と、それ以外の部分である。
このような無声音と有声音の対立で今日わかっていることは、共感覚における神経心理学的法則の成果がある。無声閉鎖音と有声閉鎖音の対立は、明と暗、鋭角と鈍角、細さと太さ、軽さと重さ、などのイメージを暗示させることがわかっている。もしリスナーが『ココ☆ナツ』を聴いたときにサビで急に明るくなったような印象を持ったとして、なおかつこの印象をより劇的なものにしたい場合は、サビ以外の部分に有声閉鎖音を多用した歌詞に変えればいいのだ。

このように、歌詞の音響的機能はある程度予測することができる。これによって文学的な意味とは真逆の効果を生み出すことでリスナーに暗示を与えることは容易である。
これは今日様々な場面できく「緊張と緩和」という芸能論ひとつをとってみても理解することができる。和声においてもっとも有名な緊張と緩和はドミナントとトニックだろう。日本語の歌詞の発音において最も緩和されるものは言語学的に「あ」、次いで「い」である。緊張では無声閉鎖音、もしくは日本語にはない発音であろう。言語学者のロマーン・ヤーコブソンが指摘しているように、幼児における母音の獲得は最初に[a,i,u,e,o]の順であり、失語症における母音の消失は逆に[o,e,u,i,a]の順である。サビにおいて「愛」、もしくは英語の「I」から始まる傾向が多いのは、何も文学的な意味によるものばかりではない。しかし「愛」という音響的な緩和を助長するための緊張の部分を明確に示そうとする方法論を持った作詞家は、残念ながら見当たらない。つまり、『ミニモニ。ジャンケンぴょん』や『ココ☆ナツ』をきいたときに、私はただ「ああ、またか」と思い、作詞家のつくった「なんとなく」の手探り作詞っぷりに、幻滅するしかないのである。

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