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2013/05/11

益若つばさからぼくらが学んだこと

職場で小説を書いていたら同僚がひょいっと覗いてきたので、「いやっ、見ちゃダメですっ!」と女みたいにノートを隠す感じになった。
しかし勘違いしてほしくないのは、ぼくが「小説を書いていること自体に酔っている」ような段階ではないということだ。そんな初々しい段階は中学生のころに終わってしまった。本当に最近は何のために書いてるのかわからないが、いよいよ「自分のため」という風な感じが強くなってきてしまった。
自分が書いた小説に注釈を百二十個もつけ、解説まで書いている。自分の小説に注釈と解説をかく作家がどこにいるだろうか。いや、それだけじゃない。製本して装丁までつくったりしている。一体何がしたいんだ、と自分で思うが、これはほんとうに自分がただただ満足したいだけなのだ。
なんか、こうやって小説を書き、注釈をつけ、解説をかき、印刷して製本し、表紙をつくり、カバーをつくることが、ただただ楽しくなってしまっている。自分でも「これじゃまずい」と思っている。このまま自分一人がただただ楽しんでしまえば、ヘンリー・ダーガーの例をみてみなさい、アウトサイダーなアーティストまっしぐらになってしまう。それだけは絶対に避けねばならない。
かといってぼくは人に読まれるという前提を忘れているわけではない。ただ、どんどんその辺りがいい加減になってきている。数年前にある小説を書いて、それはとてつもなく下衆なエロスな話で、その書き終えた猥雑な小説を、読書好きだという彼女の母親にあげてしまった。読み終えた彼女の母は「なんで私にこれを読ませるのか」と少し怒っていたらしく、この件に関しては完全にぼくがどうかしていた。もう、人が嫌な気分になるとかならないとかそういう次元の話ではなくて「純粋な文学です」という気持ちで猥雑なポルノを様々な人に読んでもらった。

そして、いまぼくは新しい小説を書いているのだが、ますますわけがわからない。なんのために書くのか??

実は兄も最近小説を書いているらしい。
兄は喫茶店で小説の重要なシーンを書き終えたあと、帰り際に無性に風俗にいきたくなったらしく、そのときの思いをぼくに電話で告白した。
「あれだけの名文を書いたんやから、風俗に行こうが誰も文句いわんやろ」
「いや……いわんやろ」
しかし後の金銭的絶望感を容易に想像できる生活環境にいる兄はその気持ちをぐっとこらえ、帰宅したそうだ。帰宅した兄は「AVでもみたろうかな」と思いつき、実に四ヶ月ぶりにAVをレンタルしたらしい。
「あんだけの名文書いたんやから、誰も文句いわんやろ」
「いや……いわんやろ」
「やからな、AVをな、見たったんや!」
「なにAVみるのに勢い込んどるんや。AVみるのにフンドシしめてどうするんや、フンドシ脱いでみるもんや」
「うまいこと言うてる場合か、ええ加減にせい」(どうも、ありがとうございました)(暗転)
何の確認ごとかわからないことをぼくに電話してくる時点で、兄も「何のために書くか」という作家なら誰しも考える形而上学に苛まれ、葛藤しているのだろう。
AVはあまり勢い込んでみるものではないのだ。

それでぼくは自分の過去のブログを読んでみたのだが、同じようなことをやはり何度か書いている。
ある記事では、偉人たちの言葉を引用してその問いに答えようとしている。


「動物は考えないから、話さないのではない。たんに話さないのだ」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

「つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。」
柄谷行人

「お前は何を書き直してる?」
ウィリアム・バロウズ『おかま』

「それなのに、誰か私のことを小説に書いたらどうだろうなんて、バカなことを思ってしまったものだなあ。そもそも私は書かれたから存在していたのに」
清水義範『私は作中の人物である』

「砂と同じくその本にも、はじめもなければ終わりもない」
J・L・ボルヘス『砂の本』

「この文章を書いたのは、ほんとうに私だろうか。確かにひとつの想念に捉えられていたのは私だ。その想念がひとつの文章になったのだ。だが、想念と文章とは正確に一致しているのだろうか。いや、そもそもかつて捉えられていた想念というものは、つまりいまでは文章から逆に遡って思い描かれるほかない想念でしかないのだが、それははたしてかつて私が捉えられていたというあの想念なのだろうか。そもそもその想念を私のものという根拠はどこにあるのか。いや、この作品を私のものという根拠はどこにあるのか」
ポール・オースター『幽霊たち』

「どこにもないし、なんでもない。でも、なにかがある。言葉はいつも裏切っている。(あたかも「衣服が口を開けている所」をもっているように)。誰をか。作者ではない。読者でもない。なにかを、だ」
ロラン・バルド『テクストの快楽』

「ぼくの小説はおおむね消しゴムで書かれたものばかりだった」
安部公房



そしてぼくの知る限り、読むことと書くことについて徹底的に研究し実験した作品が、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』という小説だ。

この小説がどういう小説か、というのを説明するのはすごく難しいので、「とにかく読んでみてよ!」といいたいのだけど、そういうときは読書会のスーパーアイドル、松岡正剛さんの『千夜千冊』から拝借してかわりに説明してもらおう。

 "この一冊は、中断された10冊の小説の第1章だけでできているという設定で、なんと男性読者と女性読者が分けられている。しかも、「あなたはいまイタロ・カルヴィーノの新しい小説を読み始めようとしている」という有名な出だしで始まる。
 やたらに推理が好きな男性読者は乱丁本を返しにいった書店で女性読者と会う。そこで男性読者は、自分が読んでいた本はカバーもまちがっていて、それはカルヴィーノの本ではなくて、ポーランドの作家タツィオ・バザクバルの『マルボルクの村の外へ』だったことを知らされる。こんな、とんでもないプロットがいくつも用意されている一冊だ。"

結局これを読んでもどんな話なのか想像できないかもしれないけれど、とにかくそんな『冬の夜ひとりの旅人が』のなかに、どうしても引用して紹介したい場面があるから、以下に書きます。


 "思考の客観性は考えるという動詞を非人称三人称形で用いることによって表現できるということをある本で読んだ、つまり《私は考える(io penso)》と言わずに、《雨が降る(piove)》と言うように、非人称三人称形で、《考える(pensa)》と言うというのである。宇宙の中に思考がある、このことをそのつど確認してわれわれはそこから出発しなければならないのだ。《今日は雨が降る》とか《今日は風が吹く》というように、非人称三人称形で《今日は書く》といったい言い得るものだろうか、書くという動詞を非人称三人称形式でごく自然に私に使えるようになって初めて私を通して個人の個性の限界を超えたなにかが表現されることを望みうるのだろう。
 では読むという動詞は?《今日は雨が降る》と言うように非人称三人称形で《今日は読む(oggi legge)》と言い得るものだろうか?よく考えると、読むということは書くということよりもはるかに必然的に個人的な行為である。書物が作者の限界を超えうると仮定しても、それはある個人によって読まれ、その思考力の回路を通過して初めて意味を持ち続けるのだろう。ある限定された個人によって読まれうることのみが書かれたものが書物の力、個人の粋を超えたなにかに基づいた力を帯びていることを証すのだ、宇宙は誰かがこう言って初めて自己を表現するのだろう、《われは読む、ゆえにそれは書く》と。"


実はこれと似たようなことをロラン・バルトという人も言っているらしく、時系列がよくわからないから「どっちが先に言い出した」とか「どっちが影響された」とかは曖昧にしておくけど、とにかくバルトは「《書く》は自動詞か?」といっている。


安部公房は、確か三島由紀夫との対談の中でだったと思うが、書く時に想定する《読者》というのは、結局のところ自分なのだといっていた。
つまりですね!
ようするに、読者モデルなんですよ!
はっはー!
モデル益若つばさがポージングしてカメラの先に見つめるものは、もちろん読者益若つばさ、それが読者モデルだ、ということは誰でも知ってるけど、同じことを作家も考えているのだ。
読者作家なのだ。

だとしたら先に引用したカルヴィーノの『われは読む、ゆえにそれは書く』を安部公房的に再構成するとしたら、こういうことになる。


「われは読む、ゆえにわれはポージングする」(益若つばさ)

「われは読む、ゆえにわれは書く」(安部公房)

「われはAVみる、ゆえにわれは書く」(兄)



今日のブログタイトルはなんとなく村上春樹風にした。


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