コミュニケーション・ブレイクダウン


近頃はとんとライブに行っていなかったが、久しぶりに行った。友部正人、オシリペンペンズ、友川カズキの御三方を。
この御三方は「よく喋る」歌を歌うので、ぼくはほとんどそういうものは作らないということもあって、こういう歌への憧れはわりとあるのだ。
この人たちの歌詞を、ぜひ一度分析してみたいと思うのだけど、その前に、ライブをみて思った感想を書きたいと思う。

とさらにその前に、実はぼく自身も久しぶりにライブをするので、その告知から。

(以下主催からのコピペ)
エレクトロバンドLOWBORN SOUNDSYSTEM主催で
偶数月の第三土曜に四谷アウトブレイクで開催中の
Electronic BandのLive、DJ(Techno,House,Juke)、
お笑い芸人も出演する
カオティック・エレクトロニック・オールナイトパーティー!!

今回は男女コンビのエレクトロユニットmacaroomと、
テクノエレクトロポップユニットCue:Specが参戦!!

2013年12月21日(sat)
LOWBORN SOUNDSYSTEM プレゼンツ
「ギリギリシティ」vol.77
@四谷アウトブレイク

イベント公式サイト
http://www.girigiricity.com/

OPEN&START24:30予定
前売&当日1500円
(共にドリンク代別)
※iFLYER( http://iflyer.tv/ja/event/159558/ )
見たで500円オフ!

(LIVE)
LOWBORN SOUNDSYSTEM
macaroom
Cue:Spec
(FOOD)
四谷アウトブレイク名物おつまみ
(お笑い)
ボクオオクボ
倉富益二郎
シュウソウランド
ぜんぶ松本
(DJ)
OCCHIII(伊達男ナイト)
古澤彰(LOWBORN SOUNDSYSTEM)
budspackers
TAKASHI FURUSAWA
アウトブレイク佐藤
(以上コピペ)

何度か出演させていただいたイベントなのだけど、オールナイトだし、四谷とかいう場所なので、なかなかみんな来てくれない。

ところで、ライブの感想に戻るんだけど、一緒にライブに行ったemaruが、「(オシリペンペンズの)コミュニケーションブレイクダウンがどうしても歌えん」と言っていた。
「コミュニケーションブレイクダウン」という曲なのだが、ボーカルの真似もできないし、かといって自分流に歌うとダサくなってしまうらしい。とくに「ブレ」と歌う部分の発音が難しいらしい。
実際、emaruはコミュニケーションブレイクダウンを歌う必要など全くないので、彼女がなぜこれに悩んでいるのか理解はできないが、この話をきいたとき、ふと思い出すところがある。
町田康が講演会で、大阪でINUというパンクバンドをやっていた頃の話をした。
町田康曰く、大阪でパンクバンドをやってる連中が、歌になった途端、関西弁ではなくなるらしい。実際は関西弁の歌詞を書いているのだが、歌った途端に本来の関西弁ではなくなってしまうと。そして町田康は「自分はほんまの関西弁で歌おう」と思ったらしい。
同じようなことをぼくは、関ジャニの曲をきいたときに思った。ぼくは関西人ではないが、関ジャニの歌う歌が関西弁に聞こえない、何というかエセ関西弁に聴こえるのだ。
これはもちろん旋律とアクセントの問題や、発音の問題は大きいだろうけど、もっと別の問題も関わっているんじゃないかと思っていた。
同じようなことは、日本語で歌った途端ロックではなくなってしまう「日本語ロック論争」という話の中心でもある。

ところで、友川カズキの話にうつるが、彼がナインティナインのANNに出演した際、岡村は友川のことを「魂の叫び」と何度も形容した。ラジオでは、リスナーから送られてきたテキトーなフレーズを友川が叫ぶ、という企画があった。しかし友川は、送られてきたフレーズを、叫ぶときと叫ばないときがある。彼はそれを、「言葉に勃起するかしないかの違い」と言った。そしてなぜこのフレーズに勃起するか、なぜしないか、ということを毎回説明するのだが、あまり一貫した理論はないようで、かなり矛盾した説明になっている。
言語のパーソナルな偏りのことをロラン・バルトが「スティル」と呼んだが、友川にとってフレーズが自分のスティルと合致していないと叫べないのだ。それが魂の叫びというものだろう。
そして日本語ロック論争では、日本語のロックにスティルが邪魔をする、という問題だ。しかし歌は言語運用とは違うので、スティルを変えることができる。例えば英語は日本語に比べて単語の中にある母音性が低いということがあるが、これは無理矢理日本語の詞の母音性を下げれば解消される。しかしそうして出来上がった英語的な日本語の歌を歌ったところで、今度は「普段は俺らこんな喋り方しないのにな」ということに悩んでしまう。それもそのはずで、スティルとは言語のパーソナルな偏りであり、それを普段の自分と違うものを歌い続けるということはつまり、人格障害と同じ状態だからである。
だから、こうして考えてみると、ぼくは関ジャニの歌をきいたときに、人格障害者の語りと似たような「嘘つけや」という感想を持ち、町田康は当時の大阪パンク界隈でそう思っていたのだろう。
だからemaruはもちろんオシリペンペンズのスティルを取り入れる必要はないわけだし、誰しも自分のスティルがあって、それをどう歌詞にするか、もしくはそれをどう偽装して「嘘」のスティルを作り上げるか、の二者択一になるのだ。
スティルに正直になるか、もしくは「嘘」のスティルを作り上げるかは、その人それぞれの方法論なのでどちらでもいいのだが、友部正人、友川カズキ、オシリペンペンズは前者だということだ。

ところで、ライブではアーティストはたいてい曲の合間なんかにMCをするのだが、この際に僕の中で「ベタなフレーズ」として真っ先に思い浮かぶものがある。

俺らには、歌うことくれえしかできねえから。

この言葉を最初に言ったのは誰なのか。
今やコントなどでしか聞かなくなってしまった響きだが、遠い昔、これを真面目に言っていたバンドマンたちがいたのだろう。いや、今でもいる。確か、2011年の大震災があったときに、ファンキーモンキーベイビーズが朝の情報番組に生出演してそのようなことを言い、ライブを始めた気がする。震災時はほとんどのアーティストが何らかの言い訳をしなければならなかったが、彼らも違わず言い訳がましい。この言葉は、ちょうど嘘つきのパラドクスと同じように、真偽を判断することができない。しかし意味を考えてみれば、その正しさがわかる。このパラドクスは、彼らが自分でそれを言うことで生じているのであり、「あんたらは歌うことくれえしかできねえからな」と指摘されるのであれば、まことに正しい。実際のところ、彼らは歌うことくれえしかできないし、ぼくたちは聴くことくれえしかできない。
なぜこのようなことを言っているのかというと、ネットである記事を読んだことに始まるわけです。

日々の音色とことば:
10 FEETの「つなぐ言葉」と、くるりの「まぜる言葉」
http://shiba710.blog34.fc2.com/?no=523

ぼくはこの評論のようなものを読んで、この人は何を言っているんだろうかと考えた。そしてそれほど考えるまでもなくわかったのは、この人にとって音楽(歌)とはつまり、①社会的背景、②本人のインタビュー、③歌詞カード、だということで、この三つを通して彼は最終的に、④メッセージ、を炙り出すことに精魂込めているということ。この人はメッセージ、意味を炙り出すことが大好きなんだろう。記事の最後の方ではヤブイヌという動物の鳴き声にまで「世界中にバラバラに散らばって拾い集められるのを待っている面白さの種というメタファーだ」と解説なさっている。なかなかの炙り出し狂だと思う。
このやっかいな炙り出し狂には、「変だな」とは思っても、なかなか反駁できないものだ。「こういう肉は生くらいが一番いいんだよ」といって網から勝手に皿にのせてくるもんだから、食べてみて「もうちょっと焼きたいな」と思っても、なかなか言い出せない。
歌はメッセージではないし、そもそも社会的背景やインタビューは作品に何も関係ないと考えるのが妥当だと思うのだけれど。ぼくの言葉よりも、ジャン=ジャック・ナティエの『音楽記号学』から引用したい。

1)象徴形式(詩・映画・交響曲等々)とは作り手が意味を受け手に送る《コミュニケーション》過程の仲介物のようなものではない。
2)それはむしろ作品の形式や内容に関わる複雑な創造《過程》(創出過程)の産物なのである。
3)また、送られたメッセージを《再構成》する複雑な受容《過程》(感受過程)の出発点なのである。
4)だから、創出過程と感受過程とは必ずしも一致するわけではない。モリノが言うように「創出過程は必ずしもコミュニケーションを目的とはしていない」。つまり、人は象徴形式の痕跡を残さないことができるし、また仮に残したとしてもその痕跡に気がつかないでいることもできるのである。明らかに、音楽におけるそのような例はヴェーベルンやブーレーズの構造はむろんのことシェーンベルクの十二音列のうちに見られる。

確かに、上の記事の人がいうような話は、聞くに耐えうるものがあるし、評論家たちがいうことはいつだってこの程度のことだろう。ぼくも、好きな曲の歌詞カードをじっと見て、そこに隠されているとされる「メッセージ」を探し出そうとすることがないわけではない。それに、一人のアーティストの曲について語るときに「あの人のメッセージは強烈だね」と言った方が楽に会話ができるものだ。しかし一端の批評家であれば、そんなものが幻想であることは百も承知なはずだ。確かに、曲に隠された作者の思いや仕掛けや社会的背景などについて語ることは楽しい。バッハの曲が楽譜をみると鏡のようになっていたり、音符にバッハの名が隠されていたり、そういうことを知るととても知的欲求が満たされて気持ちの良いものだ。しかしそれは決してバッハの曲を聴いていることにはならないし、曲が良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、そういう根本的な話から随分遠ざかってしまっている。
日常会話ならよくても、批評家が言うべきではないことがある。批評のマナーである。
1、音楽は、雑誌のインタビューの中にも歌詞カードの中にも、時代的背景の中にもない。音楽は聴くものである。
2、従って、音楽は音楽そのものの中でしか批評することはできない。
3、歌詞は歌詞カードの中にはない。歌詞は「歌われる言葉」であり、「書かれた文字」ではない。
4、従って、歌詞は引用して論ずるだけ無駄である。

そこで、話は戻るのだけど、彼らアーティストは、歌うことくれえしかできない、ということ。そしてぼくらはそれを聴くことくれえしかできない、ということ。
ただ、それを自分で言ってしまってはパラドクスが生じてしまう。ファンキーモンキーベイビーズが言い訳がましくそれをいったことは、彼ら自身が「歌うこと以外もできます」と言おうとしていることを反証している。なぜなら意味というものには常に別の意味によって邪魔を受けるからだ。だから震災の時に「こういう時だからこそ音楽が必要だ」とか、「正直、それで多くのアーティストは沈黙せざるをえなかったんです」という説明書きが必要になる。ファンキーモンキーベイベーズが選んだ意味はたぶん「応援」だったと思う。彼らは歌うことくれえしかできないにも関わらず、同時に「応援」することを禁じ得なかった。歌に意味を持たせたと同時に、言い訳がましく「歌うことくれえしかできねえから」となるのだ。応援したければすればいいが、歌うことくれえしかできない彼らは、歌を使って応援するというのだ。一見理にかなっているようだが、褒められたものではないだろう。どう考えてもそれを歌にする「意味」はないのだから。
歌詞について語るときに、必ずアーティストの「メッセージ性」について皆が言いたがる。そろそろ歌がコミュニケーションではないことを多くの人が自覚した方がいいと思うのだけど、そう簡単にはいかないだろう。このブログを最後まで読んでくれる人もたぶんいないだろう。ぼくが言いたいのはつまり、それが、コミュニケーションブレイクダウンやでえ、ということだ。




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