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2018/06/22

JOURNAL180622



知久寿焼さんのライブに行った。
急遽いくことになったので、途中から参加。
ちょうど「いなくていい人」の演奏と同時に滑り込む。

ライブ後は知久さんと打ち上げ的な飲みを。

本当に素敵な方たち。マネージャーさんも含めて。

ところで、macaroomというか、KBEというか、我々は、
ちらほらとプロジェクトが進行していて、
やっぱりぼくらがやっていることっていうのは、
ひたすら企画をする、そして実行する、
ということなのだなと思う。

音楽は非常に良いものがつくれることは自分たちでよくわかっているし、
それに付随した執筆や、あれこれも、まあ良いものができる。

ただ、それをどのようにして、より波乱で面白いものにパッケージングするか、
ということをひたすらやっているように思える。

とはいえ、まだまだ自分たちが安心できるようなところにはいないので、
結構、がむしゃらで背水の陣であることは否めないけど、
それなりに緊張感あって楽しい毎日だ。

緊張感は大事だね。

2018/06/20

電車でおっぱいをくっつけてきた女性



満員電車、とはいえないレベルの車内で、
女性がぼくのひじにおっぱいをくっつけてきた。

ぎゅうぎゅうではないにしてもそこそこ人が乗っていたので、
たまたま、な気もしたし、
たしかに違和感のあるくっつきかたにも思えた。

痩せ型の女性で、OL風、ぼくよりは一回りほど年上だろうか。
小さなおっぱいが、ぼくのひじを包み込む。

満員状態ではないので、
ぼくは、姿勢を変えておっぱいから回避することもできたが、
それはしなかった。

その女性は、ぼくの顔をすごく見てくる。なんというか、意味ありげな視線。
そして、ぼくのiPhoneの画面を覗き込んでいる。

ちょうどぼくはそのとき、iPhoneのキンドルでニーチェの『ツァラトゥストラ』を読んでいた。
光文社の新訳のやつだ。

連中がもっとも信じているものは、からだなのだ。連中のからだが、連中にとっては自分の物自体なのだ。

以前にも、電車で体を触られたことはある。
ぼくとしては、痴漢をされることは、
「自分は痴漢の対象になる程度の魅力はあるのだな」
という確認作業ができるし、
それに、相手が普通の女性であれば、おっさんに触られるのに比べて悪い気はしない。

からだを軽蔑する人に俺の考えを言おう。勉強しなおして、意見を変えろとはいわない。ただ、自分のからだに別れを告げてもらいたい。──つまり、黙ってもらいたいのだ。

女性は、ぼくが読んでいる『ツァラトゥストラ』を、読んでいる。
こういうときに、ぼくがキンドル読書をやめて、Twitterでもみはじめたりしたら、
ぼくのアカウント名を検索されたりして、ストーキングに発展するかもしれない、
などと空想しながら、
ぼくはひたすら女性のおっぱいの感触を感じながら、ニーチェを読み進める。
体の姿勢を動かすことはしない。根比べだ。

どこからどう見ても、私はからだなんです。からだ以外の何ものでもない。魂なんて、からだの付属物の代名詞にすぎません。
ぼくは昔から、電車の中で他人の体を触る、ということについて考えたりしていた。
ひとつめ、痴漢という行為自体はそれほど悪いものではない。
ふたつめ、それよりも、強い男性と弱い女性という強力な絶対的な関係性の恐怖が悪いのだ。
みっつめ、レベルの差こそあれ、誰でも痴漢の経験者だ。
よっつめ、いや、それは言い過ぎかもしれない。やはり撤回しよう。
いつつめ、痴漢の問題は、つまるところ、土地の問題だ。ぼくは、ミニスカートのギャルの足を触る男子中学生を電車でみたことがあるが、その男子中学生の目は、発狂寸前だった。そりゃそうだ。思春期真っ只中の男の子が、強制的に、毎朝、年上のエロい女性に囲まれて、パーソナルスペースなんか度外視したぎゅうぎゅうの車内で、それでも手は出してはいけないというルールを守らなければいけないのだから。

女性が、ふたたびぼくの顔をじっとみる。少し微笑んでいるようにみえる。

からだを軽蔑している人たちよ、俺は、君たちとは別の道を行く! 君たちは、超人への橋ではない!

そういえば、以前、女性に体をくっつけてこられたのも、同じ電車だった。
その時の女性は、おっぱいをぼくの腕にくっつける以外にも、
自分の股間をぼくの脚に密着させたり、
顔をぼくの胸のあたりにくっつけたり、
ほとんど抱き合っているような姿勢になった。
そのときも、そこそこ人が多いな、っていう程度で、満員電車というほどではなかった。

ふと、ぼくの中に永劫回帰がおこる。
もしかすると、いま、ぼくにおっぱいをくっつけてくる女性は、
以前に、あのときにおっぱいをくっつけてきた女性と同じなのではないか、と思ったのだ。
確かに、あの時の女性も、痩せ型で小さな胸をしていた。



2018/06/18

JOURNAL180618




義理というのはなんだろうか。
ぼくは、たった数回しか会ったことのない外国人に、勝手に義理を感じている。

その外国人は、日本で仕事をしながら、音楽をやろうと思っていた。
というか、やっていた。

母国でもやっていたんだが、日本にやってきて、
それで日本で初めてライブをする、という日に、ぼくと出くわしたのだ。

日本語はあまり喋れない。
そして、彼は二度目のライブの日にも、ぼくと出くわした。


その日、彼は当初の予定よりも大遅刻してやってきた。
彼が飼っている犬が死んだのだ。

ぼくがお悔やみの言葉をいうと、彼はすこし元気そうな顔をした。
そして犬の写真を見せてくれる。

その日、彼は犬が死んだこととは別に
とても悲しいことを経験したのだった。
ぼくはそれを知らなかったが、うっすらとは、なんとなくは、
気づいていた。
彼は、日本に来たばかりで、日本語もあまり話せず、友達も少なく、
今朝は犬が死んで、それからおいかぶさるように、別の、悲しいことがあったのだ。

それから随分経った今でも、なぜかぼくは彼に義理を感じている。

その気持ちを、ぼくは、素直にメールした。
その日から随分たっていて、それ以来会ってもいなかったけど。

義理というのはなんだろうか。

2018/06/17

JOURNAL180617


次の出版計画をたてている。
いくつかの出版社には声をかけているのだが、
少しその題材を迷っている。

ひとつは、著作権についての本。
もうひとつは、歌詞についての本。

著作権についても、歌詞についても、
このブログで結構書いている内容。

どちらかというと、
歌詞については、ぼくの専門分野に近い内容で、
かなり前に論文のようなものを書いて教授に読んでもらったりなどして、
一応は内容の信ぴょう性のようなものは担保していると思う。

一方で、著作権についての話は、
ぼくは専門的にはなんの教育も受けておらず、
どちらかというと、素人があれこれ考えました、でもそれにしては結構スゴイこと書いてるでしょ?
的な感じになる。

話題性という点では、
なにせ著作権を全否定するような内容なので、
しかもあわよくばパブリックドメインで出版したいということなので、
結構やりようによっては爆発的な話題を生み出すことができると思う。

一方で歌詞の方は、
かなり難しい内容で、しかもニッチな感じ。
一般受けというかヒットを目論むには、何か仕掛けを生み出さないとなあ、と思う。
しかも、著作権の方は、割とメディアでも扱いやすいので、その後の広がりも大きいと思うんだけど、
歌詞の方の内容は、専門家には褒められても、一般的な認知はなかなかされないかもしれない。


んー。

とはいえ、
信頼できる知り合い何人かに、
どっちの本を書くべきと思う? ときいたところ、
歌詞の方を書くべきだ、といわれた。

なるほど、そうなのか。

いまのところ迷っているけど、

歌詞の方を書くとしたら、上記のような問題を解決するための手段を考えなければいけない。

もう少し良く考えよう。

2018/06/14

JOURNAL180614



昨日は、トークイベントだった。
川島素晴先生と、新垣隆さんと三人で。

すばらしい盛り上がりだったね。

本について、落とすとこは落とし、上げるとこは上げる、
自由な形で。

何回か、川島先生が大笑顔で
「だから、この本を読んでも、現代音楽はつくれないんですよ!」
といってて、
ぼくも
「その通りです」
っていう、
そして、新垣さんが小さな声で
「でも、本当に大事なことが書いてあります」
とフォローしてくれるという、
不思議な関係性で進んで行くところ、
出版社の人が見てたら頭をかかえるんじゃないかな。


みなさん、『やさしい現代音楽の作曲法』を、
ある種革命的な試みだと感じてくださっているようで、
本当によかった。
こちらの思いが少しでも伝わったのなら。

B&Bのスタッフさんもやさしかったしね。

そして次はまた別のトークイベントが控えている。

どうなることやら、くらいにしかまだ考えてない。

なんか、このJOURNALシリーズ、ただのなんの変哲も無い日記を目指しているのだけど、
さすがにイベント翌日の日記は、
お客さんにむけた挨拶的な文体になってしまうものだな。




2018/06/08

JOURNAL180608




最近は1日を有効に使おうと、
週間のスケジュールみたいなものを作成している。

たとえば、朝の何時に起きてこの勉強をやって、
そのあと30分後に日記を書いて、
何時にメールチェックをして、
などなど。

フリーランサーの「怠け」という特性と戦うにはこうするしかないのだ。

ぼくは一般的な芸術家の平均レベルとくらべると、ややその変のスケジュール管理が強く、
納期を送れたことはほとんどない。
もちろん、一般的な会社員には遠く及ばないけど、
ほとんど全員が社会不適合者で構成されているゲイジュツカの中では、
割と優秀な方だと思うのだ。

たとえば、ぼくの兄なんかは典型的で、
動き出すまでに随分と時間がかかる上、気づけば終わっている、なんて感じ。

とはいえ、それでもぼくは一般的な会社員とくらべると、
とてつもなく時間を無駄に使っていることが多いので、
ここは、ゲイジュツカらしからぬ「スケジュール管理」なる人類の叡智を利用することにしたのだ。

今日なんか、朝8時から部屋の掃除、これも予定通り。
見上げたもんだ、立派な人間になりつつある。

いわば、自主的ディストピアだ。

自由が欲しくて芸術家になった青年が、
あまりにも自由すぎて何もしなくなるのを恐れて、
みずから規律正しい管理と監視のひとりネットワークを気づくのだ。
ジョージ・オーウェル風にいえば
I am watching me!
ということ。

ところで、上記のような兄でも、
一時期は、創作活動に没頭したときがあった。
それは、ぼくが兄のかわりにスケジュールを管理して、
しかもスケジュールどおりにいかなかった場合には、
兄の親しい知り合いにすぐに密告する、という完全な1984的ルールを設けていた時期がある。

というのもその時期は、兄が、自分は何の創作もできないという、
スランプな無創作病に陥っていて、なんとかそれを打開したい、
ということでお互いが合意したからだった。

なぜこのエピソードを今更ぶりかえしたか、というと、
ただ単に、

Little Brother is Watching You!
(弟はお前を見てるぞ!)
という1984フレーズを思いついたからだ。

ただそれだけ。

2018/06/06

JOURNAL180606



現代音楽のコンサートに行ったのだが、
20曲くらいの曲目の中、
著作権に言及している、
もしくは明らかな形で別の曲を引用しているようなタイプの曲は
三分の一もあった。

それに、なんども著作権という言葉が会話の中に出てくる。

こういったジャンルの創作って、
著作権について考えないでいられる方が難しいんだろう。

ただ、
「もう、いらないんじゃない?」
って言わないのはどうしてだろう。


2018/06/01

自由現代社への怒り爆発の記録



自由現代社から出版された拙著
『はじめての〈脱〉音楽 やさしい現代音楽の作曲法』
が好評でありがたいのだが、

それ以上にぼくは怒っている。
出版社に対する怒りだ。

自由現代社という出版社は、ぼくの本が初めて刊行されて世に出た出版社なので、
心から感謝しているのだけど、
それでも、この出版社が本当に本を売る気があるのか、相当に疑問で、
この大変な出版不況の中で
ただただルーティンに毎日同じ仕事をこなしていくことしか考えていない
ように思えるので、ぼくの怒りは爆発寸前で、

ともかく、その良し悪しの判断は読者の方に任せるとして、
この本が出版にいたるまでの長い道のりを
ここに記したいと思ったわけだ。

この本は、ぼくの持ち込み企画によって始まった。
自由現代社は、教則本をつくる会社で、
本屋の音楽理論とかのコーナーによくある
「一週間でギターが弾ける本」とか、「怖くない♩作詞入門」とか、「ピアノで弾こう 映画音楽」
のような感じの本を出している。(タイトルは感覚で適当につけたのでご了承)

そこでぼくは、「初心者のための」「現代音楽の」「教則本」をつくりたい、という提案をした。

これは普通に無理だと言われたのだが、
そう言われることは百も承知。

1、現代音楽はそもそも初心者向けではない
2、現代音楽は人気がない

ということだ。

どちらも真っ当な意見で、だから初心者のための現代音楽の教則本が世の中に存在していないのだ。

しかし、初心者のための相対性理論や量子力学の本があるのに、
現代音楽がないのはどうしてだろう。

それに、本当に現代音楽は人気がないのだろうか?

ぼくはあらゆるデータを都合の良いように利用して、
言葉のマジックに次ぐマジック、
ソクラテスばりの反論とイリュージョン、
起業家風の洗脳トーク、心理学的な誘導、
売れる本だと想像させる技術、
などなどなどなど、
によって、編集者を口説き落としたのだ。

そして1週間ほどの社内会議を経て、見事出版が決定した。


●IRCAM騒動
付録には、OpenMusicというソフトの使い方を解説している。ボブ(秋山大知)が執筆してくれた。
ぼくはそもそも何か大きなことを成すときに、知り合いを使ってみんなで盛り上がりたいという欲求があるので、
ボブの参入は、すごく良いことだと思った。

そして出版社に提案して、
これにも紆余曲折があったのだが、
時間をかけて口説き落とした。

と思ったら、
「IRCAM(開発元)の許可がないと掲載できないので、掲載しないことになりました」
という連絡。
????

まず、このフリーソフトの解説を載せることに、何の許可がいるのか?
それに、仮に(百歩譲って)許可が必要だとしたら、許可をとれば良いじゃないか。

そこで、ぼくはぴーんときた。
つまり、
第一の理由として、
「よくわからないが、何らかの許可がいるにちがいない。なにか複雑な理由によって訴えられたりしたら怖いからなあ」
という漠然とした超保守的な発想から、許可が必要だということになった、
そして、
第二の理由として、
「とはいえIRCAMはフランスの機関だ。我が社には英語もフランス語も話せる人はいない。」
よって、
「掲載しない」
ということになった。

そこで、まず「許可が必要だ」という幻想は百歩譲って、
ぼくが英語でIRCAM宛てのメールを書くことを提案した。
別にぼくも英語が得意じゃない。でも、努力すりゃいいんだ。知らない単語は調べればいい。もし完全に全く英語を喋れないのなら、英語が得意な人を探してお願いすれば良い。
なぜ、出版社は努力しない?

とにかく、出版社の人がメールを日本語で書き、
ぼくがそれを英文に翻訳する、
ということで決まった。

IRCAMからは連絡が返ってきた。
しかし、その返信内容は、
「許可します」or「許可しません」
と二項対立ではなく、
「ありがとう、うれしいです!で、ぼくは何をすれば良いんですか? 執筆すれば良いんですか、それとも何か資料を提供しましょうか?」
という、まるでこちらの意図が伝わっていない内容だった。
そこで出版社は負けじと返信する。
「そうではなくて、あの、許可が欲しいんです。許可をください!!」
そしてIRCAMからの返信はなくなった。

出版社の結論はこうだ。
「許可がもらえないので、やはり掲載は無しで」

ぼく「メールが返ってくるのを待ちましょうよ」

出版社「3日間もメールが返ってこないのは、国立機関としては考えられないので、もう無理でしょう」

そうなのか??


そこで、ぼくは知り合いの知り合いの、IRCAMと繋がりのある方に相談してみる。
IRCAMとのメールのやりとりをみせると、その方は、
「全くメールの意図がわかりません。これではIRCAMも困るでしょう。そもそも、何の許可がいるのですか?

全くその通りだ。

一体、何の許可がいる?
架空の許可を求めたところで、それはどうにもならない。

その方は、元IRCAM研究者であり、日本の電子音楽における重鎮でおられるので、
そのアドバイスを出版社に伝えたところ、

「しかし、それでも、念のため、許可がなければ出版はできません」
という解答だった。

なんだ!?
念のため!?


そうこうしている間に、IRCAMから2週間ぶりにメールがきた。

「ごめんごめん、バカンスに行ってたから、メール見てなかったよ。
ところで、もしよかったら、開発元がIRCAMってわかるようなクレジットをつけてくれると嬉しいです!」

付録の掲載が、ようやく認められた瞬間だった。


●帯コメント騒動
この本には、新垣隆さん、渋谷慶一郎さん、富貴晴美さん、まとばゆうさん、からコメントをいただいた。
コメントをいただくというぼくの案を、川島先生が受け入れてくださり、
依頼したものだった。

しかし、想像を絶することだが、
出版社は、これらのコメントを「掲載できない」との結論を出したのだ




なぜか。
つまり、自由現代社としては、コメント掲載なんてしたことがないからだ。

この会社の教則本はすべてペイパーバックで、帯はない。
だから、帯コメントなんて経験ないのだ。

なぜ、せっかくコメントをもらって、帯にしないのか。
ぼくはメール受信フォルダに向かって
「ばかものが!!」
と叫んだ。

直接会ってきいてみると、
「ホームページに掲載する、くらいならできます」といわれる始末。
馬鹿か。

この人は本屋に行ったことがないのか?
あらゆる新刊本に帯がついていることを知らないのか?
帯コメントによって売り上げが何倍も変わるという事実を知らないのか?

ぼくは、何度も編集者を説得した。
説得を繰り返し、
「ダメ元で」上司とかけあうということを約束させた。

そして、出版1ヶ月前になってようやく帯コメントが決まったのだ。


●デザイン騒動
デザインに関しては、まだ解決していない問題だ。
ぼくは、本書の装丁が、全然良いとは思わないからだ。
というのも、この本のデザインは、オングラフィクスというデザイン会社に依頼しており、
相当ひどいのだ。
オン・グラフィクスの装丁デザイン

というのも、自由現代社とオングラフィクスはがっつり繋がった関係で、
自由現代社のすべての書籍をこの会社がデザインしている。
ぜひオン・グラフィクスのHPをみてほしいのだけど、
超絶ド素人で、どこでどんなデザイン教育を受けたらこうなるのだろう、というものしかない。

そこでぼくは、大きな間違いが起きないように、
「水戸部功風のデザイン」を要求した。


参考用に送った水戸部功のデザイン

このデザインは、文字だけで構成されたデザインで、
最低限の技術があればかっこよくつくれるからだ。
しかも、今回の教科書的な内容とも合っている。


そしてラフが送られてきた。
ゲロが出るほどひどい装丁だった。
最初のラフ
最終版にくらべると文字のふところが広い


「素人がワードで作成したのか?」と思うようなデザインで、
ぼくは極めて論理的に、このデザインの欠点を指摘した。
そして、参考デザインを送って、
さらに、フォント調整などをして、参考に送った。

再度、参考用に送った画像



左がぼくが作成、右がオングラフィクスが作成
(新垣さんのコメントはまだ完成していなかったため未掲載)


結局、デザインは、
ぼくの最低限の要求(フォントのふところ調整)だけは飲んでくれたけど、
まあこんなもんか、という内容になった。


直接会って、
「いろいろデザインに口出ししてすみませんでした」というと、
出版社の方は
デザイナーにもプライドがあるんで
といった。

それをきいた瞬間、
「もうこの出版社とはやっていけないな」と思った。
ダサいデザインを指摘して、プライドなんか持ち込まれたら仕事にならない。




結果的に、本書は、
発売一週間で増刷が決まり、
Amazonやジュンク堂、丸善などの「音楽理論」のジャンルで2位になった。


だが、怒りはここからだ。


●プロモーション騒動
せっかく、新垣さん、渋谷さん、富貴さん、まとばさん、という方々にコメントをいただいたのにも関わらず、
それを全くプロモーションに利用していないのだ。

自由現代社サイトの説明文


ここには新垣さんの「に」の字もない。
本の画像も、帯がついていない。
なぜか、
ときいたところで、特に理由はないのだろう。
淡々と、今まで通り、いつも通り、の仕事をする、そして17時に退社する、それだけだ。

Amazonに関しては、本の説明文は「一文も」なかった。
これじゃまずい。
だから、ぼくはもう出版社には期待せず、
自分で文章を作って、出版社に送った。
「この文章をAmazonに掲載してください。画像は帯付きに変更してください」
というメールで。
なので、Amaomに限っては帯付きの写真とともに、コメントくださったみなさんの名前が掲載されている。

ぼくが書いたAmazonの説明文


結局、本当のところはわからないけど、
取次に出すプレスリリース文だって、似たような感じのものを出してるにちがいない。
つまり、全国の書店が、本を入荷するかしないか決めるための情報だ。
それを、おそらく上記の自由現代社HPにあるような文章で送っていて、帯コメントなんか全く触れていないのだろう。


●トークイベント騒動
これは短い。
ぼくは本を出版するという企画を立ち上げる段階ですでに、
「刊行記念イベントをしたい」
という計画をたてていた。
しかし、出版社の方は、
「本屋では無理ですよ」
ということだった。
理由はよくわからないが、本屋はイベントなどあまりやりたがらないらしい。
(??イベントやってる本屋たくさんあるけどな)と思いつつ、
もし本屋以外でトークイベントをやることになったら、
販売員として、出版社の方に来て欲しい、と頼んだ。

めちゃくちゃ嫌がられたが、それでもオーケイしてくれた。

結果どうなったか。
本屋でのトークイベントは、すんなり決まった。
下北沢のB&Bという老舗で、

トークイベントができる本屋の最高峰だといえるような場所だ。

本屋でのイベントなので、販売員を出版社から派遣する必要はなくなったわけだ。

それを出版社にメールで伝えた。


すると、出版社から返信がきた。






さてさて、

という、怒りのブログを書いてしまったのだが、
みなさん、どう思いますか?

出版社のやるべき仕事を、やってると思いますか?

ぼくは全くそうは思わない。
数ヶ月かけてぼくが書いた本、
ほとんど金にはならない(印税は出版業界の中では最低ランクの3%)けど、
書くべくして書いた本、
川島先生、ボブ、コメントくださったみなさん、などなど
様々な人が協力してくれた本、
これを、
きちんと売る、最大限売る、余すところなく売りつくす、
というのが、
出版契約の基本だとぼくは思うね。


とはいえ、
自由現代社という出版社には、とても感謝していることにはかわりない。

他の出版社には何のコネもないぼくの本が、こういう形で(無理やりとはいえ)出版できたことは
ありがたいことだ。

もうこの会社で執筆することはないかもしれないけど。



ということで、
6月13日におこなわれる、
本書の出版記念トークイベント、告知いたします。

木石岳×川島素晴×新垣隆 「もうすぐ消滅する作曲家という職業を考える」 『はじめての〈脱〉音楽 やさしい現代音楽の作曲法』刊行記念

出演 _
木石岳
川島素晴
新垣隆 

時間 _
20:00~22:00 (19:30開場) 
場所 _
本屋B&B
東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F 
入場料 _
■前売1,500yen +1 drink order 

■当日店頭2,000yen + 1 drink order

木石岳さん著、川島素晴さん監修の『はじめての〈脱〉音楽 やさしい現代音楽の作曲法』(自由現代社)が刊行されました!

従来の作曲という考え方から程遠い方法論で音楽と向き合った現代音楽の20世紀を経て、サンプリング、パクリ、引用、オマージュ、果ては人工知能による代替まで、「作曲」という言葉の意味は著しく変化しています。
作曲は古いのか?作曲家は消滅するのか?

現代音楽という捉えがたいキーワードを軸に、作曲という行為や音楽という概念、教則本の意義などを考えます。
現代音楽という言葉をあまり知らない方も、作曲家を志す方も、今後の作品の捉え方について考えるきっかけになることでしょう!

ゲストには現代音楽というフィールドワークの周辺で、バラエティ番組での活躍や映画音楽などによって先端性と大衆性を併せ持つ作曲家新垣隆さんをお招きし、お三方に語っていただきます。

ぜひ、お越しください!

【出演者プロフィール】

木石岳(きいし・がく)
文筆家、作曲家。文学・中国武術・先端科学をドッキングするエレクトロ・ポップユニット「macaroom」代表。歌詞の音響的機能を独自に体系化し、ポップ作品として発表している。慣例化されたジョン・ケージ演奏に疑問を呈する試み『cage out』のリリースなど、現代音楽に関連した取り組みも行なっている。

川島素晴(かわしま・もとはる)
作曲家、国立音楽大学准教授。音楽を演奏行為の結果物ととらえる「演じる音楽」という方法論を「笑いの構造」に基づき構成する作品で知られ、現代音楽における諸問題への斬新な取り組みを続けている。ダルムシュタット夏季現代音楽講習会クラーニヒシュタイン音楽賞、芥川作曲賞、一柳慧コンテンポラリー賞など受賞多数。

新垣隆(にいがき・たかし)
日本の作曲家、ピアニスト。桐朋学園大学音楽学部作曲専攻非常勤講師。
HP:http://www.takashi-niigaki.com/

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