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2017/12/29

現代音楽の捕虜となった2017年、そして(なんと)まだおわらない!

2017年はぼくにとって、まさかの現代音楽の年だった。

ぼくは音楽をやっているし、本を読むことが大好きだが、「音楽の本」を読むことはめったにない。
だからぼくはDTMマガジンやサンレコを読んでいる友人みたいにデスクトップミュージックに詳しくはならないし、レコードコレクターを読んでいる友人みたいに音楽オタクになることもない。
ぼくにとって音楽は、大学で理論は学んだけど、それ以上は知識として深掘りする必要のないものだった。


2月

ところが、ぼくは気晴らしに、現代音楽家たちのインタビー集を買って読んだ。
本当にただの気晴らしで、「音楽の本を読むなんて珍しいなあ」と自分で思いながら読んだものだ。

読んでいる途中で、いくつか疑問が湧いてきて、
それは不確定な楽譜と演奏に関するものだった。

それとなく、macaroomでこれを実践してみたらおもしろいんじゃないか、という風に思い立った。
それが2017年の2月のおわり。
emaruに話してみる。
「macaroomで、現代音楽をポップに演奏してみようと思うんやけど」
「うーん、ウチはよくわからんけど、いいんやない?」
こんな感じだ。

次の日には川島素晴氏に連絡していた。
そしてなんと次の日には川島さんと喫茶店での会合。

このときにはぼくはまだ、
2017年のあいだ中ずっと続くことになる
現代音楽の魔の手が忍び寄っていることに気づいてはいなかった。

ちなみに、ぼくと川島素晴さんは、ほとんど交流はなかった。
川島さんもぼくのことを知ってはいたが、会話したことはない。

喫茶店おはなしをしながら、いくつかのことがまとまった。
ジョン・ケージがいいんじゃないか、ということだ。

6月

それからというもの、
ぼくは論文をかいたり、
調べ物をしていきながら、
そして川島さんと議論を重ねていきながら、
ジョン・ケージの不確定性の音楽をポップに演奏する、という試みが少しずつ形作られていった。

それについては、
でまとめているので、読んでほしい。


8月

そしてmacaroomの不思議なミニアルバムが完成したのだった。


音源はダウンロード販売で、iTunesやAmazon Music、mora、Bandacmpなどで販売しています。
macaroom - cage out (iTunes)


そしてドキュメント映像まで作り上げてしまった。





さらにmora主催で、川島素晴さんと対談をすることになった。


こちらに特集記事
『ジョン・ケージ没後25年 川島素晴×アサヒ(macaroom)対談』
があるので読んでほしい。
さらに対談は動画として公開されている。
もちろんジョン・ケージの話、不確定性の話から、
そもそも現代音楽とはなんなのか、というのをぼくがアホまるだしで質問し、
川島さんが専門的にこたえていく傑作対談。





9月

ここまででお腹いっぱいな気もするが、まだまだ終わらない。

よしときゃいいのに、ライブイベントまで決行したのだ。


それが9月23日におこなわれた『世界未来音楽会議』
ポップVS現代音楽という図式で、川島素晴さんにもご出演いただき、
当日はとにかく狂騒につぐ狂騒だった。

世界未来音楽会議の結果報告』にまとめているので読んでほしい。


12月

そしてこれでも終わらない。
今度は川島素晴さんから我々へのアンサーソングというか、挑戦状、というか赤紙が届いたのだった。

それが12月16日に行われた『CAGE IN』というライブイベント。
こちらはジョン・ケージ一色。
3時間半、ジョン・ケージのみ。こんなイベントはめったにないんじゃないかな。
出演者としてもうんざりするくらいケージまみれで、出演者全員ノイローゼになったイベントだった。


この歴史的イベントについては、emaruがブログにて写真たっぷりに紹介しているので、
こちらをお読みいただきたい。
emaruブログ『両国門天ホールにてCAGE INでした



来年

さて、これですべて終わりというわけじゃない。
実は来年、ぼくはとある出版社から本を出版することになったのだが、
これがなんと現代音楽に関する本なのだ。
というわけで、目下執筆中。
そのせいで、ここんとこ毎日現代音楽と対峙しているというわけだ。
来年もまだ現代音楽から足を洗うことができない。

しかし、macaroomは現代音楽ユニットではない
決して違う。
なんとしても違う。
我々はポップなユニット(なはず)だ。

というわけで、来年はmacaroomの(ポップな)3rdアルバムが発売される。
近々詳細を発表させていただこうと思うけれど、今日のブログではここまで。


2017/11/13

山下陽光とピエール・ブーレーズの新しいレスポンソリウム

※この話の構成は、
ブリコラージュとアカデミズムの中間に「気絶」を挟んでいます。
どうぞお楽しみに。

とりあえずは、
山下陽光氏ひきいる「新しい骨董」の講演会をみにいった。

山下陽光氏はファッションブランド「途中でやめる」や「バイトやめる学校」などで知られるアーティストで、日本のいわばブリコラージュ的芸術、いや素人芸術といった方がいいのかもしれない、の雄なわけだ。この手の雰囲気でいま最も有名なのが坂口恭平氏であろうし、かつては赤瀬川源平のような人もいた。
それに写真家・下道基行氏、編集者・影山裕樹氏を合わせて「新しい骨董」という芸術集団で、これにさらに建設途中の鉄筋コンクリート「蟻鱒鳶ル」の設計者でオーナーの一級建築士・岡啓介を交えての講演会であった。

蟻鱒鳶ル

山下さんはぼくを見るや否や「君は絶対に会ったことがあるよね!」と話しかけてくる。
講演会はとてもおもしろかった。そして蟻鱒鳶ルという建物もとても素晴らしいと思ったね。
ビルの話や、新しい骨董の3人のこれからの構想など。
結局のところ創作活動とは土地の争いに他ならないことを再認識できた。

その後飲み会へ。
講演の主催者と客入り乱れて。飲み会に参加した客はそのほとんどがアーティスト。
ダンサーや写真家や建築家や編集者やデザイナーなど。
それも、こういったブリコラージュ的なアートが大好きなタイプのアーティスト。数時間の飲み会の間に何度「坂口恭平」という単語が飛び交ったことか。
みなそれぞれ芸術的志向が強すぎて話が噛み合わない。
気づけばぼくは全然知らない編集者のおばさんに「税金だけは払った方が良い」と説教されていた。
それから「新しい骨董」を「価値転換を促す素晴らしい試み」だとか「一瞬で面白いと思える作品」「ブランド品とは違う価値がある」とかなんとか。
ぼくは「新しい骨董」は新手の詐欺だと思っているだけなので、それを伝えるが、あまり芳しくない反応。
その間、影山裕樹さんはぼくの巻きタバコをずっと下手くそな巻き方で吸っていた。ぼくは残り少ないタバコを気にしながら少なめに巻いて吸うが、影山氏はおかまいなしだ。
山下さんはすぐに別のテーブルで熟睡をはじめる。

300円均一の居酒屋で5杯ほど飲んだが、会計は全員一緒で3000円だった。
誰がこんなに死ぬほど飲んで食ったのかわからないが、おかげで5杯分も損してしまった。
こりゃバイトやめれんな、と憤りながら店を出る。みんな「安い安い」言ってたが冗談じゃない。
山下氏は解散のときも熟睡しており、誰かが介抱していた。
それを尻目に、私はその日知り合った妖艶なコンテンポラリー・ダンサーと2人で駅まで向かう。

妖艶なコンテンポラリー・ダンサーとは別々の電車に乗る。

その電車で、ぼくは失神したのだ。

数年ぶりのことだが、前にも一度そういうことがあった。
酒を少ししか飲んでいないし、とても泥酔しているとはいえないのだが、
とにかく電車で気を失ってしまうのだ。5年前くらいの話。
それ以来の失神。
ぼくは知らぬ間に気絶して床にぶっ倒れていて、おっさんに抱え上げられる。
床に落ちた携帯を拾い上げて、目的地でもないのに電車をおりる。
駅のホームの地べたに座り込む。ホームは人で溢れているが、地べたに座っているのはぼくだけ。
大量に汗をかきながら、最終電車になんとしても乗らなければならない。
汗だくで再度電車に乗り込む時、
「あれ!? あ!」と男性が話しかけてくる、山下陽光氏だ。
山下さんはちょうど電車を降りるところで、ぼくとは入れ違いになった。
ああ、どうも、
と朦朧の中で答え、めちゃくちゃ微妙な感じで別れてしまった。



そして次の日は、ブーレーズのレポンだ。
ブーレーズとのレスポンソリウム。
ボブが「絶対に行きたいん内容なんだけど絶対に行けない日程なんだよ」とずっとぼやいていた企画。
だから、ぼくは絶対に行かねばならない。

ピエール・ブーレーズといえばわれわれmacaroomの大大大師匠、
エレクトロニカの大先輩、いやエレクトロニカの創始者といっても過言ではない、
そんなデタラメ半分をemaruに力説し、
ボブの無念を2人で晴らすべく参戦したわけだ。

ホリガーの無声子音ばっかりの合唱曲は本当に素晴らしかった。
譜面をみてみたいと思ったね。みんな静かにしてたから、空調の音まできこえてた。

そのあとのメシアンのオルガン曲は、途中ですっかり寝てしまった。前日から体力が全然回復していないんだもの。
途中で何かの音にびっくりして起きたんだが、
その時に、前日に蟻鱒鳶ルの岡さんと「映画の途中に寝るのは絶対によくない」という話になったことを思い出した。
それに対してぼくは「絶対によくないんですけど、それでも上映中に寝た時の体験は素晴らしい」とかいうことを反論したのだった。岡さんは苦笑いだった。
目が覚めてプログラムを見ると、ぼくが寝ていたのはちょうど平和を象徴する鳥の章であった。素晴らしい。

そして森垣圭一さん書き下ろし作品。
メシアンが書いて弟子のブーレーズがパクった音列を、同じく弟子の森垣さんもパクって、ソリストたちが音列のバリエーションをやってくというもの。そのうちに音列が音色をまたいでいくから、どれがどれかわからなくなってく感じの曲だった。この曲は森垣さんのサービス精神だろうね。

そしてブーレーズのレポン。めったにない環境で、観客を50台のスピーカーと演奏者が囲んでいる。オケとソリストとMaxのリアルタイム処理。ツィンバロンなんかもいたりして。
基本的にはディレイばっかりで、
最後に少しだけリングモジュレーション。
リングモジュレーションのビョーンっていう感じは、なんとなく時代を感じさせるというか、古き良きアヴァンギャルドな響きでいいね。いまはあんな音(ダサいから)ぜったい使わないもの。
しかしリングモジュレーションがほとんど使われなかったのはブーレーズの音列のせいなのか、それとも当時のリアルタイム処理の限界地点だったのかは、よくわからない。
とはいえ、MAX操った今井慎太郎さんは、IRCAMから取り寄せたプログラムを、「これなら自分でやったほうが良い」
と判断してプログラミングし直したらしいから、今考えると相当に単純なものだったんではなかろうか。

昨日のアウトサイダー的なブリコラージュ的アートから、
一転して超アカデミズムな場所と雰囲気で現代音楽。
素晴らしいね。その間に失神を挟んでいる。

主催の川島素晴先生とは今年はずっとコラボし続けている。
12月16日には先生主催のジョン・ケージ一色のイベントに我々macaroomも参加するのだ。

疲れ切った私は、飯もろくに食べれなかった。
寒いのに雪見だいふくを食べ、そして寝た。


2017/11/06

JOURNAL171106



最近はやたらと忙しく、まるで売れっ子作家のようだ。
執筆、デザイン、音楽制作、ラジオ収録、企画会議、撮影、などなど

・ラジオ収録
・macaroom 3rdアルバム制作
・現代音楽イベントに向けた準備や打ち合わせ
・出版社から依頼された音楽教則本の執筆
・自主企画雑誌の制作
・依頼された複数の広告デザイン
・依頼された楽曲制作

不思議なことに、毎日いそがしい。

12/16に行われる現代音楽イベント「CAGE IN」は、ぼくらがポップス側の人間として、つまり「アウトサイダー」として出演するということで、ようするにアウェイな感じという主旨なのだが、
最近はぼくも現代音楽に関連して研究・執筆・論文・などなどここ数ヶ月続いており、あまり「素人」ともいえなくなってきてしまった。
つまりぼくは「現代音楽素人」のふりをしているけど、実際のところ専門家になりつつある過渡期にあるわけだ。
イベントのコンセプトとしては困ったもんだ。







2017/09/29

世界未来音楽会議の結果報告

2017年9月23日に「世界未来音楽会議」終了いたしました。
ケージ没後25年を冠する日本で唯一のイベントにして現代音楽とポップスを破壊する伝説的なイベント。



イベント終了後、出演者も含めて多くの人が興奮に包まれ、一つの空間で芸術的な爆発状態にいるようでした。
企画者であるぼくも、「これは伝説的なイベントになる」とは言っていたものの、それを実際に目の当たりにし体験し、ここにいた人たちが数年後に何らかの形でこの日を感慨深く振り返ることになるに違いないと確信した。






●現代音楽が大衆に戻ってきた!!

今回の企画のまず第一のコンセプトである、「cage out」という考え方、
これは、現代音楽が権威主義的な、アカデミックな、高尚な、真面目な、偉そうな、難解な、ものになってしまったことへ断固としてノーを突きつけるというものだった。
そして、現代音楽の若き巨匠である川島素晴先生と、謎のエレクトロニクス「木洩れ日エレキ」による、ジョン・ケージの同時演奏ぶっつづけの30分間。
爆笑に次ぐ爆笑であり、客席からは(関東圏のイベントにしては大変珍しく)ツッコミが自然と出てきたのである。
川島先生がステージ上でポテトチップスとカップラーメンを食べ始めた時には、ぼくも自然と「ただの一人暮らしやがな!」と声が出ていた。

演目
1 The Wonderful Widow of Eighteen Springs
2 Branches + Song Books + Solo For Piano
3 A Flower

注目は、10種類の植物を用いて指示通りに曲を展開していく大作「Branches」を木洩れ日エレキが演奏し、
同時に川島素晴が90曲以上ある歌集「Song Books」を演奏するという部分。
Branches+Song Booksの同時演奏はmacaroomと同じであるにもかかわらず、この様変わり、そしてやれば必ず客席から笑いと感嘆をとる腕前は流石の一言だ。




大爆笑大歓声のジョン・ケージ演奏、これを目撃できたことに誰もが感動していた。
その証拠に、木洩れ日エレキのDavid氏(壊滅的に日本語が喋れない)は、この日に「感動」という日本語を覚えたらしい。
「今日、覚えました、言葉、カンドウ」



●エレクトロニカ勢の猛襲
しかしながら、Jobanshi、ermhoi、macaroomというエレクトロニカ勢が「大衆性」と「難解さ」においてただ親指を咥えているわけではない。



Jobanshiはこの日のために88曲ものアンビエント作品を制作し、それを30分間で同時演奏するという驚異的な実験を淡々とこなしていた。ぼくはJobanshiの演奏に常日頃から「僧侶のような態度で音楽に取り組む人だ」と思っていたのでそれを告げると、彼は「思えばぼくはずっと修行をしているのかもしれない」と言っていた。そう、Jobanshiにとって演奏はエンターテインメントでも快楽でもなく、修行であったのだ。さて、客はその修行にただひたすらに耐えるのかというと、そうではなかった。フルイドアーティストのジョンと武術家の木石南が口を揃えて「Jobanshiのような音楽をやってみたい」と言ったのはライブ終了後まもなくだった。

またermhoiのライブも同様に、客席の反応が渦巻いていた。おそらく、こんな原石が下北沢の小さなライブハウスにいるなんて想像もしていなかった人たちだろう。ぼくは内心、今回のイベントですべてのアーティストにアンコールがかかるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。いや、事実アンコールになりそうなギリギリの状態だったが、客席で全員がおそらく空気を読んで、大トリであるmacaroomまで我慢をしてくれたのだろう。そうでなけりゃ一晩でイベントが終わらなくなってしまう。



●そして、cage outへ
macaroomはエレクトロニカのユニットとして活動しつつ、「cage out」というジョン・ケージ演奏のアルバムを発売しているので、今回のイベントとしてはちょうど中間に位置するような存在だ。
しかし、ぼくは難解さを前面に押し出すことはしたくなく、ましてや川島素晴先生が現代音楽の最高峰で最先端といえるケージ解釈を見せつけてくれたので、むしろ安心してポップさに徹することができたのだ。
ジョン・ケージは素晴らしい。川島先生はあれほど狂った演奏で客席を大爆笑に包むのに、macaroomは全く同じ楽譜をもとにこれだけ幸せなポップサウンドでイベントを締めくくれるのだから。

セットリスト
1 mizuiro
2 homephone TE
3 yeah, we're low force
4 shinkiryu dropper
5 congress
6 Branches + Songbooks
7 ame
8 kingdom (アンコール)





 

macaroomによるBranchesとSong Booksの演奏は、お客さん(Twitter : Takeluxurylife)が撮影してくれているので拝借。ボブのシステムと木石南の武術、そしてmacaroomの演奏が初めて大集合で結実された瞬間であり、本当にジョン・ケージが没後25年を経てようやく自由になった(cage outした)瞬間だった。



企画イベント、レコ発ということで、なにげにグッズなど補強していました。
トートバッグは、emaruによるゆるゆるバージョンとぐちゃぐちゃバージョン、そしてぼくの絵によるバージョンと3種類も用意したが、すべて完売!








●ボブがシステムを語る
macaroomが今回用いた演奏システムに関しては、昨年のイベントと同様、ボブがツイッターで解説してくれているので、それを拝借。普段はあまりシステムのことをとやかく言ったり、ネタバラシはしないのだけど、こうした企画イベントでは逆に全部言っちゃうというのも恒例化しつつある








●展示作品が日本初であることはおかまいなしに



ジョン・ボッチによるフルイドアートの作品展示はイベント全体の士気を上げ、また会場の雰囲気をますます抽象度の高いものにしてくれた。ほとんどはフリップカップとよばれるスタイルでつくられているが、一部はスワールと呼ばれる、先月くらいにトレンドとなったばかりの作品まで展示されている、スワール流行後の作品展示はおそらく日本で最初のはずだろうし、貴重な展示であったことは間違いない。レコードの上に描いた作品はすべて2000円という超超激安で売るところもジョンらしい。



みんなで仲良く打ち上げました。
macaroomは次の企画へと大忙し。なんとついに3rdアルバムが発表されるとか。
左からジョン・ボッチ、木石南、アサヒ、emaru、ボブ



2017/09/15

JOURNAL170915




市役所の収税課を訪問。
市県民税、健康保険税などを払っていないことによる財産差し押さえを危機を迎えたからだ。
現在家がないことや、収入がほとんどないこと、音楽活動をしていることを告げる。
とりあえずぼくは確定申告をきちんとしていないので、それをするということになった。
そうすると非課税対象になり、なんとか財産差し押さえにはならないらしいが、
もろもろの審査など含めて1年くらいはかかるらしい。
なので、1年間は、そうした差し押さえの文章などが送られつづけるという。

ぼくの横には、おっちゃんが職員とやりあっている。
「納期はとっくに過ぎてるんですよ!」
「だかあら再来月に120万入るっていうのが確実なんだから、それで払えるっていっているでしょう」
「もうね、待てないんですよ」

その横には、丁寧に謝る中年男性。
「すみません、これはおれが悪いです。本当にすみません」
謝り続け、職員がなだめている。
その男性が帰ろうと席を立つと、足から腰にかけての違和感のある曲がり方。
身体障害者であった。
「あの、本当に、すみませんでした!」
めちゃくちゃあやまりながら彼は杖をついて帰っていった。

そしてぼく。
「あの、ぼく、家も財産もないんですけど、なにを没収されるんですか?」
「ううん、、、ええっと、、アイフォーンですかね」

そう、ぼくは、アイフォーンを没収されるという危機に面しているのだ。

話し合いを終えて帰る道すがら、
東南アジア系の女性に話しかけられる。
「ボランティア、ボランティア!」
見ると、アジアの子供達の写真をたくさん持っている。
「ああ、募金?」
ほとんど日本語は通じない。英語もダメだ。
「私は大学生です。毎日4時間ボランティアしてます」
「なんのための募金?」
「アジア! 全部!」
「アジアのどこの国への?」
「アジア! 全部!」
「あのね、ぼくは今、財産差し押さえの危機にあってね。差し押さえ、わかります?」
「焼きそばはわかります」
「いや、お金がない」
「わかります。バイバイね」

ぼくはやや罪悪感を覚えながら、一銭も寄付することなく去っていった。


2017/09/05

JOURNAL170905




大阪にいる兄が「自分はサイコパスかもしれん」といってきた。
いわく、自分のせいで周りの人たちをたくさん傷つけ、家も、恋人も、仕事も、同時に失ってしまったらしい。

兄から電話でことの詳しい顛末を聞いているとき、ぼくは『ハムレット』を読んでいたのだが、
なんてシェイクスピア悲劇のような終わり方だろう、と思ったのだ。

とはいえ、兄がサイコパスかもしれんということは、ぼくはすでに1年前から気づいていたので、
電話で母に警告を出していた。
当時、ぼくから「兄がサイコパスかもしれん」と言われた母は、
「なんじゃそら」
という反応だったが、一年経った今、
母は電話でぼくに、
「みなみ(兄)から電話がきて、自分はサイコパスかもしれんっ言いよったよ」
というのだ。

兄は、日頃の行いを後悔し、
まわりの知り合い一人一人のところへ赴き、
自分が今までいかにバカだったかということを懺悔しに回っているらしい。

そんな太宰治的なサムい状況に陥り、
挙げ句の果てに床屋で生まれて初めて坊主頭にまでなった兄。

失恋して坊主頭にすることほど俗っぽいことはないし、
これに関してはがっかりなのだが、

優しいぼくは、そんな兄に

化粧を塗りたくって飾った娼婦の頬も
言葉で塗りたくってごまかしたわが行為ほどに
醜くはない。

という『ハムレット』の台詞をプレゼントした。

「ぼくのことが書かれてあるやんけ」
と兄はいったが、
ともかく、兄は心理的には大阪で「全てをうしなった」ような気分らしい。

ということで、兄が東京に移住してくる、というお話。


2017/08/21

いい加減人に年齢をきくのをやめてくれ



人に年齢をきくことは失礼だという誰でも知っている当たり前のことが、なぜ誰にもできないのか?

驚くべきことに毎日必ず、誰かに年齢をきかれるか年齢のことが話題になる。
毎日、必ず。

人に年齢をきかれる度にストレスをかかえることになる。おかげで肌荒れもひどくなる。
初対面で唐突に年齢をきいてくるゴミ屑もいれば、
会う度に「何歳になったんだっけ?」ときいてくる痴呆もいる。
一体全体、年齢がなんだというのだろう。
とかくこの国は年齢による差別意識が高いから、人々は年齢に怯えながら暮らすことを余儀無くされる。
テレビをつければ子供達が水着を着て歌っているし、
大きな企業の受付ほど未成年の女の子がぼうっと座っている。
年齢によってがんじがらめにされた彼らは、毎日毎日、思わぬところで年齢と対峙しなければならない。
就職には年齢制限があり、
「おっ、そろそろ結婚だな」といわれ、
全く関係ないように思えるスマホの契約ですら年齢を記入する欄があり、
年上には敬語を使わなくてはならないし、
アニメの主人公は全員子供で、
アイドルは全員子供で、
モデルは全員子供で、
そのくせ年齢によってはただの恋愛が法定義上レイプになるし、
恋愛対象によってはロリコンと呼ばれたり
熟女好きと呼ばれたりして気味悪がられ、
三十で未婚なら負け組呼ばわりされ、
男性が芸能界で成功するということはすなわち若い嫁をもらう、ということであり、
何歳に見える? と無意味な質問をして、
えええ、見えない! と無意味に気遣いをして、
子供には(まるで犬コロにでも話すように)甘ったれた言葉で話し、
女性に年齢をきくのは失礼だ、というけど、
なぜ男性には失礼でないのかわからないし、
時には結婚適齢期とかいう非科学的な言葉まで出てきたり、
時には出産適齢期というパーソナルなことまで突っ込まれたり、

こう考えると、年齢による差別意識というのは、
半分以上は性差別と結びついているのがよくわかる。
特に女性にとっては、年齢がイコールその人の価値のような錯覚すらしてしまう。

もちろん、儒教・論語的な文化的背景を持つ日本の伝統は素晴らしいと思うが、
個々人の自由な生活スタイルが重要視されるようになってしまった現代社会においては、
まったく足手まといだとしか言いようがない。

こんなちゃらんぽらんな生活をしているぼくだって、
言われることがよくある。
そろそろ腹をくくって結婚だな、とか、
そういうことを。
そもそも年齢と結婚・出産という非常にパーソナルなことを、
なぜ他人に口出しされるのかがわからないが、
それにしたって、よくよく冷静に考えてみれば、彼らが思っている以上に人生は多様なあり方がある。

成人女性の3人に一人は堕胎の経験があるし、
結婚経験者の3人に一人は離婚の経験があるし、
妊娠経験のある女性の3人に一人は流産の経験があるし、
男性の5人に一人は生涯未婚で、
女性の10人に一人は生涯未婚で、
女性の6人に一人は生涯出産経験がなく、
12人に一人は性的マイノリティー(LGBT)だと「自覚」しているし、
5人に一人は同性に魅力を感じた経験がある。


年齢と就職の関係も意味不明だ。
欧米の就職では年齢をきかれることはないし、
履歴書に年齢を記入することもなく、
アメリカでは面接で年齢をきくことは「違法」になる。
ぼくの年齢で就職をしようとしたら、
「この歳までどこをほっつき歩いてたんだ、このボンクラが」
という目で見られながら、言い訳を考えるハメになるし、
子供の頃は、学校で先生と議論する度に
「大人みたいなことを言うな」
としかりつけられていた。

子供をバカにする傾向も意味不明。
小学生なのにすごいね、と言うが、
小学生も大人も本質的には全く変わらないし、逆にいえば
おじいちゃんになったって、おっぱいは好きなままだ。

また、未成年の性的魅力についても隠蔽している。
日本では長らく初潮を迎えた段階で水揚げをし、
また小学生の高学年くらいで筆おろしを経験させていた。
中学生に対して性的興奮を覚えることは恥ずかしくないどころか、全く普通のことだ。
社会的な約束事として、未成年を守るという観点は重要なことだし、
未成年とセックスの問題は話し合わなければいけないけど、
とにかくロリコンを病気呼ばわりすることは彼らの人権に関わることだ。
逆に、
熟女好きというフェティシズムを大々的に捉えること自体が変態的な行為だと思うし、
それで驚いている人々は、色魔、ニンフォマニアックに他ならない。

多くの会社では年齢よりも経験が重視されるにもかかわらず、
さらに実年齢による差から関係は複雑になる。
バイト歴3年の大学生が、
バイトはじめたばっかりの中年にタメ口をきくハメになるし、

もちろん日々の会話においてステレオタイプな感覚がなければ笑いもうまれないし、おもしろくない。
「まるでおじいさんやな」と笑ったり、
「子供じゃないんだから」と叱りつけるのは良いのだけれど、

女子大生が日本酒を飲んでいるだけで
「おっさんか!」
と嬉しそうにヨダレを垂らしながら突っ込む中年男性の視野の狭さと下衆な態度にはもう我慢ならない。
いや、ぼくだってこういった差別的なツッコミというのはよく言うし、
一日に一回は「オバハンか」と大声で指摘するし、
これからも差別的ステレオタイプなツッコミはしていくだろう。
しかし、これらは常にリスクがあることを知っていなくてはいけないし、
差別的な発言であると自覚しなければならない。
黒人差別を積極的にネタにするアメリカのコメディアンの意識と同じようなものだ。



ぼくは大学生の頃に、
「今後一生、人に年齢をきくことをやめよう」と決めた。
それ以後、ぼくはその契りを守り続けてきた。
守り続けていると、周りがいかに毎日年齢についてあれやこれや語り合っているかがわかる。

ほんのすこし前の日本社会と比べてみても、
平均寿命は倍以上に伸びたのだ。
老人というイメージも、健康というイメージも、
ほんの数十年前の感覚とは程遠いものになっている。
プレイボーイの60歳をみたって別に驚きはしないし、
娼婦のような格好をした美しい中学生を見たって驚きはしないし、それを見て普通に興奮するもんだし、
30歳で白髪だらけでも、
40歳で肌にシミひとつ無くても、
15歳で飛び級で大学に行ったって、
50歳で出産したって、
70歳の夫婦に子供がいなくたって、
15歳で子供を産んで旦那がいなくたって、
40歳で大学に通い始めたって、
別になんてことはない。

個人的に、この人はすごいな、とか、
こいつみたいにはなりたくないな、とか、
それだけの話だ。

坂上忍のようなレイシストが、日本のオヤジ的感覚を代弁してくれるのは仕方ないが、
ドナルド・トランプを批判する資格はない。

と、ここまで話してくると、
「日本はだめよねえ。アメリカにならわなくちゃ」
と言い出す植民地奴隷根性丸出しの帰国子女タイプが割り込んでくるが、
こいつらはこいつらでなんの根拠があってそんなことを言うのだろうか。

アリアナ・グランデが日本のテレビで発言した内容をもとに、
好き勝手にまとめあげた記事がツイッターやフェイスブックでシェアされまくってるのを読んだけど、
かんたんにいうと、
日本は太っているという外見を笑いにしたりするけど、
アメリカではそんな低脳なことでは笑わないし、
それが差別だってきちんと理解しているのよ、
って言う感じだ。

日本で無自覚な差別が横行する傾向と芸人の意識の低さには同意するけれども、
アリアナ・グランデにそれを言われる筋合いはない。
ぼくは今年の初めにEDMに関する教則本を執筆して、
アリアナ・グランデをはじめとするプログレッシブ・ハウス周辺の曲を分析して行ったけど、
彼らが歌っている内容っていうのは、
簡単に言えばステレオタイプなアメリカを啓蒙的に示しているものばかりで、
つまり自己啓発ソングって感じ。
ジムで体を鍛えたり、自由に発言したり、
アメリカってかっこいいでしょ? ってなもんだ。
プログレッシブハウス系のアーティストは、大概、トランプ政権に反対しているし、
またLGBT問題について積極的に発言する傾向があるし、
要は、意識高い系の流行りにのっかった人たちなんだけど、
彼らもまたそうした新たなステレオタイプを作り出しているし、
それがある意味差別的であることに気づいてすらいない。

というよりもまず、
上記のような記事は、もちろんアリアナ・グランデの発言とは関係がなく、
執筆者が自分のいいたいことを都合よく解釈して押し付けたものに過ぎないけれど、

少なくとも、
日本では人種差別によって警官が一般人を射殺することはないし、
差別的な発言によってテロを誘発することもないし、
差別的な入国制限をすることもない。

だから、
あんたらには言われたくないわ、と思うわけだ。

差別に対する意識はアメリカに学ぶ必要があるかもしれないけど、
それはつまり、アメリカにそれだけ差別問題が色濃くあるから、という裏返しでもあるわけで、
アメリカには差別がない、なんて隠蔽はしないでほしいね。


ところで、
ある人に対して、
実際の年齢に見えない、とか、
年齢のわりに若い、とか、
年齢のわりに年取って見える、とかいうけど、
年齢相応の見た目をいうのはどういうものだろうか。




この女性が何歳にみえるか、考えてみよう。
15歳、20歳、30歳、40歳、
どうだろう。

何歳だと思う?
ぼくがよく思うのは、
誰にも、これに関して自信がない、ということだ。
血液型占いと一緒で、血液型をいわれて初めて、「やっぱり!」っとなるのだ。
何歳にだって見えるし、
何歳といわれたって、それより若くもみえるし、年取ってもみえる。

これぞ年齢相応の見た目である、というものが個々人の間に確固としてある、なんてことは
実際にはありえないし、あったとしてもそれは毎日のように更新され続けている。

なので、この女性の年齢が実際にはいくつか、

答えはここには書かない。
誰にも当てられないだろうから。










2017/08/10

出会い系アプリから俳句へ、そしてシェイクスピアのinとoutについて


どんなものにも適切な場所、不適切な場所がある。
適切な場所だと思われていても、実はそれはラプンツェル式に幽閉されているだけかもしれない。
逆に不適切な場所だと思われていても、ルーク・スカイウォーカーのように、それこそが自分が進むべき道だという場合もある。



ぼくは普段あまり詩を読まない。なぜだかわからないけど、小説は読むし書くのに、詩はほとんど読みも書きもしない。歌詞はつくるのに。

でもツイッターで短歌や俳句や自由律の詩を載せている人をみると、なんとなく読んでしまう。
たまに、狂ったようにひたすら自作の短歌だけをツイートしている人がいるけど、そういう人をみると「ああ、なんか良いなあ」と思う。
日本の和歌とか連歌って、こういうことだったのか、と理解する。
新潮社の数百円の文庫本を手にいれて、椅子にドガッ座り、エイヤッとページを開き、「蛙飛び込む水の音」といわれても、実感がない。
しかしながら、夕暮れ時の電車の中で、幸福の科学や文春の下衆い広告、立ちながら寝るパンツスーツの女の尻やずっと咳をし続ける歯抜けに囲まれ、LINEとタップル誕生とTinderのメッセージ確認をして、キャンディークラッシュやモンスターストライクの合間に、猫のバズ動画をシェアした後に開いたツイッターで目にする「蛙飛び込む水の音」は、どことなく感じるものがある。出会い系アプリの無料枠が終わったら、140字の自由律詩の応酬だ。


仮に、トイザらスの入店に年齢制限があって、20歳以上じゃないと入れないとしたら。
トイザらスキッズたちは店内で買って買って買ってのだだこねはできなくなるし、たぶん大人は都合の良いオモチャばかり買うことになるだろう。


そういえば、シャーリー・テンプルが自分が出た映画を観に映画館に行ったら、年齢制限があって入場を断られた、
っていう話をエーリッヒ・ケストナーがひどく怒りながら書いていた。
真偽はともかく、誰でも怒るにちがいない。

ぼくも小学生くらいのときに、ターセム・シンの『ザ・セル』を観にいって入場を断られたときは悲しかった。
年齢をクリアしている兄も、ぼくに付き合ってくれて入場しなかった。かわりにパンフレットだけ買って帰る悲しさよ。

ターセム・シンなんていう名前はもちろん知らず、とにかく『アナコンダ』で衝撃を受けたジェニファー・ロペスをみたかったし、ああいった狂った映画を求めていた。

ぼくの兄は携帯電話を持っていなくて、
契約解除された古いアイフォーンを使って、Wi-Fi環境のみで生存しているネット難民だ。
しかし、彼も自分の電話番号というものが欲しくて、携帯電話会社に契約しにいくのだ。
しかし、契約はなかなかものにならない。
なぜなら、契約をする際に、自分の電話番号を記入しなくてはならないからだ。
兄は電話番号が欲しくて契約するのに、
電話番号がなければ契約できない。

様々な話を、in/outという視点から目撃してみよう。
何が内にこもっていて、何が外に飛び出しているのか考えてみよう。

サイゼリヤというファミレスが、ルネサンス絵画を解放していることを例に。



ルネサンス期の画家たちは、誰のために最後の晩餐や処女懐胎や大天使ガブリエルを描いたのだろう。
それはまさしく、字の読めない大衆のためだった。
聖書を読むことができない、一般的な人々のためだった。
聖書の名シーンが描かれた絵は教会の壁や天井に飾ってある。
聖書を読んでいなくても、あとは神父の説教だけで理解できるのだ。
これらの絵を今日、ベネツィアやパリの有名な美術館で観る人達っていうのは、
芸術に興味があり、海外に旅行する財力があり、英語も多少は喋ることが出来て、文化的にリテラシーの高い連中ということだが、
そうではなくて、ルネサンス期の有名な絵画を、サイゼリヤで観る人達のことを考えてみよう。
サイゼリヤ。ばかみたいに安いミラノドリア、安いグラスワイン。
1000円で結構酔っ払える。500円で結構おなかいっぱいになる。
試験期間中の金のない学生、一日中働いて料理をする気力もない若い夫婦、終電を逃した無計画なギャルたち、タバコが吸える店を探してたどり着いた老いぼれ、母親のママ友会に付き合わされて暇を持て余した幼い兄弟、まったく稼げないフリーランスの仕事で一日中ラップトップと格闘するバツイチの中年、PSP仲間でWi-Fiを利用したいだけのニートたち、
彼らが山盛りフライドポテトを待つ間、もしくはペペロンチーノでお腹いっぱいになった時、それか若いカップルがワインのデカンタをもうひとつ注文するかで険悪になった時、
ふと顔を上げると、目の前にあるのはギルランダイオの『最後の晩餐』であり、ラファエロの『天使たち』なのだ。
絵画になんか興味はないし、聖書にいたっては旧約と新約の違いもわからない彼らが、ふと思うのだ。
「これは最後の晩餐というやつだろうか」「全員手でご飯を食べてる」「空を何かが飛んでいる」「どれがキリストだろう」
ルネサンスの宗教絵画が、大衆の手に戻ってきた。
ルネサンスの絵画は、美術史においてあまりにも評価されてしまったため、美術館に厳重に保管され、分厚い防弾ガラス越しにしかみることはできないし、ヨーロッパの歴史ある美術館まで足を運ぶのはほんの一部の文化的に恵まれた人達だけだ。「in」してしまった
しかし、サイゼリヤでは、本来の目的通りに、大衆に解放されている。大衆にかえってきた。本来の目的を達成したのだ。
これが「out」



ぼくはこの度、『cage out』というアルバムをリリースするに至って、
このin/outという考えをまとめていった。
cage inはまさしく、籠に囚われた状態だ。
ジョン・ケージが望んだ自由な解釈が許される楽曲演奏ではなくて、
「ケージとはこうであるに違いない」という権威主義的な、伝統主義的なイメージがはびこっている。
アカデミズムが開かれた音楽を閉じてしまったのだ。
それは誰の責任でもないし、過去や現在の様々な演奏家たちは全くもって素晴らしいし、もちろん「ケージとはこうであるに違いない」と考えて演奏することはまちがっているどころか、すごく正しいのだ。
しかしそれが全体としての空気になってしまうと、とたんに間違いとなってしまう。
「デイヴィッド・テュードアこそがケージ演奏の手本だ」とか、「これこそが正しい演奏だ」と言ってしまってはならない。
だからぼくたちは、これを再び「開かれた音楽」へと戻すために、
「これはケージらしくない」「ケージの曲解だ」「ケージが望んでいない演奏だ」というものを目指して取り組んだ。
なぜなら、ケージの開かれた音楽は、楽譜に指示されたことを守りさえすれば、どんな演奏だろうが正解になるからだ。
逆に言えば「これこそは正しいといえる演奏はない」ということでもある。
ようするにぼくらmacaroomは、ロミオを救い出すジュリエットの要領だ。ロミオを無意味な権威的争いから救い出すために、仮死という危険な作戦に出るわけだ。
つまり、ぼくは現代音楽のファンたちにメッタンメッタンに批判されるだろう。これはケージではない、と。自爆テロともいえる。ロミオとジュリエットが悲劇の内に終わったとしても、つまりまあ、ポップスと現代音楽が共倒れしたにせよ、シェイクスピアの描くとおりに両家が最終的に争いをやめてくれれば、今回の企画は大成功だったといえるわけだ。




JOURNAL170810



思わぬところから仕事が舞い込んできた。
オシリペンペンズのボーカル、石井モタコさんからだ。
石井さんはぼくの兄のカンフーの弟子で、最近大阪から東京に越してきたのだが、
動画制作の仕事をしているということで、ぼくのカンフーの映像を撮りたい、という依頼だった。

撮影は無事に終わったのだが、ぼくも映像制作ができるということで、石井さんの働く会社にリクルートされてしまった。

ぼくは新宿のオフィスに不定期で出勤することになった。
出勤なんて2年ぶりくらいだろうか。

今では関西アングラ界の重鎮、石井モタコさんがぼくの上司になってしまった。

ただ、彼は新婚、新パパであり、新タイトルリリース直後であり、また別件でとある撮影が控えているという激務の最中であった。
かくいうぼくもリリース間近で忙しい。

2017/07/08

JOURNAL170707


ぼくが出演しているFMラジオ『ご近所さんの気楽なステージ』
のレギュラーメンバーである野島さんが失踪してからもう3ヶ月。

昨日は、彼が問題の行動をしていた東武東上線の朝霞駅前に張り込みをした。
というのも、野島さんは、一時期は毎日のように朝霞駅で女性に声をかけていたからだ。
彼の目的は女性の体を触ることで、
時には聴覚障害者のふりをし、
時には視覚障害者のふりをし、
時には身体障害者のふりをし、
なんとしてでも自分に介助が必要なことをアピールした末に女性の体を少しでも触ってやろう、
というのが目的なのだ。
しかし彼はその実、知的障害者で、
それは決定的に隠せない事実。
彼はくだんの理由で警察に捕まったこともあるし、
2ヶ月ほど檻の中に閉じ込められたこともある。

ぼくは、改札から出てきた
若い(綺麗な)女性に片っ端から話しかけ、
「知的障害を持った背の高い男性に声をかけられたことはありませんか」
と質問した。

ぼくが声をかけると多くの女性は
てっきりナンパされるのかと思って無視するが、
「人探しをしている」
「知的障害だが聴覚障害のフリをしていて.......」
「ラジオのレギュラーなんですが初登場の翌週に失踪して」
などという意味不明な言葉をぼくがペラペラ喋るので、
なんだかよくわからないが詐欺にちがいない
と決めつけ、結局は恐れを露わにして逃げ去って言った。

確かにぼくは怪しかったにちがいない。
人の脳は、あまりにも入ってくる情報量が多すぎると、むしろ何も入ってこなくなる。

ぼくはラジオのメインパーソナリティである坂本さんの運営する
「コーヒータイム」というNPO法人の職員パーカーを羽織っていた。
ナンパではないことをアピールするために、坂本さんがぼくに貸してくれたのだ。
しかしこの格好がよけいに詐欺師のようなオーラを醸し出している。

途中、あまりにも無礼な態度でぼくを追い払おうとするギャル二人に、
ぼくは思わずかっとなって、
「人が失踪しとるんやぞ」
と吠えてしまった。
女性二人はそそくさと逃げたが、
交番にかけこまなかっただけマシだろう。

まあ別に交番にかけこまれたところで、何も悪いことはしていないわけだ。


とにかく、野島さんはよく失踪する。
それに関しては、母親以外の誰も心配していない。
坂本さんも、ぼくも心配していない。

きっと、関東のどこかの駅に今日も出没して、
なんとか女性に話しかけ、
なんとか少しでも体の一部を触ろうと模索しているのだろう。

いずれ誰かが警察にかけこんで捕まるのだ。

それよりも、彼をなんとかまたラジオに復帰させたい。

彼の様などうしようもない、世間から憎まれる様な障害者が、
このラジオには必要なのだ。

ところで、張り込みは1時間と少しで終了した。
目撃者の女性に出会ったからだ。
彼女は、野島さんに関していろいろ教えてくれた。
もちろん体を触られたらしいし、
聴覚障害者のフリをしていたらしい。

さて、彼女にも被害者側の意見として、
ラジオに出演してもらいたいのだが、
あまりにも唐突な申し出に彼女は困惑していた。

焦ることはない。
ゆっくり、ゆっくり。

2017/06/16

ジョン・ケージについて、ゴッサムシティのゴン=フリークス

macaroomはこの度、「cage out」というプロジェクトを始動して、音源を8月12日にリリースすることになった。
ジョン・ケージの楽譜を完全に再現しつつ、なおかつポップに仕上げるというプロジェクト。
現代音楽の作曲家、川島素晴さんにもアドバイスなどいただき、実現することになった。


 プロジェクトの詳細は徐々に明かしていくとして、ここではとりあえず、ジョン・ケージという人はどういう人か、考えてみたい。なにせ、今回のプロジェクトは、「ケージ的なるもの」とか、「cage out」や「cage in」という言い方がたくさん出てくるから。ケージってなんなのか? ちなみに、「ケージ的なるもの」という表現は川島素晴さんが雑誌『アルテス』で用いた表現で、「cage in / out」という表現はぼくの造語。ちなみにweblioにはこうかいてある。



 ともかくまず、現代音楽というものが何か、というのを考える必要があるけれど、これが結構むずかしい。第一線にいる川島素晴さんですら「今もってして現代音楽のボーダーというものが何かわからない」と仰った。そう考えると、現代音楽というものが何か、というのは誰一人把握していないといって言い過ぎではないかもしれない。ぼくは昔、歯医者の先生から「ユーミンは現代音楽ですか?」ときかれたことがあって、ぼくは内心「なぜユーミン?」と思いながら「たぶん違うと思います」と答えていたんだけど、よくよく考えればこれはドイツ語の「Neue Music(現代音楽)」つまり「ニューミュージック」からきた発想だったのだろう。ドイツ語から入るところが歯科医らしい。

「ユーミンは現代音楽ですか?」と医者は言った。

 ともあれ一般的にはユーミンは「ニューミュージック」とは呼ばれていても現代音楽とは呼ばれない。別物なのだ。現代音楽は言ってみればクラシック音楽の現代版であり、音楽大学で学んで、研究されている、最新の(20世紀以後の)クラシック音楽、という感じだ。
 川島素晴さんにいわせれば、「100年前の音楽をいまだに現代音楽と呼んでいる」という側面もあるし、言葉の意味を掘り下げていけばきりがない。確かに、現代音楽の話をする際には決して無視することはできないシェーンベルクは100年前に活躍した人物だ。
 ともあれ、現代音楽は大学で勉強されるような「頭の良い」音楽であることに変わりはなく、ほとんど同じようなことをしているように思える「ジャパノイズ」や明和電機初音ミクのことは現代音楽とはいわない。

非常階段と初音ミクによる初音階段

 まあ、そのことも川島さんは「ブルジュア的な側面がある」と批判的に語っている。このことは現代音楽に関する本をいくつか読めばすぐにわかるのだけど、やたらとむずかしいワードが頻出する。テクスト、フェミニズム、シニフィエ、ポストコロニアリズム、ポストモダン、脱構築、といった、およそきゃりーぱみゅぱみゅを話す時には使用されない言葉が使われるのだ。

現代音楽、ときいてぼくが真っ先にイメージするのはこういった楽譜。(クセナキス)

 もちろんこれは音楽に限った話じゃなくて、『ごっつええ感じ』のコントを「不条理演劇」とはいわないし、騒音おばさんを「パフォーマンスアート」とはいわない。文学ではラリィ・マキャフリィという人が「アヴァン・ポップ」という言葉を流行らせたことがあって、大衆受けしているのにアヴァンギャルドでもあるタランティーノパティ・スミスらを大真面目に論じていたことがある。たしかにこの本は魅力的だったけど、やっぱり小難しい概念的なワードが頻出するのだ。かくいう、今ぼくが書いているこの文章も、気づかないうちにアメトーークキャンキャンアナザースカイよりも難しい言い回しになってしまう。

「よしんば私が2位だったとしたら?」「世界1位です」


 なのでこうしたアヴァン・ポップな音楽を考えていくと、現代音楽というお上品なインテリジェンスなイメージがぐらついてくるのだけど、結論を急ぎすぎることはない。あくまで現代音楽は「高尚な」芸術である、という風なざっくばらんな素人的なイメージにとどめておくとして、ジョン・ケージの音楽について考えていったほうが良い。

いわゆる、啓示微笑(ケージ・スマイル)

ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日 - 1992年8月12日)は、アメリカ合衆国出身の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって、音楽の定義をひろげた。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。(Wikipedia)



 ジョン・ケージという人は、実験主義といわれるくらいなので、あまり音楽とは思えないような音楽をたくさんつくっている。彼の弟子である一柳慧さんもケージの音楽を「音楽とは思えない」という表現を著書で使っているので、これは間違っていないと思う。かといって毛嫌いする必要はない。パリコレにいけば「これが服なのか?」というフザケた格好で華奢なモデルが歩いているけれど、ぼくたちが市場で手に入れるものはもっと普通の服なわけだ。パリコレが難解だからって、その年の流行が難解になるわけじゃない。けれどもほんのすこしは、パリコレで打ち出したテーマは反映されているものだ。ちょっとオシャレなカフェに入れば「これが絵画?」というような絵が飾ってあるけど、まったく違和感なくなじんでいる。ホラー映画には「これが音楽?」という曲が流れるが、それで映画が難解になることはない。実験主義というのは、それが発表される時には簡単には理解できないようなものに感じられるけど、それが数年経って大衆に消費されるようになる頃には、良いところだけ抽出され、気づかない間にそれになじんでいくものだ。だからこそ、自然に馴染んでいるからこそ、ぼくは映画『シャッターアイランド』の中でジョン・ケージの作品が使われていることにごく最近まで気づかなかった。映画をみて、そこに実験音楽が使われていても、「なんなんだこれは!」という岡本太郎的な衝撃は微塵も感じないわけだ。

『ごっつ』の着ぐるみのようなWalter Van Beirendonck 
2012年のテーマは平和で幸福な世界観


 ケージは様々な人から影響を受けまくって、現在語られているような人物になっていったのだけど、本当にケージはいろんな人から影響をうけやすい。天才的なアマチュアといって良いほど、様々な人の思想をほんのちょっとかじっただけで、新しいことを思いついたりする。よく、本の目次だけを呼んでその本を理解する人がいるけど、ケージもそんな人だと思う。正確にはその本の内容を理解しているとはいえないのだけど、極端にいえばその本の表紙を見ただけで発想が湧いてくるような天才、そういう人がたまにいる。たとえばケージはバックミンスター・フラーの本を読む前から「フラーに影響を受けている」と公言しているし、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』をたった一部分読んだだけで、様々なところでジョイスについて語り、また数多くの作品に引用している。鈴木大拙のコロンビア大学の講義だって、いったいどれだけ頻繁に参加していたのか怪しいくらいだ。
 ジョン・ケージに影響を与えた人物のうち、特に有名な鈴木大拙、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、バックミンスター・フラー、マーシャル・マクルーハン、ジェイムズ・ジョイス、エリック・サティ、マルセル・デュシャンらについて考えながら、ジョン・ケージという人についてまとめていきたい。
 ケージに影響を与えた人物のうち、その最も牧歌的な場所にいる二人が鈴木大拙とヘンリー・デヴィッド・ソローだと思う。
 ぼくがいう「牧歌的」の意味は、なんというか、大自然があって、バーでのいざこざや早朝通勤の交通渋滞なんかとは程遠い世界。アメリカには昔から牧歌的な無垢なものに対する憧れのようなものがあって、その代表がグラント・ウッドの『アメリカン・ゴシック』だし、『大草原の小さな家』だし、またレイチェル・カーソンのような人もいた。彼らは科学の発展とは遠い場所にいて、純粋な人たちっていうイメージなのだ。それから、大自然とは関係なくても、アメリカには「無教養=バカ=無垢」なものへの憧れというのもある。ピュアで無知なアメリカ的ヒーロー像を描いた『フォレスト・ガンプ』は、反教養主義と批判的にみられてもおかしくないのだけど、かならずしもアメリカではそういう受け止められ方をされない。フォレスト・ガンプのような無垢で馬鹿な人への憧れというのは、日本でいえば尾田栄一郎の漫画『ワンピース』のモンキー・D・ルフィーのようなものだろう。それから『ハンター×ハンター』のゴン=フリークスナルトを忘れてはいけない。むずかしい説明は一切なしで「海賊王になる!」と大声で叫んでいれば、それだけでカッコ良いのだ。


ごーん ずーん



 彼らはアメリカ的な無鉄砲な馬鹿だけど、これをもっと日本的な、つまり禅仏教のような個人主義的な静かな形に移し替えると、さくらももこ『コジコジ』のようになる。
 そういうものをぼくは本来の意味での《ピューリタン》だと思っているし、ピューリタン的アメリカといった場合、ぼくは恋人のために走り続けるフォレスト・ガンプや、単純な夢を追って危険をものともしないモンキー・D・ルフィーのことを思い描く。そして禅的トランセンデンタルなニッポンといった場合には、『コジコジ』のような個人主義的ゆるやかなカオスを思い浮かべる。アメリカ大統領選の公開討論においては、頭の良い発言をした人よりも、おバカな失言をした方が支持率があがるという都市伝説があるけど、これはアメリカ特有のフォレスト・ガンプ症候群によるものじゃないかと思うのだ。


 牧歌的なアメリカを特に印象付けた異端児にヘンリー・ソローがいる。ソローは確かに異端児だけど、それでいてなんとなくアメリカっぽさを象徴しているようにも思う。ソローやラルフ・エマーソンをよくトランセンデンタリズムと呼ぶけど、これは日本語では超越主義とか訳される。なにが超越なのかというとよくわからないのだけど、キリスト教的に考えてみると、個人と神様とが直接的に結ばれるような考え方だと思う。というのも、トランセンデンタリズムは、一方で科学的なロジカルな思考とは対立していて、どちらかといえば万人共通のセオリーのようなものよりも、個人の体験を尊重している。アメリカが個人を尊重しすぎるほど尊重するようになったはじめの第一歩だ。つまり、ヨーロッパみたいに教会のお偉いさんが決めた厳格なルールに縛られるんじゃなくて、もっと自由に、自分なりの信仰を見つけていく、ということ。アメリカでは同時期に、これも個人の経験を大事にするロマン主義が台頭していたから、こうした考えは頷ける。だから、ソロー的牧歌的なアメリカを描いた映画『フライド・グリーン・トマト』の中でアメリカ・ロマン主義の代表格であるメルヴィルの『白鯨』が重要な役割を果たしていることには納得がいく。『緋文字』がもっと分厚い本だったらそっちになっていたにちがいないけど。

H・D・ソロー(1817-1862)


 ソローはのちに、奴隷制度のあるアメリカ国家に反抗して人頭税の支払いを拒否して投獄されているけど、彼は著書に、正しくないと思える法律は守らなくても良いと書いている。
 これは新しい。「悪法も法なり」じゃなくて、正しくない法律は守らなくて良いのだ。言ってみれば、殺人を犯しても責任能力なしと見なされて「合法的に」刑務所に入らなくて済むような異常者たちを、個人で裁いていくというダーティー・ハリーバットマンの考え方だ。でも、正しい法律か正しくない法律かどうかどうやって判断するのかというと、それは個人の良心に任せるのだ。実際そういうことがソローの『一市民の反抗』に書いてあるのだけど、そんなことをしだしたら、誰もが好き勝手に法律を守らなくてよくなるじゃないか、誰が正しさを判断するのだ、とまともな大人なら考えるだろう。これに対する答えはぼくにはよくわからない。憲法論なんかでも、そもそも国を転覆したりクーデターを起こしたりする権利が国民に保障されているのかどうか、というのは難しいところだ。もし国が暴走してしまったときには、国民は革命を起こす権利がある、とはどこにも書いていない。いまのところ、坂本龍馬にしてもチェ・ゲバラにしても、結果論的に正しかったとは言えるけれども、まさに国を転覆しつつあるときに、つまりクーデターの最中に、新撰組が脱藩浪士に「国民には国を転覆する権利がある」とはいわないだろうからだ。でなけりゃ、地下鉄サリン事件だって正当化されちまう。法律や憲法というのは、サンデル教授が大流行させたように、「正しさ」についての考えに集約されるのだから、その絶対性というのは明記できない。
 これはまたドストエフスキー罪と罰』の永遠の議論でもある。ラスコーリニコフは、正しいという信念によって人を殺してしまうけど、この行いが端から見れば全く正しくないことは一目瞭然だ。ドストエフスキーはそこに「一握りの天才であったら」という仮定を持ち込むのだけど、もちろん天才かそうでないかを見極める術だってありはしない。ただ、ソローの場合は、それに関しては投げやりで、「個人の良心によって判断せよ」ということだ。ぼくが理解しているトランセンデンタリズムというのは、そういうことなのだ。経験主義、個人主義、反論理主義。細かい論理的な回答を嫌うのだ。

「法があり、正義がある、お前は何を得た?」

 ぼくがこうやってバッサリ言い切ってしまうと、ソロー的なアメリカがとんでもないアホ野郎に思えるかもしれないけど、現代日本の論理的な科学的な価値観のもとでそう思ってしまうのは当然だろう。しかしソローはアホではなかったはずだし、少なくともぼくよりは何倍も賢いのだ。

 同じような牧歌的な立ち位置に、鈴木大拙がいる。鈴木大拙は言わずと知れた禅マスターで、アメリカで禅仏教が流行したのは、この人が英語で禅の本を書いたり講義をしたからだ。アメリカ人に「ジョウドシンシュウ・ブディズム」や「シンゴン・ブディズム」といっても伝わらないが、「ゼン・ブディズム」といえば伝わる。鈴木大拙は、禅の考え方を「般若」と「大悲」にわけたが、般若のことを「トランセンデンタル」と訳した。これはまさにソロー的な体験主義的な個人主義的な考え方だった。その証拠に、鈴木は『禅と日本文化』の中で、禅の「わび」の精神をヘンリー・ソローの『森の生活』を例に書いている。鈴木大拙からみても、ソローは禅だったのだ。『禅と日本文化』はアメリカ人向けに英語で書かれた本なので、鴨長明方丈記』ではなくソロー『森の生活』を例に出すのも頷ける。鈴木大拙はより明確に、禅が論理的な思考とは相反するということを強調している。「どうして?」とかきかれても答えられないのだ。たとえば金剛経に書かれた「世界は世界にあらず、これ世界なり」というのをどう解釈するか。論理的に考えてしまえば、ほとんどアリスのハンプティ・ダンプティやイカれ帽子屋と言っていることは変わらないように思えてしまう。「コジコジはコジコジだよ」というわけだ。それに、アリスは「私は自分じゃない」という。つまり、ただの言葉遊びと違いがわからない。


「私は自分の説明はできません。だって私は自分じゃないから、そうでしょう?」


 ソローや鈴木大拙のような考え方は、60年代にヒッピーらによって実践されていったように、ケージが影響を受けただろうポイントというのはよくわかる。今日では左翼的なドリーマーを「お花畑」と揶揄することがあるが、鈴木大拙にいわせればそんな批判なんかものともしないだろう。お花畑で結構。しかしポスト・オウム真理教時代に生きるぼくらは、そういった超越的なものには疑ってかかる傾向がある。論理的な回答が欲しいのだ。


 ケージに影響を与えた牧歌的な二人とは対照的に、テクノロジーを讃える二人の人物がいる。それがバックミンスター・フラーマーシャル・マクルーハンだ。この二人の天才は、いまでいえば、スティーブ・ジョブズのように、テクノロジーで革命を起こそうとした人たちだから、ソローや鈴木大拙とは全く逆。ちなみにジョブズは、スタンフォード大学での演説を、フラーの構想から始まる『全地球カタログ』最終号の引用「Stay foolish, stay hungry」で締めくくる。

 彼らとソローが真逆である証拠に、マクルーハンはまさしくアメリカの牧歌的な無垢への憧れを批判している。そもそもこうしたノスタルジーは、アメリカ全土に鉄道が開通したことで都市が集中し、その結果生み出された「幻想」だと彼は書いている。
 たしかに、なぜ自然がすばらしくて、都会はすばらしくないのか。なぜ『北の国から』で東京は汚く描かれ、富良野は美しく描かれるのか。もしこれを日本に置き換えるとしたら、高速道路やバイパスにより一点集中型の都市がうまれ、それが近年のパワースポットのブームを生み出した、というところだろうか。都市が田舎を生み出し、テクノロジーが自然を生み出す、というのはなんとも構造主義的な言葉遊びのようであまり好きにはなれない。マクルーハンは電子メディアの発明によって「The End Of The Line(終着点)」として鉄道による牧歌信仰の終わりを告げ、さらに印刷物のような直線的(line)な思考ではなくテレビのような複数の文脈が同時にインプットされることの役割を書いた。

本は目の拡張、、、

 フラーもまたテクノロジーを非常に重要視していて、テクノロジーを「富」の概念に変換している。ぼくらは、ぼくらの子孫を永久的に安全に残していかなくてはならない。そのためにはテクノロジーとこれを運用するノウハウが必要なのだ。つまり、核兵器で救われるか滅びるかは、その運用次第、テクノロジーのノウハウと、その運用で未来が決まる。こうした未来への有用な遺産こそ、フラーにとっての富の概念だった。エネルギーは絶対に一定であることがアインシュタインによって証明されたことで、彼はこれが確実に安全に運用されうることを確信している。彼の理論は一見するととんでもない発想で馬鹿げているので、新手の新興宗教のように思えてしまうが、何を隠そう、アインシュタイン本人がフラーの本を熱烈に推薦して出版されたのだ。

フラーのダイマキシオン・カー

 ソロー=鈴木の牧歌的なアメリカと、フラー=マクルーハンのテクノロジーのアメリカ、対極にある二つのアメリカに圧倒的な影響を受けているケージだけど、この二つをどういう風に料理していくことができるだろうか。

 ぼくは、ジョン・ケージという人の本質にあるものが何か考えた時に、「無政府主義」と「個人と世界」という二つが存在しているように思える。フラーもマクルーハンもソローも、自身の無政府主義的な態度について著書に書いている。禅の無政府主義的な態度に関してはいうまでもないと思う。
 マクルーハンはいまでいうインターネット、「ワールドワイドウェブ」のような「グローバル・ヴィレッジ」という言葉を積極的にひろめていった。グローバル・ヴィレッジ、まさに、ファイスブックやツイッターの世界だ。
 フラーも同じように「宇宙船地球号」といい、世界をひとつの共同体として捉えている。地球というひとつの宇宙船にぼくらは乗っている。これは坂本龍馬が日本を一隻の船に喩えたのとほとんど同じ意味だろう。真の意味でのグローバリズムだ。ジョン・レノンがやる気のない声で「想像してごらん、国なんかないんだ」と歌うのにも、毛利衛がスペースシャトルから地球を見下ろして「国境はない」というのにも似ている。

フラーの提案するダイマキシオン地図を見ると、
つくづく日本海やインド洋なんて名前が無意味だと思う。


 一方で、ジェイムズ・ジョイスは『ユリシーズ』において、ダブリンを世界に見立てて書いたし、また『フィネガンズ・ウェイク』では一軒の酒場から人類史を再構築していった。
 個人と世界の直接的なつながりを彼らは有している。
 もちろんこういった無政府主義的なパンク精神というのは、マルセル・デュシャンエリック・サティを思い浮かべるし、この二人がいなければセックス・ピストルズだって生まれていなかったかもしれない。


 個人と世界の直接的なつながり、というのは《セカイ系》なる『魔法少女まどか マギカ』やリュック・ベッソンフィフス・エレメント』やカート・ヴォネガットタイタンの妖女』の個人的の問題=世界の存続というドラマチックなものではない。


「もしダブリンが地球から突然消えても、私の本から再現できる」ジェイムズ・ジョイス


 そうではなくて、単に自由で、反抗的、といったくらいの感じかな。

 なんだ、ただのパンクじゃないか。
 その通り!
 ただのパンクなのだ。

 そうそう、ケージがただのパンク・アーティストだと考えてみよう。
 彼は、ハンマーでピアノの音を破壊し、それから「全く演奏しない」曲を作り、それから作曲すらあきらめてコインを投げて音符をつくり、どんな式典にもネクタイは締めない。パンク、天邪鬼だ。
 天邪鬼。
 関係ないけど、ぼくはピストルズのような攻撃型ではなく、もっと仏様のような静かな態度で、しかし反骨精神を持っているようなタイプの天邪鬼を、天寂聴(あまのじゃくちょう)と呼んでいる。ケージは天寂聴さんだな。

 ケージの音楽が真面目に大学で研究されたりすることは別に良いんだけど、大学の中に囲っておく必要はない。この状況は、少々おもしろい。
 メル・ギブソン主演でアカデミー賞5部門を受賞した『ブレイブハート』は、スコットランド独立のために戦った実在のヒーロー、ウィリアム・ウォレスのお話。自由がテーマで、劇中に何度かジェームズ・ホーナーの感動的な音楽とともに「ふりーだぁああああむ!!!」と叫ぶシーンがある。このウィリアム・ウォレス像が、襲撃にあわないように檻に囲われているというのはなんとも皮肉なお話だった。現在は撤去されたらしいが、檻に囲われたウォレス像の台座にはもちろん、「FREEDOM」と刻まれていた。

囚われた自由の男ウォレスと「FREEDOM」


 ガリレオ・ガリレイの中指が直立した状態でガリレオ博物館に展示されているというのは、まさにこの逆。彼の生き様にふさわしく、死後もガリレイは教会に対して中指を立て続けているのだ。

ガリレオの中指

 ジョン・ケージは、悲しむべきことに、ガリレイではなくて、ウィリアム・ウォレスのようになってしまった。
 つまり、ケージのパンク精神ではなく、どことなく高尚な現代音楽の中にひきこもったのだ。
 誰のせいだろう?

 さてさて、
 ここまで読んでくれた方は、ぼくらmacaroomが提案している今回のプロジェクトにおける、「cage out」や「cage in」という言葉の意味がわかってくれると思う。
 ウォレス像はcage inしてしまったし、ガリレオはcage outした。
 ジョン・ケージは奇しくも名前の中に「cage(柵)」がある。
 

今日はなんとなく、ケージがどういう人だったのか、というのをあまり本人には触れずに考えた。
cage in/outという考え方については、また今度じっくり書こうかな。