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2017/06/16

ジョン・ケージについて、ゴッサムシティのゴン=フリークス

macaroomはこの度、「cage out」というプロジェクトを始動して、音源を8月12日にリリースすることになった。
ジョン・ケージの楽譜を完全に再現しつつ、なおかつポップに仕上げるというプロジェクト。
現代音楽の作曲家、川島素晴さんにもアドバイスなどいただき、実現することになった。


 プロジェクトの詳細は徐々に明かしていくとして、ここではとりあえず、ジョン・ケージという人はどういう人か、考えてみたい。なにせ、今回のプロジェクトは、「ケージ的なるもの」とか、「cage out」や「cage in」という言い方がたくさん出てくるから。ケージってなんなのか? ちなみに、「ケージ的なるもの」という表現は川島素晴さんが雑誌『アルテス』で用いた表現で、「cage in / out」という表現はぼくの造語。ちなみにweblioにはこうかいてある。



 ともかくまず、現代音楽というものが何か、というのを考える必要があるけれど、これが結構むずかしい。第一線にいる川島素晴さんですら「今もってして現代音楽のボーダーというものが何かわからない」と仰った。そう考えると、現代音楽というものが何か、というのは誰一人把握していないといって言い過ぎではないかもしれない。ぼくは昔、歯医者の先生から「ユーミンは現代音楽ですか?」ときかれたことがあって、ぼくは内心「なぜユーミン?」と思いながら「たぶん違うと思います」と答えていたんだけど、よくよく考えればこれはドイツ語の「Neue Music(現代音楽)」つまり「ニューミュージック」からきた発想だったのだろう。ドイツ語から入るところが歯科医らしい。

「ユーミンは現代音楽ですか?」と医者は言った。

 ともあれ一般的にはユーミンは「ニューミュージック」とは呼ばれていても現代音楽とは呼ばれない。別物なのだ。現代音楽は言ってみればクラシック音楽の現代版であり、音楽大学で学んで、研究されている、最新の(20世紀以後の)クラシック音楽、という感じだ。
 川島素晴さんにいわせれば、「100年前の音楽をいまだに現代音楽と呼んでいる」という側面もあるし、言葉の意味を掘り下げていけばきりがない。確かに、現代音楽の話をする際には決して無視することはできないシェーンベルクは100年前に活躍した人物だ。
 ともあれ、現代音楽は大学で勉強されるような「頭の良い」音楽であることに変わりはなく、ほとんど同じようなことをしているように思える「ジャパノイズ」や明和電機初音ミクのことは現代音楽とはいわない。

非常階段と初音ミクによる初音階段

 まあ、そのことも川島さんは「ブルジュア的な側面がある」と批判的に語っている。このことは現代音楽に関する本をいくつか読めばすぐにわかるのだけど、やたらとむずかしいワードが頻出する。テクスト、フェミニズム、シニフィエ、ポストコロニアリズム、ポストモダン、脱構築、といった、およそきゃりーぱみゅぱみゅを話す時には使用されない言葉が使われるのだ。

現代音楽、ときいてぼくが真っ先にイメージするのはこういった楽譜。(クセナキス)

 もちろんこれは音楽に限った話じゃなくて、『ごっつええ感じ』のコントを「不条理演劇」とはいわないし、騒音おばさんを「パフォーマンスアート」とはいわない。文学ではラリィ・マキャフリィという人が「アヴァン・ポップ」という言葉を流行らせたことがあって、大衆受けしているのにアヴァンギャルドでもあるタランティーノパティ・スミスらを大真面目に論じていたことがある。たしかにこの本は魅力的だったけど、やっぱり小難しい概念的なワードが頻出するのだ。かくいう、今ぼくが書いているこの文章も、気づかないうちにアメトーークキャンキャンアナザースカイよりも難しい言い回しになってしまう。

「よしんば私が2位だったとしたら?」「世界1位です」


 なのでこうしたアヴァン・ポップな音楽を考えていくと、現代音楽というお上品なインテリジェンスなイメージがぐらついてくるのだけど、結論を急ぎすぎることはない。あくまで現代音楽は「高尚な」芸術である、という風なざっくばらんな素人的なイメージにとどめておくとして、ジョン・ケージの音楽について考えていったほうが良い。

いわゆる、啓示微笑(ケージ・スマイル)

ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日 - 1992年8月12日)は、アメリカ合衆国出身の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって、音楽の定義をひろげた。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。(Wikipedia)



 ジョン・ケージという人は、実験主義といわれるくらいなので、あまり音楽とは思えないような音楽をたくさんつくっている。彼の弟子である一柳慧さんもケージの音楽を「音楽とは思えない」という表現を著書で使っているので、これは間違っていないと思う。かといって毛嫌いする必要はない。パリコレにいけば「これが服なのか?」というフザケた格好で華奢なモデルが歩いているけれど、ぼくたちが市場で手に入れるものはもっと普通の服なわけだ。パリコレが難解だからって、その年の流行が難解になるわけじゃない。けれどもほんのすこしは、パリコレで打ち出したテーマは反映されているものだ。ちょっとオシャレなカフェに入れば「これが絵画?」というような絵が飾ってあるけど、まったく違和感なくなじんでいる。ホラー映画には「これが音楽?」という曲が流れるが、それで映画が難解になることはない。実験主義というのは、それが発表される時には簡単には理解できないようなものに感じられるけど、それが数年経って大衆に消費されるようになる頃には、良いところだけ抽出され、気づかない間にそれになじんでいくものだ。だからこそ、自然に馴染んでいるからこそ、ぼくは映画『シャッターアイランド』の中でジョン・ケージの作品が使われていることにごく最近まで気づかなかった。映画をみて、そこに実験音楽が使われていても、「なんなんだこれは!」という岡本太郎的な衝撃は微塵も感じないわけだ。

『ごっつ』の着ぐるみのようなWalter Van Beirendonck 
2012年のテーマは平和で幸福な世界観


 ケージは様々な人から影響を受けまくって、現在語られているような人物になっていったのだけど、本当にケージはいろんな人から影響をうけやすい。天才的なアマチュアといって良いほど、様々な人の思想をほんのちょっとかじっただけで、新しいことを思いついたりする。よく、本の目次だけを呼んでその本を理解する人がいるけど、ケージもそんな人だと思う。正確にはその本の内容を理解しているとはいえないのだけど、極端にいえばその本の表紙を見ただけで発想が湧いてくるような天才、そういう人がたまにいる。たとえばケージはバックミンスター・フラーの本を読む前から「フラーに影響を受けている」と公言しているし、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』をたった一部分読んだだけで、様々なところでジョイスについて語り、また数多くの作品に引用している。鈴木大拙のコロンビア大学の講義だって、いったいどれだけ頻繁に参加していたのか怪しいくらいだ。
 ジョン・ケージに影響を与えた人物のうち、特に有名な鈴木大拙、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、バックミンスター・フラー、マーシャル・マクルーハン、ジェイムズ・ジョイス、エリック・サティ、マルセル・デュシャンらについて考えながら、ジョン・ケージという人についてまとめていきたい。
 ケージに影響を与えた人物のうち、その最も牧歌的な場所にいる二人が鈴木大拙とヘンリー・デヴィッド・ソローだと思う。
 ぼくがいう「牧歌的」の意味は、なんというか、大自然があって、バーでのいざこざや早朝通勤の交通渋滞なんかとは程遠い世界。アメリカには昔から牧歌的な無垢なものに対する憧れのようなものがあって、その代表がグラント・ウッドの『アメリカン・ゴシック』だし、『大草原の小さな家』だし、またレイチェル・カーソンのような人もいた。彼らは科学の発展とは遠い場所にいて、純粋な人たちっていうイメージなのだ。それから、大自然とは関係なくても、アメリカには「無教養=バカ=無垢」なものへの憧れというのもある。ピュアで無知なアメリカ的ヒーロー像を描いた『フォレスト・ガンプ』は、反教養主義と批判的にみられてもおかしくないのだけど、かならずしもアメリカではそういう受け止められ方をされない。フォレスト・ガンプのような無垢で馬鹿な人への憧れというのは、日本でいえば尾田栄一郎の漫画『ワンピース』のモンキー・D・ルフィーのようなものだろう。それから『ハンター×ハンター』のゴン=フリークスナルトを忘れてはいけない。むずかしい説明は一切なしで「海賊王になる!」と大声で叫んでいれば、それだけでカッコ良いのだ。


ごーん ずーん



 彼らはアメリカ的な無鉄砲な馬鹿だけど、これをもっと日本的な、つまり禅仏教のような個人主義的な静かな形に移し替えると、さくらももこ『コジコジ』のようになる。
 そういうものをぼくは本来の意味での《ピューリタン》だと思っているし、ピューリタン的アメリカといった場合、ぼくは恋人のために走り続けるフォレスト・ガンプや、単純な夢を追って危険をものともしないモンキー・D・ルフィーのことを思い描く。そして禅的トランセンデンタルなニッポンといった場合には、『コジコジ』のような個人主義的ゆるやかなカオスを思い浮かべる。アメリカ大統領選の公開討論においては、頭の良い発言をした人よりも、おバカな失言をした方が支持率があがるという都市伝説があるけど、これはアメリカ特有のフォレスト・ガンプ症候群によるものじゃないかと思うのだ。


 牧歌的なアメリカを特に印象付けた異端児にヘンリー・ソローがいる。ソローは確かに異端児だけど、それでいてなんとなくアメリカっぽさを象徴しているようにも思う。ソローやラルフ・エマーソンをよくトランセンデンタリズムと呼ぶけど、これは日本語では超越主義とか訳される。なにが超越なのかというとよくわからないのだけど、キリスト教的に考えてみると、個人と神様とが直接的に結ばれるような考え方だと思う。というのも、トランセンデンタリズムは、一方で科学的なロジカルな思考とは対立していて、どちらかといえば万人共通のセオリーのようなものよりも、個人の体験を尊重している。アメリカが個人を尊重しすぎるほど尊重するようになったはじめの第一歩だ。つまり、ヨーロッパみたいに教会のお偉いさんが決めた厳格なルールに縛られるんじゃなくて、もっと自由に、自分なりの信仰を見つけていく、ということ。アメリカでは同時期に、これも個人の経験を大事にするロマン主義が台頭していたから、こうした考えは頷ける。だから、ソロー的牧歌的なアメリカを描いた映画『フライド・グリーン・トマト』の中でアメリカ・ロマン主義の代表格であるメルヴィルの『白鯨』が重要な役割を果たしていることには納得がいく。『緋文字』がもっと分厚い本だったらそっちになっていたにちがいないけど。

H・D・ソロー(1817-1862)


 ソローはのちに、奴隷制度のあるアメリカ国家に反抗して人頭税の支払いを拒否して投獄されているけど、彼は著書に、正しくないと思える法律は守らなくても良いと書いている。
 これは新しい。「悪法も法なり」じゃなくて、正しくない法律は守らなくて良いのだ。言ってみれば、殺人を犯しても責任能力なしと見なされて「合法的に」刑務所に入らなくて済むような異常者たちを、個人で裁いていくというダーティー・ハリーバットマンの考え方だ。でも、正しい法律か正しくない法律かどうかどうやって判断するのかというと、それは個人の良心に任せるのだ。実際そういうことがソローの『一市民の反抗』に書いてあるのだけど、そんなことをしだしたら、誰もが好き勝手に法律を守らなくてよくなるじゃないか、誰が正しさを判断するのだ、とまともな大人なら考えるだろう。これに対する答えはぼくにはよくわからない。憲法論なんかでも、そもそも国を転覆したりクーデターを起こしたりする権利が国民に保障されているのかどうか、というのは難しいところだ。もし国が暴走してしまったときには、国民は革命を起こす権利がある、とはどこにも書いていない。いまのところ、坂本龍馬にしてもチェ・ゲバラにしても、結果論的に正しかったとは言えるけれども、まさに国を転覆しつつあるときに、つまりクーデターの最中に、新撰組が脱藩浪士に「国民には国を転覆する権利がある」とはいわないだろうからだ。でなけりゃ、地下鉄サリン事件だって正当化されちまう。法律や憲法というのは、サンデル教授が大流行させたように、「正しさ」についての考えに集約されるのだから、その絶対性というのは明記できない。
 これはまたドストエフスキー罪と罰』の永遠の議論でもある。ラスコーリニコフは、正しいという信念によって人を殺してしまうけど、この行いが端から見れば全く正しくないことは一目瞭然だ。ドストエフスキーはそこに「一握りの天才であったら」という仮定を持ち込むのだけど、もちろん天才かそうでないかを見極める術だってありはしない。ただ、ソローの場合は、それに関しては投げやりで、「個人の良心によって判断せよ」ということだ。ぼくが理解しているトランセンデンタリズムというのは、そういうことなのだ。経験主義、個人主義、反論理主義。細かい論理的な回答を嫌うのだ。

「法があり、正義がある、お前は何を得た?」

 ぼくがこうやってバッサリ言い切ってしまうと、ソロー的なアメリカがとんでもないアホ野郎に思えるかもしれないけど、現代日本の論理的な科学的な価値観のもとでそう思ってしまうのは当然だろう。しかしソローはアホではなかったはずだし、少なくともぼくよりは何倍も賢いのだ。

 同じような牧歌的な立ち位置に、鈴木大拙がいる。鈴木大拙は言わずと知れた禅マスターで、アメリカで禅仏教が流行したのは、この人が英語で禅の本を書いたり講義をしたからだ。アメリカ人に「ジョウドシンシュウ・ブディズム」や「シンゴン・ブディズム」といっても伝わらないが、「ゼン・ブディズム」といえば伝わる。鈴木大拙は、禅の考え方を「般若」と「大悲」にわけたが、般若のことを「トランセンデンタル」と訳した。これはまさにソロー的な体験主義的な個人主義的な考え方だった。その証拠に、鈴木は『禅と日本文化』の中で、禅の「わび」の精神をヘンリー・ソローの『森の生活』を例に書いている。鈴木大拙からみても、ソローは禅だったのだ。『禅と日本文化』はアメリカ人向けに英語で書かれた本なので、鴨長明方丈記』ではなくソロー『森の生活』を例に出すのも頷ける。鈴木大拙はより明確に、禅が論理的な思考とは相反するということを強調している。「どうして?」とかきかれても答えられないのだ。たとえば金剛経に書かれた「世界は世界にあらず、これ世界なり」というのをどう解釈するか。論理的に考えてしまえば、ほとんどアリスのハンプティ・ダンプティやイカれ帽子屋と言っていることは変わらないように思えてしまう。「コジコジはコジコジだよ」というわけだ。それに、アリスは「私は自分じゃない」という。つまり、ただの言葉遊びと違いがわからない。


「私は自分の説明はできません。だって私は自分じゃないから、そうでしょう?」


 ソローや鈴木大拙のような考え方は、60年代にヒッピーらによって実践されていったように、ケージが影響を受けただろうポイントというのはよくわかる。今日では左翼的なドリーマーを「お花畑」と揶揄することがあるが、鈴木大拙にいわせればそんな批判なんかものともしないだろう。お花畑で結構。しかしポスト・オウム真理教時代に生きるぼくらは、そういった超越的なものには疑ってかかる傾向がある。論理的な回答が欲しいのだ。


 ケージに影響を与えた牧歌的な二人とは対照的に、テクノロジーを讃える二人の人物がいる。それがバックミンスター・フラーマーシャル・マクルーハンだ。この二人の天才は、いまでいえば、スティーブ・ジョブズのように、テクノロジーで革命を起こそうとした人たちだから、ソローや鈴木大拙とは全く逆。ちなみにジョブズは、スタンフォード大学での演説を、フラーの構想から始まる『全地球カタログ』最終号の引用「Stay foolish, stay hungry」で締めくくる。

 彼らとソローが真逆である証拠に、マクルーハンはまさしくアメリカの牧歌的な無垢への憧れを批判している。そもそもこうしたノスタルジーは、アメリカ全土に鉄道が開通したことで都市が集中し、その結果生み出された「幻想」だと彼は書いている。
 たしかに、なぜ自然がすばらしくて、都会はすばらしくないのか。なぜ『北の国から』で東京は汚く描かれ、富良野は美しく描かれるのか。もしこれを日本に置き換えるとしたら、高速道路やバイパスにより一点集中型の都市がうまれ、それが近年のパワースポットのブームを生み出した、というところだろうか。都市が田舎を生み出し、テクノロジーが自然を生み出す、というのはなんとも構造主義的な言葉遊びのようであまり好きにはなれない。マクルーハンは電子メディアの発明によって「The End Of The Line(終着点)」として鉄道による牧歌信仰の終わりを告げ、さらに印刷物のような直線的(line)な思考ではなくテレビのような複数の文脈が同時にインプットされることの役割を書いた。

本は目の拡張、、、

 フラーもまたテクノロジーを非常に重要視していて、テクノロジーを「富」の概念に変換している。ぼくらは、ぼくらの子孫を永久的に安全に残していかなくてはならない。そのためにはテクノロジーとこれを運用するノウハウが必要なのだ。つまり、核兵器で救われるか滅びるかは、その運用次第、テクノロジーのノウハウと、その運用で未来が決まる。こうした未来への有用な遺産こそ、フラーにとっての富の概念だった。エネルギーは絶対に一定であることがアインシュタインによって証明されたことで、彼はこれが確実に安全に運用されうることを確信している。彼の理論は一見するととんでもない発想で馬鹿げているので、新手の新興宗教のように思えてしまうが、何を隠そう、アインシュタイン本人がフラーの本を熱烈に推薦して出版されたのだ。

フラーのダイマキシオン・カー

 ソロー=鈴木の牧歌的なアメリカと、フラー=マクルーハンのテクノロジーのアメリカ、対極にある二つのアメリカに圧倒的な影響を受けているケージだけど、この二つをどういう風に料理していくことができるだろうか。

 ぼくは、ジョン・ケージという人の本質にあるものが何か考えた時に、「無政府主義」と「個人と世界」という二つが存在しているように思える。フラーもマクルーハンもソローも、自身の無政府主義的な態度について著書に書いている。禅の無政府主義的な態度に関してはいうまでもないと思う。
 マクルーハンはいまでいうインターネット、「ワールドワイドウェブ」のような「グローバル・ヴィレッジ」という言葉を積極的にひろめていった。グローバル・ヴィレッジ、まさに、ファイスブックやツイッターの世界だ。
 フラーも同じように「宇宙船地球号」といい、世界をひとつの共同体として捉えている。地球というひとつの宇宙船にぼくらは乗っている。これは坂本龍馬が日本を一隻の船に喩えたのとほとんど同じ意味だろう。真の意味でのグローバリズムだ。ジョン・レノンがやる気のない声で「想像してごらん、国なんかないんだ」と歌うのにも、毛利衛がスペースシャトルから地球を見下ろして「国境はない」というのにも似ている。

フラーの提案するダイマキシオン地図を見ると、
つくづく日本海やインド洋なんて名前が無意味だと思う。


 一方で、ジェイムズ・ジョイスは『ユリシーズ』において、ダブリンを世界に見立てて書いたし、また『フィネガンズ・ウェイク』では一軒の酒場から人類史を再構築していった。
 個人と世界の直接的なつながりを彼らは有している。
 もちろんこういった無政府主義的なパンク精神というのは、マルセル・デュシャンエリック・サティを思い浮かべるし、この二人がいなければセックス・ピストルズだって生まれていなかったかもしれない。


 個人と世界の直接的なつながり、というのは《セカイ系》なる『魔法少女まどか マギカ』やリュック・ベッソンフィフス・エレメント』やカート・ヴォネガットタイタンの妖女』の個人的の問題=世界の存続というドラマチックなものではない。


「もしダブリンが地球から突然消えても、私の本から再現できる」ジェイムズ・ジョイス


 そうではなくて、単に自由で、反抗的、といったくらいの感じかな。

 なんだ、ただのパンクじゃないか。
 その通り!
 ただのパンクなのだ。

 そうそう、ケージがただのパンク・アーティストだと考えてみよう。
 彼は、ハンマーでピアノの音を破壊し、それから「全く演奏しない」曲を作り、それから作曲すらあきらめてコインを投げて音符をつくり、どんな式典にもネクタイは締めない。パンク、天邪鬼だ。
 天邪鬼。
 関係ないけど、ぼくはピストルズのような攻撃型ではなく、もっと仏様のような静かな態度で、しかし反骨精神を持っているようなタイプの天邪鬼を、天寂聴(あまのじゃくちょう)と呼んでいる。ケージは天寂聴さんだな。

 ケージの音楽が真面目に大学で研究されたりすることは別に良いんだけど、大学の中に囲っておく必要はない。この状況は、少々おもしろい。
 メル・ギブソン主演でアカデミー賞5部門を受賞した『ブレイブハート』は、スコットランド独立のために戦った実在のヒーロー、ウィリアム・ウォレスのお話。自由がテーマで、劇中に何度かジェームズ・ホーナーの感動的な音楽とともに「ふりーだぁああああむ!!!」と叫ぶシーンがある。このウィリアム・ウォレス像が、襲撃にあわないように檻に囲われているというのはなんとも皮肉なお話だった。現在は撤去されたらしいが、檻に囲われたウォレス像の台座にはもちろん、「FREEDOM」と刻まれていた。

囚われた自由の男ウォレスと「FREEDOM」


 ガリレオ・ガリレイの中指が直立した状態でガリレオ博物館に展示されているというのは、まさにこの逆。彼の生き様にふさわしく、死後もガリレイは教会に対して中指を立て続けているのだ。

ガリレオの中指

 ジョン・ケージは、悲しむべきことに、ガリレイではなくて、ウィリアム・ウォレスのようになってしまった。
 つまり、ケージのパンク精神ではなく、どことなく高尚な現代音楽の中にひきこもったのだ。
 誰のせいだろう?

 さてさて、
 ここまで読んでくれた方は、ぼくらmacaroomが提案している今回のプロジェクトにおける、「cage out」や「cage in」という言葉の意味がわかってくれると思う。
 ウォレス像はcage inしてしまったし、ガリレオはcage outした。
 ジョン・ケージは奇しくも名前の中に「cage(柵)」がある。
 

今日はなんとなく、ケージがどういう人だったのか、というのをあまり本人には触れずに考えた。
cage in/outという考え方については、また今度じっくり書こうかな。


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