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2017/06/03

水曜日のカンパネラが西野カナに勝てない2017年現在



たとえばだけど、
水曜日のカンパネラや大森靖子やクリープハイプ、
これらの歌の歌詞が素晴らしくて、
西野カナの歌詞は素晴らしくない、ということを、
いろんな人が説明しようとしているが、
まだ誰も首尾よく成功しているように思えない。

ぼくは実を言うと、西野カナは結構好きで、
彼女の『もしも運命の人がいるのなら』なんか最初みたときは大笑いして、
次の日にはギター片手にコピーしていた。

ところで水曜日のカンパネラはあまり好きになれない。
水曜日のカンパネラが好きではない理由は、相当にぼくのプライベートな事情が混じっているので、あまり共感もしてもらえないと思う。
でもそういうことを抜きにしても、やっぱり好きじゃない。
大森靖子もね。


西野カナはよく槍玉に上がる。
「歌詞が単純」とか、そういった理由で、よく批判されるのだ。

一方で、水曜日のカンパネラの歌詞は、独特で素晴らしいらしい。

未だに音楽ライターは歌詞の批評を「文学批評」と勘違いしているし、
アーティストは逃げの一手で「響きが重要」というが、
それを理論的に証明する手立てを持っていない。
また、ちょっと知った風な人は「メロディとアクセント」の関係を指摘するが、
それを指摘して一体なんの意味があるのかすらわかっていない。
そりゃそうだ、
「昔のうたは旋律と言葉のアクセントが一致しているから素晴らしい」
という人は、それがまちがっていることを自身で自覚している。
言葉のアクセントとメロディが一致していないのに素晴らしい歌がたくさんあるからだ。
言葉のアクセントとメロディが一致してようが一致してなかろうが、
そんなものはどうでも良い、ということを彼ら自身知っている。

ではどうやって歌詞について語る?

歌詞の文学性を褒めるのか?
それも違う。
素晴らしい小説家は必ず素晴らしい歌詞をかけてしまう。


では歌詞の響きを褒める?
でも、どうやって?

『ユリイカ』ではいまだにラカンやフーコーを引用して文学的なテクスト論を展開するし、
『ロッキング・オン』では作者の人生を紹介することを歌詞批評だと思い込み、
サブカル雑誌はふざけていればいるほど素晴らしい歌詞だと盲信し、

ある人は
「歌詞が単純すぎる」と批判するが、
とても単純なビートルズの『Love Me Do』が、どうして良い歌詞と思えるのか、説明ができないのだ。
愛していると何度いったって、悪いことはない。

ある人は逆に
「シンプルが素晴らしい」といい、
「歌詞には意味など必要ない、響きが重要だ」という。
ではボブ・ディランとジャスティン・ビーバー、どちらの響きが良いだろうか?

水曜日のカンパネラ、クリープハイプ、大森靖子、
少し前でいえば椎名林檎や桑田佳祐や忌野清志郎、

これらの歌詞は、
西野カナの単純なラブソングより優っているのか。
いや、おそらく優っているんだろう。
もしも西野カナをきいて「ダサい」と思い、
大森靖子をきいて「カッコ良い」と思うのなら、
その感覚は正しいんだろう。

でもどこがどういう風に?
それは(いまのところ)誰にも説明できていない。


なぜ、こんなことを書いたのかというと、
以下のようなブログをたまたま読んで、腹が立ったから、
それだけ。

なぜスピッツの歌詞は評価されて、西野カナの歌詞は酷評されるのか


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