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2015/12/16

西野カナとおばはん


西野カナが若い女の子に支持されているのか、それともおばはんに支持されているのか判断することは難しい。これは製作者サイドも明確にターゲットを絞っていない、というかターゲットが極めて両義的な状態のままプロデュースしているのではないだろうか
ターゲットが両義的というのは、つまり「女の子/おばはん」という相反する二層は、これまでも常に揺れ動き入れ替わってきたからだ。おばはんは、若い女の子の間で流行っているものをやや遅れて知って、全力で取り入れ貪り尽くすハイエナのようなものだ。
だから、1年前は女の子的であったものが1年後にはおばはん的なものになり、そのころには企業はこれが女の子にヒットすることをリサーチ済みの上で似たようなものを提供するようになる。「LINE」が今や極めておばはん的なツールでありながら同時に若い女の子にも使われているのはそのためである。若い女の子とおばはんの消費形態の違いは、「貪り尽くす」という点だ。おばはんはコミュニケーションツールにおいてLINEが絶対的なものとして信じ、LINEを使ってない者を「ありえない」と非難し、強迫観念からスタンプをいくつか買い、ゲームもする。

西野カナも同様に、最初は若い女の子向けであったに違いない。西野カナは現在26歳で、ぼくと同学年。
彼女がすべての作詞をしているらしいので、彼女の歌詞は、若い女性の「等身大の」思いが込められているといっても嘘にはならない。しかし、若い女性が等身大の表現をするということはかなりの技術が必要で、なかなか一朝一夕でできるものではない。
結局のところ、西野カナの歌詞は、おばはんらしいものになってしまっている。しかしだからといっておばはんにしかわからない歌詞というわけではなくて、西野カナよりもずっと年下の女の子が食いついたりすることもあるから、作者のメッセージがそのまま受容されるわけではない。
おばはんという共同体の言語=エクリチュールは、今はほとんどつかわれなくなった女性語や、バブル期に流行ったカタカナの多用などわかりやすい特徴が多い。ちょうど椎名誠の昭和軽薄体の女性版のようなものだと思ってもらいたい。これは今日の音楽、映画、文学、詩にいたるまで、おばはんとは無関係に少なからず生き残っているものなので、こういうものを目にするたびにぼくは日本がいまだに言文一致が完成していないことを思うのだ。




日本が歴史的仮名遣いをやめて現代仮名遣いになって70年、明治期に推し進められた言文一致はいまだおわらない。ガウディに対して誰もが薄々感じているように、「完成しないんじゃないか」といってしまいたくもなる。
明治の新しい日本語の中には、熟語以外にも、「である」や「君」のような新たな言葉遣いが発明され、夏目漱石は前衛になることなくこれを大成させた。西洋の詩や文学を翻訳吸収する二葉亭四迷や森鴎外らの一派がいて、新体詩では正岡子規と与謝野鉄幹が短歌をはじめ、また俳句を提案した。そして俳句という定型詩の誕生は同時に自由律俳句を生み出した。面白いのは、これがたとえばバッハの長短調の確立から120年が経ってワーグナーが調性を崩壊させてシェーンベルクが無調へと解放したような時代的順序があるわけではなく、俳句の誕生と自由律俳句の誕生はほぼ同時なのだ。
ところでつい昨日、与謝野晶子の『みだれ髪』を読んだ。
青空文庫でいつでも読める。
電子書籍には慣れていないので、こう短歌程度だと丁度よく読める。長編小説はきつい。
『みだれ髪』は、「もうええやろ」とおもうくらい何度も「みだれ髪」というワードが頻出する。そうとうにみだれているということはわかるし、この歌をみた与謝野鉄幹は「相当みだれたやつがきた」と身を震わせたに違いない。相当にみだれた女、鳳晶子は髪を淫らに乱れさせながら鉄幹に擦り寄り、見事に結婚した。しかし、頻出する「みだれ髪」というワードの所以は、なにも晶子がとんでもなく乱れていただけではない。

黒髪の千すじの髪のみだれ髪 かつおもひみだれおもいみだるる

この短歌は、思うに、「髪(と心)がみだれている」の一言で言ってしまえそうなほどに内容が薄い。というか「髪」と「みだれ」って何回いうんやと誰も注意しなかったのか。この歌が、現代のポップスで当然のように使われるリフレインだということは(今では)誰にでも理解できるだろう。内容は薄いが、なんか感動するのだ。ビートルズだって、特に初期はたいしたこと言ってない。「愛してる」くらいしか内容がない。だが歌になるとあら不思議、素晴らしい歌詞になるのだ。
ポエム、もしくはリリックとして、近松門左衛門のような巧妙な(バッハ的な)ものは誰にも書けないし、書く気もおきないだろう。だが与謝野晶子のこのリフレインなら真似すれば出来そうだ。いまだに場末では「良い歌詞ってのは単純なことをいっているもんなんだよ」といったり「近頃のポップスは歌詞が単純すぎる」といってみたりとまるでまとまりがない。乱れまくっているのだ。
この後の「君死にたまふことなかれ」で大きく批判されながらも平塚雷鳥らに擁護される流れをみれば、これが彼女の「等身大の」文章であるといってそれほど差し支えないだろう。しかしそれを実現させるためには知識も技術も勇気も必要なことで、松岡正剛いわく晶子は「処女の頃から」源氏物語を読んでいたそうで、和泉式部らの暗示的な性的描写をよく吸収した上で彼女は現代史においてもっと大胆にそれを復活させたのだ。
さて、現代文学においてすら、「いやだわ」とか「そんなことないわよ」といった死せる女性語が普通に使われていることにさすがに憤慨せざるをえないだろう。文学は忘れられた芸術なのでまだ良いが、J-POP、若者の手の中にあるJ-POPですらそうなのだ。
なぜJ-POPはそれを許すのか。現在では女性語が、記号として取り扱われていることは、それを「オネエキャラ」といわれるオカマの連中が多用していることからも明白だ。
こういった語尾の違和感に聞く側は「あれ、おばはんか?」と感じるのだが、作詞者からしてみればこれはただの字数稼ぎにしかすぎないだろう。しかし作詞においていかにメロディに対応した文字を埋めていくかというときに、最も多用されるのが語尾(助詞や助動詞)もしくは語頭(接続詞など)であるのだが、とはいえ選び取ることができる言葉は無限にある。そこで口語としては死せる女性言葉を使うのか使わないのかがその作詞家のパーソナルな部分であり、それこそ「スティル」と呼ばれるパーソナルな偏りである。

結果的におばはんにも受容されることとなった西野カナ(売り上げからいえばこれほど嬉しいことはないが)。
AKBの作詞を秋元康がやっている時点で上記の弊害は国民の基準値というかハードルを大きく下げているのが現状だし、そうした古い歌詞に違和感を感じる若者もそれほど多くないだろう。
だれが作詞ができてだれが作詞ができないのか、ということを判断する基準もなければ理論も批評もない日本において、歌詞の発展は今後50年はないだろう。

2015/12/08

歴史なきニッポン文学


又吉直樹さんが芥川賞を受賞したことで文壇が多少は(ワールドカップ的一時的なものとはいえ)注目されたことは事実だ。最近では『火花』を読んだという中学生に2人も会った(そして二人とも途中で断念していた)。まず『火花』を掲載した『文學界』は80年の歴史上初めて増刷という快挙だった。芥川賞は、太宰治が受賞を直談判した時代に比べれば名誉も権威も月とスッポンになったとはいえ、かろうじて未だ小説は落語や歌舞伎ほどには伝統工芸化はしていない。かろうじて存命なようだ。危篤状態とはいえ。

ニューヨークタイムズにスティーヴ・エリクソンの批評が掲載されるなど村上春樹の人気は衰えないが、宮崎駿や村上隆と同じように、ただぽつりと奇跡的に人気が出た個人の存在が大きく、クールジャパンのようにまとめてケースごと輸出することには成功しているとは言い難い。日本にやってくる外国人も、以前ほど日本文学に魅せられたマニアの割合が多くなくなった印象。ノーベル文学賞は社会的な目論見が強く、もはや純粋な文学賞ではなくなっている。そのことは昨今ノーベル文学を受賞できないアメリカが多少ひがみも混じった形で批判している。そういった意味では芥川賞はまだまだ非常に文学的な趣があるといえる。決まってお偉い方が口にする「越境する文学」や「ポストコロニアリズム」とはあまり結びついていない印象だ。

困るのは、読まれもしないのに日本文学がナショナリズムの武器としては利用され続けているということだ。テレビでは当たり前のように『源氏物語』が「世界最古の小説」として扱われ、まるで俳句が数百年の伝統があるかのようにいわれ、明治期に言文一致が完成したかのようなことを伝える。『源氏物語』より古い物語は世界中にあるし、俳句は明治になって出来た。そして言文一致は未だ完成していない。
平安時代初期に書かれた日本最古の物語として中学生は『竹取物語』を暗記させられるが、彼らが暗記させられるのは十六世紀の終わりに書かれた写本である。当然原本は残っていない。同時に中学生は「歴史的仮名遣い」をならい、「やうやう」は「ようよう」と、「てふてふ」は「ちょうちょう」と読むことを知るが、この歴史的仮名遣いが平安時代の代物だという風に教わるのはほとんど詐欺に近い。歴史的仮名遣いが成立したのは明治に入ってからで、戦後廃止された。「てふてふ」は「てふてふ」と読むのが正しく、もっと正確に言えば、その発音は時代ごとに異なるのだ。聖徳太子の時代には「でぃえっぷでぃえっぷ」に近い発音だったともいわれる。それをはっきり理論立てて現在学校の古文の授業で習うような「歴史的仮名遣い」としてルールを統一したのは明治になってからで、江戸時代なんかは藤原定家が間違って提案した杜撰な仮名遣いを採用していた。

割と長い歴史を持つ日本の文学は、現在は日本が文化的な国だということを示してくれる証明書としてのみ機能しているようだ。ラフカディオ・ハーン、ドナルド・キーン、ロバート・キャンベルなど、外国人に(特に白人に)褒められると我々はめっぽう弱い。
川端康成は特に文学者の間では現在もなお評価が衰えることはなく、生前のガルシア=マルケスの評価やスウェーデンアカデミーの最も素晴らしい小説として現代の日本作家として唯一挙げられている。彼のノーベル文学賞受賞だって口に出すのが野暮なほど正当な気がしない。彼は日本ペンクラブの代表を辞めてからすぐ受賞したが、ペンクラブはいわばノーベル文学賞の推薦機関といったところだからだ。

日本は果たして世界に誇るだけの文学的な歴史を有しているのだろうか?
シェイクスピアは小説では最も引用される作家だが、同じ時代の最も優れた作家である近松門左衛門は引用されない。これは、日本人にとって近松の言葉が外国語とまではいわないが、ほとんど意味のわからない近世日本語であるせいだろう。
歴史家の宮脇淳子は、故岡田英弘の著書を咀嚼して、歴史とは文字と時間の記述であり、それがないインドとイスラムとアメリカには歴史がないということをいった。インドは輪廻転生の概念から時間の記述が意味をなさず、イスラムはアラーがその時その時を創りあげているのでそもそも時間に連続性がないという概念から時間の記述がなく、アメリカは稀に見ぬ契約国家なので成立前の歴史とは無関係であるという理由から歴史がない。
日本は『古事記』以来脈々と受け継がれる神=天皇の歴史があるが、これが近頃嫌なほど強調され言及されている気がする。天皇が2000年以上も続いているというデタラメをまともに信じる人はいないにせよ、1000年以上続いていることはほとんど確実だからだ。
確かに、竹田恒泰がいうように、『古事記』を西洋でいうところの聖書やギリシア神話のように、共通の神話として日本人に認識されたとしたら素晴らしいことだろう。しかし西洋で旧約聖書をヘブライ語で読む人がいないことと、『古事記』を現代日本語でよむこととは少々事情が違う。『古事記』はほとんど暗号のようなもので、我々には読解の余地などなく、ましてや日常にその文化が根ざしているとは到底思えないのだ(竹田はそうはいわないが)。『古事記』は小説として読むにはほとほとナンセンスすぎる。天皇の成り立ちなどを知る上での教養としての意義はあるにしても、思想的または芸術的に影響を受けることなどこれっぽっちもないだろう。はっきりいってつまらない物語だ。天才本居宣長が『古事記』を評価していることなど再考の素材には値しないだろう。本居宣長はつまり人生を『古事記』に捧げた。ただそれだけのことだ。

文学を教養の武器やナショナリズムとして利用することなかれ。文学を生きた芸術として身近に接していなければならない。国語の授業で受けたことや、「世界が羨むニッポン」的なことは忘れて、とにかく日本だろうがアメリカだろうがかまわず小説を読み、そして書くのだ。小説は誰だって書ける。紫式部が書けたんなら誰だって書ける。清少納言だってかけたのだから、大概の人は書けるはずだ。




2015/09/17

メアリー・シェリー以外のことについて話しましょう。


メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んだ。怪物を創造する、有名なあれだ。



恥ずかしながら、この作品(というか怪物)について勘違いしていた点がいくつかあった。
一つ目は、怪物についてである。
ちなみにいうと、世間一般で最も勘違いされやすいのが「フランケンシュタイン」というのが怪物ではなく博士の名前だというところなのだが、その最低限の教養については賢いぼくはギリギリクリアしていた。(フランケンシュタインが怪物の名前だと思っていた可哀想なあなたは今すぐ地元の墓参りでもしたい気持ちだろう)

まず最初の驚きは、怪物がめっちゃ喋る、ということである。とにかくめっちゃ喋るし、しゃべりすぎて途中から一人称が怪物目線になってかなり長い間進行する。

二つ目は、怪物がかなり冷静だということ。それにくらべ、フランケンシュタイン博士の方はかなり血眼になり興奮しまくり見境つかないし焦りまくる。そんな失神寸前なヒステリーなフランケンシュタイン博士に対して怪物が「落ち着け!」という場面は拍手喝采。

三つ目は、怪物がとても教養ある人物だということ。ゲーテとか読んでるし、ミルトンの『失楽園』とか読んでいる。ぼくも最近読んだミルトンだが、怪物は生後数ヶ月で読んでいるという天才ぶり。『失楽園』から圧倒的影響をうけた怪物は、アダムと自分を重ね合わせ、創造主であるフランケンシュタイン博士に、もう一体の怪物、つまりイヴを作るように迫るのだ。(しかし気の狂ったフランケンシュタインはよくわからん理論でこれを断固として断る)



メアリー・シェリーという名前はもはや誰も知らないが、彼女が生み出した『フランケンシュタイン』という作品は知らない人はいないだろう。そして旦那である詩人シェリーの名前は、メアリーよりは知っている人はいるだろう。『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが、彼女のお気に入りの詩がシェリーかキーツか言い合う嘘くさい場面がある。イギリスのロマン派を代表し、英詩上最も有名なシェリーとキーツ、それからバイロンがいる。シェリーは海難事故で29歳で死に、キーツは25歳で病死、バイロンは36歳で病死した。






メアリーの父は無政府主義の祖といわれ、母はフェミニストの祖といわれ、そしてメアリー自身は『フランケンシュタイン』によりSFの祖といわれる。

メアリーについて語るとき、私たちはメアリー以外について語るのだ。

そしてユニバーサルにより映画化された『フランケンシュタイン』は世界初のホラー映画といわれている。
映画の影響により早々に、フランケンシュタインというただの博士(学生)の名前が怪物の名前だと勘違いされ、ゲーテやミルトンを読む頭の良い「怪物」は「うああああ」と呻くようなノロマな怪物だと勘違いされた。



実際、『フランケンシュタイン』はもうメアリーの手にはおえないほどの怪物に成長してしまった。メアリーこそ不遇の天才フランケンシュタイン博士であったのだ。


『フランケンシュタイン』には副題がついている。

『フランケンシュタイン  または現代のプロメテウス』(FRANKENSTEIN ; OR THE MODERN PROMETHEUS.)



プロメテウスは、ギリシア及び古代ローマの神話によってごちゃごちゃに語られるが、ようするに、
ゼウスに逆らい地球に火をもたらした人物のことである。
人類はその火によって救われ、凍え死なずにすんだ。
しかしその火によって、人類は武器を作り出し、戦争になった。
プロメテウスはゼウスに罰せられる。「ほらいわんこっちゃない」と。

人類には「手に負えないものを発明してしまった」という強迫観念が昔からあるのだ。

手に負えない発明によって人類はしっぺ返しをくらう、というのだ。


アイザック・アシモフのロボット三原則は、フランケンシュタインの恐怖によって考え出されたと本人が語っている。
ホーキング博士は、AI兵器について、人間による有効な制限を遥かに凌駕するとして警鐘を鳴らしている。彼に賛同しているのはノーム・チョムスキーやスティーブ・ウォズニャックなど。


映画『ターミネーター』は、それがいかにバカらしい発想による娯楽大作かを考えても、妙なリアリティがあった。



戦後しばらくしてアメリカでは『原子怪獣』が暴れまわり、我が国では『ゴジラ』が登場した。





『イングロリアル・バスターズ』『ジャンゴ』など、歴史的な恨みをフィクションにおいて爽快に晴らしてきたクウェンティン・タランティーノに、映画ライターの高橋ヨシキが「次回作はアメリカに原爆を落とし返すってのはどうですか」ときくと、「それはもうゴジラがやってるしなあ」とこたえていた。

タランティーノは描かなかったが、リチャード・パワーズは『囚人のジレンマ』でこれを大真面目にやったし、トマス・ピンチョンは『重力の虹』でこれをV2ロケットに置き換えた。


特に西洋に根ざすこうした恐怖は、よく「フランケンシュタイン症候群」と呼ばれるが、もとをただせば、『フランケンシュタイン』は「プロメテウス症候群」である。

最初に人類に火をもたらしたプロメテウスと、その後火によって争い、自滅する人類というテーマは、最初は爆薬、次に核兵器、そしてAI兵器へと形を変えて我々の前に登場してきた。面白いことに、国際人工知能会議において公開されたホーキング博士らの書簡でも、「火薬、核兵器、AI兵器」の順番に人類を変える発明だと指摘されている。

ところで、

拝火教という宗教がある。ゾロアスター教という呼び方の方が馴染み深い。ぼくは、中学生のときにクイーンという英国のバンドが大好きだったから、その時にこの宗教の存在を知った。ボーカルのフレディー・マーキュリーの家系がそうだったからだ。
拝火教は、最も古い一神教だといわれ、善悪二元論的世界観はその後ユダヤ教に大きく影響を与えたといわれている。そしてキリスト教、イスラム教へと系譜は連なっていく。
開祖ゾロアスターはドイツ読みするとツァラトゥストラで、これをモチーフにしたニーチェの半小説半哲学書、そして『2001年宇宙の旅』でもおなじみの(そしてちょっと前では野獣ボブ・サップの爽快な入場曲としてもおなじみの)リヒャルト・シュトラウスの曲は大変有名だ。『2001年宇宙の旅』では人類への高次元の(プロメテウス的な)関与を象徴する人工物モノリスとともに楽曲が使用される。
拝火教は現在のアフガニスタン北部で生まれたといわれているが、読んで字の如し、火を神と崇める。
なぜ火を崇めるようになったかというと、それは石油があるからである。

ゾロアスター教は、拝火教と呼ばれるぐらい火を神聖視している。古き時代のイラン人が、今は油田地帯となっているカスピ海沿岸で比較的浅い地層の油田から漏洩する天然ガスに自然発火した火を崇めたことがあったようだが、エネルギーと宗教、この二つは中東地域が背負っている歴史的な宿業と言えるかもしれない。(中略)中東での石油の存在は古くから知られていた。紀元前3000年ごろ、メソポタミアでは、地面の割れ目から浸みだしていた天然アスファルトが、建造物の接着、ミイラの防腐、水路の防水などに使われていたというし、紀元前1 世紀ごろの記録では、止血のため石油を傷口に塗ったり、発熱を抑える薬として用いられていたともいう。「アゼルバイジャンは石油櫓が村の数より多い」といわれる現代でも、バクー周辺 では地下の油田から吹き出す天然ガスが燃えているところが見られる。(河野孝『イラクの現状は石油の呪い!?』より)

かくして火を手に入れた人類。その後どうなったか。これについては書くことも野暮だが、石油の「正しい使い方」を知った先進国による石油強奪戦争が繰り広げられることになった。

『2001年宇宙の旅』と(原作としても映画版としても)双璧をなすSF作品『ソラリス』に登場する宇宙ステーションの名前は『プロメテウス』である。一方の『2001年』では同じくギリシャ神話のオデュッセイアからの命名なので、みな考えることは大体同じだ。『ソラリス』は特にスタニスワフ・レムの原作では、人類至上主義的なものへの批判がどぎつく、この作品を一言で簡単にいってしまえば、「人類が考えることなどクソの役にもたたない」という感じだ。



というわけで最初に戻るが、今回のテーマは、「メアリー・シェリーについて語るとき、我々はメアリー・シェリー以外について語る」ということだ。村上春樹なら『メアリー・シェリーについて語るときに僕らの語ること』というだろうか。

月並みだが、
「ダイナマイトを発明した人の名を冠してノーベル平和賞などというのはどうも偽善っぽい」
ということをいえば、なんて使いまわされた古い考えだと一笑されるだろう。
おい、どこの国がダイナマイトを兵器として使用しているんだ、と。
それでも違和感は拭えないだろう。

311の直後に、確か当時の都知事がだったおもうが、これを人類への罰というふうにいった人がいる。確かに、この発言は不適切だし、迅速な対策が必要なときに全く意味をなさないものだろう。
しかしこうした発想は理系的合理主義的な解決が不可能な恐怖、予言的な恐怖から出るものである。
メアリー・シェリーはこれを、避暑地であるスイス(だったと思う)で、考えに考えて思いついた。めちゃくちゃ考えたということを本人が語っているし、めちゃくちゃ考えたということを旦那のシェリーも語っている。たぶん、めちゃくちゃ考えたんだろう。

末筆ながら、ノーベルも、フランケンシュタインと同じように、しっぺ返しをくらっている。
彼は生きているうちに死んだのだ。
彼は生きているうちに、新聞社の勘違いから死亡記事が出てしまった。実際に亡くなったのは兄弟だったらしいのだが。
その新聞を読んだノーベルは驚愕し、そこに書かれてある「死の商人」という言葉に絶句する。
はてさてそうした結果、罪滅ぼしなのかなんなのか、彼の有名な遺言が書かれることとなったのだ。
同じようなことが、核兵器においてはレオン・シラードとアインシュタインの大統領へあてた書簡にもある。
そしてAI兵器については今のところきかないが、やっぱり『ターミネーター2』でもサイバーダイン社の技術者の苦しみが描かれている。


やっぱりメアリー・シェリーについてほとんど触れない記事になってしまったが、気になられた方はぜひご一読くださいませ。





2015/07/23

架空の「かしこいギャル」をめぐって




『【感動する話】あの女子高生は良い女になるぞ』
http://jibunrashiku15.com/jyosikouseisuteki/

電車で障がいのある方が呻き声を出して、
男子高生が「きめぇー」って
でかい声で笑ってたんだけど、
「あの人はあれが伝える手段だよ。
あんたの今の言葉の方がよっぽどきもい。
前から絡んでくるけど、
お前みたいな男ハッキリ言ってナシだから」
って言い放って
電車降りて行ったあの女子高生はいい女になるぞ

 このような貧相で程度の低い作り話がヒットする最大の要因は、女子高生のエロさと、圧倒的な「手の届かなさ」だろう。




15日、安全保障関連法案が衆議院特別委員会で可決された。
それに前後して、FacebookやTwitterなどでシェアされまくり、飛躍的に再生数を伸ばした動画がある。
学生を中心とした『SEALDs』というグループのデモで、紅子さんという女性がスピーチをしている様子だ。
ぼくのFacebookのタイムラインで複数の人がこれをシェアしていたので、ぼくは正直「なぜこの動画ばかりシェアされるんだろうか。そんなに良いスピーチなのかな」と思っていたのだが、先日遅ればせながら拝見した。







動画を見て最初に思ったのは、「そろそろいい加減に《ギャルが好き》って言えや」ということだった。
とかく可愛らしい女の子、それも馬鹿っぽそうな女の子がそこそこまともなことを言うと、大人たちはたちまち欲情してしまうのだが、それを大人たちは素直に言わない。
この下手くそなスピーチがシェアされ続けている理由は、彼女が可愛らしい女の子であるという以外のなんでもない。(念のために言っておくが、ぼくはとてつもなくスピーチがうまい。15歳の時に弁論大会で県優勝、全国8位。参加人数10万人)
もちろん、この女性の行動は素晴らしいと思うし、SEALDsも素晴らしいと思うのだけど。
今度の安全保障関連は、「安保」という略称から、60年代安保闘争を想起させる。
世代が世代なら、煮えたぎるものがあるだろう。その煮えたぎったものがどういうわけかギャルへと向けられる。


『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』


この情報過多なタイトルの書籍は「ビリギャル」と呼ばれ、映画化までした。
この本の表紙にうつるモデルが、この話に出てくるビリギャルとは別人であることはわかりきっているし、それは広告の「お約束」である。
さらに、このタイトルに含まれる「学年ビリ」「偏差値」「ギャル」という言葉がプロモーション的過剰なレトリックであることも商品の「お約束」である。
しかし、こんなものはすべての新書にいえることだし、たいしたことはない。
しかしながらこの本に関する批判は後を絶たない。

・表紙の女性と本人は全く別
・そもそも高校自体が偏差値60のお嬢様学校だった
・ギャルじゃなかった
・偏差値40は全国ではなく学年偏差値というだけ

このような批判は、たしかに著者の詐欺すれすれの下品なレトリックに起因する。
これは単に、いかにみんながギャルが好きで、ギャルに夢を託しているかという問題だ。
デスノートの作者が表紙を描いた『人間失格』を読んで、「表紙のようなイケメンは出てこない」とは誰も言わないだろう。

関心は彼女の見た目であり、そのエロさが好きなのであり、頭の中なんぞははなからどうでも良い。しかしそういうのは恥ずかしいので、頭の良い架空のギャルを妄想して、「彼女はよく考えてる子だよ」と言いたいのだ。見た目ではなく中身を評価しているとでもいうように。
だから上記のようなレトリックに騙された読者は躍起になって反撃する。「おれの妄想をかえせ」と。

この手の話をするときに欠かせない上野千鶴子は、「男の幻想と女の演技」と言った。
男が作り出す架空の「かしこいギャル」は後を絶たない。
なぜ大人はギャルが好きだということを隠すのか。

ルーズソックスが興隆を極めた90年代後半に、二つのことが社会問題となった。
ひとつが援助交際であり、もうひとつがオヤジ狩りである。
オヤジは若者に狩られて金品を巻き上げられているにも関わらず、その若者に自ら近づいて金を払いセックスする。
ギャルという言葉はすでにバブル世代の同じ名称とは意味合いが変わっていた。
ギャルは大人たちを完全に征服し、大人はそれによってマゾを開眼させた。
社会情勢が刻一刻と変化する中で、大人たちは以下の二つの方法で過去のトラウマを清算する。

1、無能で従順な女性を量産する(AKB48に代表される反教養主義の慰安婦的存在)
2、有能で自律的な娼婦を創作する(ビリギャルに代表される良識ある架空のセックスシンボル)

以上二つは矛盾に満ちた幻想である。

この度芥川賞を受賞した又吉直樹。
誰も読書をしない現代の日本で、彼はとても貴重な芸人だった。彼は文化的な芸人を代表するようになり、文化気取りの女性たちの関心を一挙に集めることになった。
たとえば、「シュヴァンクガール」と呼ばれる、サブカル好きの性的誇大妄想の女や、ちょっとオシャレに読書したい程度の女の子に。
たかだかミステリーやファンタジーを読んでいる自称文化系女子の女の子は、又吉直樹に近づき、「私みたいな女、好きでしょ?」という。
グラビアアイドルやモデルが実際に番組で何度もそういった暗に侮蔑的な告白をした。芸人はこうした上下関係に逆らうことはできない。芸人とはそもそも蔑まれる存在であり、差別の対象であるが故に成り立ってきた芸だからだ。
かなり以前から又吉直樹は「どんな女性がタイプか」という質問に対し、「ギャルです」と答えてきた。もしくは「黒ギャルです」と。

この正直で勇敢な告白には多くの答えが含まれている。
なぜならギャルは、男の幻想が産み出した現在のところの最高傑作だからだ。

古典的なラブロマンスの物語に登場する女性像は、今ではほとんど形式的にギャルが継承している。『曽根崎心中』のお初や『たけくらべ』の美登利に限らず、「ファム・ファタール」というキャラクターは物語に古くから登場する。
ラブロマンスが必ず舞踏会やダンスパーティーから始まるように、ギャルにはクラブで会うことができる。
和歌やラブレターがラブロマンスの始まりであったように、独自のメール文化や言葉遣いを使用する。
夜這い文化がほとんどすべての国のラブロマンスの典型であったように、ギャルは一夜の関係を厭わない。
駆け落ちがラブロマンスの結末であったように、ギャルは家出を厭わない。
ギャルはエロい服を着て、援助交際をし、政治に口出ししない。
これは本来のギャルの記号的な扱いである。
交友関係が広く、コミュニケーション能力が高い。
しかし、そこに架空の「かしこさ」が加わってしまった。
本来は役割的に男性がするはずだった「かしこさ」を、男性が放棄してしまったからだろうか。

確かに、いまだに政治に関してはかろうじて男性に主導権がある。

一年間に
一冊も読書をせず、
一回も美術館には行かず、
一度だけ映画館に行き、
会社で必要な情報を新書で得て、
人間関係をSNSで築き、
芸術は失われて短期的、即効性のある娯楽だけが残り、かろうじて政治の話をする権限が男性に残されている。
失われた文化の中でぽつんと強制的に参加しなければならない「政治」がある。
「女が政治に口出しするんじゃねえ」という時代が終わり、

SEALsで勇敢なスピーチをした女性は、まるで男性の性的願望に支配された駒だ。

みんな、ギャルが好きなのだ。
男は幻想をし、そして女は演技する。
なぜ「すっぴんが良い」などと言うのか。そしてなぜ架空の「かしこい女子高生」を作り出すのか。

SEALDsのスピーチにもどろう。
SEALDsの活動は素晴らしいが、スピーチがド下手なのにはわけがある。

それは、SEALDsのスピーチはメッセージの送り先がSEALDs自身であるということだ。
彼らはマイクを持って、「みなさん」と語りかけ、「私は初めてこれに参加しました」という。「安部!」とも言う。
しかし彼らのスピーチが内側に向けられたものであるということは、疑いようがない。
なぜなら、法案を批判するよりももっと肝心なことを訴えているからだ。それは「参加してよかった」ことと「参加しないことは愚か」ということ。
ぼくは上野千鶴子があまり好きではないが、上記の発言は鋭いと思うし、SEALDsの可愛らしい女性が「演技」していることはわかる。
男たちの幻想に対して、女は演技する。

私今日ここに来る前に、来月着る水着買ってきて、まつエクいつ着けようかなとか、そういうことを考えてたんですけど、そういうことで悩んでる人が政治について口を開くことはスタンダードであるべきだと思う


男性はこの女性を「この子は頭が良い」ということによって、かろうじて彼女よりも立場が上である「批評家」になることができる。彼女を褒めることはすなわち自分が彼女よりもより政治的に「わかっている」ことの証明であり、自分が本来ならしたいこと、言いたいことを代弁させているのだ。それらはスピーチの内容がどうであれ関係はない。なぜならそもそも彼らが産み出した「かしこいギャル」とは幻想であり、妄想にすぎないからである。

この勇敢な女性は、どのように表現し、どのような考えを持っていようとも、真に理解されないまま絶賛され続けるだろう。こうして我々は幻想のうちに手の届かないギャルや女子高生に対する悶々とした気分を解消することができ、なんとか惨めな性生活に嫌気がさすことなく生きていくことができるのだ。


2015/05/30

素晴らしきシーシェパードと卑しき菜食主義

実を言うと、あの悪名高いシーシェパードの創始者、ポール・ワトソンの気持ちが少しだけわかる。

とはいえ、ぼくは彼の著書など読んだこともないし、メディアでの発言もあまり意識して気に留めたこともない。なのでほとんどぼくの勝手な想像に過ぎないことを最初に言って、ある程度の反論を見限ってしまおうと思う。

ポール・ワトソンの主張など日本においては「なあに馬鹿げたこと言ってんだい」てえなもんだろう。

ポール・ワトソンとはどういう人か、(全く知らない人のために)少しだけぼくの偏見も交えて書こうと思う。

ポール・フランクリン・ワトソン(英: Paul Franklin Watson1950122は、カナダの環境活動家。グリーンピースの元メンバーで反捕鯨団体シーシェパードの設立者。日本の調査捕鯨を妨害した容疑で海上保安庁から国際刑事警察機構ICPO)を通じて国際指名手配2012513日、コスタリカのサメ漁船に対する航行妨害の容疑で出ていた逮捕状に基づき、フランクフルトでドイツ当局に逮捕されたが、保釈中に逃亡した。(Wikipediaより)

・国際環境保護団体グリーンピースの元メンバー
  ↓
・非暴力なグリーンピースの方針に対立し、脱退
  ↓
・海洋保護団体シーシェパードを設立
  ↓
・反捕鯨を掲げ、捕鯨船などに体当たりなど暴力行為を繰り返す
  ↓
・アメリカおよびカナダ政府からテロリストと名指しされている
  ↓
・アメリカ連邦高裁から海賊(海上武装勢力)の認定を受けている
  ↓
・ICPOから国際指名手配中
  ↓
・ドイツで逮捕されるが、脱走。フランスへ亡命中

現在人権問題に敏感なフランスはワトソン氏を拘束していない。これはフランスが反捕鯨の立場を貫いているという理由も関係しているかもしれない。日本政府はフランス政府にワトソン氏の身柄引き渡しを交渉している。

文化的に捕鯨をしてきた日本としては、とんでもない敵である。こっちからしてみれば「お前ら白人が捕鯨したくて開国要求してきたんちゃうんかい」という感じだ。
だがとにかく、文化や歴史は関係ない(としよう)。
現代の話。
ワトソン氏はヴィーガン(乳製品や卵を含む動物由来のものを一切食べないスタイル)を貫いている。
動物愛護の観点からヴィーガンやそれに近い菜食主義になる人は多い。

ところで、ワトソンらの言い分はおそらく、「動物を殺すことは一切ゆるさん」ということらしく、ぼくは「そんな文化も無視しまくったよくわからん主張がよくまかり通るな」と思う反面、「確かに人類はやり過ぎた。そろそろ人類は滅亡した方が良いのではないか」と思う。

彼らのような極端な主張は、結局は利己的である我々からすればアホとしか言いようがない主張だが、地球尺度の愛で持って考えれば、それはそれで良いではないか、とぼくは思うのだ。

ところで、実はぼくも菜食者のなのだ。もちろんヴィーガンではないし、魚はわりと食べる。牛豚鳥を食べなくなった。
肉を食べなくなった理由はいろいろあるのだが、特に「これ!」という決定打のある意見というにはなくて、なんとなくふわーっと菜食になった。
不思議なことに、なんの打ち合わせもしていない兄が同時期に菜食者になっており、我々は電話でとても驚いた。兄もぼくと同じで、なぜ菜食になったかという理由が(あるにはあるが)ほとんどない。

ただ、菜食になると、大抵食事の席で「どうしてベジタリアンなの?」ってきかれてしまうので、そのときに答えを用意しておかなければならない。
何て答えるべきか。
兄は電話でぼくに、そういうときに答えるべき台詞が見つかったと言った。
「世界中のあらゆるものに喪に服している」
というのが彼の(体面上の)答えだった。

しかし自分がベジタリアンということほど恥ずかしいことはない。
なぜなら日本でベジタリアンといえば、大抵はおばはんであり、性欲丸出しな感じでホットヨガなんかやったりして、有機栽培の野菜や玄米をすすめてきて、心が穏やかになったとか匂いに敏感になったとかありもしないことをつらつらと語って黒髪にエスニックなブレスレットに麻のカットソーから自慢の腹を出し、ステラ・マッカートニーの非レザーショルダーポシェットを慣れぬ手つきで抱える、そういう人のことを言うからだ。
ベジタリアンを自称する(白人の)セレブ達の名前をすらすらを言うことができ、動物がどのような方法で毛皮になるのか諳んじることができ、ときには科学的なことを言い、ときにはスピリチュアルなことを言う。自分が綺麗になることしか考えておらず、ほとんどが未婚である。

欧米のベジタリアン流行が
「第三世界に目を向けるインテリのステータス」
だとするなら、
日本のベジタリアンは
「《第三世界に目を向けるインテリのステータス》が流行する欧米に目を向けるおばはんのステータス」
といったところだろう。

確かにロラン・バルトは「わたしたちは衣服を着るのではなく、思想を着る」と言ったが、こういったおばはんたちは毛皮よりも遥かに分厚い性的欲求を着込んで街を歩いているようなものだ。

ファッションとしてのベジタリアンが横行する中、革命家を気取って過激な行動に出るポール・ワトソンの生き方は、まことに素晴らしいものだとぼくは思う。

昔、何かの本で誰かが(本当に忘れた)言っていたのだが、アメリカの長い黒人差別の歴史の中で、黒人が「平等」を訴えることに違和感を感じる、と著者は言っていた。
つまり、こんだけ虐められたのだから、「平等」なんていう理性的で野暮なことを言わず、「白人差別」をする方が自然だと。しかしそうはならない。これは民族的な違いなのだろう。それを見事にしてしまったのがマルコム・Xであり、そういう意味で彼は必要だったと著者は言っていた。

「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか」

「白人が我々に対して『何故白人を憎むのか』というのは、強姦した者が相手に対して『オレが憎いか』と発言するのと同じだ」


ポール・ワトソンも同じように、ある種同感できるところがある。
これを「必要悪」とかむしろ「不必要善」とか言ってしまうのは大変失礼だろう。
ただ実際、我々日本人にはこれを受け入れることは到底不可能だ。




動物愛護の観点から菜食主義者であるナタリー・ポートマンは、
絶対に毛皮など動物由来の衣服を着ないが、
映画『ブラック・スワン』では見事に動物そのものになった。


2015/05/25

P・T・アンダーソン『インヒアレント・ヴァイス』感想




 P・T・アンダーソン監督『インヒアレント・ヴァイス』観ました。キャスト、スタッフともにビッグネームが集結した傑作でした。
前作『ザ・マスター』と違い、ホアキン・フェニックスのアドリブはあまりないような感じがしました。演者が終始ふざけまくっているので抱腹絶倒なのですが、話が早すぎて観客はずっと「この人誰?」と必死で食らいつきながら観なければなりません。

映画の見どころを私なりにまとめてみましたので、観ようか迷っている方の参考になれば幸いです。


『インヒアレント・ヴァイス』(Inherent Vice)は、トマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』を原作に、ポール・トーマス・アンダーソンが映画化した2014年のアメリカ映画。主なキャストはホアキン・フェニックス、ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、キャサリン・ウォーターストン、リース・ウィザースプーン、ベニチオ・デル・トロ、ジェナ・マローン、ジョアンナ・ニューサム、マーティン・ショート。
同作品はアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞にノミネートされている。
あらすじ
1970年、ロサンゼルス。マリファナ常用者である私立探偵のドク(ホアキン・フェニックス)は元恋人のシャスタ(キャサリン・ウォーターストン)に不動産業界の大物ミッキー・ウルフマン(エリック・ロバーツ)にまつわる事件の調査を依頼される。(Wikipedia)



原作との違い
この映画は大抵「ポストモダン文学」という言葉とともに語られることの多い米文学者トマス・ピンチョンの長編小説『LAヴァイス(原題は同じくInherent Vice)』を原作としている。
ピンチョンは現代文学で最も難解な作家といわれていて、代表作『重力の虹』では、ピューリッツァー賞に推薦されながらも審査員全員一致で「理解不能」と却下されたという伝説がある。当時全米図書賞の審査員だったトルーマン・カポーティーが「《重力の虹》を理解しているのは世界でぼくだけ」と言っていた。ただ、『LAヴァイス』の方はピンチョン作品としては最も読みやすく、エンターテインメントな要素が強い。とはいえ、原作を読んでいなければ観客はほとんど意味不明かもしれない。登場人物が一体何者なのか追うだけでも一苦労だし、話はどんどん展開していく。主人公とヒロインのロマンスを期待していた人はがっかりするだろうし、ドタバタコメディとしては(相当笑えるけど)低脳なネタばかり。ミステリー風のどんでん返しは(少なくとも映画版では)ほとんどないし、社会的なメタファーのようなものを期待してもほとんど読み取れないだろう。つまり、ギャグシーンに笑いながら「インヒアレント・ヴァイスってどういう意味だ?」って思っているうちにエンドクレジットを迎える危険が十分だ。
もし、物語の進行についていくことが不安なら、次のことに気をつけて映画をみると良いかもしれない。
「ウルフマンという大富豪にどのような心境の変化があって、最終的に何を望んでいたか」
「最終的には誰が悪者だったのか」


映画の思想的なテーマとしては、端的にいって「アメリカという国固有の欠陥は修復可能か」という感じだった。

映画は《ほとんど》原作と一緒で、展開もセリフもぼくがおぼえているかぎりはだいたい一緒だった。だからピンチョン好きのぼくとしてはずっと興奮していることになる。正直、映画館で冒頭のシーンからずっと「きゃー」と黄色い声をあげるのを押し殺していた。
原作とは違う点ももちろんあって、とくにオチが違ったし、割愛されているキャラクターは多かった。
個人的に好きだった聖なるサーファーが出てこなかったのは残念。彼はオチにも関わってくるので、当然そのオチも割愛されていた。
原作からの変更点での最大の功績は、ナレーションだと思う。
原作では三人称で書かれていたが、映画では主人公のミステリアスな友人の語りで進行する。この妖しい語りがとても良くて、登場人物のごった煮感とサイケな演出に一役買っている。この女優はジョアンナ・ニュートンというハープ奏者で、映画に出るのは初めてだということ。







PTA
数年前に初めてPTアンダーソンがピンチョンを映画化すると聞いたとき、「どんぴしゃやがな」と思った。
ピンチョンの小説はやたらと登場人物が多く(『重力の虹』では優に400人を超える)、真面目で暗い話のくせに登場人物は漫画のように安っぽい。大抵ドタバタコメディのようなふざけた演出があって、小さなエピソードが幾重にも紡ぎあわされるようなものが多い。
アンダーソンの最近の作品『ゼア・ウィルビー・ブラット』や『ザ・マスター』ではそれほどではないけど、以前の『ブギーナイツ』やとくに『マグノリア』は、割とピンチョン的だった。複数の登場人物がぱっぱぱっぱと入れ替わって、絶望的な物語だけどもふざけている、そういう感じだったから、ピンチョンを映画化するなら絶対にアンダーソンかタランティーノかテリー・ギリアムしかないだろうと思っていた。




サブリミナル
映画化にあたってチャンドラー原作の『三つ数えろ』を下敷きにしているとか衣装は『マペット』からインスパイアされてるとかいろいろきいたけど、もっとも気になったのは明らかにサブリミナル的な効果を演出している箇所。
画面に映る複数の人物がランダムに動いていて一瞬(本当に一瞬)「最後の晩餐」になる場面や、他にも様々な何らかの引用やオマージュがサブリミナル的に多用されていた。
これはたぶん、ピンチョンの原作の重厚で複雑に絡み合った文章を映像にするための工夫であろうと思う。たぶん見逃しているところがいっぱいあると思うけど。




キャサリン・ウォーターストンがとにかく美しい
とにかくヒロインに見惚れてしまう。どうしてこんなにも見惚れてしまうのか考えたが、つまりぼくはヒッピー女が好きだということだ。シャスタ・フェイ・ヘップワースという名で登場するこのヒロインは、めちゃくちゃにはしゃぎまくったヒッピー青春を経て、現在は落ち着いた大人の女性になっている。回想シーンで出てくる無造作な長髪と露出しまくったカリフォルニア・ヒッピーのファッションが可愛くて仕方がない。ほぼ下着で街へ出てヘロイン探し求める場面はそれでけで幸福に頓死だ。









ヒッピーたちの「あるある」
原作でもそうだが、映画の中にはヒッピーというかドラッグカルチャーの「あるある」がふんだんに盛り込まれている。神秘的な方法でヘロインを探し出す場面や、ジャンキーがパラレルなテレビドラマにはまるところや、(当時の)対ヒッピーのやっつけな取り締まりや、ファッションやインテリアやその他嗜好品など、サイケデリックに一度は足をつけたことのある人ならだれでも「ああ、こういうことよくあるわ」と頷き感動するにちがいない。原作ではこのあたりのヒッピーあるあるが1ページごとに無限に出てくるので、まわりの健全な観客とは違うポイントで涙してしまったジャンキーの方は原作も読むことをおすすめします。






『重力の虹』映画化は誤報
最後に、PTアンダーソンが『インヒアレント・ヴァイス』と同時に、ピンチョンの最難解小説『重力の虹』の映画化もすすめているという話が数年前からずっと出回っていたが、これは残念だが誤報だったよう。これは海外のニュースサイトの「『重力の虹』でおなじみの作家ピンチョンの小説をPTAが映画化」という記事を、日本人が誤読したのがきっかけみたい。個人的にはこの作品はテリー・ギリアムのような人が撮ってほしいと思うし、もちろんPTAも良いかもしれない。でもとにかく長いし複雑な話なので、映画化するとしても原作とは全く違ったかたちにするか、一部だけを映像化するという以外にはやりようがないと思う。もしきちんと原作通りに映画化するとすれば、『ハリー・ポッター』シリーズよりも長く、『8 1/2』よりも錯綜とし、『少林サッカー』よりもくだらない、興行収入はゼロに等しく、批評家たちからだけ絶賛されるような映画になること必至だろう。
複数の監督がそれぞれ気に入っている場面だけを映像化するようなオムニバス作品、というのが現実的かもしれない。



音楽はPTAの常連になりつつあるジョニー・グリーンウッド(レディオヘッド)がこの度も担当しているけど、今作はどちらかというと『ブギー・ナイツ』のように、懐かしのヒット曲がほとんどで、OSTはちょっとしか聞けない。
オープニングでCanの「Vitamin C」が流れるのがとてもかっこよかった。kとは無縁の曲だけどこんな使われ方するなんて素敵、と思いました。
ところで、作中にはRaioheadの未発表曲が使用されているということなのだが、全然どれかわからなかった。なぜなら後で知ったことだが、楽曲はRadioheadだけど、トム・ヨークは歌っていないし、メンバーも演奏はしていないらしい。なので、結果的に作中のどれがRadioheadの曲なのかわからなかった。まあこれはどうでも良い話。





2015/05/11

その子の見た目と性格

たとえば、合コンをするときに相手に求めるものが外見だったとして、しかしながら相手の内面が全く考慮されないということはないだろう。

相手に外見を伝えるのは簡単。写メでも見せれば良い。
性格を伝えるのは難しい。

「野球ってどんな子?」ってきかれたとして、外見を言うのは容易いだろう。
「相手にボールを投げて棒で打ち返されるかどうかを競う遊びで、もし打ち返せたら、その人は嬉しそうに周辺を走って一周するんだよ」

しかしその子の性格を伝えるのはやや難しい。
「軍国主義教育の名残で、頭は坊主にして何も考えずとにかく周囲と一体になることが求められるプロパガンダの一種だよ」

どうしても少し堅苦しい言い回しになってしまう。


そういえば立川談志さんは、落語を説明するとき、「正座して面白おかしく物語る伝統的な話芸」という外見はいわず、「業の肯定」と性格を一言で言い表した。落語の登場人物はみなだらしなく、見栄っ張りで、だめだめなひとばかり。

色んな女の子の性格を考えてみたい。

ワールドカップがどんな性格の子かをきかれたら、こう答えると伝わるかもしれない。

「おばさんや無趣味の男性がスポーツバーなんかではしゃぐ期間のことだよ。欧米風のスキンシップをとることが良しとされてるよ」



スポーツバーの様子(東京夢企画)


エグザイルの性格であれば
「ある時期にフェミニズムが調子に乗りすぎた反動だよ。やっぱり男女格差って楽だよね、っていう発想のもと、徴兵制度復活に備えてみんながジムに行くことを喚起しているんだ」

AKB48の性格は
「ある時期にフェミニズムが調子に乗りすぎた反動だよ。やっぱり女の子は馬鹿でいいよね、っていう発想のもと、産めよ増やせよを目指して全国の子供のお肌露出度をあげるために頑張っているよ」


アメトーークの性格は
「みんなで空気を読もう」


音楽にも様々な外見と性格がある。
パンクロックは、外見は単純な三和音のブルース進行やエイトビートな女の子、性格は「とにかく壊せ」な女の子。

ブルースは
「明日も仕事か」

カントリーは
「我が国万歳」

フォークは
「我が国だめね」

パラパラは
「アゲアゲ」

トランスは
「サゲサゲ」

サイケは
「神とは何か、また我々は何者なのか、が完全にわかった」



そりゃもちろん、映画や本にだって性格はある。

ドストエフスキーは
「みんなでべしゃろう!」

村上春樹は
「アメリカ人に生まれたかった」

宮崎駿は
「この時代に物申す!……という私のかっこいい様をあの少女に伝えたい。できれば関係を持ちたい」

司馬遼太郎は
「余談だが」

ワンピースは
「(友達についての)気持ちを大声で叫ぶと気持ち良いぞ」

テラスハウスは
「臭いものに蓋」


ワンピースのワンシーン


もちろん国にだって性格はある。もしかしたらそれは憲法のことかもしれないし、イデオロギーというのはそのことかもしれない。アメリカは「幸福の追求」な子で、日本は「平和好き」な子……これはちょっと表面的すぎて的を射ていないかもしれない。



だんだん自分が何を記述しているのか、ただ皮肉を言いたいだけなのか要約したいのかわからなくなってきた。
でも、ひとによって性格の捉え方はまた違ってくるだろうね。

とにかく、
みんなも、その女の子が可愛いかは置いておいて、どんな性格なのか考えてみると楽しいよ。

だって、もしその子と付き合っていく気があるんなら、たぶん性格もそこそこ大事だから。






2015/04/24

ロマンスはドン・キホーテで



ロシュフコーは、本の中で恋愛について読んだことがなければ、誰も恋愛をしているなどと思いもしなかっただろうと主張しているし、ロマンチックな恋愛という考え方自体が(そして、それが個人の生活で占める役割の大きさは)、間違いなく、うずたかく積まれた文学の産物である。『ドン・キホーテ』から『ボヴァリー夫人』にいたるまで、小説自体の中にも、ロマンティックな考え方は他の本のせいで生まれたのだという言い方が出てくる。
ジョナサン・カラー『文学理論』より

お馴染みのみんな大好き『激安の殿堂 ドン・キホーテ』のことではない。


ロマンチックな考え方は他の本のせいで生まれた、ということについて。
ミルゲ・デ・セルバンテスの書いた小説『ドン・キホーテ』


『ドン・キホーテ』は聖書に次いで最も出版された本といわれていて、2002年には『史上最高の文学100選』で一位に選ばれた(ノーベル研究所と各国の文学者、批評家などによる投票)。


また、長大な作品なので、「最も有名で最も誰も読まない本」ともいわれており、スペイン語圏のインテリたちは必ず読んだふりをして本棚に『ドン・キホーテ』を飾っているという都市伝説もある。(岩波文庫版だと全6冊)

ぼくも読んだが、合田由の中央公論社Ver.で、完訳ではない。しかしこれでもかなり長い。

『ドン・キホーテ』は、主人公が「騎士道物語」というジャンルの本ばかり読んでいて、もう読みすぎて頭がおかしくなって、自分が騎士だと思い込んでしまい、存在もしない姫を助けに旅に出るという物語である。主人公の本名は曖昧ではっきりとはわからないのだが、そんなことはどうでもよく、とにかく彼は自分が偉大な騎士「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」だと思っているのだ。


彼は、姫を助けるために、必死である。普通の人々を魔法使いだと思い込んで突然斬りかかったりするくらい、姫を思い続けている。
彼が姫だと思い込んでいる女性は、当然姫でもなんでもなく、ただの土臭いざっくばらんな女性なのだ。
彼は何をするときも、姫を思う。他の女性が言い寄ってきても決してなびかない。姫だけを愛している。
なぜなら、彼が大好きな「騎士道物語」では、騎士が姫に出会い、恋に落ち、 魔女から救い出すという、だいたいそういう感じの物語だからだ。それは『アーサー王』や他の騎士道物語でもだいたい同じだ。


ところで『ドン・キホーテ』が書かれた時代(17世紀初頭)、もうとっくに騎士道物語という文学ジャンルは流行遅れで、誰もそんな陳腐なものなど読んでいなかった。
同時代でいえば、シェイクスピアなどが大活躍していた頃だもの。
そんな中、彼だけは、読みふける。もう騎士道物語が好きで好きでたまらないのだ。そしてもういてもたってもいられなくなって、痩せぎすの馬に乗って旅に出るのだ。
つまり、一般的には、この偉大な小説『ドン・キホーテ』は、騎士道物語のパロディであると解釈される。

最初に引用したジョナサ・・カラー(およびロシュフコー)の言葉。
「ロマンス」という言葉は、今でこそ恋愛に関するなんらかの状態を指し示す言葉として使われているが、昔は違った。


ロマンスとは、「騎士道物語」を指す言葉なのだ。
元来のラテン的な影響下から抜け出すべく、より大衆を意識した「ローマ的」なる文学がうまれ、それを「ロマン」や「ロマンス」などというようになった。
文学で「ロマンス」といえば、一般的には(というか業界用語的には)、「騎士道物語」のことをさす。


ドン・キホーテと名乗る狂った男は、騎士道物語(ロマンス)の読みすぎで、姫(だと勘違いされている女)を魔女から救い出そうとし、人生を台無しにし、家族から心配され、他人から嘲笑された。


ドン・キホーテ(と名乗る人物)の家族にとってみれば死活問題である。
自分の子供が、ある日急に自分が騎士などと抜かしはじめ、四六時中姫を追い求めている。これは完全に騎士道物語のせいである。なので家にある騎士道物語という元凶をすべて処分するに至る。


結果的に、ロマンスという言葉は恋愛を指し占めす言葉へと変化した。


小説がなければ、私たちは本当に恋愛なんかしていなかったのかもしれない。
すくなくともドン・キホーテにとっては確実にそうである。


なぜか須磨離宮公園にあるドン・キホーテ像。
痩せぎすの馬、手作り感満載のボロボロの甲冑、すっ転ぶ瞬間の描写力など、凄まじい力作だ。





風車を巨人だと勘違いして襲いかかるドン・キホーテ。
ギュスターヴ・ドレ画

2015/02/22

拙著つくります。

恥ずかしながら、近年執筆していた拙著を文庫化しようと思います。
自分のためだけに少数部だけ発注の予定ですが、もし欲しい方がいらっしゃいましたら売りますので、ご連絡ください。
以下のような感じです。
サイズ : 文庫本
ページ数 : 308ページ
値段 : 2,000円(+税)
カバー/オビ付き
タイトル
『土と壁』
背表紙コメント
「鳥島で意識不明の男が救出されたというニュースが茶の間を賑わせていた頃、放蕩とした生活を送る半次郎に舞い込んできた道路工事の仕事。彼は言われるがままに現場に赴くが、待てど暮らせど工事の仕事は一向に始まらない。ようやく始まった風変わりな土木作業は一件順調に見えたが、半次郎は知らず知らずのうちに日本全土を揺るがす革命へと巻き込まれてゆく。遊び半分で革命に参加する兄弟、土の下に眠る少女、アンドロイドなど、《委員会》に関係する人々の物語を主軸に、絶望とどん詰まりの三十年を経てひとつにつむぎ合わされる破壊と再生の神話を描く。」
備考
本文用紙 : RTライトノベル用紙63kg
表紙用紙 : 紀州の色上質 最厚口
カバー用紙 : マットコート135kg
遊び紙 : 紀州の色上質 厚口
※仕様は変更するかもしれません。




5年程前に書いていた作品は、ひとあし先に文庫化してみた。
こんな感じになりました。





2015/02/07

(大人になるために)イスラム国について語る

まともな大人なら、昨今の世界情勢についてなんらかの意見を持っていなければならない。そうでなければ頭の中は空っぽの腑抜けだと思われ、能無しのアンポンタンだと罵られてしまうからである。
それについて意見をいうとき、当然、自分は正しいということが前提となっている。たとえば、「馬鹿ばっかり」というとき、自分だけは馬鹿ではないということが前提とならなくては言葉が意味を成さなくなってしまう。
そうするとぼくのSNSのタイムラインはもうぐっちゃぐちゃであり、後藤さんは実は生きているだとか、瞬きでモールス信号を送っていたとか、安倍首相は戦争がしたいだけだとか、イスラム国という名称はそれを国だと認めることになるのでよろしくないだとか、決して許されないだとか、すべてはアメリカの責任だとか、涙が止まらないだとか、自己責任だとか、自害すべきだったとか、そういう有様で、「ああこれが民主主義か素晴らしい」と思う反面、「民主主義とはバベル的なコミュニケーション崩壊であったか」と憤慨したり、こちらも全く考えを整理することが困難になる。
しかし何か言わなくてはならない。それが良識ある大人だからだ。
ぼくは有名人でも学者でもないから誰も何も期待していないにも関わらず、何か言わなければならない。
何か言わなければならないが、一体何を言おう。
同じようなことが、選挙の時期にもやってくる。
ああ、また選挙か、投票しなければならない、そしてその投票には何らかの強い意志があって、それをするということが民主主義たる自由なすばらしい社会に三画することであり、立派な大人であるということだと、こんな不純なことを考えなければならなくなる。
しかしぼくは選挙に行ったことがない。
選挙に行かなければこの国のことについて文句を言う権利がないだとか、支持するものがなければ白紙投票すべきだとか、そういう意見に対してぼくは何ら反駁する手段を持っていない。もう黙るしかないのだ。
「父さんはもう選挙には行かんよ」と父は急に電話で言ってきた。数ヶ月前に。
なぜかときくと、「多数決という制度はおかしいで」と言う。
じゃあどうするのが良いのかときくと、「そこなのよ、問題は」と言う。
そして年末年始に実家に帰った時に、ある哲学者の本を父から勧められた。
確かにこの人は今の選挙制度に反対していて、この人自身選挙には行かないらしい。
そして民主主義というものの恐ろしさを驚くほどの博識でもって論ずるのだ。
この勇敢な哲学者は、その知識の膨大さと思考でもって、選挙にいかないということを華麗にかっこ良いものにしている。
しかし、知識のないものはどうしたら良いか。
ぼくは当然、イスラム国が登場するに至る詳細な文脈を知らない。
イスラエルとパレスチナの問題もしらない。
冷戦のこともベトナム戦争のこともしらない。
いや、実際、本などを読み、ネットで調べ、時にはそれについて論じたりすることもある。
しかし知っていると自負するだけの自信が全くない。
カリフ制という言葉もつい最近しったばかりだ。
ヒッピーから湧き出たハッカーの文化と、FacebookやTwitterなどの情報共産主義的な態度。
ここに私たち自由な素晴らしい先進国日本のデモクラシーを委ねることにぼくはいささか疑問だ。
何も言わない、という選択肢はないものか。
そうすればたちまち良識ある人々に、それは恐ろしい全体主義の始まりですよと諭されてしまうのか。ディストピアですよ、1984ですよと。
ハーデスさんという、イスラム国の人が日本語でTwitterをしていたことが話題になっていたらしく、先日NEVERでまとめられていたものを読んだ。
そこでは日本のユーザーがハーデスさんに様々なことを質問していて、ハーデスさんはそれに対してGoogle翻訳的なツイートでこたえている。
そこでは、このたびの日本人人質事件に関してとりわけ過熱していた。
安倍さんの中東訪問が正義であったかということ。
日本は難民支援をしただけなのか、それともそれが間接的に最後にはイスラム国への爆弾にかわるのか、ということ。
それに対してハーデスさんは、短く一言、「スイスはなにもしない」と言った。
私たちは知りもしないことについてやたらとやかく言いたがるが、なぜか。
たしかに、一つのことについて意見を言う時に徹底した知識が必要なのであれば、もう誰も何も言えなくなってしまうだろう。そして一部の知識人だけが議論し、大多数は参加できなくなってしまうだろう。そしてそれはこわいことだと思うだろう。
しかしSNSでの混沌としたシェアといいねはその対岸にいるのだろうか。
民主主義は突き詰めれば、次の二者択一しかない。すなわち、「くじ引きか、全員参加」である。
しかしそんなことは現実には不可能であり、
民意をダイレクトに政治に「反映させない」ための仕掛けが選挙制度である。
父一押しの哲学者の意見である。
SNSにはSNSのイデオロギーがある。
それは、「何か意見を言いなさい」ということだ。
しかし高橋源一郎は震災のときに国民全員が何かを言わなければならず、義援金を送るのか、関東から逃げるのか、原発反対なのか、ということに関する意見であり、それは「正しさへの同調圧力」だと批判した。
高橋源一郎といえば、筒井康隆を持ってして「インテリ源ちゃん」といわしめたほどのインテリだから、これが同調圧力であり、民主主義ではないことを訴えるだけの論拠がきっとそろっているのだろう。
しかし普通はそんな知識なんか持っていない。
それに、結局ぼくも何かは言わなければ済まされない質だから。
とりあえず黙る、ということはできないものだろうか。
この度のイスラム国の人質事件に関して、わからない、と答えることはやっぱりかっこわるいだろうか。