『【感動する話】あの女子高生は良い女になるぞ』
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電車で障がいのある方が呻き声を出して、
男子高生が「きめぇー」って
でかい声で笑ってたんだけど、
「あの人はあれが伝える手段だよ。
あんたの今の言葉の方がよっぽどきもい。
前から絡んでくるけど、
お前みたいな男ハッキリ言ってナシだから」
って言い放って
電車降りて行ったあの女子高生はいい女になるぞ
このような貧相で程度の低い作り話がヒットする最大の要因は、女子高生のエロさと、圧倒的な「手の届かなさ」だろう。
15日、安全保障関連法案が衆議院特別委員会で可決された。
それに前後して、FacebookやTwitterなどでシェアされまくり、飛躍的に再生数を伸ばした動画がある。
学生を中心とした『SEALDs』というグループのデモで、紅子さんという女性がスピーチをしている様子だ。
ぼくのFacebookのタイムラインで複数の人がこれをシェアしていたので、ぼくは正直「なぜこの動画ばかりシェアされるんだろうか。そんなに良いスピーチなのかな」と思っていたのだが、先日遅ればせながら拝見した。
動画を見て最初に思ったのは、「そろそろいい加減に《ギャルが好き》って言えや」ということだった。
とかく可愛らしい女の子、それも馬鹿っぽそうな女の子がそこそこまともなことを言うと、大人たちはたちまち欲情してしまうのだが、それを大人たちは素直に言わない。
この下手くそなスピーチがシェアされ続けている理由は、彼女が可愛らしい女の子であるという以外のなんでもない。(念のために言っておくが、ぼくはとてつもなくスピーチがうまい。15歳の時に弁論大会で県優勝、全国8位。参加人数10万人)
もちろん、この女性の行動は素晴らしいと思うし、SEALDsも素晴らしいと思うのだけど。
今度の安全保障関連は、「安保」という略称から、60年代安保闘争を想起させる。
世代が世代なら、煮えたぎるものがあるだろう。その煮えたぎったものがどういうわけかギャルへと向けられる。
『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話』
この情報過多なタイトルの書籍は「ビリギャル」と呼ばれ、映画化までした。
この本の表紙にうつるモデルが、この話に出てくるビリギャルとは別人であることはわかりきっているし、それは広告の「お約束」である。
さらに、このタイトルに含まれる「学年ビリ」「偏差値」「ギャル」という言葉がプロモーション的過剰なレトリックであることも商品の「お約束」である。
しかし、こんなものはすべての新書にいえることだし、たいしたことはない。
しかし、こんなものはすべての新書にいえることだし、たいしたことはない。
しかしながらこの本に関する批判は後を絶たない。
・表紙の女性と本人は全く別
・そもそも高校自体が偏差値60のお嬢様学校だった
・ギャルじゃなかった
・偏差値40は全国ではなく学年偏差値というだけ
このような批判は、たしかに著者の詐欺すれすれの下品なレトリックに起因する。
これは単に、いかにみんながギャルが好きで、ギャルに夢を託しているかという問題だ。
デスノートの作者が表紙を描いた『人間失格』を読んで、「表紙のようなイケメンは出てこない」とは誰も言わないだろう。
関心は彼女の見た目であり、そのエロさが好きなのであり、頭の中なんぞははなからどうでも良い。しかしそういうのは恥ずかしいので、頭の良い架空のギャルを妄想して、「彼女はよく考えてる子だよ」と言いたいのだ。見た目ではなく中身を評価しているとでもいうように。
だから上記のようなレトリックに騙された読者は躍起になって反撃する。「おれの妄想をかえせ」と。
この手の話をするときに欠かせない上野千鶴子は、「男の幻想と女の演技」と言った。
男が作り出す架空の「かしこいギャル」は後を絶たない。
なぜ大人はギャルが好きだということを隠すのか。
ルーズソックスが興隆を極めた90年代後半に、二つのことが社会問題となった。
ひとつが援助交際であり、もうひとつがオヤジ狩りである。
オヤジは若者に狩られて金品を巻き上げられているにも関わらず、その若者に自ら近づいて金を払いセックスする。
ギャルという言葉はすでにバブル世代の同じ名称とは意味合いが変わっていた。
ギャルは大人たちを完全に征服し、大人はそれによってマゾを開眼させた。
社会情勢が刻一刻と変化する中で、大人たちは以下の二つの方法で過去のトラウマを清算する。
1、無能で従順な女性を量産する(AKB48に代表される反教養主義の慰安婦的存在)
2、有能で自律的な娼婦を創作する(ビリギャルに代表される良識ある架空のセックスシンボル)
以上二つは矛盾に満ちた幻想である。
この度芥川賞を受賞した又吉直樹。
誰も読書をしない現代の日本で、彼はとても貴重な芸人だった。彼は文化的な芸人を代表するようになり、文化気取りの女性たちの関心を一挙に集めることになった。
たとえば、「シュヴァンクガール」と呼ばれる、サブカル好きの性的誇大妄想の女や、ちょっとオシャレに読書したい程度の女の子に。
たかだかミステリーやファンタジーを読んでいる自称文化系女子の女の子は、又吉直樹に近づき、「私みたいな女、好きでしょ?」という。
グラビアアイドルやモデルが実際に番組で何度もそういった暗に侮蔑的な告白をした。芸人はこうした上下関係に逆らうことはできない。芸人とはそもそも蔑まれる存在であり、差別の対象であるが故に成り立ってきた芸だからだ。
かなり以前から又吉直樹は「どんな女性がタイプか」という質問に対し、「ギャルです」と答えてきた。もしくは「黒ギャルです」と。
この正直で勇敢な告白には多くの答えが含まれている。
なぜならギャルは、男の幻想が産み出した現在のところの最高傑作だからだ。
古典的なラブロマンスの物語に登場する女性像は、今ではほとんど形式的にギャルが継承している。『曽根崎心中』のお初や『たけくらべ』の美登利に限らず、「ファム・ファタール」というキャラクターは物語に古くから登場する。
ラブロマンスが必ず舞踏会やダンスパーティーから始まるように、ギャルにはクラブで会うことができる。
和歌やラブレターがラブロマンスの始まりであったように、独自のメール文化や言葉遣いを使用する。
夜這い文化がほとんどすべての国のラブロマンスの典型であったように、ギャルは一夜の関係を厭わない。
駆け落ちがラブロマンスの結末であったように、ギャルは家出を厭わない。
ギャルはエロい服を着て、援助交際をし、政治に口出ししない。
これは本来のギャルの記号的な扱いである。
交友関係が広く、コミュニケーション能力が高い。
しかし、そこに架空の「かしこさ」が加わってしまった。
本来は役割的に男性がするはずだった「かしこさ」を、男性が放棄してしまったからだろうか。
確かに、いまだに政治に関してはかろうじて男性に主導権がある。
一年間に
一冊も読書をせず、
一回も美術館には行かず、
一度だけ映画館に行き、
会社で必要な情報を新書で得て、
人間関係をSNSで築き、
芸術は失われて短期的、即効性のある娯楽だけが残り、かろうじて政治の話をする権限が男性に残されている。
失われた文化の中でぽつんと強制的に参加しなければならない「政治」がある。
「女が政治に口出しするんじゃねえ」という時代が終わり、
SEALsで勇敢なスピーチをした女性は、まるで男性の性的願望に支配された駒だ。
みんな、ギャルが好きなのだ。
男は幻想をし、そして女は演技する。
なぜ「すっぴんが良い」などと言うのか。そしてなぜ架空の「かしこい女子高生」を作り出すのか。
SEALDsのスピーチにもどろう。
SEALDsの活動は素晴らしいが、スピーチがド下手なのにはわけがある。
それは、SEALDsのスピーチはメッセージの送り先がSEALDs自身であるということだ。
彼らはマイクを持って、「みなさん」と語りかけ、「私は初めてこれに参加しました」という。「安部!」とも言う。
しかし彼らのスピーチが内側に向けられたものであるということは、疑いようがない。
なぜなら、法案を批判するよりももっと肝心なことを訴えているからだ。それは「参加してよかった」ことと「参加しないことは愚か」ということ。
ぼくは上野千鶴子があまり好きではないが、上記の発言は鋭いと思うし、SEALDsの可愛らしい女性が「演技」していることはわかる。
男たちの幻想に対して、女は演技する。
私今日ここに来る前に、来月着る水着買ってきて、まつエクいつ着けようかなとか、そういうことを考えてたんですけど、そういうことで悩んでる人が政治について口を開くことはスタンダードであるべきだと思う
男性はこの女性を「この子は頭が良い」ということによって、かろうじて彼女よりも立場が上である「批評家」になることができる。彼女を褒めることはすなわち自分が彼女よりもより政治的に「わかっている」ことの証明であり、自分が本来ならしたいこと、言いたいことを代弁させているのだ。それらはスピーチの内容がどうであれ関係はない。なぜならそもそも彼らが産み出した「かしこいギャル」とは幻想であり、妄想にすぎないからである。
この勇敢な女性は、どのように表現し、どのような考えを持っていようとも、真に理解されないまま絶賛され続けるだろう。こうして我々は幻想のうちに手の届かないギャルや女子高生に対する悶々とした気分を解消することができ、なんとか惨めな性生活に嫌気がさすことなく生きていくことができるのだ。
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