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2018/04/27

チケット高額転売は悪くない 市場をコントロールしようとするアーティストは何様か?



チケット高額転売問題については、たくさんのアーティスト(とくにミュージシャン)が名乗りを上げている。
それで、数年前も、「私たちはチケット高額転売に反対します」というような声明のようなものを出していた。
そして、この度、ライブ・エンタテインメント議員連盟ができて、法改正に向けて動き出している。


議員連盟の総会によると、チケットが高額転売されることによって、また例のごとく文化が衰退するとかなんとか、そういう理由があるらしい。
総会に参加したサカナクションの山口一郎氏によると、高額転売されたせいで、ファンが3万もかけてチケットを購入するハメになり、しかもファンはそれを自慢するように山口氏に話すのだそうだ。

そこでKiishi Bros. Entertainmentは、全国のダフ屋のおじさんを、
KBE文化功労賞にノミネートすることを決定した。

KBEとしては異例の措置である。

KBE文化功労賞
主催:Kiishi Bros. Entertainment
ノミネート:全国のダフ屋のおじさん(またはおばさん)
ノミネート理由
「我が国の契約自由に則り商売し、かつ多くのファンを満足させてきたにもかかわらず不当に邪魔者扱いされようとしている」



我が国では、商品を転売することは自由である。
なのに、なぜかライブのチケットを高額転売することが問題なのらしい。

アーティストは、
チケットが高額転売されることにより、誰も買わなくなって
席ががらがらになっていたり、という経験があるらしい。

だから何? 

世の中の商品とはすべてそうやって転売され、ある時は大成功したり、ある時は大失敗したりを
繰り返しながら巡っている。


たとえば、上のような例を引き合いに出して
「高額転売すると席ががらがらになる」
と考えるのはおかしい。
なぜなら、商品の値段は自然に需要に追いついてくるので、
昨年のライブで1万円で売って100枚のあまりがでたとしたら、
今年のライブは5000円で売って完売させようと思うからだ。

だから、逆を返せば、ライブ会場がガラガラだったというのは、
経験豊富なダフ屋が読みを間違えるほど、客側に買う気がなかったということなのだ。
そしてダフ屋は、売れなければ必ず値段を下げる。
それはライブ当日に会場の周辺まで、つまり開演ギリギリまで粘るのだ。
だから、席がガラガラだったというのは、あまりダフ屋の行為とは関係がない。
どちらにしてもそれほど客は来なかっただろう。

チケット高額転売が違法とされる根拠は、あまりない。
それが公共交通機関であれば、まだ話はわかる。
高額転売が問題となるのは、例えばまさに今沈没せんとすタイタニック号の中で、
救命ボートのチケットが高額転売されたとしたら、
これはなんと非倫理的なことだろう。

だけど、ライブエンタテインメントで、自由に転売されたりすることに何の問題があるだろう。
人気のトレーディングカードが高額で転売されたりすることに対して、
「ユーザーが公平にカードを入手する機会を妨げている」とは誰も思わないだろう。

太宰治の初版本が神保町の古本屋で高額で売られていたとしても、
「文学ファンが公平に本を入手する機会を妨げ、読書文化を衰退させる」とは思わないだろう。

ではなぜライブエンタテインメントはダメなんだ?
別にいいじゃない。

それに、運営側は、チケット高額転売によって直接的に金銭的な被害は全く受けていない。
そりゃそうだ。ダフ屋はチケットを購入して、転売しているのだから。
何も、盗んだものを売っているわけじゃない。

それに、ダフ屋は、ファンにとってはとても必要な機関なのだ。
だって、ぼくが本当に嵐のファンで、追っかけをやってて、すべての公演に必ず足を運ぶとして、
それでもチケットの抽選にもれたとしたら、
もうそれっきり。
どんだけアーティストへの愛があろうと、
もう絶対にライブには行けないのだ。

しかしダフ屋は、そうした緊急措置として存在していた。
金を出せば買えるのだ。

また逆に、ライブにいけなくなったときに売ることもできる。
今回のライブエンタテインメント議員連盟が主張しているように、
転売がもともとの価格以下でしか行ってはならないとしたら、
ダフ屋は存在する意味がなくなってしまう。
ライブにいけなくなった人が、誰かにチケットを売りたいとする。
でも、買いたい人がどこにいるかもわからないし、売買の作業自体が面倒だ。
そんなときに、ダフ屋はそれを代行してくれる。
しかしもともとの価格以下でしか転売ができないとしたら、ダフ屋の手数料は割に合わないかもしれない。

そのせいで「席がガラガラ」になるとは思わないだろうか?

結局、このダフ屋問題っていうのは、
日本の「努力したものだけが報われる」というしょうもない感情論にしか思わない。

「アーティストやスタッフが努力と時間をかさねて作り上げたものを、第三者が横からやってきて楽に稼ぐなんておかしい」
というわけだ。

確かに、アーティストやスタッフは、考え抜いた「これや!」っていう値段を設定しているのだから、
その値段でファンに買ってもらいたい、と思うだろう。
でも、それはあくまで理想で、
転売されたりすることって、契約に基づいて自由に行われるべきものだし、
何か公益に反しないかぎりは、とことん自由に行われるべきだと思う。
でも、アーティストは、
「ファンのみなさんのために」的な雰囲気で、というか、
正しい行いをしているマザー・テレサの気分で、
嬉しそうに「ダメ! 高額転売!」を叫ぶのだ。
何様のつもりだろうか。なぜただのアーティストが、ただのライブ公演が、市場をコントロールしようとするのか。

市場のコントロール。

「チケット三万で買いました!」と嬉しそうに語るファンに対して、
アーティストは、
「チッ」と舌打ちし、
「チケットは本来5千円だから、2万5千円分のグッズが売れたということか」
と思うわけだ。

でも、チケットの相対的価値は、ダフ屋との相乗効果で高まっていく。
もしダフ屋が介入せず、正当な5千円でそもそも売られていたとしたら、
このライブには「レア」度が低く、3万円のチケットを手に入れた時ほどの喜びはないだろう。
したがって、5千円でチケットを手に入れたとしても、
追加で2万5千円もグッズを買うとは思えない。

このライブエンタテインメント議員連盟、会長が石破茂でしょう。そして総会には室伏広治さんなんかが参加している。なぜ室伏広治??

結局ね、東京オリンピック。

オリンピックの会場周辺に、
汚らしい格好をしたダフ屋のおっさんにうろうろされては困るんでしょう。
景観条例のようなもの。

2018/04/24

KBE文化功労賞に漫画村がノミネート



漫画村という素晴らしいサイトの歴史が終わった。
ネットを見ていると、賛否両論ではなく、かなり圧倒的に否が多かったように思う。
漫画村は悪だ、というわけだ。

多かった意見は、
・海賊版サイトが漫画という文化を滅ぼす
・アーティストが食べていけない
・時間と労力をかけてできた作品を第三者が金儲けに使うのはおかしい

というような感じだった。

そして政府はサイトブロッキングという緊急措置に踏み切ったわけだけど、
Kiishi Bros. Entertainmentは、これらの事態において、
漫画村というサイトの功績を讃えて、正当に評価されるべく、
KBE文化功労賞のノミネートに急遽、漫画村を加えることに決定した。

KBE文化功労賞
主催:Kiishi Bros. Entertainment 
ノミネート:漫画村
ノミネート理由
「テクノロジーと権利問題の隙間に勇気をもって取り組み、かつ漫画文化を民衆と密接なものにした」

ぼくは漫画村を初めて利用したとき、すごく便利で素晴らしいサイトができたなあと感心していた。
ぼくはここで浦沢直樹の『ビリー・バット』や、西加奈子『サラバ!』を読んだ。

こういう海賊版やパクリなんかの問題が浮上するときに、ぼくはいつも、
著作権が本当に一体誰のための権利なのかと考えてしまう。
漫画村は月に1億7000万ものアクセス数を記録しており、ユニークユーザー数は750万を超えていたらしい。
これは日本の中高生を足した数よりも多い。

さて、この数字は圧倒的に多い。
海賊版が一切存在しなかったとして、これだけの人が漫画を購入することはない。
月に1億7000万ものアクセスを漫画村が稼いでいる一方で、YouTubeはそれ以上のアクセス数を稼いでいる。
テレビ局はもちろんYouTubeに違法な動画がたくさん溢れていることは知っているし、
漫画村以上の経済効果があることは容易に想像できる。

それに、XVIDEOSはもっとアクセス数が多い。
これは言わずと知れたポルノサイトだけど、
もちろん、これにも違法な動画がたくさんある。
違法な動画というのはもちろん著作権を侵害したもののことだけど、それだけじゃない。
いわゆるリベンジポルノがあり、これは肖像権侵害であり、名誉毀損、侮辱罪にあたる動画だ。
それから児童ポルノがある。児童ポルノはまさしく漫画村と同じサイトブロッキングの対象だが、
XVIDEOSでは、児童ポルノが現れては削除されることを繰り返している。

漫画村は驚異的なアクセス数を記録しているけど、
実はXVIDEOSの方がアクセス数は多い。というか、主要なポルノサイト
XVIDEOS、PornHub、エロタレストの、3サイトが、
どれも漫画村よりも多くアクセス数を稼いでいる。

XVIDEOSの違法アップロードは、ポルノ産業を衰退させないか?
XVIDEOSの違法アップロードによってアダルトビデオ製作会社が儲からないのではないか?
AV女優や製作会社が苦労してつくった作品を、第三者が勝手にアップして広告費を稼ぐのはおかしいのではないか?

しかしXVIDEOはサイトブロッキングの対象にはなっていない。

話を漫画村に戻そう。

海賊版のせいで漫画という文化が衰退するという意見をよくきくけど、
同じ様な議論を一昔前、テレビはYouTubeに対して言っていた。
Music Videoだって、レーベルは絶対にフル視聴できるようにはしていなかった。
しかし今やどうだろう?

それに、もし文化が衰退するとしても、それは「海賊版」だからではない。
それはスティーヴン・ウィット著『誰が音楽をタダにした?』のヒットでも明らかだ。
つまり、ここでの問題はサブスクリプションというシステム、つまり無料で聴き放題、読み放題、というものが原因で文化が衰退する、ということであって、違法か合法かは関係ない。
なぜなら、超超合法的なサービス「Spotify」によって、アーティストに全然お金が入ってこないということはすでに多くの人が指摘していることだからだ。

今までと同じ様な方法論でお金儲けができないということはとっくにわかりきっているし、
音楽業界や映像の方ではそれに必死で食らいついている。
しかし出版はどうだろう?

作品が無料で手にはいることが当たり前になると、
例えば江川達也氏がいうような、
「クオリティ(もしくは規模)の小さな作品しか生まれなくなる」
という危惧は杞憂だとぼくは思う。

リバタリアンのバトラー・シェーファーがいうように、
アイスキュロス、ホメロス、シェイクスピア、ダンテ、ミルトン、ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト、ワーグナー、チャイコフスキー、ゴッホ、ミケランジェロ、ダヴィンチ、レンブラント、ルノワールのようなアーティストは著作権の恩恵には預かっていない。

創作のインセンティブが著作権と関係ないことは、ちょっと考えてみればわかる。
お金儲けをするために芸術作品をつくる人がいたら、それは相当に頭を整理できていない非現実的な人だろう。
お金を儲けるためにもっと手っ取り早い方法はたくさんあるにも関わらず、極めて稼ぐことが困難な芸術作品を作り続ける人のインセンティヴとは何だろうか。

史上最も長い小説を書いた(よってもっともインセンティヴがあったと言い換えても良い)ヘンリー・ダーガーは、死ぬまで著作権法によって守られはしなかった。
ヘンリー・ダーガーの作品は、歴史上最も規模の大きな小説だと言い換えることもできる。


それに、作品のあり方は常に変化する。
奴隷制を廃止するときに、「もうピラミッドのような巨大な作品は生まれないだろう」と憂いても仕方がないし、「奴隷貿易業者が困るだろう」と憂いても仕方がない。

少なくとも、漫画村のサイトブロッキングによってハッピーに思える人っていうのは、
日本中にいるたくさんの漫画家の中でも、ほんの一握りの「売れている漫画家」でしかない。
たとえば新人作家や、売れていない漫画家、もう故人となって絶版となっている漫画家はどうだろう?

絶版になって、なおかつ著者は亡くなっており、遺族とのコンタクトもとれない、
よって出版不可能だと思える作品(孤児著作物)が、
ネットで無料で読めるとして、誰が損をする?

全く売れない漫画家がいて、まだ一冊も出版したことはない、もしくは一度だけ出版したことがあるが、すぐに絶版となってしまったような人。日本中どこの本屋にいったって彼の作品は読むことができない。
それが、月に1億7000万ものアクセスを稼いでいるサイトに掲載されたとしたらどうだろう?

著作権法の名の下に、誰を守るのか?
それは、一握りのすでに売れている漫画家にすぎないし、それにしたって、本当に守れているのか怪しい。

YouTubeを考えてみよう。
YouTubeは、全く売れていない新人のアーティストでも、Music Videoを公開することができる。
一方で、すでに売れているアーティストもMusic Videoを公開する。
売れているアーティストも新人アーティストも、お互いにハッピー。


漫画村の違法性について考えてみよう。
ぼくが古本屋をオープンするとしよう。
その本屋は、全国に何百万箇所も支店があって、全国どこにいても、客は立ち寄ることができる。
その古本屋では、立ち読みをしても怒られない。
全国の支店を合わせると、一ヶ月で実に1億7000万人もの来店があるのだ。
その古本屋では誰も本を買わないが、みんな立ち読みする。
たくさんの支店があるので、
出勤するときには最寄りの駅付近の支店に入って立ち読みして、
会社についたら会社のそばにある支店で本の続きを読み、
仕事の休憩中はカフェの中に併設された支店で続きを読む。
立ち読みで全巻読み終えるのだ。

この古本屋は、広告掲載によって運営されている。


現在、本屋での立ち読みはもちろん許されている。そこで全巻読み終えることも。

漫画村は、著作権法を無視しているがゆえに、
出版社の垣根を超えて幅広いジャンルの作品を読むことができた。
現状では、こうした便利なシステムは合法的に実現不可能だろう。
なぜ、法整備によって、より不便にしていく必要があるのだろう?

漫画を便利に読むことができるということは、すなわち漫画の文化の発展とはいえないのか?

文化が衰退するというのは、その文化が生活から離れていることをいうのだ。

たとえば歌舞伎や能は国によって保護されているが、
一体、どんな若者の生活に歌舞伎が密着している?
中高生のうちの何パーセントの人が、毎日歌舞伎をみにいくのだろう?

これこそが文化の衰退に他ならない。
無料だとか、作者が金儲けできないとか、そういうことは関係ない。

だって、歴史上最も芸術が花開いた例として陳腐なくらいベタな例を出せば、
ルネッサンスの時代に、著作権によって保護された芸術家というものを考えてみよう。

著作権は度々、強化される。
なんども法律が改正されている。
改正される度に、作品の数は増加したか?
いや、その度に作品の数が減ったというデータすらある。

米国で著作権による保護期間を延長することでディズニーを守るという意味がどこにあるのだろう?


とはいえ、漫画村は終わってしまった。
素晴らしいサイトだった。

おそらく漫画村が著作権法上問題があったということは明らかだろうし、
現行法上問題のあるサイトをこのように擁護すること自体問題なのかもしれないけれど、
ぼくとしては、

1、漫画村は文化を発展させた
2、違法と知りながら勇気を持ってそれに取り組んだ
3、漫画村のブロッキングはユーザーにとっては不利でしかない
4、漫画村のブロッキングは売れていない漫画家や孤児著作物、新人漫画家にとっても不利でしかない。売れているアーティストだけが擁護されるが、それも前時代的な擁護にすぎず、果たして真の意味で特をするのかわからない
5、漫画村以上にアクセス数や違法性の高いコンテンツを有していると思われるXVIDEOSやYOUTUBEは無視されているか、むしろ賞賛されている

ということを踏まえて、今回のノミネートにいたった。

ここに、KBE代表として、さらに著作者の端くれとして、漫画村の運営者らの勇気ある行動を讃える。



2018/04/14

ドストエフスキーとプレイリードッグの二重螺旋構造(架空読書004)



2017年のはじめにメキシコで刊行されて以来、21世紀最大の奇書の呼び声高く、各界の話題をかっさらっている本書だが、なんといっても長い。スペイン語の原文にして1000ページを越す長さであり、翻訳版では全8巻という長大な作品だ。というのも、この長さにはわけがある。それについては後述するとして、内容だ。
ぼくは全8巻を読み終わった今でも、果たしてこの本が化学の本なのか文学の本なのか、分けることができない。奇書といわれる最大の所以はそこなのだろうけど、この本は大きく分けて、前半と後半にわかれている。前半はいわゆる化学の話。
二重螺旋構造というのは、ワトソンとクリックが発見したDNAの立体構造。DNAの核酸では、ヌクレオチドの一部をなす有機塩基類の種類によって配列としてみることができる。シークエンスと呼ばれるそれらの配列は、いわば生物の最小の言語とみることができる。塩基配列の読み取りは非常に大変で、学者ひとりが一朝一夕でできるようなレベルではないのだけど、本書の著者、アーサー・リヴァインはこのシークエンスをドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で解読しようとするのだ。
もっと簡単にいうと、ドストエフスキーは、DNAの言語によって小説を書いていた、と主張しているのだ。
もちろん、ドストエフスキーが生きていた時代には、塩基配列はおろかDNAの存在さえまったく知られていなかった。しかしそれでも、ドストエフスキーはこの塩基配列によって歴史上の大傑作とされる長編小説を生み出したのだ。
しかも、これが不思議なのは、ドストエフスキーが用いたものは人間のゲノムではなく、プレイリードッグのゲノムだというのだ。
わかりやすくしっかり書くと、
「ドストエフスキーは小説『カラマーゾフの兄弟』を、プレイリードッグのゲノム言語によって書いた」
いや、そうではない、もっと正確に書くと、
「ドストエフスキーが書いた小説『カラマーゾフの兄弟』は、たいへん不思議なことにプレイリードッグのゲノムと完全に一致する」
ということだ。
アーサー・リヴァインは複数のゲノムプロジェクトに参加していた化学者で、メキシコの公的機関のチームにおいてプレイリードッグのゲノム解析を完了した。リヴァインはプロジェクトの進行途中から、これがあきらかにドストエフスキーの言語と酷似していることに気づいていたらしい。本の中盤からは詳細な比較分析が続くので、化学にうといぼくにはひたすらめまぐるしく、プレイリードッグという可愛い動物と、ドストエフスキーという世界文学史上最大の作家の作品が、あれよこれよという間に、丸裸にされていくさまを眺めているしかない。
このトンデモ本は、刊行以来1年半以上が経過した今でも、化学界、文学界双方から莫大な意見書が送られ続けているらしいが、今のところ著者の主張を完全に論破したケースはないらしい。

さて、本書最大の謎である、この長さ。この長さにはわけがある。それは、この本の後半(邦訳でいうと後半の4巻)は、まるごと遺伝子の複製プロジェクトがはじまるのだ。
つまり、こういうことだ。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、彼の遺作であり、未完の作品だ。前書きにはドストエフスキー自身が、この本が前半部と後半部にわかれているということを宣言している。しかし実際には前半部だけで終わるのだ。
アーサー・リヴァインは、遺伝子の複製と翻訳によって、カラマーゾフの「失われた後半」を解読しているのだ。つまり、この本の後半部は、まるごと「『カラマーゾフの兄弟』の失われた後編」が収録されているのだ。
そしてこれがやたら長いのだ。だって、カラマーゾフは前半部だけでそうとう長いんだから。
これは文学か? 化学か?
読者は何一つわからないまま、ドストエフスキー作(だとされている)マボロシの作品を目にするのだ。
ぼくなんかは、これを読んで、「ただ単にドストエフスキーの文体を真似しただけでは?」とも思うのだが、これがなかなか面白い。というか、なんというか、傑作なのだ。著者によっぽどの文才があったのか、またはこれが化学の力なのかどうかはわからない。

本書はこれらすべての内容を、ナンセンスなフィクションとして楽しむこともできる。
しかしそれにしても長いが。




























2018/04/12

政府転覆と憲法(架空読書003)



発禁本の中でも入手困難だといわれる本書は、今日の憲法解釈における議論では完全に無いものとされてしまっている。
いわゆる革命権と呼ばれるものが日本に存在しうるのかということについて述べているのだが、書き方がまず斬新で、今読んでも普通におもしろい。
まずもって日本国憲法は、アメリカから多分に影響を受けている。
そもそも、日本の法は、いわゆるドイツやフランスなどの大陸型と、イギリス・アメリカ型の双方に影響を受けて形作られたのだけど、本書では、アメリカの憲法と比較論においてとりわけ優れた論考を残している。
 たとえば幸福追求権。これは不思議な権利で、考えてみたら、ここに「幸福になる権利」は保証されてはいない。そうではなくて、「幸福を全力で追及せよ」という権利なのだ。日本国憲法においてはこれは「公共の福祉に反しない限り」という前提がある。この「公共の福祉」というものに日本国政府が含まれないことは当然で、なぜなら憲法はそもそも政府を監視するための役割を果たすものだからだ。
 なので、幸福の追求という言葉の中に、政府を転覆するための行動が含まれていたとしてもなんら不思議ではない。それが国民にとっての幸福の追求になりうるのだとしたら。
 しかし、本書はオウム真理教の悲惨な事件よりも前に書かれてあるが、こうしたテロと革命権の境界線についても独自の解釈を述べている。
 歴史上、ありとあらゆる革命について、それを「合法」とするだけの根拠がどこにあるのか。よく、こういう話をするときに、革命は単に結果論であって、「坂本龍馬だって成功しなかったらただのテロリストなんだから」というような話になる。しかし実際にはそれは違って、つまり革命は成功したから合法で失敗したらテロ行為だという結果論ではなくて、革命にも合法なものと違法なものとに分けられるのだ。
 著者は、歴史上合法的に革命を成功させた例は極めて少ないながらも、その例に中国の古代王朝や、日本の大政奉還が挙げられると述べている。
 ぼくらは、憲法改正の議論のときに、何かあれば開口一番に「安倍ファシズムが始まる」とか、「戦争まっしぐらだ」とかいうことになるのだけど、最後の最後には、ぼくらには革命権が残されているのだ、と保証されてさえいれば、また違った心持ちになるだろう。合法的な手続きを得た革命については、たとえその途中段階での失敗にしても、テロ行為とは全く違った対処がなされなければならない。



2018/04/05

なぜ世界のハッカーの8割はマケドニア出身なのか(架空読書002)


マケドニアは、旧ユーゴスラビア解体の副作用によって複雑な個人主義に陥っている。世界的に注目されるハッカーのほとんどがマケドニア出身だということも驚きだが、本書が述べているポイントはそこではない。マケドニアのインターネット環境が整えられたのはここ最近の話だが、文化的にはむしろ、インターネットの黎明期から文化的な親和性を獲得していた、ということである。
つまり、マケドニアの若者は、国内にインターネットが普及するより以前から、独自のインターネットを行なっていた。その多くは非常にアナログなもので、壊れたパソコンのキーボードを打ちながら目の前の相手と会話をする「ブラインド・チャット」というコミュニケーションが流行した。ブラインド・チャットはオフラインで行われる(そもそもインターネットが一般に普及していない時代の話)ので、実際にはただの普通の会話であり、キーボードはフェイクに過ぎない。しかし、こうした虚構の手段は、ユーゴスラビア解体にともなった隣国とのギクシャクした関係性を反映するものだといわれている。アルバニアの鎖国政策、ブルガリアの経済困難、ギリシャからの経済制裁、これらの最中にあって、若者は自国を誇れるものが何一つなく、欧米から輸入されてきた「インターネット」を、実際上のツールとしてではなく、「ファッション」として取り入れていったのだ。

そのうちに、マケドニアは経済成長していき、ヨーロッパへ留学する者が多くなる。彼らはインターネットというコミュニケーションが現実の手段として手に入るようになるや否や、独自の個人主義的な観点から、法律には縛られないフリーダムな行為を行うようになる。それがハッキングであり、情報の不法な入手とシェアである。これらの自体は、映画「マトリックス」の中で、マケドニアの工業都市である「ザイオン」が登場する際に極めてリアルに描かれている。

上手い三文芝居 不自然なリアリズム(架空読書001)



最近の日本のドラマや映画が内向的になっていて、世界からぽつんと取り残されたガラパゴス状態になっていることはかれこれいろんな人が指摘しているけど、この本はその原因をきちんと解明しているところが素晴らしい。若手俳優でもすごく演技がうまい人は多いし、ドラマを見て感動したりすることもある。しかし、日本のドラマが「上手い三文芝居」を目指していることには疑いようがない。そのひとつは脚本が原因で、すでに様々な人が指摘しているとおり、ドラマの脚本は漫画のようなセリフを俳優に要求する。
実際にはこんな喋り方する人はいないが、漫画であればオッケーとされていたような台詞回し。そして、めちゃくちゃ聞き取りやすいセリフ。クロサワ映画のミフネのように、「ん、今なんて言った?」とはならないし、逆にオズ映画の笠智衆のように、リアリズムがゆえに逆に不自然に感じられるような間があったりと、そういうことにはならない。すごく機能的で、説明は明快、役者が今怒っているのか悲しんでいるのか、誰が見てもよくわかる。
この傾向は80年代の終わり頃、トレンディドラマの隆盛とともに顕著となって、いわば三文芝居でみせるわかりやすいコメディ調が基本となっている。
90年代に入って木村拓哉を中心とする世代が、同じような漫画的な口調でありながら迫真の演技であるかのように思えるものを推し進めていった。現在でもこの流れは続いていて、決して現実にそんな会話をする人間なんていないのだけれど、その世界観に慣れてしまえば「リアル」に感じてしまう、というような演技論が日本を包み込んでいる。これが「上手い三文芝居」と呼ばれ、とにかく大きな声で、大げさに、だ。

一方で、「不自然なリアリズム」と呼ばれる一派もいて、これは特にコメディに顕著で、現在では荒川良々、濱田岳らが牽引しており、広義には大泉洋も含まれ、最近では山田孝之が同じ見方をされているようだ。
この流れは明らかに松本人志のコント番組『ごっつええ感じ』から影響を受けており、落ち着いた演技とアドリブ性の高い、かつシニカルな表現でもって、「リアリズム」を目指そう、という一派だ。とはいえこれらは子供騙しのリアリズムでしかなく、笑いも反応としての笑いしかなく空虚だ。もちろん俳優陣はこのジャンルで演技を極めようとしているが、石井克人らのどうしようもなく笑えない脚本を必死でリアルに表現することに精を出している。このジャンルの俳優は「演技派」と表現されることが多いが、自然な描写というものをある種記号的にとらえており、「これとこれを押さえればリアリズムでしょ」といった具合に済ませてしまう。たとえばこのジャンルは肝となる笑いの部分で、音楽をあえて無くすことが多く、過度な盛り上げを避ける傾向にある。これらを著者は「不自然なリアリズム」と命名し、こちらは「上手い三文芝居」とは逆に、とにかく小さな声で、小さな動きで、が鉄則となる。

 どちらのジャンルも好きではないが、中には上手い人もいる。たとえば三池崇史は上手い三文芝居を効果的に用いているし、また山下敦弘は笑いを損なわせずに不自然なリアリズムを魅せることに成功している。
 ただし、俳優陣は困るだろうと思う。なぜならこういったものはただの様式であって、「とにかく日本のドラマはこういった流れになっているのだからこの演技に従ってくれ」と理不尽に要求されているようなものだ。もちろん海外では事情が違うし、通常の演技論は通用しないだろう。