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2018/04/05

上手い三文芝居 不自然なリアリズム(架空読書001)



最近の日本のドラマや映画が内向的になっていて、世界からぽつんと取り残されたガラパゴス状態になっていることはかれこれいろんな人が指摘しているけど、この本はその原因をきちんと解明しているところが素晴らしい。若手俳優でもすごく演技がうまい人は多いし、ドラマを見て感動したりすることもある。しかし、日本のドラマが「上手い三文芝居」を目指していることには疑いようがない。そのひとつは脚本が原因で、すでに様々な人が指摘しているとおり、ドラマの脚本は漫画のようなセリフを俳優に要求する。
実際にはこんな喋り方する人はいないが、漫画であればオッケーとされていたような台詞回し。そして、めちゃくちゃ聞き取りやすいセリフ。クロサワ映画のミフネのように、「ん、今なんて言った?」とはならないし、逆にオズ映画の笠智衆のように、リアリズムがゆえに逆に不自然に感じられるような間があったりと、そういうことにはならない。すごく機能的で、説明は明快、役者が今怒っているのか悲しんでいるのか、誰が見てもよくわかる。
この傾向は80年代の終わり頃、トレンディドラマの隆盛とともに顕著となって、いわば三文芝居でみせるわかりやすいコメディ調が基本となっている。
90年代に入って木村拓哉を中心とする世代が、同じような漫画的な口調でありながら迫真の演技であるかのように思えるものを推し進めていった。現在でもこの流れは続いていて、決して現実にそんな会話をする人間なんていないのだけれど、その世界観に慣れてしまえば「リアル」に感じてしまう、というような演技論が日本を包み込んでいる。これが「上手い三文芝居」と呼ばれ、とにかく大きな声で、大げさに、だ。

一方で、「不自然なリアリズム」と呼ばれる一派もいて、これは特にコメディに顕著で、現在では荒川良々、濱田岳らが牽引しており、広義には大泉洋も含まれ、最近では山田孝之が同じ見方をされているようだ。
この流れは明らかに松本人志のコント番組『ごっつええ感じ』から影響を受けており、落ち着いた演技とアドリブ性の高い、かつシニカルな表現でもって、「リアリズム」を目指そう、という一派だ。とはいえこれらは子供騙しのリアリズムでしかなく、笑いも反応としての笑いしかなく空虚だ。もちろん俳優陣はこのジャンルで演技を極めようとしているが、石井克人らのどうしようもなく笑えない脚本を必死でリアルに表現することに精を出している。このジャンルの俳優は「演技派」と表現されることが多いが、自然な描写というものをある種記号的にとらえており、「これとこれを押さえればリアリズムでしょ」といった具合に済ませてしまう。たとえばこのジャンルは肝となる笑いの部分で、音楽をあえて無くすことが多く、過度な盛り上げを避ける傾向にある。これらを著者は「不自然なリアリズム」と命名し、こちらは「上手い三文芝居」とは逆に、とにかく小さな声で、小さな動きで、が鉄則となる。

 どちらのジャンルも好きではないが、中には上手い人もいる。たとえば三池崇史は上手い三文芝居を効果的に用いているし、また山下敦弘は笑いを損なわせずに不自然なリアリズムを魅せることに成功している。
 ただし、俳優陣は困るだろうと思う。なぜならこういったものはただの様式であって、「とにかく日本のドラマはこういった流れになっているのだからこの演技に従ってくれ」と理不尽に要求されているようなものだ。もちろん海外では事情が違うし、通常の演技論は通用しないだろう。


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