どんなものにも適切な場所、不適切な場所がある。
適切な場所だと思われていても、実はそれはラプンツェル式に幽閉されているだけかもしれない。
逆に不適切な場所だと思われていても、ルーク・スカイウォーカーのように、それこそが自分が進むべき道だという場合もある。
ぼくは普段あまり詩を読まない。なぜだかわからないけど、小説は読むし書くのに、詩はほとんど読みも書きもしない。歌詞はつくるのに。
適切な場所だと思われていても、実はそれはラプンツェル式に幽閉されているだけかもしれない。
逆に不適切な場所だと思われていても、ルーク・スカイウォーカーのように、それこそが自分が進むべき道だという場合もある。
ぼくは普段あまり詩を読まない。なぜだかわからないけど、小説は読むし書くのに、詩はほとんど読みも書きもしない。歌詞はつくるのに。
でもツイッターで短歌や俳句や自由律の詩を載せている人をみると、なんとなく読んでしまう。
たまに、狂ったようにひたすら自作の短歌だけをツイートしている人がいるけど、そういう人をみると「ああ、なんか良いなあ」と思う。
日本の和歌とか連歌って、こういうことだったのか、と理解する。
新潮社の数百円の文庫本を手にいれて、椅子にドガッ座り、エイヤッとページを開き、「蛙飛び込む水の音」といわれても、実感がない。
しかしながら、夕暮れ時の電車の中で、幸福の科学や文春の下衆い広告、立ちながら寝るパンツスーツの女の尻やずっと咳をし続ける歯抜けに囲まれ、LINEとタップル誕生とTinderのメッセージ確認をして、キャンディークラッシュやモンスターストライクの合間に、猫のバズ動画をシェアした後に開いたツイッターで目にする「蛙飛び込む水の音」は、どことなく感じるものがある。出会い系アプリの無料枠が終わったら、140字の自由律詩の応酬だ。
仮に、トイザらスの入店に年齢制限があって、20歳以上じゃないと入れないとしたら。
トイザらスキッズたちは店内で買って買って買ってのだだこねはできなくなるし、たぶん大人は都合の良いオモチャばかり買うことになるだろう。
そういえば、シャーリー・テンプルが自分が出た映画を観に映画館に行ったら、年齢制限があって入場を断られた、
っていう話をエーリッヒ・ケストナーがひどく怒りながら書いていた。
真偽はともかく、誰でも怒るにちがいない。
ぼくも小学生くらいのときに、ターセム・シンの『ザ・セル』を観にいって入場を断られたときは悲しかった。
年齢をクリアしている兄も、ぼくに付き合ってくれて入場しなかった。かわりにパンフレットだけ買って帰る悲しさよ。
ターセム・シンなんていう名前はもちろん知らず、とにかく『アナコンダ』で衝撃を受けたジェニファー・ロペスをみたかったし、ああいった狂った映画を求めていた。
ぼくの兄は携帯電話を持っていなくて、
契約解除された古いアイフォーンを使って、Wi-Fi環境のみで生存しているネット難民だ。
しかし、彼も自分の電話番号というものが欲しくて、携帯電話会社に契約しにいくのだ。
しかし、契約はなかなかものにならない。
なぜなら、契約をする際に、自分の電話番号を記入しなくてはならないからだ。
兄は電話番号が欲しくて契約するのに、
電話番号がなければ契約できない。
様々な話を、in/outという視点から目撃してみよう。
何が内にこもっていて、何が外に飛び出しているのか考えてみよう。
サイゼリヤというファミレスが、ルネサンス絵画を解放していることを例に。
ルネサンス期の画家たちは、誰のために最後の晩餐や処女懐胎や大天使ガブリエルを描いたのだろう。
それはまさしく、字の読めない大衆のためだった。
聖書を読むことができない、一般的な人々のためだった。
聖書の名シーンが描かれた絵は教会の壁や天井に飾ってある。
聖書を読んでいなくても、あとは神父の説教だけで理解できるのだ。
これらの絵を今日、ベネツィアやパリの有名な美術館で観る人達っていうのは、
芸術に興味があり、海外に旅行する財力があり、英語も多少は喋ることが出来て、文化的にリテラシーの高い連中ということだが、
そうではなくて、ルネサンス期の有名な絵画を、サイゼリヤで観る人達のことを考えてみよう。
サイゼリヤ。ばかみたいに安いミラノドリア、安いグラスワイン。
1000円で結構酔っ払える。500円で結構おなかいっぱいになる。
試験期間中の金のない学生、一日中働いて料理をする気力もない若い夫婦、終電を逃した無計画なギャルたち、タバコが吸える店を探してたどり着いた老いぼれ、母親のママ友会に付き合わされて暇を持て余した幼い兄弟、まったく稼げないフリーランスの仕事で一日中ラップトップと格闘するバツイチの中年、PSP仲間でWi-Fiを利用したいだけのニートたち、
彼らが山盛りフライドポテトを待つ間、もしくはペペロンチーノでお腹いっぱいになった時、それか若いカップルがワインのデカンタをもうひとつ注文するかで険悪になった時、
ふと顔を上げると、目の前にあるのはギルランダイオの『最後の晩餐』であり、ラファエロの『天使たち』なのだ。
絵画になんか興味はないし、聖書にいたっては旧約と新約の違いもわからない彼らが、ふと思うのだ。
「これは最後の晩餐というやつだろうか」「全員手でご飯を食べてる」「空を何かが飛んでいる」「どれがキリストだろう」
ルネサンスの宗教絵画が、大衆の手に戻ってきた。
ルネサンスの絵画は、美術史においてあまりにも評価されてしまったため、美術館に厳重に保管され、分厚い防弾ガラス越しにしかみることはできないし、ヨーロッパの歴史ある美術館まで足を運ぶのはほんの一部の文化的に恵まれた人達だけだ。「in」してしまった
しかし、サイゼリヤでは、本来の目的通りに、大衆に解放されている。大衆にかえってきた。本来の目的を達成したのだ。
これが「out」
ぼくはこの度、『cage out』というアルバムをリリースするに至って、
このin/outという考えをまとめていった。
cage inはまさしく、籠に囚われた状態だ。
ジョン・ケージが望んだ自由な解釈が許される楽曲演奏ではなくて、
「ケージとはこうであるに違いない」という権威主義的な、伝統主義的なイメージがはびこっている。
アカデミズムが開かれた音楽を閉じてしまったのだ。
それは誰の責任でもないし、過去や現在の様々な演奏家たちは全くもって素晴らしいし、もちろん「ケージとはこうであるに違いない」と考えて演奏することはまちがっているどころか、すごく正しいのだ。
しかしそれが全体としての空気になってしまうと、とたんに間違いとなってしまう。
「デイヴィッド・テュードアこそがケージ演奏の手本だ」とか、「これこそが正しい演奏だ」と言ってしまってはならない。
だからぼくたちは、これを再び「開かれた音楽」へと戻すために、
「これはケージらしくない」「ケージの曲解だ」「ケージが望んでいない演奏だ」というものを目指して取り組んだ。
なぜなら、ケージの開かれた音楽は、楽譜に指示されたことを守りさえすれば、どんな演奏だろうが正解になるからだ。
逆に言えば「これこそは正しいといえる演奏はない」ということでもある。
ようするにぼくらmacaroomは、ロミオを救い出すジュリエットの要領だ。ロミオを無意味な権威的争いから救い出すために、仮死という危険な作戦に出るわけだ。
つまり、ぼくは現代音楽のファンたちにメッタンメッタンに批判されるだろう。これはケージではない、と。自爆テロともいえる。ロミオとジュリエットが悲劇の内に終わったとしても、つまりまあ、ポップスと現代音楽が共倒れしたにせよ、シェイクスピアの描くとおりに両家が最終的に争いをやめてくれれば、今回の企画は大成功だったといえるわけだ。
ぼくの兄は携帯電話を持っていなくて、
契約解除された古いアイフォーンを使って、Wi-Fi環境のみで生存しているネット難民だ。
しかし、彼も自分の電話番号というものが欲しくて、携帯電話会社に契約しにいくのだ。
しかし、契約はなかなかものにならない。
なぜなら、契約をする際に、自分の電話番号を記入しなくてはならないからだ。
兄は電話番号が欲しくて契約するのに、
電話番号がなければ契約できない。
様々な話を、in/outという視点から目撃してみよう。
何が内にこもっていて、何が外に飛び出しているのか考えてみよう。
サイゼリヤというファミレスが、ルネサンス絵画を解放していることを例に。
ルネサンス期の画家たちは、誰のために最後の晩餐や処女懐胎や大天使ガブリエルを描いたのだろう。
それはまさしく、字の読めない大衆のためだった。
聖書を読むことができない、一般的な人々のためだった。
聖書の名シーンが描かれた絵は教会の壁や天井に飾ってある。
聖書を読んでいなくても、あとは神父の説教だけで理解できるのだ。
これらの絵を今日、ベネツィアやパリの有名な美術館で観る人達っていうのは、
芸術に興味があり、海外に旅行する財力があり、英語も多少は喋ることが出来て、文化的にリテラシーの高い連中ということだが、
そうではなくて、ルネサンス期の有名な絵画を、サイゼリヤで観る人達のことを考えてみよう。
サイゼリヤ。ばかみたいに安いミラノドリア、安いグラスワイン。
1000円で結構酔っ払える。500円で結構おなかいっぱいになる。
試験期間中の金のない学生、一日中働いて料理をする気力もない若い夫婦、終電を逃した無計画なギャルたち、タバコが吸える店を探してたどり着いた老いぼれ、母親のママ友会に付き合わされて暇を持て余した幼い兄弟、まったく稼げないフリーランスの仕事で一日中ラップトップと格闘するバツイチの中年、PSP仲間でWi-Fiを利用したいだけのニートたち、
彼らが山盛りフライドポテトを待つ間、もしくはペペロンチーノでお腹いっぱいになった時、それか若いカップルがワインのデカンタをもうひとつ注文するかで険悪になった時、
ふと顔を上げると、目の前にあるのはギルランダイオの『最後の晩餐』であり、ラファエロの『天使たち』なのだ。
絵画になんか興味はないし、聖書にいたっては旧約と新約の違いもわからない彼らが、ふと思うのだ。
「これは最後の晩餐というやつだろうか」「全員手でご飯を食べてる」「空を何かが飛んでいる」「どれがキリストだろう」
ルネサンスの宗教絵画が、大衆の手に戻ってきた。
ルネサンスの絵画は、美術史においてあまりにも評価されてしまったため、美術館に厳重に保管され、分厚い防弾ガラス越しにしかみることはできないし、ヨーロッパの歴史ある美術館まで足を運ぶのはほんの一部の文化的に恵まれた人達だけだ。「in」してしまった
しかし、サイゼリヤでは、本来の目的通りに、大衆に解放されている。大衆にかえってきた。本来の目的を達成したのだ。
これが「out」
ぼくはこの度、『cage out』というアルバムをリリースするに至って、
このin/outという考えをまとめていった。
cage inはまさしく、籠に囚われた状態だ。
ジョン・ケージが望んだ自由な解釈が許される楽曲演奏ではなくて、
「ケージとはこうであるに違いない」という権威主義的な、伝統主義的なイメージがはびこっている。
アカデミズムが開かれた音楽を閉じてしまったのだ。
それは誰の責任でもないし、過去や現在の様々な演奏家たちは全くもって素晴らしいし、もちろん「ケージとはこうであるに違いない」と考えて演奏することはまちがっているどころか、すごく正しいのだ。
しかしそれが全体としての空気になってしまうと、とたんに間違いとなってしまう。
「デイヴィッド・テュードアこそがケージ演奏の手本だ」とか、「これこそが正しい演奏だ」と言ってしまってはならない。
だからぼくたちは、これを再び「開かれた音楽」へと戻すために、
「これはケージらしくない」「ケージの曲解だ」「ケージが望んでいない演奏だ」というものを目指して取り組んだ。
なぜなら、ケージの開かれた音楽は、楽譜に指示されたことを守りさえすれば、どんな演奏だろうが正解になるからだ。
逆に言えば「これこそは正しいといえる演奏はない」ということでもある。
ようするにぼくらmacaroomは、ロミオを救い出すジュリエットの要領だ。ロミオを無意味な権威的争いから救い出すために、仮死という危険な作戦に出るわけだ。
つまり、ぼくは現代音楽のファンたちにメッタンメッタンに批判されるだろう。これはケージではない、と。自爆テロともいえる。ロミオとジュリエットが悲劇の内に終わったとしても、つまりまあ、ポップスと現代音楽が共倒れしたにせよ、シェイクスピアの描くとおりに両家が最終的に争いをやめてくれれば、今回の企画は大成功だったといえるわけだ。
出会い系アプリから俳句へ、そしてシェイクスピアのinとoutについて
Reviewed by asahi
on
19:19
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