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2016/07/25

芸術格差を考える(第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜)

【目次】

第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜

ライブのフライヤー用に描いたぼくの漫画①。



最初に、ぼくの過去の様々な犯罪について書きたい。

別にマリファナを吸ってアイスクリーム欠乏症にかかってコンビニで2時間どのハーヘンダッツにするか悩んだあげく非常に甘そうな犬用おやつを買ったとか、LSDを服用しながらディズニーの『ファンタジア』を観ているときに「ミッキーがいまここにいるということはディズニーランドには今ミッキーはいないはずだ。ミッキーは一人しかいないのだから」と悟ってパニックになったとか、そういう愉快な話ではない。

ドラッグに関して抵抗がある人でも、著作権に関しては寛容。というか、ドラッグをやったことがある人は少ないけど、著作権を犯したことがない人はほとんどいない。マリファナはずいぶん許容されてきたみたいだけども。
だって、つい最近法改正されるまでは、記念撮影でたまたま後ろに写っていた映画のポスターだって違法だったわけだし、踊ってみたや歌ってみたの動画だって違法だし、そういった動画を見ることだって違法なんだから。

それだけじゃない。マリファナやヘロインが犯罪だというのは全員がわかっていることだけど、著作権違反がどれほどの犯罪か認識している人は少ない。

法律に照らし合わせて考えてみると、著作権違反はけっこう重い。
大麻の所持は5年以下の懲役、栽培は7年以下の懲役。
LSDなど向精神薬は所持だと3年以下の懲役、覚醒剤やヘロインだって使用は10年以下。

著作権法はどうか。
10以下の懲役、または1,000万円以下の罰金。(またはその両方)
ちなみに著作権侵害によって得た利益のすべてに利子がついて返還しなければならない。

これだけ重い罪なんだ、ということがわかり、ぼくはがたがたと震えている。
なぜなら、ぼくは今まで、普通の人と同じように、著作権をバンバン侵害してきたからだ。10年も檻に閉じ込められるともしらずに。
そこで、ぼくが今まで犯してきた罪を考えていきたいと思う。

たとえば、ぼくは、有名な楽曲のカバーを、著作者に無断で使用してきた。



この動画は、著作者の七尾旅人さんからコメントをツイッター上でいただいた。


七尾さんからコメントをもらって有頂天なぼくらだが、しかしながら、もちろんぼくはこれで「シロ」になるわけじゃなく、felicityというレーベルに許可をもらわなくてはならない。なぜなら、きちんと確認はしていないけれど、『リトルメロディ』というアルバムには、「©Tavito Nanao」ではなく「©felicity」と表記してあるだろうからだ。
TPPの大きな争点のひとつになっている著作権の非親告罪化を絡めて考えると、ぼくらmacaroomは、有名になるにしたがって起訴される可能性が増える。著作権は、いまのところ、著作者本人が「いいよ」といえばそれまでだし、仮に「いいよ」とは言ってなくても、著作者自身が訴えを起こさなければ裁判にはならない。しかし非親告罪化するということは、ぼくらのYouTubeをたまたまみていた人が、警察に通報したりして、なんとなくブログが炎上したりすれば警察も「まあ一応やっとくか。違法は違法だし」というなし崩し的態度で裁判に持ち込まれる可能性が高くなる。著作者の意向に関係なく。
法治国家なので、当然ぼくはこれに従わなくてはならないのだけど、上のようなカバー曲は、完全に違法なのだ。だって、この動画を見てくれた人がぼくらのライブに来てくれたりしているわけだから、少なくとも商業的な利用だということができる。

ライブフライヤー用に描いたぼくの漫画②

ぼくが描いた漫画なんか違法もいいとこだ。
まだ紳士的なのは、チャールズ・シュルツという名前を白状している点だろう。しかし白状すれば許されるわけではないし、むしろ「確信犯じゃないか」といわれてしまう。
ぼくは小学生の頃、ホワイトデーに女子に洋書版の『ピーナッツ』をプレゼントするほどシュルツ作品というかスヌーピー作品に影響され続けてきたわけだが、そういうことは情状酌量の余地はあるかもしれない(ないだろう)。
しかし、ぼくの漫画が「すごく可愛い」とかいわれたりしても、それはシュルツの知的財産を乱用しているからに他ならず、仮にこの漫画がアメリカでメガヒットして、なおかつ比例関係的にシュルツの本が売れなくなっていけば裁判になるかもしれない。
ただ、アメリカは日本とちがってフェアユースという概念があるので、パロディには案外寛容的だし、パロディ作品に関してはあの悪名高いディズニーもしぶしぶ了承している。
著作権擁護派として代表格のアメリカ映画業協会(MPAA)がいてもなお、ハリウッド映画のパロディは普通に存在している。(いやもしかしたら、そういった映画はすべての著作者から許可をとっているだけなのかもしれないけど)

ぼくはとんでもない犯罪歴を持つわけだ。いや裁かれてはいないのでまだ犯罪とはいえないかもしれないけど、法を犯してきたという自覚はある。「知らなかった」ではすまされない。

ではなぜ、続けるのか。
だって、カバー曲にしたって、漫画のパロディにしたって、著作者の許可を得れば良いじゃないか。

んん、そんなに簡単なことじゃあない。
著作者の許可を得るのは結構大変だったりする。

ぼくも含めて多くの人は、大企業は著作権に対してシビアな態度で、必ず著作者の許可を得て製作したりしているもんだと考えている。
しかし実際はそうじゃない。

たとえばぼくの話でいうと、
NHKラジオでぼくらmacaroomの楽曲が放送されたが、事前になんの連絡もなかったし、その後も使用料などに関する話は一切ない。
もちろんぼくはNHKラジオに対して、怒るどころか、「勝手に使ってくれてありがとう」という気持ちでいっぱいだ。だって、NHKがぼくの連絡先を探したり、ぼくとメールでやりとりして数日経つ間に、パーソナリティの高橋源一郎さんが心変わりして、別の曲を流したくなってしまうかもしれない。それに、NHKのような大きなラジオで放送されることの名誉に比べたら、使用料なんかどうでも良い。
そして(話の主旨からはそれるけど)何よりぼくらは、作品の無断使用を制限しないことをアルバムに明記しているわけだし。(ラジオ放送当時は明記してはいなかったが)
さて、NHKのこうした素晴らしい行動は、違法であることにはかわりない。
ぼくはNHKラジオで放送されたことを友人に自慢しまくったのだが、多くの友人の反応は「すごいね! でも、NHKのようなちゃんとしたところでも、無断で曲を流したりするんだ」という感じだった。

著作者に許可をとることがどれほど難しいことか、ということは、NHKは非常によくわかっていると思う。

NHKは、過去に放送した78万タイトルを保存し、公開することを進めている(NHKアーカイブス)。
公開するためには、著作権や肖像権など、権利者に承諾を得なければならないのだけど、これが全然見つからないのだ。
どのくらい見つからないかというと、大河ドラマ『秀吉』では、57人の俳優が連絡不能になっている。俳優は楽曲でいうところの歌手なんかと一緒で、実演家ということで著作隣接権がある。普通はそういった確認事はドラマ制作の際に契約するのだけど、このように新たにアーカイブしたりするときは、新たに契約や確認しなければいけない。しかし、著作権などは親から子へ譲渡されたり、もしくは俳優が偽名で出演してたり、プロダクションを辞めてたりと、もう全然連絡先がわからないのだ。
そしてNHKアーカイブは専従チームを組んで6年間、著作者を探しまくった結果、
たったの1パーセントだけ、公開することができている。

NHKのドラマが特別に管理が悪いわけじゃない。いや、NHKの著作者管理は素晴らしいはずだ。だからこそこういった大規模なアーカイブをやっているのだから。

著作者のわからない作品は、出版したりネット公開することができない。
だからいつまでたっても作品は絶版のまま。人気のある作品だって出版できない。
それに、著作者が生きているか死んでいるかもわからない作品は、いつになったらパブリックドメインになるかもわからないのだ。
こういった作品を「孤児著作物」とか「みなしご作品」とかいったりする(Orphan Works)

現在、世の中の50パーセントの作品が孤児著作物だといわれている。
イギリスでは大英図書館で著作権期間中の可能性がある作品のうち43パーセント、ミュージアム所蔵の写真は90パーセント、アメリカでは学術資料の50パーセントが権利者不明状態らしい。

ぼくは中学生の頃から安部公房の狂ったファンだから、勅使河原宏が映画化した『燃えつきた地図』のDVDが欲しいのだけど、困ったことにAmazonではすごい値段になっている。
いや、これが権利者不明の問題と絡んでるのかどうかは、全く知らない。
ちなみに『砂の女』『他人の顔』は、ありがたいことに新時代の救世主であるYouTubeでおそらく違法にアップロードされたものを観ることができる。(当然無料で)


Three Reasons: The Man Without a Map from For Criterion Consideration on Vimeo.



消費者であると同時に、アーティストでもあるぼくはよく、
著作権がなくなってもわしは生きていけるんかいな
と自問自答することがある。

大抵は、第4回にも書いたように、売れていないうちは著作権使用料の恩恵をこれっぽっちもうけていないので、「今もたいしてかわらないんだし、売れたら売れたでテレビ出たりラジオ出たり、広告に使われたり、なんとかなるだろう」と、ずいぶん楽観的にことを済ましてきた。

とかく、芸術家というのは日本では蔑まれる存在だったし、ある意味そうであるべきなのかもしれない。



これは史実からはかけ離れているけど、黒澤明『乱』におけるピーター演じる狂阿弥のような存在が、理想の芸術家の姿だと思っている。これはシェイクスピア『リア王』における道化だけど、野村万作の指導もあり、伝統芸能に無頓着なぼくなんかは勝手に「これが本来の狂言の姿だ!」と思い込んでしまったわけだ。
猿楽がもともとジプシーのような魔術的芸能遊牧民族らによって生み出され、歌舞伎が出雲阿国を筆頭に性風俗産業と密接に絡んで語られるように、いや、もっというと、日本の芸能は大陸を横断して朝鮮半島から渡ってきたジプシーによるものだというとんでもない陰謀論的な説まであるくらいなのだ。
こうなってくると日本=ユダヤ同祖論のような非常にばかばかしくもワクワク愉快な感じになってくるのだけど。

こういった楽観的な性格のせいで、著作権がなくなったら、本当にどうやってお金を稼いでいくかなんて真剣に考えたこともなかったのだけど、そもそもこの連続ブログでは、そのへんのところ、つまりお金、おっきくいうと経済のことについて勉強していきたい、ということから始めたのだから、そういうことを考えていかなくてはならない。

結局、いくら著作権が概念的に「架空の権利」だといったところで、世の中はお金でまわっているのだから、いつまでたっても有意義にロビー活動ができるような大金持ちたちは納得してくれないだろう。
原発が必要か必要でないか、というのはぼくみたいな左翼ぎみなやつは道徳や倫理やイデオロギーのようなもので語りたがるけど、残念ながら、まともな大人は原発が与える経済の話をしなければ納得してくれないのだから。
つまり、いくらぼくのような左翼じみた若造が概念や精神やキモチの話をしたって、経済問題が解決されなくては机上の空論であって、弱者ゆえに都合の良い理想論をいっているのに他ならなくなってしまう。

著作権が完全に消えてしまったら、わしゃ一体どうなるのか、考えてみる。
ぼくが7月に出した、macaroomの『homephone TE』というアルバム。
この世界に著作権が全くなかったとしたら、どうなるだろう。
まず、あなたはタワーレコード渋谷店でこのCDを買う。そしてあなたは、このCDをどう使っても良い。
たとえば、このCDを勝手にmp3にしてネットで安く売ったりしても良い。
もしくはジャケットのデザインを変えてプレミア感を出して、高く売っても良い。
もしくは、他の様々なアーティストと混ぜ合わせにしてコンピを売っても良い。
映画のサントラに使っても良いし、その場合でもぼくから許可をとる必要はないし、ぼくにお金を払う必要なんか全くない。
あなたがやった商売のせいで、作者のぼくが売っているオリジナルのCDが全然売れなくなっても問題は無い。
ただ、タイトルや作者名を変えたり、その他の不正行為は盗作行為とみなされてしまうので、気をつけなくてはならない。著作権はないけど、詐欺罪で捕まったら大変だから。

つまり、作者であるぼくは、世界中のすべての人と、競争しなければならないということなのだが、しかしながら、完全に平等な競争ってわけでもない。作者であるぼくのほうが、ずいぶん優遇されているのだ。
作者の優遇は、先行優位性、という言葉で表現されるらしい。
これは著作権にも特許にもいえることだ。
イノベーターや作者は、まず最初にそのアイデアを思いついた人だから、それを市場に出すまではたった一人アイデアを独占していることになる。それによる優位性がいろいろある。
ぼくのCDを手に入れて、その後それをつかって一儲けをしようとする人は、ぼくよりずいぶん遅れて競争に参入することになる。
たとえばAmazonは、配達のスピードによって料金の差別化が行われている。三日くらい待てば配達料無料であっても、多くの人は、次の日に届く有料サービスの方を選ぶ。これはAmazonの先行優位性だ。
アーティストのアルバムは、ある一定の層のひとたちは、発売日にすぐさま欲しがるものだ。
E・フリントによると、一般小説の売り上げの80パーセントは出版三ヶ月後に発生している。だから、遅れて競争に参加してきた出版社が三ヶ月後に出版しても、あとの20パーセントを取り合うだけになってしまう。(いまはもっと初動の売り上げは下がっているらしいけど)
映画館では、公開から数週間〜一ヶ月の間に収益が集中する。もう数ヶ月待てばもっと安く他の映画館で上映されたり、もうすこし待てばTSUTAYAで借りれるのに。
TSUTAYAだって、新作と旧作の違いが値段で分けられている。
ユーザーは、とてもせっかちなのだ。すぐに、早く、まっさきに、それが欲しいのだ。

先行優位性のひとつの例として、補完物売り上げ、というのがある。
ぼくの曲がいくら誰かがアップロードした無料のmp3でダウンロードされつづけても、ライブでの収益は下がらない、というものだ。
ようするに、ある市場では全く価値がなくても、別の市場で価値があったりするのだ。
たとえば、CDがまったく売れなくても、ライブでボーカルのemaruがサインを書いて手売りすれば売れたりだとか。
たとえ著作権がなかったとしても、サインは競争相手には真似できない。明らかな詐欺だから。

ロサンゼルスのゲッティ美術館の例を引用。

ゲッティ美術館は桁外れの金額で、有名な芸術品のとてもよくできた贋作を買ったのだった。贋作は出来が良く、美術館の専門家はそれらがオリジナルだと信じていた。しかしちょっとした証拠の出現や、洗練された科学的検査によって、これらの作品が贋作であることが証明された。当然ながら機能的な面では、何一つ作品に変わりはなかったーー見た目には、それらの絵画はまったく同じに見える。だが作品がオリジナルではないとはっきり証明されて、市場価値は桁違いに下落した。同じように、さまざまなファッション製品の公認のコピー(たいていはブランドラベルの有無で見分けられる)が、オリジナルよりもはるかに安価に売られる。だから芸術品は現在のところ著作権で保護されているにしてもーーその必要性があると主張するのは困難だ。(ボルドリン&レヴァイン)

著作権がなくなったところで、消費者の意識の中で、作者はある程度の保護というか優遇は受けている。
でもまあ、時には、作者であっても、競争には負けることがある。

一番困ったのは、作者が圧倒的に貧乏だったときだ。
そう、我々のように。
芸術格差というタイトルをつけているし、わかると思うけど、著作権が格差を広げているのだが、では著作権がなかった場合の格差はどうか。

たとえば、ぼくが、新しい音楽アルバムを作ったとする。しかしお金がないので、しぶしぶダウンロード販売をする。楽曲制作にとても時間がかかったので、その分を回収するために、そこそこの値段、たとえばアルバム1枚2,500円とかで売る。
そして、それをダウンロードした大手音楽レーベルが、勝手にプレスしてCDを販売する。豪華な写真、有名デザイナーによるデザインなどつけて。
大手音楽レーベルは、1タイトルのCDを1,000枚プレスすることなんか大した負担じゃない。

結果的に、作者であるぼくは、競争に負けてしまうかもしれない。

まあ、さっきも書いたような補完物売り上げを考えると、必ずしも損することはないし、大手音楽レーベルが豪華なCDを売ってくれたおかげでライブにもものすごい数のお客さんがひしめき合うかもしれないので、大助かりなのだけど、まあそういうことは置いといて、ぼくは大損したことにしとこう。

この場合、ぼくが大損したとして、どうするべきか。

この場合は、確か第2回目の記事で書いたような気がするが、最初から大手音楽レーベルに売ればいいだけの話だ。
もし、そこで断られたとしたら、ダウンロード販売すればいい。ダウンロード販売をして、そのあとでレーベルが真似をするということは、その時点でかなり売り上げがあるということなのだ。だって、売れていなかったら真似をする必要がないのだから。

大ヒット曲だと確信してから海賊行為をはたらいて、かわいそうなポップスターを破滅させてみればいい! ところで「ヒット」とは、この場合「すでに百万部売り上げた」という意味だろう。現実の業界で、すでに勝者が勝利をおさめてから真似しにかかって、かれらがすでに莫大な利益をあげ、地位を築いてゆるがないものにする時間を充分に与え、そのあとで競争に乗り出してみるといいーー如才ない模倣屋に残された市場は、その時点ではほとんどなくなっているはずだ。(ボルドリン&レヴァイン)

特許の場合にも、貧乏な発明家は大企業に真似されて大損する可能性はある。発明にはけっこうお金がかかる。
セグウェイを発明したカーメン氏の例を引用したい。

カーメン氏は自動車会社の一つ(フォードとか)を訪れて、無料で青写真を見せてやればよかったのだ。そして競合他社には秘密にしておくとの約束を、フォード自動車の有力株主になることを条件として結ぶわけだ。これで経済学者のいう誘因両立メカニズム、専門家のいうウィン・ウィンの状況の出来上がりである。フォード社は先行優位性を享受できるため、この秘密には相当な価値がある。カーメン氏が求めるものが発明の価値を下回るかぎり、フォード社は喜んで支払うだろう。カーメン氏が秘密を競合他社に明かせば、独占利益が失われるからだ。一方でフォード社は、株式を保有するカーメン氏なら他社に秘密を漏らさないとわかるーー株の価値が下がるからだ。(ボルドリン&レヴァイン)

まあ、でも、特許の場合もこんなややこしいことをしなくてもあまり心配はいらない。
特許にしても、著作権にしても、イノベーターや作者というのは、その人自体は取り替え不可能だ。
医薬品関係の発明をした人がいるとして、その専門知識は容易に他の人には真似できない。
たとえば、論争の的になった小保方さんのSTAP細胞。彼女が200回成功したというものが、他の誰にも真似できなかった。ハーバードですら、小保方論文を参考にしてずいぶん時間がかかったようだ。
だから、それが市場で競争になったとして、イノベーターは専門家として、もしくは指導者とか、アドバイザーとして、引っ張りだこになるだろう。
作者だって、作品が出回りさえすれば、サイン会や講演会、ライブやテレビ出演、ラジオ、CM、なんでもござれよ。うん、なんでもござれなのよ。

真似するだけ真似したら良いし、ぼくにとってはその方がありがたい。

最後に、キプリングの"The Mary Gloster"から引用。

連中はありったけ真似しやがったが、おれの頭は真似できない


2016/07/21

芸術格差を考える(第4回:家入レオより売れるために何をするべきか)


芸術格差について考える第4回目のブログ。
ぼくがやっているmacaroomの発売日にとある店舗で店員から無礼な態度をとられたとき、その横で大展開している家入レオさんの巨大ディスプレイで頭をかち割ってやろうかと思った経験からこういうタイトルになりましたが、もちろん家入さんには何の恨みもありません。

今回は、ぼくがこれから音楽をやっていって、どうやったら大金持ちになることができるか考えていきたい。

とその前に、macaroomという音楽ユニットの新しいアルバムについて宣伝しておかないと。
ボーカルのemaruから「がくもたまには宣伝して」といわれている。


macaroom - homephone TE
2,000円(税込)
タワレコ新宿・渋谷では限定特典つけています。
Amazonで予約

お店での展開の様子はボーカルemaruのブログが詳しいのでどうぞ。
macaroomのオフィシャルサイトでも特設つくってます。


このブログを読んでくれた人が、全員お店にいってアルバムを購入してくれたら、どれほど良いだろう。
そしたら、macaroomを推さずに家入レオなんかを推しているお店をぎゃふんといわせることができるんだけど。(もちろん家入さんは何も悪くない)

音楽業界が、いかに著作権からはじまる大企業の独占によって腐敗が蔓延しているか、ということは、ぼくみたいにレーベルやプロダクションに所属せずに活動しているアーティストにとっては悩ましい問題だ。正直、プロダクションにもレーベルにもお店にも流通にもメディアにも、そしてぼくらのようなアーティストにも、責任の一端がある。
 知的財産権が新規参入を防ぐためにある(かも)ということは前回の記事の特許プールやサブマリン特許の話で考えることができたし、著作権が文化芸術を振興しているわけでもない(かも)ということはP2Pなんかの話で考えることができた。

そして、著作権は、作者の保護、という観点からも、あまり意味がないんじゃないか、ということも、第2回と第3回のブログで、著作権がない場合の世界(政府が出した本の売り上げやファッションデザイン、ソフトウェアの発展など)を見て考えた。

音楽業界のコネクションの多くは意図的に隠されているので、たとえば西野カナは父親が1億円の広告費用を出してデビューしたとか、そういった噂があるだけで本当のところはよくわからない。
macaroomでいうと、アルバムに聖飢魔IIの創始者、ダミアン浜田陛下がコメントを寄せているが、これは陛下が高校教師をしていた高校にemaruが入学したからだ。しかし、教え子だということを伏せてコメントを掲載すれば、「純粋に音楽性だけが評価されてコメントを寄せてもらった」という風に演出することもできる。
ほとんど詐欺のような形で、音楽業界がまわりまわってより強固で閉鎖的な独占状態を続けているのは事実だ。

たとえばこの連続ブログで大いに参照し引用させてもらっているボルドリン&レヴァインは、「自分の曲をラジオで放送してほしいなら、お金を払えばいい」といっている。念のためにいいわけしておくと、macaroomもNHKラジオで高橋源一郎さんの推薦によって放送していただいたが、我々のポケットから高橋さんのポケットへ汚い金が動いたわけではない。

売れるための隠れたお金を象徴する出来事が、1960年のペイオラ告発だ。
アメリカの人気DJアラン・フリード。ロックンロールという言葉を定着させて、ロックンロールやリズム&ブルースを広く紹介することに貢献した人物として(アーティスト以外では初めて)ロックの殿堂入りをしている。


彼は、ある楽曲を放送するかわりに2,500ドルを受け取っていたことで告発された。
合衆国法によって、ラジオはスポンサー枠内の時間以外で金銭を受け取って放送することはできない。ラジオは公務員がやっているわけじゃないしただの企業なので、どんなお金をつかって何を流そうと勝手だけど、それにしてもラジオ(メディア)の影響力を考えると、こうした不公正なビジネスモデルが悪習であることには完全に同意だ。ともかくも、これはアメリカでは違法、ということになった。そしてフリードは罰金を科されて釈放。
ペイオラというのは、pay(支払い)という言葉と、ola(Pianola, Victrolaなどの楽器やMotorolaの会社から)を合わせた言葉で、無理やり日本語っぽくいうなら「とっぱらい節」のような感じだろうか。いや違うだろう。

ペイオラの話をきくと、「ん? 普通のことじゃねえか」と思ってしまう。
そう、悪しき風習、だがしかし、これは今でも(違法にもかかわらず)普通に行われている。普通に行われているので、それがどれほど悪いことなのか、ぼくにもよくわからなくなってしまう。
2005年にはラジオ局に賄賂を贈って大規模かつ組織的に放送させたとして、ソニーBMGがニューヨーク州知事から告訴された。ソニーBMGは1000万ドルの支払いで和解。

http://www.dontbuycds.org/payola.htmlからの引用を紹介。

DJが「お次はアリスタ・レコーズから発売の、アヴリル・ラヴィーン『Don't Tell Me』」などというのだ。こう宣言すると支払いの対象となった曲は広告になるので、建前としてはペイオーラを禁ずるいかなる法も犯していない。五月のある週だけで、ナッシュヴィルのWQZQ FMはこの曲を109回放送している。(中略)KBZTのプログラム・ディレクター、ギャレット・マイケルズはこう述べている。「一般的に、ラジオ局はいいと思った曲を放送しているわけではありません。支払いを受けているから放送しているのです。」単純明白なペイオーラだ。(中略)これもやはり、レコーディング業界とラジオ業界の堕落した腹立たしい慣行のひとつだ。アーティストを搾取してファンをだましている。

無垢で純粋な(つまり世間知らずな)駆け出しのアーティストは、「良い曲をつくればラジオで流してもらえる」と思っているのだ。それも確かに正しいけど、ラジオやテレビで流れている多くの、ほとんどの曲は、単にお金を払っているに過ぎない。
本当だろうか?

ペイオラが、悪しき風習だということはわかっていても、そういった感覚は売れているアーティストほど鈍感になっていくだろう。
賄賂のような感覚は彼らにほとんどないし、レーベルやプロダクションだって、プロモーションの手法として、ごくごくあたりまえにやっていることなのだから。企業が売れるためにお金をつかうのはあたりまえのことだし、アーティストだって、それで売れてくれるんだったら、細かいことはとやかくいわない。企業がいきすぎた商業主義でもって人命が失われるとか、そういう事態であったらさすがのアーティストも声をあげるかもしれない。しかし、ペイオラは新しいアーティストは育ちにくいかもしれないが、全く育たないわけじゃないし、人命が失われたりはしない。

ただ、ペイオラも、あれが公金横領なら話はわかる。でも、音楽は公共事業じゃないんだから。全部が公共事業にまつわる犯罪と同じように扱われるのはね。(大瀧詠一)

ほらね。

著作権が、企業にとって甘い独占を正当化し、競争を阻止するということは、多くの不可解なできごとからみてとれる。
実際、ぼくのような、福くん級の純粋無垢なアーティストからしてみれば、「どうしてだろう」と思うことがしばしばある。



そして史上最大の横領だといわれている、アメリカの著作権延長法。
著作権の保護期間は、1998年のこの法案によって、作者の死後50年から70年に引き伸ばされた。実に40パーセントの延長だ。

これがなぜ横領なのか。
ノーベル賞受賞者を含む多くの経済学者による法的書類によれば、著作権延長法でもたらされるアーティストの追加報酬は、たった0.33パーセントだ。
アーティストの収入を0.3パーセントだけ増やすことに貢献している

著作権延長法は可決されたあと、憲法に基づいて訴訟となった。(憲法上の根拠については第1回記事を参照)
その訴訟(エルドレット対アシュクロフト訴訟)によると、
1923年から1942年までに登録された著作権335万件のうち、13パーセントの42万5000件が更新された。議会調査局は、このうちさらに18パーセントの7万7000件が世に残る作品として印税を獲得し続けるらしい。これらの年間予測は3億1700万ドルに相当するといわれる。

つまり、
たった7万7000件を守るために、(パブリックドメインになるはずだった)335万件の作品がブロックされ、
アメリカ国民は年間3億1700万ドルを負担しなければならない

そうすると、アーティストのためでもなければユーザーのためでもない著作権延長法。
それではいったい誰のためなのか??
こういった議論から、アメリカの著作権が俗にミッキーマウス法とよばれている所以がわかってくるのだ。

だって、くまのプーさんの使用料だけで、JASRACが全国からかきあつめる「すべての楽曲」の使用料と同額なのだから。

これはアメリカの問題だけじゃない。
TPPの知財状況の中に、この著作権延長問題が含まれているからだ。
アメリカがこれを要求して、オバマさんがとてつもなく力をいれているのは、アメリカの最大の輸出産業がほかならぬ知財だからだ。(日銀によると米国の海外特許・著作権料使用料は年間15.6兆円)

ニューヨーク州弁護士の福井健策によると、知財は使用料の金額よりも、ビジネスをコントロールする、つまり独占することがより魅力なのだという。

印税をもらうということはライセンスを諸外国に供与しているということです。ライセンスを諸外国に与えるということは、契約を交わすということです。契約には付帯条件というものがあって、「そんなデザインのものは出しちゃだめだ」とか「そんな広告じゃだめだ」とか「出来上がった知財を吸い上げよう」とかいろんな付帯条件をつけられるわけです。こうやってビジネス全体をコントロールできる部分が非常に大きいわけです。(誰のための著作権か:国際電子出版EXPO)

TPPは早くからリークされていたが2015年10月には政府概要が公表され、大筋合意ということだった。
どうなるかわからないが、TPPを待たずして国内法を前倒しでかえていく、ということらしい。
だから、日本でも同じようなことになるかもしれない。
おそらく延長問題よりも最大の議論となっている(と思う)非親告罪化については、また機会があれば考えよう。
ちなみにいうと、日本の企業は著作権延長をしてもアメリカの企業のような恩恵には預かれないだろう。
なぜなら、日本が輸出している作品のほとんどは、漫画やアニメなどみてもわかるように、作者の死後50年どころか作者がばりばり現役だからだ。なので、著作権を延長しようと、そのままだろうと、まったく状況はかわらないだろう。ただ、青空文庫やその他のパブリックドメイン作品が20年間一切増えずに眠ったままになる、というだけだ。


さて、ぼくらのような無名のアーティストは、どうやって大企業の独占状況に突っ込んでいくべきだろうか。

うん、もちろん、無所属のアーティストが、まったくの賄賂なしに成功した例は、いくらでもある。
頑張ればなんだってできる。あきらめちゃだめだ。

ジョナサン・カウェットの自伝的ドキュメンタリー映画『ターネーション』の例を考えてみる。
BBCが2004年に彼についての記事を書いている。



カンヌやサンダンスで話題となったこの映画は、218ドルという超低予算映画。カウェットが監督し、編集し、主演している。
カウェットは幼少期に母親がショック療法を受けていた。母親から虐待を受け、病状が悪化していくのを目の当たりにした。11歳の頃から彼は自分の家族をフィルムにおさめるようになり、現実逃避として映画をつくりあげた。つまり、『ターネーション』は11歳のころからはじまるホームビデオをつなぎ合わせた自伝映画だ。
彼は普通のパソコンで、普通の編集ソフトを使って、映像をつなぎ合わせていった。218ドルという予算は、11歳の頃から撮り続けたビデオテープの金額を合計した金額だという。

そして、彼は、雰囲気や時代感を演出するために、音楽やビデオクリップを使用した。

それら音楽などの権利者にカウェットは40万ドル支払うこととなった

カウェットは、、映画に使った楽曲などの著作権料を支払わずにすめば、218ドルで済んだのだ。しかし、費用は数千倍にかさんだ。

これで、アメリカレコード協会と「知的財産」をめぐる議論の正体がわかった。それは本人の労力の成果に対する権利に関するものではない。創造やイノベーションや改良のインセンティブでもない。既存のビジネスのやり方を維持する「権利」に関するものだ。(ボルドリン&レヴァイン)

日本中に、売れなくても頑張って活動しているアーティストがたくさんいる。
売れるために頑張るアーティストもいるし、売れることをこれっぽっちも考えていないアーティストもいるし、自分が芸術活動をしていることにすら気がついていない天才もいる。
ぼく自身もそうだし、ぼくのまわりにもたくさんいる。
フェイスブックでもツイッターでも、知り合いや、知り合いの知り合いのアーティストが、「アルバム発売しました」とか「ライブします」とか、もしくはただ単に「スタジオ練習中です」なんかシェアして、アピールしている。
彼らの作品が良いか悪いかに限らず、ぼくは(自分自身満足に活動できていないにもかかわらず)同情心でいっぱいだ。

だって、彼らは、いや彼らだけじゃなくて日本中のほとんどすべてのアーティストは、著作権の恩恵に預かっていないからだ。
JASRACは日本中の喫茶店や居酒屋やラジオ局や配信サイトから使用料を徴収している。
そしてうれしいことに、ぼくの曲も喫茶店やバーやラジオ局などで流してもらうことがある。
知り合いのアーティストたちも、どうにか頑張ってどこそこの地方ラジオで流してもらったとか、おしゃれなカフェで流してもらったとか、そういうことを経験していく。
しかし、徴収された使用料がぼくらの口座に入ることはない。
なぜならぼくらはJASRACに登録なんかしていないし、JASRACはぼくらのことを認識すらしていないからだ。

著作権の恩恵に預かっているのは、一部の売れている人たち、そして一部の企業だけだ。

著作権がアーティストの創作のインセンティブになるのなら、なぜ日本中のアーティストは、使用料をもらわずに創作活動を続けているのだろう。
いつか、売れた時に、今の何百倍の恩恵にあずかれるからだろうか?

以前書いたが、CD-Rに含まれる「私的録音補償金」というもの。
ぼくらはCD-Rを買うときに、その使用目的にかかわらず、補償金を払っている。CD-Rの定価には実際には補償金が上乗せされているからだ。
これはほとんど課税の一種で、実際にヨーロッパでは多くの国が実施している。

このよこしまなやり方に注目ーーコピーした楽曲の保存以外にも様々な機能があるCDのような多目的商品に課税して独占的レントを押し付けているのだ。(ボルドリン&レヴァイン)

ぼくは少し前に約100枚のCD-Rを購入した。これらはすべてぼくのつくった楽曲を焼いてサンプルとして店舗に配布するために買ったものだ。つまり、権利者はぼく自身。
これら100枚のCD-Rを買う際に余計に払わされた補償金は、私的録音補償金管理協会がホームページで宣言しているように、「全て、個々の権利者に分配」されるのだろうか?

つまり、この連続ブログのタイトルになっている「格差」という意味のひとつは、こういうことだ。
著作権による使用料、つまり印税は、一般には「たくさん売れていればたくさん入り、少ししか売れていなければ少ししか入らない」と思われている。しかしそれは完全な誤解だ。
著作権の使用料は、「売れていればたくさん入り、少ししか売れていなければ全く入らない」というのが正しい。

近いうちに、この補償金の行方について、私的録音補償金協会に問い合わせてみたい。

2016/07/17

芸術格差を考える(第3回 : ありがとう、ショーン・パーカー)

【目次】

第3回:ありがとう、ショーンパーカー


パクリ問題について話をするときに、それがオマージュなのか、パロディなのか、引用なのか、リスペクトなのか、影響なのか、ぼくにとってそんなものはどうでも良い



ゴドウィンの法則によると、「インターネット上での議論が長引けば長引くほど、ヒトラーやナチを引き合いに出すことが多くなる」らしい。
だから、こういう表紙を見たときに、実際にプーチンがヒトラーとどのくらい似ているのか、というのは歴史学者ならともかく、少なくともぼくにとってはどうでも良い。
このデザインがただ単にかっこよく、小さな文字をヒゲに見立てたり、ネクタイの柄がどうも鉤十字にみえるなあ、なるほど、素晴らしいじゃないか、と思うだけで良いのだ。

どこまでパクって良いか、というのは法律よりもむしろ法廷に委ねられる。
そしてその範囲はどんどんひろがっているように思える。
とくに知的財産権のもうひとつの中核、特許では。

しばしボルドリン&レヴァイン『〈反〉知的独占』を読み進めていくので、アメリカが舞台になる。

1889年には、植物における特許は不可とする判決が出ている。それが1930年には植物特許法によって、ごくごく狭い範囲の特許が許されるようになる。そして1970年には植物種保護法によって、かなりの範囲の植物が保護されるようになった。
ソフトウェアも、それまで知的財産権の保護なんか全くなしに発展してきたにもかかわらず、いまでは完全に保護されている。
1981年に「ダイヤモンド対ディーア」裁判での最高裁判所の判決、そして1996年に特許商標庁が新しい審査ガイドラインを発表してから、プログラムは完全に特許取得の対象となった。


「判例法」と聞いておそらく思い浮かぶのは、中絶やプライバシーなど議論の的になる領域だろう。だが立法法的見地による検討も承認もなしに、判事が法体制において最大の変化を起こしたのは特許法の領域である。コンピュータソフトウェアへの特許保護の拡大がその一例だ。(ボルドリン&レヴァイン)

これらの発展は、1990年代までにとてつもなく発展したが、その時にはなんの知的財産にも保護されていなかった。
しかし1998年の「ステート・ストリート銀行対シグネチャー・ファイナンシャル・グループ訴訟」によって、ビジネス手法や数学的アルゴリズにさえ、特許が取得できる、ということになった。金融証券にも。

司法積極主義に則ったこの異例の行動によって、法廷は政府公認の独占状態を金融証券など、イノベーションと競争が手を携えてやってきた好況市場へと拡大したのだ。(ボルドリン&レヴァイン)

ソフトウェアはいまでは特許冷戦がおきている。
ソフトウェアを開発するときに、他の特許を侵害せずにいることは、まず不可能なのだ。

わが社のエンジニアたちと弁護団は、数々の幅広い既存の特許を侵害することなく複雑なソフトウェア製品を開発するのは、いまでは不可能に等しいと助言してくれた。(ジェリー・ベイカー(オラクル社))

大手企業が取得している特許のせいで、ソフトウェアの開発ができない。
ならばどうすれば良いか。
それは、新たな有益な特許を取得する、ということだ。
この世には、実際に使用されていても特許になっていないものがたくさんある。それを見つけて、申請さえすれば良い。そうすれば、それを使用するすべての企業が、使用許可を取らなければならない。これで関係性は対等になる。

1996年の新ガイドライン、そして1998年の訴訟。
これが特許爆発のきっかけとなった。特許申請数が飛躍的に伸びたのだ。
具体的にいうと、1997年から2001年までの間に、50パーセントも増加している。年間出願数は90年代末に34万件におよび、これは60年代の3倍以上。それにともなってアメリカ弁護士協会の知的財産部門の会員数も4倍になった。
ノキアは12,000件の特許を持っているし、マイクロソフトは20,000件の特許を持っている。マイクロソフトは毎月1,000件のペースで増えているらしい。
これでますます、誰かの特許を侵害せずにソフトウェアを開発することは不可能になってしまった。
これらの特許の膨大な取得が、完全に無駄であり、なんの意味もないことは、わかりきっている。
もちろん、本人らにだってわかりきっているのだ。

われわれの特許は10,000件ーー実におびただしい数だ。10,000件より1,000件の方がありがたいか? イエス。他の世間が同じようにするなら。(D・ブルース・シーウェル(インテル))

われわれの特許は(アメリカで毎年)3000件(認められている)。だが必要ならそれを10,000件にだってできる。(ジョン・ケリー(IBM))

全員が、これらの特許が無意味だということは知っている。しかし、全員が一斉に止めない限り、誰も止めることはできない。

2000年のカーネギー調査によると、企業の88%が独占者になるために特許を取得していて、53%が交渉や訴訟回避のための無駄なレントシーキングに特許を持っていて、「まともな特許利用」であるライセンス収入を目的に特許を持っているのは17%しかなかった。またイノベーションの利益に対して特許が有効だと考えている企業は、全体の3分の1しかいなかった。
ほとんどの企業は、無駄に、特許を持っている。

この状況は、大量の高額な核兵器を「防衛目的」で所有していたあの冷戦時代に似ている。いま企業は莫大な資金をつぎこんで「防衛特許」を取得、所有している。(中略)それよりもなおさら狂気じみている。少なくとも当時は、実在する共産主義の外的脅威という自分で作り出した存在ではないものから身を守ろうとしていたのだから。現在の「防衛特許」の均衡には、われわれの福祉を脅かす外的脅威は存在しないーーこの脅威はわれわれがまちがった法を選んだために、つくり出したものに他ならないからだ。(ボルドリン&レヴァイン)

さらに、特許は出願しても、修正案などいろいろだして授与までの時間を引き延ばすことができる。
これは、出願日から特許は有効とされるのだが授与されなければ公表されないからだ。
だから、たとえばジョージ・セルデンのように、出願から授与まで16年も引き延ばすことができる。
その間に、これにかかわる技術を他の企業はばんばん使っていく。そして産業が十分に発展した段階で公表し、特許使用料を徴収するのだ。セルデンはこれによってアメリカの自動車1台につき販売価格の1.25%を徴収した。
これらは水中に潜ってなかなか姿を現さないので、「サブマリン特許」といわれている。深刻な社会問題だが、いまだに解決されていない。

メモリチップに関する特許を(秘密裏に)取得していたラムバス社。これらの内容はラムバス社に関係なくすでに広く使われている技術だったが、ラムバスは計画的に特許を取得した。

ラムバス社の反競争的なやり口というのは、JEDECの名で知られる業界標準団体の取り組みに関わりながら、その標準に提案されて最終的には採用される特定技術の開発に積極的に携わっていて、現に特許を一つ取得済みであり、いくつかは出願中であることをJEDECにもそのメンバーにも知らせないでおくという手口だった。(中略)ひとたびその標準がDRAM業界に広く採用されると、この標準に合わせてメモリ製品を製造する企業に対して、この特許を世界中に行使したのである。(連邦取引委員会の申し立てより)

ラムバス社は詐欺容疑で告発されたが、結果はラムバスの勝利。すべてのメモリチップメーカーはラムバスに使用料を払っている。

境界線判断を裁判に任せていると、良いことはない。
境界線はどんどんひろがっている。

著作権や特許で、「これは大丈夫だろう」と思われていたものが軒並みダメになっていくからだ。そして一度ダメといわれたものは、判例主義によって、すべて必ずダメになってしまう。




現在までのところ、知的財産権によって全く保護されていない(と思われている)ものもたくさんある。
そして、保護されていない分野は、保護されていないにもかかわらず、随分発展しているのだ。
デザインに特許はない。意匠(デザインに関わる工夫や何か)にはあるが、デザインそのものは全く保護されていない。

ハイブランドが発表した新作は、その数ヶ月後にはH&MやZARAでもっとずっと安く買うことができる。それでもシャネルやヴィトンが競争に負けることはないし、一方でファストファッションも盛り上がっている。

Sheffer Told Me Toというサイトから少し拝借。


どの女の子が女装をした男でしょう、というクイズではない。

a,b,cのどの服が最も高価にみえるか、というもの。
こういった画像が、「Splurge VS Steel(高級品VSパクリ)」で検索するとたくさん出てくる。


aはFree People、bはVince Camuto、cはThread & Spply。

こういう現象は、ぼくたちは当たり前のことだと理解しているし、消費者の感覚ではずいぶんお世話になっている。
H&Mで1,000円出せば、そこそこ最新の服が新品で手に入る。

絵画などの芸術作品にだって、著作権のおよぶ範囲は限られている。
作品そのものに著作権は発生するが、その手法やコンセプトにまで著作権は及ばない。

無調の音楽を誰が発明したのかはわからないし、無意味な議論だとも思うけど、仮にシェーンベルクがその権利を主張したとしたら、現在の映画会社は軒並み訴えられるだろう。もしこの音楽的手法に著作権があるとすれば、まだ彼の死後60年と少ししか経っていないのだから。
エリック・サティが教会旋法を楽曲に取り入れたこと自体に知的財産権を主張できたとしたらどうだろう。ドビュッシーもラヴェルも生まれなかっただろうし、みんなが大好きな久石譲はただのいかついおじさんでしかなくなってしまう。いやちょっと待てよ、教会旋法は、サティが作ったわけではない。むむ。教会がつくったものだ。


建築デザインにしたって、だれがだれのパクリかなんて、言うだけ無駄だろう。
図書館や学校はすべて同じデザインだし、おしゃれなコンクリート打ちっ放しのマンションはすべて安藤忠雄に著作権料を払わなくてはいけなくなる。いや、コンクリート打ちっ放しだって、べつに安藤忠雄のアイデアじゃない。コルビジェも違う。じゃ誰だ? 
ほら、だから、こういう話をしていると、永遠に続いていくことになるし、結局は「オリジナリティなんて存在しない」という、そもそも著作権という発想自体がまちがっているという、ぼくの当初の考えに立ち戻ってしまう。

さあ、みんなで、コンクリート打ちっ放しの住宅は誰に著作権があるか考えてみよう。

さりげなく佇む安藤忠雄作品。今見ても「普通のデザイナーズハウスやな」以上の感想は持たない。


建築の著作権は、べつに空想でもなんでもない。
現に、著作権の対象範囲は「デザインそのもの」にも手をひろげつつあるからだ。

オリンピックのエンブレムの話をみなさんはご存知だろう!
そして、新国立競技場の話を!

あんなバカバカしい話があるものか。
だって、世界中のほとんどすべての国立競技場がパクリなのだから。
そして誰一人、それが何からのパクリなのかは明確に答えられない。
エンブレムだって、この世にいったい、パクリではないエンブレムなどあるというのだろうか?

2005年には、グラウンド・ゼロのタワー設計にパクリ疑惑が浮上して、実際に裁判になった。
ミュケイジー判事はそれがパクリで、不適切な盗用だと判断している。
しかし彼はこうも言っているのだ。

普通の観察者は、この二つのタワーが実質的に同じであると気づかないかもしれず、むしろその可能性が高い。(マイケル・ミュケイジー)

この人は何を言っているんだ。
誰も気付かんもんに、なぜ不適切な盗用だといえるのか。

ここで想像してもらえるだろうか。同じ法的論理が、たとえばバルセロナの黄金地区や、ローマとフィレンツェのルネサンス様式の建築物、あるいはドーリス様式の円柱や、さらに言えばそのほかの柱のデザインに適用されたらどうなるだろうか?(ボルドリン&レヴァイン)

著作権は文化芸術を果たして振興させることができるのか。

訴えられたことによって、さらなるパクリを助長されて、その結果、「大繁盛」したものもある。
われらがmp3がそうだ。
当時無名だった小企業、ダイアモンド・マルチメディア・システムズ社は、当時ほとんど知られていなかったmp3を再生できる機器を発売した。そしてアメリカレコード協会に訴えられるのだ。結果はレコード協会の負け。
このニュースがmp3を有名にした。



アメリカレコード協会は次に、ナップスターを訴えた。P2Pの普及を阻止するためだ。
そして今度はアメリカレコード協会が勝利し、ナップスターは倒産した。
しかし、1999年に500,000人しかいなかったナップスター利用者は倒産直前には38,000,000人になっていた。
そしていまでは、アメリカだけで4000万人以上がP2Pを利用してファイル共有をしている。P2Pが消えることはなかったのだ。

デイヴィッド・フィンチャーの「ソーシャル・ネットワーク」では、ナップスター倒産後のショーン・パーカーが、やや過剰なイカれたキャラで描かれている。

ウィニーはやや怪しい響きを帯びていても、同じP2Pに支えられているSkypeやLINEはいまでは普通に使われている。
レコード協会や多くのアーティストが訴えたなんていまでは信じられないくらいだ。
ありがとう、P2P。仕組みはわからないが、ありがとう!
ありがとう、ショーン・パーカー!



最後に、またしても引用。

だがここで重要なのは、次のような因果関係はアメリカでも、世界のどこでもまったく成立していないという事実だ。立法府が「X分野における発明に特許保護を拡大する」法案を通す。Xはいまだ経済活動が発展途上にある分野だ。法案通過から数ヶ月、数年、あるいは数十年後には、X分野において発明が急増し、Xはたちまち革新的な新興の好景気産業になるーーそんなことは、いつどこでも起こったためしがない。(ボルドリン&レヴァイン)

また次回から著作権の問題、とりわけ著作権期間延長に的を絞って考えたい。

2016/07/13

芸術格差を考える(第2回 : 隠れミッキーを見つけよう!)


17世紀の画家、レンブラントの自画像は、彼の代表作のひとつだ。
X線の調査によって、下書きの段階でどのように描かれていたかなど研究が進んでいるが、ひとつだけ、長年の間研究者らによって解釈が異なっている部分がある。


それは、レンブラントの背景に描かれて居る、二つの円
当時の天球儀や地球儀に描かれているものとの類似から、現世の象徴とする考えや、絵画の祖ジョットと関連して、技巧的な啓示やアイロニーとする説、アレクサンドロス王に従えていた画家アペレス説など、様々な議論を呼んでいる。

しかし最近になって、新たな説を提唱する者が現れた。
福田美蘭という画家だ。
彼女は日本のエッシャーと称されるトリックアートの巨匠、福田繁雄の娘だ。
彼女は従来の様々な説を否定して、レンブラント研究に新たな解釈を提案した。

福田美蘭『レンブラントーパレットを持った自画像』

それがこちらだ。
17世紀の画家レンブラントの作品に藤子・F・不二雄先生が影響を与えていることに、今まで誰も気がつかなかったのだ。
福田美蘭は、他にも絵画作品に対して新たな解釈を持ち込んで、研究者たちを驚かせている。

たとえば、安井曾太郎の『孫』。


これは安井曾太郎が自身の孫を描いたものだ。研究者は当然、この少女が、一体どういう見た目だったのかということを調査する。顔の作りや肌の質感は彼の絵画的手法や哲学を表したものであって、実際の少女とはずいぶん異なっていたにちがいない、というのが大方の見解だった。



しかし福田美蘭の解釈は違った。彼女は、安井曾太郎の描く孫が、きわめて写実的に描かれてあるのであって、この少女はもともとバリキモい見た目だった、というのだ。
福田美蘭のこの作品は、1989年の安井曾太郎賞を最年少で受賞しているので、本家から認められた解釈だ、ということになる。

ぼくが福田美蘭の作品を初めて見たのは小学生のときだった。広島県立美術館だった。
モナリザ展というようなタイトルの展覧会で、古今東西さまざまな画家が描いた、モナリザに関する絵画が紹介されていた。有名なマルセル・デュシャンのモロパクリ作品もあったし、一見するとモナリザにはみえないが影響を受けているといったレベルのものまで様々だった。この中で、美蘭はモナリザさんが、モデルとしてポーズを決める休憩中にベンチに横になっている作品を描いていた。
数ある作品の中で、小学生のぼくが買ったポストカードは、デュシャンと、福田美蘭のものだけだった。



これらの作品を見てもわかるとおり、彼女の作品はほとんど著作権的に大丈夫かよくわからないものばかりだ。日本はアメリカと違ってフェアユースのような概念がないから、パロディ作品だって厳密には違法なのだ。

そして彼女は、ある時、自分の作品が著作権法上の都合で、肝心な部分が白抜きになって出版せざるを得ないということを知り、「なぜ好きなものを自由に描けないのか」と疑問に思うようになった。
そして、彼女はおもいっきし著作権に勝負する形で作品を発表した。




さて、著作権について考える2回目のブログだけど、自分の思い入れのあるものを少し書きすぎた。
しかし、このブログは「世界を変えたい」などという維新志士的なとんでもないことをいうわけではなくて、ぼくが自分のことについて考えて、学びながら記事を書いていく中で「ああ、自分はこういう立場だったんだな」と認識するためにあるので、読者の方には完全に無意味に付き合って頂く形となる。あわよくば読者にとっても、日本や世界の著作権について良い形で考えを深めるきっかけになると良いのだけど。

なのでもう少し自分の話を。
確か中学生くらいのときに服部真澄の『龍の契り』を読んでびっくり仰天した。
それから何年か経って同じ著者の『ディールメイカー』を読んだ。
『龍の契り』は直木賞候補になってて、中国の香港返還にあたって中国とイギリスで交わされていた不可解な密約がテーマ。半沢直樹など比べ物にならないほどスケールのでかい社会派ミステリーという感じ。小説は返還前に書かれたんだけど(1995年刊行)、ぼくが読んだのは(当然、年齢的にも)返還後だったし、幼いぼくは小説の中に出てくることはすべて真実だと信じきっていた。
そして『ディールメイカー』は、企業間の著作権を巡る争いの物語で、ディズニーやマイクロソフトといった超有名企業が、一応別の名前で出てくる。服部真澄は今でこそFacebook左翼たちの間では当たり前になっているような陰謀論10年くらい先取りして書いていて、2003年にはGMOをテーマに『エル・ドラド』を書いている。(おもしろいことに上の3冊とも現在TPPの問題で語られることをしっかりおさえている)
ミッキーマウス法をはじめとするディズニーの悪質な行動や、周辺の愉快な陰謀論(シンデレラ城にウォルトの遺体が冷凍保存されているとか)を、ぼくは服部真澄で知った。
しかし話の内容はもうすっかり忘れてしまった。そして手元になぜか『ディールメイカー』だけがない。

ミッキーマウス法は日本でも結構知られている。
著作権を皮肉ったような作品で度々ミッキーが登場するし、なんとなくディズニーを勝手に使うのはやばいらしい、という認識がある。
ソニー・ボノ著作権延長法は、著作権の期間が作者の死後50年から70年までに引き伸ばされたもの。ミッキーマウスの著作権切れに間に合わせるようなタイミングでディズニーがロビー活動を行っていたので、ミッキーマウス法と呼ばれるようになった。ソニー・ボノは誰も知らないからね。
ミッキーの権利がなくなりそうになる度に著作権が延長されるので、ウォールストリートジャーナルは、著作権は永久になくならないとまで言っている。
ところで今年(2016)にはクマのプーさんの(物語の)著作権がきれるといわれている。
ディズニーは、プーさんの著作権使用料だけで、年間1,000億円稼いでいるらしい。これはJASRACが集めているすべての楽曲の使用料と同額だというから驚きだ。プーさんだけでですよ!
アメリカという国は、著作権使用料が他のどんな産業よりも大きいのだ(年間9兆円以上だとか)。
ミッキーマウス法は、憲法違反ということが大きな争点となったが、それは前回引用した合衆国憲法に「一定の期間」と書いてあるからだ。
個人的には50年も70年も変わらないのだから、49日の法要の後、大胆にパブリックドメインにすべきだと思うのだけれど。


なぜ政府は企業のロビー活動に参っちゃうのか。なぜ政治家は金で買われちゃうのか。
こういうことを、「なんて悪い政治家だ!」とか、「頭の悪い国賊が」とかいうのは簡単だが、すくなくとも良い大学を出ている官僚や政治家は、とても頭が悪いようには思えない。それに、正義だって全くないわけじゃないだろう。クルーグマンはこう言っている。

露骨な買収もたくさんあるーー選挙活動への献金や個人的な袖の下で、単純に買収される政治家だ。でも多くの、ひょっとしてほとんどの場合には、汚職はもっとソフトなもので、はっきり指摘するのが難しい。政治家たちは、ある信念や立場を取ることで報酬が与えられ、おかげで彼らはそうした信念や立場を一層しっかり保持するようになり、やがて自分では買収されたという意識はまったくなくなる。でも外から見れば、彼らが「本当に」信じていることと、お金をもらって信じるようになったこととは、なかなか区別がつかない。


以前神田で働いていたことがあるのだが、千代田区は禁煙先進区だ。いち早く路上喫煙者に罰金を払わせたし、今は少しゆるくなったみたいだけど、それでも千代田区は駅前だけでなく、ほとんど全面的に禁煙となっている。秋葉原駅前ももちろん完全禁煙だ。駅前(何口かな)に広場みたいなのがあって、エクセルシオール・カフェがある。中に入って「タバコ吸えますか」ときくと、店員が「全面禁煙です」とこたえる。それをきいてもう用無し、踵をかえすのだが、店員が「外では吸えます」というのだ。
「外って禁煙じゃないんですか?」ときくと、
「大丈夫です」といって、小さな黒い灰皿を手渡してきた。
ぼくは紙コップに入ったコーヒーと灰皿を持ち、外にでる。
別にテラスのようなものがあるわけではなく、店を出るとそのまま駅前広場だ。完全禁煙の。
それで灰皿を持ってタバコを吸っていると、その辺にいるサラリーマンなんかが、ぼくを見て「あ、ここ吸って良いんだ」と勘違いして吸い始める。みるみるうちに数人が集まり、喫煙所のようになってします。
すると、いかにも「千代田区から正式に認可された清掃員です」というようなゼッケンっぽい蛍光色の服をきた老人が近寄ってきて、「ここは禁煙です」というわけだ。それでサラリーマンたちは半ば怒りながら無言で去って行く。
しかし、ぼくにだけは何も言わないのだ。
なぜだろう。
ぼくだけは、エクセルシオールカフェからもらった灰皿を持っているからだ。

しかし、ぼくがタバコを吸っている場所は、明らかにエクセルシオールのものじゃない。地面の模様をみれば一目瞭然だが、どう見たってこれは駅前広場なのだ。おそらくは千代田区のものだろう。

そのときにぼくは、300円の賄賂でタバコが吸えるなんて、とても面白いな、と思ったのだ。
しかもエクセルシオールというただの企業に払った300円が、千代田区から認可されるなんて、面白い。

家を借りる時になぜだか払わされる礼金のように、世の中には適当なお金を包むことによって万事解決したりすることがある。


著作権が、もともと賄賂だったということは、意外な事実だ。
著作権は、著作者を「保護する」か「文化芸術を振興させる」かのいずれかの目的から始まったものだと思っていたからだ。
最初は、著作権は「検閲」の手段として出てきたものだった。

著作権が生まれたのは、模倣者から作家の利益を守るためではなく、創造性を助長するためでもない。むしろ政府検閲の道具として生まれたのだ。王室や宗教勢力は、印刷していいものといけないものを決める権利を勝手に自分のものにした。したがって「コピーする権利」は権力者が、印刷して読むのにふさわしいと考えたものを市民に印刷して読ませる利権だった。(中略)著作権の販売は特許の販売とまったく同じで、王室に賄賂を贈る見返りに独占力を与えるということだ。(ボルドリン&レヴァイン)

1710年までに、イギリスでアン法が導入された。
これは今までの検閲をやめて、独占的な出版権を14年間与えるというものだった。最初の、著作権法といっていい。
フランス革命の頃には、王室が独占していた芸術に対する反発として、著作権の考え方が普及した。面白いのは、独占に反発する形で、ということ。
そして1886年のベルヌ条約。
1902年には著作権法は刑法の対象になり、同年には海賊王ジェームズ・ウィレットが有罪になっている。海賊というのはもちろん海賊版という意味ね。

知的独占の最大の支持者であるディズニーは、パブリックドメインを大いに活用している。「白雪姫」「眠れる森の美女」「ピノキオ」「小さなハイアワサ」などのすばらしいディズニー作品は、もちろんどれもパブリックドメインから取られている。独占重視の立場を取るディズニーは、きわめて当然ながら、パブリックドメインに何一つお返しなどしたがらない。(ボルドリン&レヴァイン)

著作権が「独占」だというのなら、独占状態にない世界、自由競争の世界、はどういうものなのか。
これを考えるのは難しい。だって、そんな世界、今では考えられないから。
昔のアーティストを考えてみよう。
創世記の作家たち。チャールズ・ディケンズは本国イギリスだけでなく、アメリカでも大人気だった。当時は海外に本を勝手に出版することができたので、ディケンズの本はアメリカで安い価格で大量に出回っていた。
そこでディケンズはアメリカの出版社と独自に契約し、前払い、つまりギャランティを受け取って、原稿を売るようになった。それでディケンズは本国よりもアメリカでの方が(何倍も)良い収入を得るようになったのだ。ちなみに当時のアメリカとイギリスは同程度の市場規模だったらしい。
実際市場では、『クリスマスキャロル』はイギリスで2ドル50セントで売られていたが、アメリカでは6セントで売られていた。

これは過去の話であって、現在はもっとややこしい。なぜなら、コンピュータとインターネットのおかげで、複製は誰でも簡単に高速で完璧に何度でも無料でできるからだ。 
こんな時代に、ディケンズのようにうまくいくのだろうか。

著作権のない文章を考えるのは難しい。なぜなら、創造性なんかないと思われるただのニュース記事でさえ、著作権があるとする風潮があるからだ。そこで『〈反〉知的独占』の著者は、例外的に絶対に著作権がないと言い切れる文章として「アメリカ政府が作成した文章」を挙げている。

The 9/11 Commission Report

2004年に作成された『9/11委員会報告書』は、政府のウェブサイトから無料でダウンロードできる。もちろん著作権フリーなので、ダウンロードして勝手に売ったりしても何の問題もない。事実、多くの出版社が勝手に売った。
しかし、ノートン社という出版社だけは、政府から正式に依頼されてこれを出版したのだ。印刷や輸送の費用は出版社が負担し、さらに9/11に被害者の遺族に一部ずつ無料で提供するという契約。さらに10ドルというかなり安い値段で。
そのかわり、この本には「政府公認」という言葉を使用することが許された。たったそれだけ。

誰でも無料でダウンロードできる本。誰でも勝手に売っていい本。
これを高い費用をかけて出版すると、どうなるのか。
結果は、最低でも110万部売り上げたのだ。利益は100万ドルといわれている。そして政府はギャランティとして(寄付という名目で)60万ドル受け取った。
ニューヨークタイムズも、これに追加記事や分析を載せて豪華に売り出したが、政府公認のノートン社には勝てなかった。

ようは、みんな「作者から買いたい」のだ。

プロでも見分けが困難な本物のダイヤモンドを買いたいと思うのはそれが美しいからではなく、「本物だから」だ。
ちなみにこのノンフィクション文学作品は、アメリカ全米図書賞のファイナルにまで残った。文学が好きなら、この賞がアメリカでかなりの権威があることはご存知だろう。


ハリウッド映画は、知的独占から逃れるために誕生した。
エジソンのフィルム発明を筆頭に、映画の機材のライセンスを持っている団体が映画会社に使用料を求めてきたのだ。そしてニューヨークの映画会社は、カリフォルニアまで逃げたのだ。

カリフォルニアはエジソンの手がおよばないくらい離れていたため、フォックスやパラマウントといった映画制作会社は、カリフォルニアへ移って法を恐れることなくエジソンの発明に対して海賊行為をはたらいた。ハリウッドはたちまり成長し、連邦法はやがて西部にも及ぶようになった。(中略)充分な数の連邦保安官が登場する頃には、特許期間は終了していた。新たな産業が生まれたのは、エジソンの創造的財産を侵害したおかげでもある。(ラリー・レッシング)

ご存知のようにエジソンは蓄音機の特許も取得しているので、音楽業界にも多大な影響を与えた。しかし彼は音楽著作権には寛容であったらしい。そりゃ、音楽が自由に売れたほうが、彼の蓄音機が売れるのだから。


もともと著作権としては微妙なラインにある「ニュース」は、独占の波から外れつつある。ネットニュースは大概無料だし、ネットでどんどんシェアすることをむしろ推奨している。
ニュース記事のリツイート、フェイスブックのいいね、ブログでのシェアをぼくたちは日常的にしているけど、ネットニュースを作る側も大多数がインターネットでニュースを仕入れている。そのままコピペして、口調やキャッチなんかを変えて、それで出来上がり。

スーダンからのレポートにはじかに現地へ行く莫大なコストが必要だが、同じレポートをコピーするのは、この上なく安上がりだ。では、高給取りの報道記者たちは、なぜわざわざスーダンかにニュースを仕入れに行くのだろうか?(ボルドリン&レヴァイン)

そもそも、インターネットが存在する前から、報道とはそういうものだった。自由競争だったのだ。
舛添都知事のスキャンダルをいち早く仕入れて取材に行ったところで、舛添さんの行動を独占できるわけではない。それに、報道は大前提として事実を書くものなので、創作性というのはきわめて薄いから。

科学者の武田邦彦さんなんかは、ニュースには著作権はない、と断言しているし、ぼくもその通りだと思う。
けどそれは、「そうであるべき」という意味で、実際の判例なんかはぼくは知らない。

では武田邦彦のいうように、ニュースが「完全に」著作権フリーだとしたら、どうなるだろう。
『〈反〉知的独占』の中で著者はそれを幻視する。
ニュースは客を差別化するようになる。いち早くニュースを手に入れたい客にだけ、高額で売る。それ以外には安く。それこそ大手のニューヨークタイムズのようなところが高額で買うだろう。
そしてこのシステムは、現在すでに金融情報などのニュース市場では同じような形で行われている。

そこでは、とてもせっかちな顧客たちが相当の料金を払ってブルームバーグやムーディーズやロイターから速報や株価情報を買い付けている。ニュースや株価はそこからウェブサイト、ケーブルテレビ、全国紙……と伝わっていって、だいたい1日後にはニューヨーク証券取引所の取引値が世界中のほとんどの新聞で公表される。実際、夜寝る前にヤフーやロイターやCNNのサイトをクリックしてみるといい。何が得られるか? お好きな新聞の翌日の朝刊に掲載される記事のおもな中身だ。(ボルドリン&レヴァイン)

著作権は、創造のインセンティブが根拠のひとつとなっている。
著作権で保護されていて、お金を稼ぐことができる、という前提があるからこそ、作品がつくられていくんだ、と。
しかし、独占された市場に発展はない。
現代、最も発展した分野のひとつであろう、コンピュータとインターネットの世界は、すべて知的独占なしに発展した。
もともとソフトウェアに特許がつくなんて誰も考えなかったからだ。ソフトウェアにはじめて特許がついたのは1981年だが、主要なイノベーションはすべてそれ以前にすでに起きている。どれも、ひとつのこらず、特許の保護なんかなかった。
さらに、ぼくたちは普段意識していないけど、現在普通にインターネットをするときに、オープンソースは不可避だ。
オープンソース。特許などいかなる保護もされていない、完全にフリーなソース。


今日ウェブサイトを見たのなら、そのときほぼまちがいなくオープンソースソフトを使っている。本人は自分が「ウィンドウズユーザ」か「マッキントッシュユーザ」だと思い込んでいるだろうが、実際は「リナックスユーザ」でもある。グーグルを利用するたび、検索要求はリーナス・トーヴァルが考案したオープンソースソフトウェアで処理されているのだ。(ボルドリン&レヴァイン)


データベースはMysql、スクリプト言語はPHPと、オープンソースが主要な座を奪っている。ウェブサーバソフトの実に70パーセント近くがオープンソース・ウェブサーバのApacheがシェアされている。

オープンソースの独占、、、、矛盾した文章にみえるが、実際そうなのだ。

こうしたオープンソースソフトウェアは、もちろん、なんの特許もないので、勝手に売ったりしたって良い。合法的に海賊版を売ることができる。
しかし結果的に、海賊版は売り上げが悪く、開発元でしかみな買わないのだ。
ソフトウェアの場合は、さっきぼくがいったような「結局、作者のものを買いたい」という心理以外に、開発元ゆえのサポートやアップデートなど、実利上、たとえ値段が張っても正式なものを買ったほうが良いと判断されるのだ。
スマホでツイッターの閲覧投稿するためのアプリ。さまざまなものがあるが、結局信頼できるのは、「あの鳥のマーク」が入ったやつだろう。


今日は著作権がない世界を想像しながら、競争社会と著作権の独占社会、どっちが良いのか考えてみた。

冒頭から書いているように、著作権の話をするときに、ディズニーは不可避だ。
福田美蘭だけでなく、さまざまなアーティストがその作品に隠れミッキーを描いている。
ディズニーランドにいくと隠れミッキーがいたるところにある(らしい)が、
実際問題、現実社会で隠れミッキーを探し出したほうが良い成果が出るだろう。


少し前に、バンクシーが個展をやったのはすごく話題になった。
Dismalandという、テーマパークをそのまま再現したような内容だ。
ネットニュースでもすごく出回っていたので、「ああまたバンクシーね」と思いながらも、内心めちゃくちゃ行きたかった。








従業員はやる気がなく、接客する態度ではない。園内には注射器の残がいが落ちている。入り口には「ウォルト・ディズニー・カンパニーの法定代理人の入場禁止」が定められている。
もちろん、広島平和記念資料館なんかのほうがよっぽど衝撃的なアート体験ができるかもしれないけど、
それにしてもこの絵面はやっぱり一流のアーティストなんだな、って思うね。
世界中にはほかにもたくさんディズニーのパロディや模倣がたくさんある。

みなさんの好きな隠れディズニー、隠れミッキーはありますか?





2016/07/10

芸術格差を考える(第1回 : ヘンリー・ダーガーのインセンティブ)

1回 : ヘンリー・ダーガーのインセンティブ


ダーガー『非現実の王国で』押絵


音楽を作っていると、音楽仲間が自然と増えていくものだ。
もちろん、
ヘンリー・ダーガーのように、童貞のまま誰にも知られることなく創作し続けていたり、
もしくは《シュガーマン》ことシクスト・ロドリゲスのように、自分の曲が海外でローリング・ストーンズよりも人気だということを知らずに音楽をやめて肉体労働をしていたり、
もっとベタなこというと、ゴッホのように、耳をそぎ落として送りつけたり、
そういうことをしていると音楽仲間はあまり増えないだろうけど。

ぼくは普段はまともな音楽活動をしているので、少ないながらも音楽仲間と呼べる人が何人かいる。

その友人のひとりが最近、自分が作った楽曲が動画投稿サイトに勝手にアップロードされていることに対して怒り、削除要請をした。
そのあと彼は、無許可アップロード者に対して宣戦布告ともとれる発言をツイッターに投稿した。

ぼくはツイッターで彼の発言を見るや否や、すぐに彼に電話して、議論をふっかけた。

その友人は大人な感じの人なので、ぼくの喧嘩腰の電話に対しても、大人な対応をしてくれた。
「がくの言いたいことはよくわかるよ」
となんども言われ、みるみるうちにぼくの闘争本能は萎えていき、最終的には、まあえっか、という感じで議論はおわった。

なぜぼくは彼に電話したのだろう?
それは、彼自身が、無許可アップロードの恩恵に預かりながら音楽家として成長してきたという過程を知っているからだった。言い換えると、著作権を侵害した数々のものを手にしてそれを大いに利用し、大いに賛同し、またぼくのような友人に大いに勧めてきた、という彼の音楽的な経緯を知っているからだ。
ビートたけしさんは、浅草で飲むときは、酔っ払って店員やその辺の工事現場のおっさんや知らない客たちに大金をバラまくという話をきいたことがある。たけしさんは「浅草には世話になったから、恩返しをしている」というそうだ。
こんな美談はどうでも良いとしても、その音楽仲間の行為は、自分を育ててくれた親に対する裏切り、というふうに思えたのだった。

いや、彼の批判はこれくらいにしておこう。
彼とは今も仲良いし、すごくお世話になりっぱなしだ。
無許可アップロードに関しても、彼なりの様々な理由があって考え抜いた結論だったにちがいない。
いずれにしても、著作者本人が、どういう行動に走ろうと、ぼくのような他人が横槍をいれるのはまちがっている。

そう、横槍はまちがっている。本人が考えてきめることなのだから。
秋元康に「ちいとぐらい印税わけてくれぇい」というのは簡単だが、僻み以外の何でもない。

だから、ぼくは、ぼく自身のことを考えよう、という気になったのだ。

ちょうどタイミングよく、ぼくはmacaroomというユニットのCDを出すことになっていたので、手始めにそのコピーライト表記(©)について考えた。
そして他にもだらだらと考えて、それをまとめてブログに書いたりもした。(著作権について、宣言

ただし、十分に言いたいことがかけなかったし、そもそも無教養なただのアーティストにとっては、著作権は荷が重すぎるテーマだと思ったのだ。
そもそもぼくは、経済音痴だ。
どのくらい経済音痴かというと、
池上彰がサブプライムローンの問題について解説している番組で、
無教養な視聴者の観点から発言するためだけに呼ばれたような芸人やアイドルが、めきめき話を理解していって、口々に
「こんなにわかりやすい解説ははじめてです」とか、
「そんなリスクのある証券をなぜ買うんですか?」といったまともな発言をしており、
それを見ている僕だけが話についていけず「????」となっていた、
そのくらい経済音痴なのだ。
わかりやすさでは定評の池上彰さんの解説ですら、ぼくを救うことはできなかったのだ。

いや、自分でもやばいと思い、グーグルで「GDP 意味」や、「TPP 弊害」というキーワードで検索したり、
やや偏った経済学者の本を読んだり、「ひろゆきを論破した上念司」のようなふざけたタイトルの経済対談動画などを閲覧し、なんとか経済童貞を卒業しようと画策はしているつもりなのだ。

しかし、そう簡単に経済の悟りを得られるわけではない。
「政治は誰でもわかる、経済は誰にもわからん」というぼくの父親のとても深い言葉を、なんとなくおぼえている。ちなみに父は日大法学部でトップ成績のクラスに所属していた。

そして、ぼくはだいたいが、ふざける癖がある。
著作権の保護期間は「作者の死後50年」だがこれは死者に対して払われる対価なので、法要に合わせて50年ではなく「四十九日」が適切だとか、アーティスト格差をなくすために累進課税のように「売れていないアーティストほど著作権料をたくさんもらえるシステム」にすべきだとか、ふざけて突飛な発想に走る傾向がある。

そこで、ここでは、ミケーレ・ボルドリンとデヴィッド・K・レヴァインというワシントン大学の二人の経済学者の著作『〈反〉知的独占ーー特許と著作権の経済学』を参照しながら、著作権の中でも特に「お金」に関する部分について考えていきたい。
そして同書の構成と同じようにおそらく全10章でおわらせたい。ただし、ここに書くのはぼく自身のこと、つまりぼくが感じたり接したりする小規模なことを中心に書くことになるだろうと思う。
ちなみに、ぼくはこの本をまだ1章しか読んでおらず、章を読むたびにブログを更新していくつもりなので、果たしてこの本が良書なのかどうか、まったくわからない。

この本は、経済について書かれた本だ。だから、ぼくが最も苦手とする部分を補填してくれるはずだ。
もちろんこの著者の名前なんてきいたこともなかったので、まったく信用はしていない。

ぼくは『もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
という本を読んだことはないのだが、「もしもエレクトロニカのアーティストがボルドリンとレヴァインの『〈反〉知的独占』を読んだら」という感じになるのだろうか。

書きながら良い結論に辿り着ければ良いのだけど、一応のところ、現段階でもぼくの中での結論のようなものもあるにはある。

たとえばよく言うように、「著作権のあり方は、現代の新しいアートの形態やテクノロジーに必ずしもそぐわないので、適切な形に変化させるべき」とか、「非親告罪などもってのほか」とか、
「アーティストはどうやって稼ぐのか」とか、そういうことはあまり考えてない。

ぼくとしては、
著作権がそもそも「全く」不必要で、完全に撤廃するべきと思っているし、
アーティストが食えるか食えないかなんかどうでも良いし、
それで食えないんだとしたら滅んだら良いと思っている。
そして、本当のことをいうと、絶対に滅ぶことはないし、絶対にアーティストは著作権がなくても食っていけるとおもっている。
ともかく、食えるか食えないかということはあまり考えていない。

しかし、『〈反〉知的独占』は経済学者による本なので、この辺のお金の話が細かく書かれてあるようだ。

話は、知的財産の競争と独占の話から。
蒸気機関車で有名な発明家、ジェームズ・ワットのお話。
Wikipediaによるとワットは、
トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物である。(Wikipedia
ここでは著作権ではなく、知的財産に関わるもうひとつの柱、特許についてのお話。
歴史的には、ジェームズ・ワットは産業革命の口火を切った英雄的な発明者として扱われることが多い。だが事実を見ると別の解釈が出てくる。ワットは一八世紀後半に、蒸気機関の改良に関わった利口な発明家の一人でしかない、というのが新解釈だ。他者より一歩抜きん出た後、ワットはすぐれたイノベーションではなく、法制度の利用の巧みさで先頭に立ち続けた。(ボルドリン&レヴァイン)

ワットは特許期間を延長して、競争を抑制した。なので、ワットの特許期間中には蒸気機関は発展せずに、むしろ特許期間が終了してから発展した、というのだ。
たとえば、ワットの特許期間が終わると、出力の増加は年に750馬力だったものが4000馬力になり、
ほとんど変わらなかった燃料効率は5倍になった。
生産性とか効率とかだけじゃない。蒸気船や紡績機などに普及していくのも、特許終了後だ。

競争を抑制して特権を得ようとする浪費的な取り組みを、経済学ではレントシーキングという。歴史と常識が示すように、これは合法的独占の毒入り果実だ。ワットが試みた一七六九年の特許の期間延長は、レントシーキングのきわめて悪質な例であるーーすでに特許のもととなる発明はおわっていたのだから、特許期間を延長してもそれを刺激することにはならず、明らかに不必要だった。(ボルドリン&レヴァイン)


さて、これからどんな話を書いていくことになるのか。
たぶん、三つのことがメインになると思う、

一つ目は、著作権のない世界はどういうものか、ということ。
著作権は、創造行為を刺戟する、つまりインセンティブとなる、ということだけど、実際、著作権がないとどうなるのか? まあつまり、著作権のない世界で作品を作っているひとは沢山いる(最初に挙げた三人は偶然にも著作権の恩恵に預かっていない)し、著作権によらずお金を稼いできた例はいくらでもある。

二つ目は、著作権があることに生じるお金の話。
たとえば、著作権のせいで、福島第一原発爆発の映像を自由に流すことができず、テレビ局がお金を払って使用許可を得なければならなかった。著作権によって生じる社会的なコスト。
著作権があることによってもたらされる便益は、こうした社会的コストを上回るのかどうか。
たとえば原発の話でいうと、そもそも著作権で保護されていなかったら、誰もその映像を撮影すらする気にならなかったかもしれない。だから、著作権による恩恵と、コストと、どっちが上? という話。

三つ目は、著作権のおかげで得るお金と、著作権があることによって生じる創作のコスト、どっちが上? というお話。
たとえば、ぼくはビートルズの曲を使ってリミックスCDを出せばお金を稼げるかもしれないけど、ビートルズ側にも大金を払わなければならない。そこで、果たして著作権はそういった創造行為を刺戟するために有効なのだろうか?
よくいうように、「著作権があることによって、創造行為が刺激される」とか、「著作権がなかったら誰も創作しようとは思わない」とか、そういうことは本当なのか。

著作権があることによって、それが刺激となってアートが発展していくらしい。
たとえば小説。
著作権の恩恵を全く受けようとしなかったアーティストとして、最も有名なのは誰か。
いろいろいる。しかし著作権の完全に成立している現代で、有名かつ全くその恩恵を受けることなかったアーティストのひとりがヘンリー・ダーガーだろう。
しかし彼の作品は、世界で最も長い長編小説だといわれている。
創造の熱量を単純に分量で測るのはちょっと極端だけども、それにしても、世界で最も長い小説が、著作権を念頭に書かれていないのはどうしたものか。

ところで、ぼくよりもはるか以前に、もっと過激に、著作権に反発したアーティストがいる。
KLFというイギリスの音楽グループだ。
彼らは数々の逸話がある。とても書ききれないので、一部ウィキペディアからパクると、
アルバム『1987(What the Fuck Is Going On?)』収録曲「The Queen and I」はサンプリングやカヴァーなどを許可しないことで知られるアバの「ダンシングクイーン」を無許可でサンプリングしていた。そのためアバのメンバーからクレームがつき、著作権保護団体MCPSから製造・販売中止の勧告を受け、アルバムの回収もしくは処分とマスターテープなどの引き渡しが言い渡される。そのため直接交渉しようとジミーの愛車(JAMsモービル、後述)でスウェーデンまでアバに会いに行ったが会うことは出来ず、街にいた娼婦たちにアルバムをプレゼントしたり記念撮影したりした後、アバの事務所ポラー・ミュージックの前で「The Queen and I」を大音量で流す。その後、JAMsモービルに多く積まれていたレコード『1987』を途中で突っ込んだ畑で500枚ぐらい燃やしていると、それに気付いた農家が銃を発砲したため彼らはそのまま逃げた。さらにその後、帰りのフェリーから250枚以上のレコードを投げ捨てた。
その後"1987"の著作権に引っかかる部分を無音処理した『1987 (The JAMS 45 Edits)』を出す。しかし、処理された部分が多いためほとんど音がしないアルバムとなっている。
翌年リリースされたセカンドアルバム『Who Killed The JAMs』のジャケットには、このアルバムを燃やしている所の写真が使われている。
イギリスのブリッツ・アワーズで、受賞後のパーティで演奏中にビルが客席に向かって空砲を撃ち、さらに催されたホテルの外に「私はあなたのために死にました、どうぞ召し上がれ」と書いた紙を貼り付けた羊の死体を放置し、会場を去る。その言葉通り同年513日、音楽雑誌NMEへ引退広告を掲載してKLFは解散し、The JAMsThe Timelords名義のものも含め全てのレコードを廃盤とした。(Wikipedia・一部改変)

こうしたすばらしい先輩たちもいるってこと。KLFの『Chill Out』はとってもすばらしいアルバムなのでオススメ。

Who Killed The JAMs

さて、著作権の話をするときに、ぼくはよく秋元康の名前をだす。
勝手に名前を出される秋元さんは迷惑だろうけど、それだけ稼いでいるんだから少しくらい良いじゃない。
別にディズニーでも良いし、なんだって良い。
JASRACは、その年に最も印税を稼ぎまくったアーティストに、「JASRAC賞」をあたえている。
全国の飲食店やカラオケや地方ラジオから使用料をたらふく徴収しまくることに貢献したアーティストを讃えている。
秋元康は、著作権料分配楽曲で2013年に1位、2位、3位を独占している。もちろん金賞受賞。
ちなみに2016年はEXILEの『R.Y.U.S.E.I.』が金賞、そして秋元康は2位。2015年は秋元康が金賞。2014年は2位。2012年は1位、2位、4位に入り、もちろん金賞。

秋元康は2013年に安倍政権が音頭を取る『クールジャパン推進会議』の民間議員に抜擢され、
翌年には東京五輪の五輪組織委員会のメンバーにも撰ばれている。


そして、こうして稼ぎまくった人の名前を、なぜぼくは具体的に出さねばならんのか。
それは、著作権は一部の人間を裕福にするためには存在していないからだ。

たとえば、合衆国憲法には、
科学および有用な技芸の振興のため、作者や発明者に対して、一定の期間その創作物や発見に対する排他的権利を保障」させている。

科学の発展と有用な技芸の振興は、貧困のような深刻な経済問題から、退屈といった些末な個人の問題に至るまでを解消する。経済的福祉に欠かせない材料である。社会的見地や、創始者の立場から見ると、特許や著作権の目的は大勢を犠牲に少数の人間を裕福にすることではない。(ボルドリン&レヴァイン)

生活保護を受給される生活を、「最低限度の生活」ということがあるけど、これは不正解じゃないにしても、ちょっと不正確。
憲法にはしっかりと「文化的な生活」と書かれてある。文化的な生活ってなんだろう。
たまには美術館にいったり、ライブにいったり、スマホを機種変更したり、本を読んだり、そういうこと。
日本の憲法には上の合衆国憲法のようなことは見当たらない、というか文化芸術に関することは書かれていないけど、
著作権法では「文化の発展に寄与することを目的とする」とあるし、文化芸術振興基本法は以下のような基本理念を打ち出している。
1 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術活動を行う者の創造性が十分に尊重されるとともに、その地位の向上が図られ、その能力が十分に発揮されるよう考慮されなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、我が国において、文化芸術活動が活発に行われるような環境を醸成することを旨として文化芸術の発展が図られ、ひいては世界の文化芸術の発展に資するものであるよう考慮されなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、多様な文化芸術の保護及び発展が図られなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、地域の人々により主体的に文化芸術活動が行われるよう配慮するとともに、各地域の歴史、風土等を反映した特色ある文化芸術の発展が図られなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、我が国の文化芸術が広く世界へ発信されるよう、文化芸術に係る国際的な交流及び貢献の推進が図られなければならない。
 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない。(第二条)

そして第二十条では、
国は、文化芸術の振興の基盤をなす著作者の権利及びこれに隣接する権利について、これらに関する国際的動向を踏まえつつ、これらの保護及び公正な利用を図るため、これらに関し、制度の整備、調査研究、普及啓発その他の必要な施策を講ずるものとする。(第二十条)



さて、文化芸術の振興のために、著作権はどのように機能しているか、もしくはどのような弊害があるのか、著作権がないと文化芸術は発展しないのか。

これから少しずつ考えていくことができたらと思う。