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2016/07/13

芸術格差を考える(第2回 : 隠れミッキーを見つけよう!)


17世紀の画家、レンブラントの自画像は、彼の代表作のひとつだ。
X線の調査によって、下書きの段階でどのように描かれていたかなど研究が進んでいるが、ひとつだけ、長年の間研究者らによって解釈が異なっている部分がある。


それは、レンブラントの背景に描かれて居る、二つの円
当時の天球儀や地球儀に描かれているものとの類似から、現世の象徴とする考えや、絵画の祖ジョットと関連して、技巧的な啓示やアイロニーとする説、アレクサンドロス王に従えていた画家アペレス説など、様々な議論を呼んでいる。

しかし最近になって、新たな説を提唱する者が現れた。
福田美蘭という画家だ。
彼女は日本のエッシャーと称されるトリックアートの巨匠、福田繁雄の娘だ。
彼女は従来の様々な説を否定して、レンブラント研究に新たな解釈を提案した。

福田美蘭『レンブラントーパレットを持った自画像』

それがこちらだ。
17世紀の画家レンブラントの作品に藤子・F・不二雄先生が影響を与えていることに、今まで誰も気がつかなかったのだ。
福田美蘭は、他にも絵画作品に対して新たな解釈を持ち込んで、研究者たちを驚かせている。

たとえば、安井曾太郎の『孫』。


これは安井曾太郎が自身の孫を描いたものだ。研究者は当然、この少女が、一体どういう見た目だったのかということを調査する。顔の作りや肌の質感は彼の絵画的手法や哲学を表したものであって、実際の少女とはずいぶん異なっていたにちがいない、というのが大方の見解だった。



しかし福田美蘭の解釈は違った。彼女は、安井曾太郎の描く孫が、きわめて写実的に描かれてあるのであって、この少女はもともとバリキモい見た目だった、というのだ。
福田美蘭のこの作品は、1989年の安井曾太郎賞を最年少で受賞しているので、本家から認められた解釈だ、ということになる。

ぼくが福田美蘭の作品を初めて見たのは小学生のときだった。広島県立美術館だった。
モナリザ展というようなタイトルの展覧会で、古今東西さまざまな画家が描いた、モナリザに関する絵画が紹介されていた。有名なマルセル・デュシャンのモロパクリ作品もあったし、一見するとモナリザにはみえないが影響を受けているといったレベルのものまで様々だった。この中で、美蘭はモナリザさんが、モデルとしてポーズを決める休憩中にベンチに横になっている作品を描いていた。
数ある作品の中で、小学生のぼくが買ったポストカードは、デュシャンと、福田美蘭のものだけだった。



これらの作品を見てもわかるとおり、彼女の作品はほとんど著作権的に大丈夫かよくわからないものばかりだ。日本はアメリカと違ってフェアユースのような概念がないから、パロディ作品だって厳密には違法なのだ。

そして彼女は、ある時、自分の作品が著作権法上の都合で、肝心な部分が白抜きになって出版せざるを得ないということを知り、「なぜ好きなものを自由に描けないのか」と疑問に思うようになった。
そして、彼女はおもいっきし著作権に勝負する形で作品を発表した。




さて、著作権について考える2回目のブログだけど、自分の思い入れのあるものを少し書きすぎた。
しかし、このブログは「世界を変えたい」などという維新志士的なとんでもないことをいうわけではなくて、ぼくが自分のことについて考えて、学びながら記事を書いていく中で「ああ、自分はこういう立場だったんだな」と認識するためにあるので、読者の方には完全に無意味に付き合って頂く形となる。あわよくば読者にとっても、日本や世界の著作権について良い形で考えを深めるきっかけになると良いのだけど。

なのでもう少し自分の話を。
確か中学生くらいのときに服部真澄の『龍の契り』を読んでびっくり仰天した。
それから何年か経って同じ著者の『ディールメイカー』を読んだ。
『龍の契り』は直木賞候補になってて、中国の香港返還にあたって中国とイギリスで交わされていた不可解な密約がテーマ。半沢直樹など比べ物にならないほどスケールのでかい社会派ミステリーという感じ。小説は返還前に書かれたんだけど(1995年刊行)、ぼくが読んだのは(当然、年齢的にも)返還後だったし、幼いぼくは小説の中に出てくることはすべて真実だと信じきっていた。
そして『ディールメイカー』は、企業間の著作権を巡る争いの物語で、ディズニーやマイクロソフトといった超有名企業が、一応別の名前で出てくる。服部真澄は今でこそFacebook左翼たちの間では当たり前になっているような陰謀論10年くらい先取りして書いていて、2003年にはGMOをテーマに『エル・ドラド』を書いている。(おもしろいことに上の3冊とも現在TPPの問題で語られることをしっかりおさえている)
ミッキーマウス法をはじめとするディズニーの悪質な行動や、周辺の愉快な陰謀論(シンデレラ城にウォルトの遺体が冷凍保存されているとか)を、ぼくは服部真澄で知った。
しかし話の内容はもうすっかり忘れてしまった。そして手元になぜか『ディールメイカー』だけがない。

ミッキーマウス法は日本でも結構知られている。
著作権を皮肉ったような作品で度々ミッキーが登場するし、なんとなくディズニーを勝手に使うのはやばいらしい、という認識がある。
ソニー・ボノ著作権延長法は、著作権の期間が作者の死後50年から70年までに引き伸ばされたもの。ミッキーマウスの著作権切れに間に合わせるようなタイミングでディズニーがロビー活動を行っていたので、ミッキーマウス法と呼ばれるようになった。ソニー・ボノは誰も知らないからね。
ミッキーの権利がなくなりそうになる度に著作権が延長されるので、ウォールストリートジャーナルは、著作権は永久になくならないとまで言っている。
ところで今年(2016)にはクマのプーさんの(物語の)著作権がきれるといわれている。
ディズニーは、プーさんの著作権使用料だけで、年間1,000億円稼いでいるらしい。これはJASRACが集めているすべての楽曲の使用料と同額だというから驚きだ。プーさんだけでですよ!
アメリカという国は、著作権使用料が他のどんな産業よりも大きいのだ(年間9兆円以上だとか)。
ミッキーマウス法は、憲法違反ということが大きな争点となったが、それは前回引用した合衆国憲法に「一定の期間」と書いてあるからだ。
個人的には50年も70年も変わらないのだから、49日の法要の後、大胆にパブリックドメインにすべきだと思うのだけれど。


なぜ政府は企業のロビー活動に参っちゃうのか。なぜ政治家は金で買われちゃうのか。
こういうことを、「なんて悪い政治家だ!」とか、「頭の悪い国賊が」とかいうのは簡単だが、すくなくとも良い大学を出ている官僚や政治家は、とても頭が悪いようには思えない。それに、正義だって全くないわけじゃないだろう。クルーグマンはこう言っている。

露骨な買収もたくさんあるーー選挙活動への献金や個人的な袖の下で、単純に買収される政治家だ。でも多くの、ひょっとしてほとんどの場合には、汚職はもっとソフトなもので、はっきり指摘するのが難しい。政治家たちは、ある信念や立場を取ることで報酬が与えられ、おかげで彼らはそうした信念や立場を一層しっかり保持するようになり、やがて自分では買収されたという意識はまったくなくなる。でも外から見れば、彼らが「本当に」信じていることと、お金をもらって信じるようになったこととは、なかなか区別がつかない。


以前神田で働いていたことがあるのだが、千代田区は禁煙先進区だ。いち早く路上喫煙者に罰金を払わせたし、今は少しゆるくなったみたいだけど、それでも千代田区は駅前だけでなく、ほとんど全面的に禁煙となっている。秋葉原駅前ももちろん完全禁煙だ。駅前(何口かな)に広場みたいなのがあって、エクセルシオール・カフェがある。中に入って「タバコ吸えますか」ときくと、店員が「全面禁煙です」とこたえる。それをきいてもう用無し、踵をかえすのだが、店員が「外では吸えます」というのだ。
「外って禁煙じゃないんですか?」ときくと、
「大丈夫です」といって、小さな黒い灰皿を手渡してきた。
ぼくは紙コップに入ったコーヒーと灰皿を持ち、外にでる。
別にテラスのようなものがあるわけではなく、店を出るとそのまま駅前広場だ。完全禁煙の。
それで灰皿を持ってタバコを吸っていると、その辺にいるサラリーマンなんかが、ぼくを見て「あ、ここ吸って良いんだ」と勘違いして吸い始める。みるみるうちに数人が集まり、喫煙所のようになってします。
すると、いかにも「千代田区から正式に認可された清掃員です」というようなゼッケンっぽい蛍光色の服をきた老人が近寄ってきて、「ここは禁煙です」というわけだ。それでサラリーマンたちは半ば怒りながら無言で去って行く。
しかし、ぼくにだけは何も言わないのだ。
なぜだろう。
ぼくだけは、エクセルシオールカフェからもらった灰皿を持っているからだ。

しかし、ぼくがタバコを吸っている場所は、明らかにエクセルシオールのものじゃない。地面の模様をみれば一目瞭然だが、どう見たってこれは駅前広場なのだ。おそらくは千代田区のものだろう。

そのときにぼくは、300円の賄賂でタバコが吸えるなんて、とても面白いな、と思ったのだ。
しかもエクセルシオールというただの企業に払った300円が、千代田区から認可されるなんて、面白い。

家を借りる時になぜだか払わされる礼金のように、世の中には適当なお金を包むことによって万事解決したりすることがある。


著作権が、もともと賄賂だったということは、意外な事実だ。
著作権は、著作者を「保護する」か「文化芸術を振興させる」かのいずれかの目的から始まったものだと思っていたからだ。
最初は、著作権は「検閲」の手段として出てきたものだった。

著作権が生まれたのは、模倣者から作家の利益を守るためではなく、創造性を助長するためでもない。むしろ政府検閲の道具として生まれたのだ。王室や宗教勢力は、印刷していいものといけないものを決める権利を勝手に自分のものにした。したがって「コピーする権利」は権力者が、印刷して読むのにふさわしいと考えたものを市民に印刷して読ませる利権だった。(中略)著作権の販売は特許の販売とまったく同じで、王室に賄賂を贈る見返りに独占力を与えるということだ。(ボルドリン&レヴァイン)

1710年までに、イギリスでアン法が導入された。
これは今までの検閲をやめて、独占的な出版権を14年間与えるというものだった。最初の、著作権法といっていい。
フランス革命の頃には、王室が独占していた芸術に対する反発として、著作権の考え方が普及した。面白いのは、独占に反発する形で、ということ。
そして1886年のベルヌ条約。
1902年には著作権法は刑法の対象になり、同年には海賊王ジェームズ・ウィレットが有罪になっている。海賊というのはもちろん海賊版という意味ね。

知的独占の最大の支持者であるディズニーは、パブリックドメインを大いに活用している。「白雪姫」「眠れる森の美女」「ピノキオ」「小さなハイアワサ」などのすばらしいディズニー作品は、もちろんどれもパブリックドメインから取られている。独占重視の立場を取るディズニーは、きわめて当然ながら、パブリックドメインに何一つお返しなどしたがらない。(ボルドリン&レヴァイン)

著作権が「独占」だというのなら、独占状態にない世界、自由競争の世界、はどういうものなのか。
これを考えるのは難しい。だって、そんな世界、今では考えられないから。
昔のアーティストを考えてみよう。
創世記の作家たち。チャールズ・ディケンズは本国イギリスだけでなく、アメリカでも大人気だった。当時は海外に本を勝手に出版することができたので、ディケンズの本はアメリカで安い価格で大量に出回っていた。
そこでディケンズはアメリカの出版社と独自に契約し、前払い、つまりギャランティを受け取って、原稿を売るようになった。それでディケンズは本国よりもアメリカでの方が(何倍も)良い収入を得るようになったのだ。ちなみに当時のアメリカとイギリスは同程度の市場規模だったらしい。
実際市場では、『クリスマスキャロル』はイギリスで2ドル50セントで売られていたが、アメリカでは6セントで売られていた。

これは過去の話であって、現在はもっとややこしい。なぜなら、コンピュータとインターネットのおかげで、複製は誰でも簡単に高速で完璧に何度でも無料でできるからだ。 
こんな時代に、ディケンズのようにうまくいくのだろうか。

著作権のない文章を考えるのは難しい。なぜなら、創造性なんかないと思われるただのニュース記事でさえ、著作権があるとする風潮があるからだ。そこで『〈反〉知的独占』の著者は、例外的に絶対に著作権がないと言い切れる文章として「アメリカ政府が作成した文章」を挙げている。

The 9/11 Commission Report

2004年に作成された『9/11委員会報告書』は、政府のウェブサイトから無料でダウンロードできる。もちろん著作権フリーなので、ダウンロードして勝手に売ったりしても何の問題もない。事実、多くの出版社が勝手に売った。
しかし、ノートン社という出版社だけは、政府から正式に依頼されてこれを出版したのだ。印刷や輸送の費用は出版社が負担し、さらに9/11に被害者の遺族に一部ずつ無料で提供するという契約。さらに10ドルというかなり安い値段で。
そのかわり、この本には「政府公認」という言葉を使用することが許された。たったそれだけ。

誰でも無料でダウンロードできる本。誰でも勝手に売っていい本。
これを高い費用をかけて出版すると、どうなるのか。
結果は、最低でも110万部売り上げたのだ。利益は100万ドルといわれている。そして政府はギャランティとして(寄付という名目で)60万ドル受け取った。
ニューヨークタイムズも、これに追加記事や分析を載せて豪華に売り出したが、政府公認のノートン社には勝てなかった。

ようは、みんな「作者から買いたい」のだ。

プロでも見分けが困難な本物のダイヤモンドを買いたいと思うのはそれが美しいからではなく、「本物だから」だ。
ちなみにこのノンフィクション文学作品は、アメリカ全米図書賞のファイナルにまで残った。文学が好きなら、この賞がアメリカでかなりの権威があることはご存知だろう。


ハリウッド映画は、知的独占から逃れるために誕生した。
エジソンのフィルム発明を筆頭に、映画の機材のライセンスを持っている団体が映画会社に使用料を求めてきたのだ。そしてニューヨークの映画会社は、カリフォルニアまで逃げたのだ。

カリフォルニアはエジソンの手がおよばないくらい離れていたため、フォックスやパラマウントといった映画制作会社は、カリフォルニアへ移って法を恐れることなくエジソンの発明に対して海賊行為をはたらいた。ハリウッドはたちまり成長し、連邦法はやがて西部にも及ぶようになった。(中略)充分な数の連邦保安官が登場する頃には、特許期間は終了していた。新たな産業が生まれたのは、エジソンの創造的財産を侵害したおかげでもある。(ラリー・レッシング)

ご存知のようにエジソンは蓄音機の特許も取得しているので、音楽業界にも多大な影響を与えた。しかし彼は音楽著作権には寛容であったらしい。そりゃ、音楽が自由に売れたほうが、彼の蓄音機が売れるのだから。


もともと著作権としては微妙なラインにある「ニュース」は、独占の波から外れつつある。ネットニュースは大概無料だし、ネットでどんどんシェアすることをむしろ推奨している。
ニュース記事のリツイート、フェイスブックのいいね、ブログでのシェアをぼくたちは日常的にしているけど、ネットニュースを作る側も大多数がインターネットでニュースを仕入れている。そのままコピペして、口調やキャッチなんかを変えて、それで出来上がり。

スーダンからのレポートにはじかに現地へ行く莫大なコストが必要だが、同じレポートをコピーするのは、この上なく安上がりだ。では、高給取りの報道記者たちは、なぜわざわざスーダンかにニュースを仕入れに行くのだろうか?(ボルドリン&レヴァイン)

そもそも、インターネットが存在する前から、報道とはそういうものだった。自由競争だったのだ。
舛添都知事のスキャンダルをいち早く仕入れて取材に行ったところで、舛添さんの行動を独占できるわけではない。それに、報道は大前提として事実を書くものなので、創作性というのはきわめて薄いから。

科学者の武田邦彦さんなんかは、ニュースには著作権はない、と断言しているし、ぼくもその通りだと思う。
けどそれは、「そうであるべき」という意味で、実際の判例なんかはぼくは知らない。

では武田邦彦のいうように、ニュースが「完全に」著作権フリーだとしたら、どうなるだろう。
『〈反〉知的独占』の中で著者はそれを幻視する。
ニュースは客を差別化するようになる。いち早くニュースを手に入れたい客にだけ、高額で売る。それ以外には安く。それこそ大手のニューヨークタイムズのようなところが高額で買うだろう。
そしてこのシステムは、現在すでに金融情報などのニュース市場では同じような形で行われている。

そこでは、とてもせっかちな顧客たちが相当の料金を払ってブルームバーグやムーディーズやロイターから速報や株価情報を買い付けている。ニュースや株価はそこからウェブサイト、ケーブルテレビ、全国紙……と伝わっていって、だいたい1日後にはニューヨーク証券取引所の取引値が世界中のほとんどの新聞で公表される。実際、夜寝る前にヤフーやロイターやCNNのサイトをクリックしてみるといい。何が得られるか? お好きな新聞の翌日の朝刊に掲載される記事のおもな中身だ。(ボルドリン&レヴァイン)

著作権は、創造のインセンティブが根拠のひとつとなっている。
著作権で保護されていて、お金を稼ぐことができる、という前提があるからこそ、作品がつくられていくんだ、と。
しかし、独占された市場に発展はない。
現代、最も発展した分野のひとつであろう、コンピュータとインターネットの世界は、すべて知的独占なしに発展した。
もともとソフトウェアに特許がつくなんて誰も考えなかったからだ。ソフトウェアにはじめて特許がついたのは1981年だが、主要なイノベーションはすべてそれ以前にすでに起きている。どれも、ひとつのこらず、特許の保護なんかなかった。
さらに、ぼくたちは普段意識していないけど、現在普通にインターネットをするときに、オープンソースは不可避だ。
オープンソース。特許などいかなる保護もされていない、完全にフリーなソース。


今日ウェブサイトを見たのなら、そのときほぼまちがいなくオープンソースソフトを使っている。本人は自分が「ウィンドウズユーザ」か「マッキントッシュユーザ」だと思い込んでいるだろうが、実際は「リナックスユーザ」でもある。グーグルを利用するたび、検索要求はリーナス・トーヴァルが考案したオープンソースソフトウェアで処理されているのだ。(ボルドリン&レヴァイン)


データベースはMysql、スクリプト言語はPHPと、オープンソースが主要な座を奪っている。ウェブサーバソフトの実に70パーセント近くがオープンソース・ウェブサーバのApacheがシェアされている。

オープンソースの独占、、、、矛盾した文章にみえるが、実際そうなのだ。

こうしたオープンソースソフトウェアは、もちろん、なんの特許もないので、勝手に売ったりしたって良い。合法的に海賊版を売ることができる。
しかし結果的に、海賊版は売り上げが悪く、開発元でしかみな買わないのだ。
ソフトウェアの場合は、さっきぼくがいったような「結局、作者のものを買いたい」という心理以外に、開発元ゆえのサポートやアップデートなど、実利上、たとえ値段が張っても正式なものを買ったほうが良いと判断されるのだ。
スマホでツイッターの閲覧投稿するためのアプリ。さまざまなものがあるが、結局信頼できるのは、「あの鳥のマーク」が入ったやつだろう。


今日は著作権がない世界を想像しながら、競争社会と著作権の独占社会、どっちが良いのか考えてみた。

冒頭から書いているように、著作権の話をするときに、ディズニーは不可避だ。
福田美蘭だけでなく、さまざまなアーティストがその作品に隠れミッキーを描いている。
ディズニーランドにいくと隠れミッキーがいたるところにある(らしい)が、
実際問題、現実社会で隠れミッキーを探し出したほうが良い成果が出るだろう。


少し前に、バンクシーが個展をやったのはすごく話題になった。
Dismalandという、テーマパークをそのまま再現したような内容だ。
ネットニュースでもすごく出回っていたので、「ああまたバンクシーね」と思いながらも、内心めちゃくちゃ行きたかった。








従業員はやる気がなく、接客する態度ではない。園内には注射器の残がいが落ちている。入り口には「ウォルト・ディズニー・カンパニーの法定代理人の入場禁止」が定められている。
もちろん、広島平和記念資料館なんかのほうがよっぽど衝撃的なアート体験ができるかもしれないけど、
それにしてもこの絵面はやっぱり一流のアーティストなんだな、って思うね。
世界中にはほかにもたくさんディズニーのパロディや模倣がたくさんある。

みなさんの好きな隠れディズニー、隠れミッキーはありますか?





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