【目次】
著作権について、宣言
第1回 : ヘンリー・ダーガーのインセンティブ
第2回 : 隠れミッキーを見つけよう!
第3回 : ありがとう、ショーン・パーカー
第4回:家入レオより売れるために何をするべきか
第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜
第6回:macaroomの未来学会議(ちょっと休憩)
第7回:テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。
第8回:アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ
第9回:アムウェイ・ビジネスとやさしき心よ
第10回 : 鈴木福くんさようなら!〜著作権クーデターの最期〜
著作権について、宣言
第1回 : ヘンリー・ダーガーのインセンティブ
第2回 : 隠れミッキーを見つけよう!
第3回 : ありがとう、ショーン・パーカー
第4回:家入レオより売れるために何をするべきか
第5回:孤児と貧乏な芸術家VS大企業〜HINKON WARS〜
第6回:macaroomの未来学会議(ちょっと休憩)
第7回:テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。
第8回:アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ
第9回:アムウェイ・ビジネスとやさしき心よ
第10回 : 鈴木福くんさようなら!〜著作権クーデターの最期〜
第1回 : ヘンリー・ダーガーのインセンティブ
ダーガー『非現実の王国で』押絵
音楽を作っていると、音楽仲間が自然と増えていくものだ。
もちろん、
ヘンリー・ダーガーのように、童貞のまま誰にも知られることなく創作し続けていたり、
もしくは《シュガーマン》ことシクスト・ロドリゲスのように、自分の曲が海外でローリング・ストーンズよりも人気だということを知らずに音楽をやめて肉体労働をしていたり、
もっとベタなこというと、ゴッホのように、耳をそぎ落として送りつけたり、
そういうことをしていると音楽仲間はあまり増えないだろうけど。
ぼくは普段はまともな音楽活動をしているので、少ないながらも音楽仲間と呼べる人が何人かいる。
その友人のひとりが最近、自分が作った楽曲が動画投稿サイトに勝手にアップロードされていることに対して怒り、削除要請をした。
そのあと彼は、無許可アップロード者に対して宣戦布告ともとれる発言をツイッターに投稿した。
ぼくはツイッターで彼の発言を見るや否や、すぐに彼に電話して、議論をふっかけた。
その友人は大人な感じの人なので、ぼくの喧嘩腰の電話に対しても、大人な対応をしてくれた。
「がくの言いたいことはよくわかるよ」
となんども言われ、みるみるうちにぼくの闘争本能は萎えていき、最終的には、まあえっか、という感じで議論はおわった。
なぜぼくは彼に電話したのだろう?
それは、彼自身が、無許可アップロードの恩恵に預かりながら音楽家として成長してきたという過程を知っているからだった。言い換えると、著作権を侵害した数々のものを手にしてそれを大いに利用し、大いに賛同し、またぼくのような友人に大いに勧めてきた、という彼の音楽的な経緯を知っているからだ。
ビートたけしさんは、浅草で飲むときは、酔っ払って店員やその辺の工事現場のおっさんや知らない客たちに大金をバラまくという話をきいたことがある。たけしさんは「浅草には世話になったから、恩返しをしている」というそうだ。
こんな美談はどうでも良いとしても、その音楽仲間の行為は、自分を育ててくれた親に対する裏切り、というふうに思えたのだった。
いや、彼の批判はこれくらいにしておこう。
彼とは今も仲良いし、すごくお世話になりっぱなしだ。
無許可アップロードに関しても、彼なりの様々な理由があって考え抜いた結論だったにちがいない。
いずれにしても、著作者本人が、どういう行動に走ろうと、ぼくのような他人が横槍をいれるのはまちがっている。
そう、横槍はまちがっている。本人が考えてきめることなのだから。
秋元康に「ちいとぐらい印税わけてくれぇい」というのは簡単だが、僻み以外の何でもない。
だから、ぼくは、ぼく自身のことを考えよう、という気になったのだ。
ちょうどタイミングよく、ぼくはmacaroomというユニットのCDを出すことになっていたので、手始めにそのコピーライト表記(©)について考えた。
そして他にもだらだらと考えて、それをまとめてブログに書いたりもした。(著作権について、宣言)
ただし、十分に言いたいことがかけなかったし、そもそも無教養なただのアーティストにとっては、著作権は荷が重すぎるテーマだと思ったのだ。
そもそもぼくは、経済音痴だ。
どのくらい経済音痴かというと、
池上彰がサブプライムローンの問題について解説している番組で、
無教養な視聴者の観点から発言するためだけに呼ばれたような芸人やアイドルが、めきめき話を理解していって、口々に
「こんなにわかりやすい解説ははじめてです」とか、
「そんなリスクのある証券をなぜ買うんですか?」といったまともな発言をしており、
それを見ている僕だけが話についていけず「????」となっていた、
そのくらい経済音痴なのだ。
わかりやすさでは定評の池上彰さんの解説ですら、ぼくを救うことはできなかったのだ。
いや、自分でもやばいと思い、グーグルで「GDP 意味」や、「TPP 弊害」というキーワードで検索したり、
やや偏った経済学者の本を読んだり、「ひろゆきを論破した上念司」のようなふざけたタイトルの経済対談動画などを閲覧し、なんとか経済童貞を卒業しようと画策はしているつもりなのだ。
しかし、そう簡単に経済の悟りを得られるわけではない。
「政治は誰でもわかる、経済は誰にもわからん」というぼくの父親のとても深い言葉を、なんとなくおぼえている。ちなみに父は日大法学部でトップ成績のクラスに所属していた。
そして、ぼくはだいたいが、ふざける癖がある。
著作権の保護期間は「作者の死後50年」だがこれは死者に対して払われる対価なので、法要に合わせて50年ではなく「四十九日」が適切だとか、アーティスト格差をなくすために累進課税のように「売れていないアーティストほど著作権料をたくさんもらえるシステム」にすべきだとか、ふざけて突飛な発想に走る傾向がある。
そこで、ここでは、ミケーレ・ボルドリンとデヴィッド・K・レヴァインというワシントン大学の二人の経済学者の著作『〈反〉知的独占ーー特許と著作権の経済学』を参照しながら、著作権の中でも特に「お金」に関する部分について考えていきたい。
そして同書の構成と同じようにおそらく全10章でおわらせたい。ただし、ここに書くのはぼく自身のこと、つまりぼくが感じたり接したりする小規模なことを中心に書くことになるだろうと思う。
ちなみに、ぼくはこの本をまだ1章しか読んでおらず、章を読むたびにブログを更新していくつもりなので、果たしてこの本が良書なのかどうか、まったくわからない。
この本は、経済について書かれた本だ。だから、ぼくが最も苦手とする部分を補填してくれるはずだ。
もちろんこの著者の名前なんてきいたこともなかったので、まったく信用はしていない。
ぼくは『もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
という本を読んだことはないのだが、「もしもエレクトロニカのアーティストがボルドリンとレヴァインの『〈反〉知的独占』を読んだら」という感じになるのだろうか。
書きながら良い結論に辿り着ければ良いのだけど、一応のところ、現段階でもぼくの中での結論のようなものもあるにはある。
たとえばよく言うように、「著作権のあり方は、現代の新しいアートの形態やテクノロジーに必ずしもそぐわないので、適切な形に変化させるべき」とか、「非親告罪などもってのほか」とか、
「アーティストはどうやって稼ぐのか」とか、そういうことはあまり考えてない。
ぼくとしては、
著作権がそもそも「全く」不必要で、完全に撤廃するべきと思っているし、
アーティストが食えるか食えないかなんかどうでも良いし、
それで食えないんだとしたら滅んだら良いと思っている。
そして、本当のことをいうと、絶対に滅ぶことはないし、絶対にアーティストは著作権がなくても食っていけるとおもっている。
ともかく、食えるか食えないかということはあまり考えていない。
しかし、『〈反〉知的独占』は経済学者による本なので、この辺のお金の話が細かく書かれてあるようだ。
話は、知的財産の競争と独占の話から。
蒸気機関車で有名な発明家、ジェームズ・ワットのお話。
Wikipediaによるとワットは、
トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず全世界の産業革命の進展に寄与した人物である。(Wikipedia)
ここでは著作権ではなく、知的財産に関わるもうひとつの柱、特許についてのお話。
歴史的には、ジェームズ・ワットは産業革命の口火を切った英雄的な発明者として扱われることが多い。だが事実を見ると別の解釈が出てくる。ワットは一八世紀後半に、蒸気機関の改良に関わった利口な発明家の一人でしかない、というのが新解釈だ。他者より一歩抜きん出た後、ワットはすぐれたイノベーションではなく、法制度の利用の巧みさで先頭に立ち続けた。(ボルドリン&レヴァイン)
ワットは特許期間を延長して、競争を抑制した。なので、ワットの特許期間中には蒸気機関は発展せずに、むしろ特許期間が終了してから発展した、というのだ。
たとえば、ワットの特許期間が終わると、出力の増加は年に750馬力だったものが4000馬力になり、
ほとんど変わらなかった燃料効率は5倍になった。
生産性とか効率とかだけじゃない。蒸気船や紡績機などに普及していくのも、特許終了後だ。
競争を抑制して特権を得ようとする浪費的な取り組みを、経済学ではレントシーキングという。歴史と常識が示すように、これは合法的独占の毒入り果実だ。ワットが試みた一七六九年の特許の期間延長は、レントシーキングのきわめて悪質な例であるーーすでに特許のもととなる発明はおわっていたのだから、特許期間を延長してもそれを刺激することにはならず、明らかに不必要だった。(ボルドリン&レヴァイン)
さて、これからどんな話を書いていくことになるのか。
たぶん、三つのことがメインになると思う、
一つ目は、著作権のない世界はどういうものか、ということ。
著作権は、創造行為を刺戟する、つまりインセンティブとなる、ということだけど、実際、著作権がないとどうなるのか? まあつまり、著作権のない世界で作品を作っているひとは沢山いる(最初に挙げた三人は偶然にも著作権の恩恵に預かっていない)し、著作権によらずお金を稼いできた例はいくらでもある。
二つ目は、著作権があることに生じるお金の話。
たとえば、著作権のせいで、福島第一原発爆発の映像を自由に流すことができず、テレビ局がお金を払って使用許可を得なければならなかった。著作権によって生じる社会的なコスト。
著作権があることによってもたらされる便益は、こうした社会的コストを上回るのかどうか。
たとえば原発の話でいうと、そもそも著作権で保護されていなかったら、誰もその映像を撮影すらする気にならなかったかもしれない。だから、著作権による恩恵と、コストと、どっちが上? という話。
三つ目は、著作権のおかげで得るお金と、著作権があることによって生じる創作のコスト、どっちが上? というお話。
たとえば、ぼくはビートルズの曲を使ってリミックスCDを出せばお金を稼げるかもしれないけど、ビートルズ側にも大金を払わなければならない。そこで、果たして著作権はそういった創造行為を刺戟するために有効なのだろうか?
よくいうように、「著作権があることによって、創造行為が刺激される」とか、「著作権がなかったら誰も創作しようとは思わない」とか、そういうことは本当なのか。
著作権があることによって、それが刺激となってアートが発展していくらしい。
たとえば小説。
著作権の恩恵を全く受けようとしなかったアーティストとして、最も有名なのは誰か。
いろいろいる。しかし著作権の完全に成立している現代で、有名かつ全くその恩恵を受けることなかったアーティストのひとりがヘンリー・ダーガーだろう。
しかし彼の作品は、世界で最も長い長編小説だといわれている。
創造の熱量を単純に分量で測るのはちょっと極端だけども、それにしても、世界で最も長い小説が、著作権を念頭に書かれていないのはどうしたものか。
ところで、ぼくよりもはるか以前に、もっと過激に、著作権に反発したアーティストがいる。
KLFというイギリスの音楽グループだ。
彼らは数々の逸話がある。とても書ききれないので、一部ウィキペディアからパクると、
アルバム『1987(What the Fuck Is Going On?)』収録曲「The Queen and I」はサンプリングやカヴァーなどを許可しないことで知られるアバの「ダンシングクイーン」を無許可でサンプリングしていた。そのためアバのメンバーからクレームがつき、著作権保護団体MCPSから製造・販売中止の勧告を受け、アルバムの回収もしくは処分とマスターテープなどの引き渡しが言い渡される。そのため直接交渉しようとジミーの愛車(JAMsモービル、後述)でスウェーデンまでアバに会いに行ったが会うことは出来ず、街にいた娼婦たちにアルバムをプレゼントしたり記念撮影したりした後、アバの事務所ポラー・ミュージックの前で「The Queen and I」を大音量で流す。その後、JAMsモービルに多く積まれていたレコード『1987』を途中で突っ込んだ畑で500枚ぐらい燃やしていると、それに気付いた農家が銃を発砲したため彼らはそのまま逃げた。さらにその後、帰りのフェリーから250枚以上のレコードを投げ捨てた。
その後"1987"の著作権に引っかかる部分を無音処理した『1987 (The JAMS 45 Edits)』を出す。しかし、処理された部分が多いためほとんど音がしないアルバムとなっている。
翌年リリースされたセカンドアルバム『Who Killed The JAMs』のジャケットには、このアルバムを燃やしている所の写真が使われている。
イギリスのブリッツ・アワーズで、受賞後のパーティで演奏中にビルが客席に向かって空砲を撃ち、さらに催されたホテルの外に「私はあなたのために死にました、どうぞ召し上がれ」と書いた紙を貼り付けた羊の死体を放置し、会場を去る。その言葉通り同年5月13日、音楽雑誌NMEへ引退広告を掲載してKLFは解散し、The JAMs、The Timelords名義のものも含め全てのレコードを廃盤とした。(Wikipedia・一部改変)
こうしたすばらしい先輩たちもいるってこと。KLFの『Chill Out』はとってもすばらしいアルバムなのでオススメ。
Who Killed The JAMs
さて、著作権の話をするときに、ぼくはよく秋元康の名前をだす。
勝手に名前を出される秋元さんは迷惑だろうけど、それだけ稼いでいるんだから少しくらい良いじゃない。
別にディズニーでも良いし、なんだって良い。
JASRACは、その年に最も印税を稼ぎまくったアーティストに、「JASRAC賞」をあたえている。
全国の飲食店やカラオケや地方ラジオから使用料をたらふく徴収しまくることに貢献したアーティストを讃えている。
秋元康は、著作権料分配楽曲で2013年に1位、2位、3位を独占している。もちろん金賞受賞。
ちなみに2016年はEXILEの『R.Y.U.S.E.I.』が金賞、そして秋元康は2位。2015年は秋元康が金賞。2014年は2位。2012年は1位、2位、4位に入り、もちろん金賞。
秋元康は2013年に安倍政権が音頭を取る『クールジャパン推進会議』の民間議員に抜擢され、
翌年には東京五輪の五輪組織委員会のメンバーにも撰ばれている。
そして、こうして稼ぎまくった人の名前を、なぜぼくは具体的に出さねばならんのか。
それは、著作権は一部の人間を裕福にするためには存在していないからだ。
たとえば、合衆国憲法には、
「科学および有用な技芸の振興のため、作者や発明者に対して、一定の期間その創作物や発見に対する排他的権利を保障」させている。
科学の発展と有用な技芸の振興は、貧困のような深刻な経済問題から、退屈といった些末な個人の問題に至るまでを解消する。経済的福祉に欠かせない材料である。社会的見地や、創始者の立場から見ると、特許や著作権の目的は大勢を犠牲に少数の人間を裕福にすることではない。(ボルドリン&レヴァイン)
生活保護を受給される生活を、「最低限度の生活」ということがあるけど、これは不正解じゃないにしても、ちょっと不正確。
憲法にはしっかりと「文化的な生活」と書かれてある。文化的な生活ってなんだろう。
たまには美術館にいったり、ライブにいったり、スマホを機種変更したり、本を読んだり、そういうこと。
日本の憲法には上の合衆国憲法のようなことは見当たらない、というか文化芸術に関することは書かれていないけど、
著作権法では「文化の発展に寄与することを目的とする」とあるし、文化芸術振興基本法は以下のような基本理念を打ち出している。
1 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。
2 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術活動を行う者の創造性が十分に尊重されるとともに、その地位の向上が図られ、その能力が十分に発揮されるよう考慮されなければならない。
3 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない。
4 文化芸術の振興に当たっては、我が国において、文化芸術活動が活発に行われるような環境を醸成することを旨として文化芸術の発展が図られ、ひいては世界の文化芸術の発展に資するものであるよう考慮されなければならない。
5 文化芸術の振興に当たっては、多様な文化芸術の保護及び発展が図られなければならない。
6 文化芸術の振興に当たっては、地域の人々により主体的に文化芸術活動が行われるよう配慮するとともに、各地域の歴史、風土等を反映した特色ある文化芸術の発展が図られなければならない。
7 文化芸術の振興に当たっては、我が国の文化芸術が広く世界へ発信されるよう、文化芸術に係る国際的な交流及び貢献の推進が図られなければならない。
8 文化芸術の振興に当たっては、文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない。(第二条)
そして第二十条では、
国は、文化芸術の振興の基盤をなす著作者の権利及びこれに隣接する権利について、これらに関する国際的動向を踏まえつつ、これらの保護及び公正な利用を図るため、これらに関し、制度の整備、調査研究、普及啓発その他の必要な施策を講ずるものとする。(第二十条)
さて、文化芸術の振興のために、著作権はどのように機能しているか、もしくはどのような弊害があるのか、著作権がないと文化芸術は発展しないのか。
これから少しずつ考えていくことができたらと思う。
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