西野カナが若い女の子に支持されているのか、それともおばはんに支持されているのか判断することは難しい。これは製作者サイドも明確にターゲットを絞っていない、というかターゲットが極めて両義的な状態のままプロデュースしているのではないだろうか。
ターゲットが両義的というのは、つまり「女の子/おばはん」という相反する二層は、これまでも常に揺れ動き入れ替わってきたからだ。おばはんは、若い女の子の間で流行っているものをやや遅れて知って、全力で取り入れ貪り尽くすハイエナのようなものだ。
だから、1年前は女の子的であったものが1年後にはおばはん的なものになり、そのころには企業はこれが女の子にヒットすることをリサーチ済みの上で似たようなものを提供するようになる。「LINE」が今や極めておばはん的なツールでありながら同時に若い女の子にも使われているのはそのためである。若い女の子とおばはんの消費形態の違いは、「貪り尽くす」という点だ。おばはんはコミュニケーションツールにおいてLINEが絶対的なものとして信じ、LINEを使ってない者を「ありえない」と非難し、強迫観念からスタンプをいくつか買い、ゲームもする。
西野カナも同様に、最初は若い女の子向けであったに違いない。西野カナは現在26歳で、ぼくと同学年。
彼女がすべての作詞をしているらしいので、彼女の歌詞は、若い女性の「等身大の」思いが込められているといっても嘘にはならない。しかし、若い女性が等身大の表現をするということはかなりの技術が必要で、なかなか一朝一夕でできるものではない。
結局のところ、西野カナの歌詞は、おばはんらしいものになってしまっている。しかしだからといっておばはんにしかわからない歌詞というわけではなくて、西野カナよりもずっと年下の女の子が食いついたりすることもあるから、作者のメッセージがそのまま受容されるわけではない。
おばはんという共同体の言語=エクリチュールは、今はほとんどつかわれなくなった女性語や、バブル期に流行ったカタカナの多用などわかりやすい特徴が多い。ちょうど椎名誠の昭和軽薄体の女性版のようなものだと思ってもらいたい。これは今日の音楽、映画、文学、詩にいたるまで、おばはんとは無関係に少なからず生き残っているものなので、こういうものを目にするたびにぼくは日本がいまだに言文一致が完成していないことを思うのだ。
日本が歴史的仮名遣いをやめて現代仮名遣いになって70年、明治期に推し進められた言文一致はいまだおわらない。ガウディに対して誰もが薄々感じているように、「完成しないんじゃないか」といってしまいたくもなる。
明治の新しい日本語の中には、熟語以外にも、「である」や「君」のような新たな言葉遣いが発明され、夏目漱石は前衛になることなくこれを大成させた。西洋の詩や文学を翻訳吸収する二葉亭四迷や森鴎外らの一派がいて、新体詩では正岡子規と与謝野鉄幹が短歌をはじめ、また俳句を提案した。そして俳句という定型詩の誕生は同時に自由律俳句を生み出した。面白いのは、これがたとえばバッハの長短調の確立から120年が経ってワーグナーが調性を崩壊させてシェーンベルクが無調へと解放したような時代的順序があるわけではなく、俳句の誕生と自由律俳句の誕生はほぼ同時なのだ。
ところでつい昨日、与謝野晶子の『みだれ髪』を読んだ。
青空文庫でいつでも読める。
電子書籍には慣れていないので、こう短歌程度だと丁度よく読める。長編小説はきつい。
『みだれ髪』は、「もうええやろ」とおもうくらい何度も「みだれ髪」というワードが頻出する。そうとうにみだれているということはわかるし、この歌をみた与謝野鉄幹は「相当みだれたやつがきた」と身を震わせたに違いない。相当にみだれた女、鳳晶子は髪を淫らに乱れさせながら鉄幹に擦り寄り、見事に結婚した。しかし、頻出する「みだれ髪」というワードの所以は、なにも晶子がとんでもなく乱れていただけではない。
黒髪の千すじの髪のみだれ髪 かつおもひみだれおもいみだるる
この短歌は、思うに、「髪(と心)がみだれている」の一言で言ってしまえそうなほどに内容が薄い。というか「髪」と「みだれ」って何回いうんやと誰も注意しなかったのか。この歌が、現代のポップスで当然のように使われるリフレインだということは(今では)誰にでも理解できるだろう。内容は薄いが、なんか感動するのだ。ビートルズだって、特に初期はたいしたこと言ってない。「愛してる」くらいしか内容がない。だが歌になるとあら不思議、素晴らしい歌詞になるのだ。
ポエム、もしくはリリックとして、近松門左衛門のような巧妙な(バッハ的な)ものは誰にも書けないし、書く気もおきないだろう。だが与謝野晶子のこのリフレインなら真似すれば出来そうだ。いまだに場末では「良い歌詞ってのは単純なことをいっているもんなんだよ」といったり「近頃のポップスは歌詞が単純すぎる」といってみたりとまるでまとまりがない。乱れまくっているのだ。
この後の「君死にたまふことなかれ」で大きく批判されながらも平塚雷鳥らに擁護される流れをみれば、これが彼女の「等身大の」文章であるといってそれほど差し支えないだろう。しかしそれを実現させるためには知識も技術も勇気も必要なことで、松岡正剛いわく晶子は「処女の頃から」源氏物語を読んでいたそうで、和泉式部らの暗示的な性的描写をよく吸収した上で彼女は現代史においてもっと大胆にそれを復活させたのだ。
さて、現代文学においてすら、「いやだわ」とか「そんなことないわよ」といった死せる女性語が普通に使われていることにさすがに憤慨せざるをえないだろう。文学は忘れられた芸術なのでまだ良いが、J-POP、若者の手の中にあるJ-POPですらそうなのだ。
なぜJ-POPはそれを許すのか。現在では女性語が、記号として取り扱われていることは、それを「オネエキャラ」といわれるオカマの連中が多用していることからも明白だ。
こういった語尾の違和感に聞く側は「あれ、おばはんか?」と感じるのだが、作詞者からしてみればこれはただの字数稼ぎにしかすぎないだろう。しかし作詞においていかにメロディに対応した文字を埋めていくかというときに、最も多用されるのが語尾(助詞や助動詞)もしくは語頭(接続詞など)であるのだが、とはいえ選び取ることができる言葉は無限にある。そこで口語としては死せる女性言葉を使うのか使わないのかがその作詞家のパーソナルな部分であり、それこそ「スティル」と呼ばれるパーソナルな偏りである。
結果的におばはんにも受容されることとなった西野カナ(売り上げからいえばこれほど嬉しいことはないが)。
AKBの作詞を秋元康がやっている時点で上記の弊害は国民の基準値というかハードルを大きく下げているのが現状だし、そうした古い歌詞に違和感を感じる若者もそれほど多くないだろう。
だれが作詞ができてだれが作詞ができないのか、ということを判断する基準もなければ理論も批評もない日本において、歌詞の発展は今後50年はないだろう。
西野カナとおばはん
Reviewed by asahi
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18:17
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