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2012/06/27

What does it MEAN?

歌詞についての記事を読んで、いくつか言いたいことがでてきたので、ここに載せてみようと思う。

その記事というのは、増田聡という方が書いたもの。

http://tenplusone-db.inax.co.jp/backnumber/article/articleid/1075/

内容は鳥賀陽弘道とボニーピンクの論争に始まり、歌詞とは何かを問うものだ。
普段雑誌など読まないぼくはボニーピンク論争なんか知らなかったから、ああこんなアホな論争があったんやあ、という風に楽しく読んでいた。著者の語り口もなかなかよろしい。
しかし話が歌詞そのものの役割についての話になり始めたあたりから、雲行きは怪しくなった。怪しい程度で、決して大降りの雨ではない。この増田さんとは、話せばうまが合いそうだなとは思うけれど、「こいつ何言ってんの?」と思うところもある。もとより好きな人ほど欠点が気になってしまうものだ。ということでぼくが彼の主張の中で完全に誤っていると思う部分をここに書くことにした。

歌詞について話す時になにかと話をややこしくさせてしまう「意味」というやつ。
意味とはなんぞや、とぼくは思ってしまうが…

そういえば、以前は教職をしていた父親が、何の科目だか知らないが小学校でQueenのBohemian Rhapsodyを流したらしい。
小学生たちは英語などわかるわけない。英語はわからないが、わからない言語の詞を体験するのだ。
そして父親は生徒たちに、この曲の感想をきいてゆく。
そして全員の感想を聞き終えたところで、この曲の歌詞の翻訳したものを配るのだ。そこで初めて生徒たちは「死にたくない。ときどき生まれなければよかったと思う」というような詞だったということを「知る」のだ。
生徒たちが最初に感じたものと、翻訳された詞の間には大きなギャップがあった。生徒たちが最初に感じたものは「感受」であり、翻訳された詞が「意味」である。意味というものは、曲とはあまり関係ない。曲、つまり作品とは遠く離れた、全く別の場所にあるものなのだ。

ところで、この記事ではサイモン・フリスの主張が援用されているが、これは歌詞の意味を三つの層に分解したものらしい。

「ひとつはことばとしての「歌詞」である。それは読まれるものとしての詞であり、言語的な水準で意味作用を行なうことになる。次に「レトリック」であり、それは歌唱という言語行為が行なう、音楽的発話の特性に関わる。語調や修辞法、あるいは音楽とのマッチングや摩擦などが、単に歌詞を読むのとは異なる意味形成を生じさせる。最後に挙げられるのが「声」である。声はポップの文脈ではそれ自体が個人を指し示し、意味形成を行なう。」

この三つの層が一見もっともらしいが誤っている点は、それがリスナーにとってのどの段階で経験されることなのかが曖昧であることだ。
そもそも、作品を体験するということがどういうことかを勘違いしている。
歌を聞く時、わたしたちはなにをしているのかというと、「歌をきいている」のだ。だから第一の「ことば」と第二の「レトリック」はわけて考えられない。歌詞カードに記載された文字がリスナーに聞き取れるかどうかは歌唱に関わっている場合があるからだ。もちろん第三の層もわけられない。
とりわけ第二の「レトリック」は、全く釈然としない。ぼくはフリスのいう「レトリック」と(たぶん)近い意味で「スティル」という言葉を使っている(面白いことにどちらも文学理論からの盗用)が、「レトリック」と「スティル」の違いは、後者はフリスのいう第三の「声」がすでに内包されているという点だ。

ここで先ほどの授業(Queen)の例に戻って、如何にフリスの主張が歌詞の「意味」と感受の「過程」を無視して考えられたものか説明しよう。
ある英語の曲をきいて、その言葉の意味はわからないが、なんとなく心が動かされる状態になることがある。それは無理やり言葉で言い表すなら、例えば「感動」である。風景で言い表すなら「霧がかかった草原で少女が笑顔で……」とかそういう感じだ。
ここまでで感受過程は終了。ここで、なぜこの曲をきいて草原の絵が浮かんだのか、ということを分析しなければならない。
しかし、後に歌詞カードをみて、その曲の邦訳を読むことがあるだろう。すると、この曲は一人の少年の死への恐怖を描いたものだと判明した。(あくまでそのリスナーにとっては)
これが「意味」だ。意味とはそもそもが、あらかじめ用意された模範回答のようなもので、何者かによって求められているものなのだ。感受過程においては作品とリスナーが存在するだけだが、意味を考えるときには別の第三者が登場する。例えば「作者」とか「時代」とかだ。
とかく意味なんか考えてたらわけがわからなくなる。小学生たちはSex PistolsのAnarchy In The U.K.をきいて「これは福島復興ソングにしよう」と言うかもしれない。そうすれば大人たちは「それはおかしいだろう。これは無政府主義を歌ったもので、無政府主義というのはつまり……」という感じで「意味」によって応酬する。「意味」によって論理的に指摘されたら、生徒たちは何も言えない。反撃する余地がないのだ。

そうやって「意味」を求めたければ求めればいい。答えが知りたければ調べればいい。しかしそれは音楽を聴く、歌詞を聴く、ということとは別次元の行為だ。増田自身がいうように歌詞は「読むもの」ではなく「歌われるもの」だからだ。
作品はコミュニケーションの道具ではない。作者が作品において何かを論ずることを目的として創作したとしても、それをリスナーが感受する段階には壊れてしまう。
音楽記号学のジャン=ジャック・ナティエは次のように言っている。

「創出過程と感受過程とは必ずしも一致するわけではない。モリノが言うように「創出過程は必ずしもコミュニケーションを目的とはしていない」。つまり、人は象徴形式の痕跡を残さないことができるし、また仮に残したとしてもその痕跡に気がつかないでいることもできるのである。明らかに、音楽におけるそのような例はヴェーベルンやブーレーズの構造はむろんのことシェーンベルクの十二音列のうちに見られる。フランセス(Frances,1958)の実験はフーガ主題とその対位旋律のごときはっきりとした創出的な事実ですら聞き手に必ずしもはっきりとは伝わらない事実を大変見事に証明している」

これはもちろん当たり前のことで、そもそも何かメッセージを伝えたいのであれば音楽なんかやらずにスピーチでもした方がマシで、そういった意味付けやなんやで安心したければ後から一人ですればいいのだ。

増田、鳥賀陽弘道、ボニーピンクらのこうした話は、歌詞というものが「意味」無しには論ずることができないという前提にある。
もちろん詞は意味抜きに批評することができる。つまり書かれてある言葉の意味抜きに、ということだ。だから例え火星人が火星語でつくった詞であっても分析することができるのだ。というかできなきゃだめなのだ。
言葉の音響的機能は分析可能なものであるし、詩においてはそれは半世紀以上前に実践されている(レヴィ=ストロースとヤーコブソンにおいて)。歌詞においては旋律とアクセントやイントネーション、モーラとリズム、発声と音韻という風に、言葉と音楽の中に歌詞カードを打ち崩す要素が無数に同居する中で、それを「意味」なんかに囚われずに音響的機能という側面に徹して分析されるべきなのだ。著者はその可能性についておそらく、想像できなかったのだろう。
歌詞が「書かれたもの」でなく「歌われるもの」というようなことは別に文学者や言語学者でなくとも、作詞者にとってはごく当たり前のことなのだ。それはノーベル文学賞候補に名を連ねるボブ・ディランの「私は詩人ではない」という発言や、世に出回る歌詞本を「服のないマネキン」と揶揄したスティングの発言に如実に現れている。
リスナーはボニーピンクの曲を聞いて個人(Person)・演者(Performer)・登場人物(Character)のいずれかを想定して支持しているわけではない。ボニーピンクのその曲の、意味はわからないがかっこいい、音響的機能を支持しているのだ。ただなんとなく、かっこいいからだ。しかし批評家は、なぜこのわけのわからない似非英語を聴いて「かっこいい」と感じるのかを、「意味」抜きに考えなければならない。それが誠意ある分析というものだ。

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