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2012/04/07

同調するなら金を出せ



われらがヒーロー、曙が相撲をやめて2003年にK-1デビューし、ボブ・サップ相手に1ラウンドKO負けしたとき、誰もが「むむむむ。まあ、そうか」と思っただろう。
勝つか負けるかはよくわからなかった。曙ほどの相撲の達人なら、いくら当時輝かしい野獣の名をほしいままにしていた魔人ボブ・サップ相手とはいえ、「こりゃ、もしかするとわからんぞ」ってな気分だった。
しかし、これはこれ、あれはあれだった。無関係なことなのだ。すぐ負けた。
「まあ、そうか」

しかし世の中どうもこれはこれ、あれはあれとは考えることができないときがある。一度人間に信頼を寄せてしまうと、関係ないものまで根拠なしに受け入れてしまうものだ。
エルメスのバーキンとジェーン・バーキンが「影響」という点でしか関係がなかったとしても、買う人にとってはあまり関係なかったりする。しかしそれはいい。
ボブディランの歌は、とりわけ歌詞が素晴らしいが、なぜノーベル文学賞の候補に毎年上がるのだろうか。歌詞はもちろん文学ではない。歌詞は旋律とともにあるから。でも、これも、歌詞が文学とごっちゃになって取り違えてしまう気持ちはそれほどわからないでもない。
しかしU2のボノがなぜノーベル平和賞の候補になるのかということはまったくおかしな話だ。ボノが作る曲は素晴らしいが、それが即ち彼の政治的発言の正しさを証明しているかのような手放しの称賛を受けている。グラサン野郎の主張の正当性を考えるよりも先に、音楽に魅了されるのだ。良い声良い髭のボノはファンに「この音楽に同調するなら金を出せ」と言っているように思えるが、まず音楽とは語るものではないし、論ずるものでもない。音楽は音楽だ。あれはあれ、これはこれ、だ。
良い髭のアイリッシュ野郎の行動が恐ろしいと感じるのは、彼の主張がすべて正義に基づいているからだ。彼は正しい。例え社会学や科学的に間違った発言をしたとしても、根本的には正義という倫理観が彼を支えている。寄付することで飢餓問題が解決しないとしても、寄付自体は正義なのだ。だからやれよ、ということなのだ。
作家の高橋源一郎はそういうようなことを「正しさへの同調圧力」と呼んだけど、これぞ言い得て妙だ。「一緒にシャブ買おう」と言われたら「ほっといてくれ」と言い返すことができるが、「シャブなんかやめろ!」と言われれば「ほっといてくれ」とは言えない。正義に基づいた主張だからだ。
しかし人はみな自分で考える。それが正義にしろ悪にしろ「同調圧力」になった途端「思考停止」してしまう。有無をも言わさず正義に参加させられちまう。それが正義かどうか考える暇もないうちに。正義のレイプ。サンデル教授の熱血レイプだ。血の日曜日だ。

人間の良し悪しがその政治的に良いイメージにつながるのなら、またその逆もある。ノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアがその良い例だ。彼の主張が正しいという理由はただひとつ、「ノーベル平和賞を受賞したから」だ。こんな不都合な話もない。

内容ではなく人間を信用してしまえば、それは思考停止になってしまう。芸術に例えるなら、作品ではなく作者をみている状態だ。『KID A』が素晴らしければ、必ず次のアルバムも素晴らしい。それは「レディオヘッド」が素晴らしいからだ。そんなことってあるだろうか。
それは熱狂的なファンの心理だ。ファンは作品をみない。ファンは一人残らず頭の中すっからかんの奴隷野郎だ。ファンはアーティストが出した作品も、発言も、行動も賞賛する。
お気に入りのアパレルブランドがあれば、その系列店も素晴らしいと考えるのは妥当だろうか。

先日、Mさん一行と食事に行った。Mさんは「めちゃくちゃおいしいフォー」が食べられる店があるといって案内してくれた。しかし行き着いた場所は、韓国料理店になっていた。Mさんが店員に「ここベトナム料理屋だったよね」ときくと、店員は「この店にかわったんです。でも同じ系列店です」と言った。その発言に対してMさんは「同じ系列店かどうかは、知らん」と言ったが、ぼくも完全に同意だった。フォーが食いたいのだ。同じ系列店かどうかは知らん!あれはあれ、これはこれ、だ。

ボノの音楽が素晴らしければ彼の主張も正しいということを、どうやって証明すればいいだろう。

ルイス・キャロルの『亀がアキレスに言ったこと』という短い話がある。
これは『アキレスと亀』というパラドクスに基づいた話で、とてもポップでふざけた真面目な話で、ネットで閲覧できるのでぜひ読んでほしい。

簡単に要約すると、ある前提から結論を導き出すことは論理的に不可能だ、というパラドクスだ。
この短編を読むと、うん確かに不可能だな。と思うけど、どうにもまわりくどい。
これに関してピーター・ウィンチという哲学者はこう言っている。
「推論を身につけることは命題同士の論理的な関係を明らかにすることを教えれられればよいということでは全くない。それは何をするかを学ぶことなのだ」
何をするか、なんだと。なんだと!?
まったくもって、物語中のアキレスは思考停止状態だ。亀の背中からおりて一歩先に出れば、パラドクスは解決されるのだが、彼はそれをしない。考えない。行動しない。

信頼による極上の贅沢。クレジットカードのような関係は、思考停止のノックアウト野郎だ。
「あなたのサインを、みんなが欲しがる」(ダイナースクラブ宣伝文句)
まったく、ボノになったような気分だ。胸くそ悪いよ。

よく考えなくちゃいけない。

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