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2012/04/18

ワンダ・ティナスキー事件

1980年代にアメリカの北カリフォルニア、メンドシーノ郡を中心に巻き起こった、文学界の騒動がある。

事件は『The Anderson Valley Advertiser(AVA)』というメンドシーノ郡のローカル新聞社宛てに、ワンダ・ティナスキーという謎の女から手紙が届いたことに始まる。女は自称ホームレスだった。彼女の文章は非常に優れていて、圧倒的な知識もさることながら、当時の様々なアーティストや政治や歴史やポップカルチャーなどについて、痛烈に批判したり嘲笑したりするものだった。とりわけ様々な俗語を交えたコミカルな文体が特徴的で、AVA編集長のブルース・アンダーソンがそれに食いついた。アンダーソンはティナスキーに挑発的な返信をして、彼女も隠喩に満ちた詩などで応戦したらしい。
しばらくそのやりとりが続き、ティナスキーが送った手紙などは80通にも及んだらしい。彼女の名はAVA内を駆け巡ったが、それはただの「天才的なおばちゃん」というくらいのものだったかもしれない。あるいは誰もティナスキーがホームレスだなどとは信じていなかったかもしれない。
ちなみにこのメンドシーノのという北カリフォルニア海岸沿いの地域は、レッドウッドなどの針葉樹林が有名で、カリフォルニアワインの名産地としても知られている。カリフォルニアで初めて非営利団体が森林を所有(保護)したのはこのメンドシーノなのである。


そんな中、1988年にポストモダンの巨人トマス・ピンチョンが『ヴァインランド』を出版した。


トマス・ピンチョンといえば、アメリカを代表する「謎の作家」であり、姿もわからなければ居所もわからないし、前作『重力の虹』というとんでもなく重量級で錯綜し尽くしたような作品が全米図書賞を受賞し、そこから17年も沈黙していた、半ば「伝説」のような作家だった。世間に姿を表さない彼の徹底ぶりはサリンジャーも及ばぬほどで、処女長編刊行のときにはすでに山奥に逃げていたらしい。
顔も(ほとんど)わからない伝説の作家が17年の沈黙を破って新作を出したのだ。
舞台は北カリフォルニアのヴァインランドという町。レッドウッドに囲まれたこの街でヒッピー二世代が繰り広げるドグマ劇……。
ちなみに刊行当時の状況は、アメリカ文学の山形浩生が次のように言っている。

「重力の虹」は「読みにくい」、と評判の小説だった。確かにその通りで、文章一つが一ページくらい続いていて、途中に関係代名詞がボコボコ入り、次々に脱線して、文章の最後までくる頃には、文の頭で何が書いてあったのかさっぱりわからなくなっているという案配だったのだが、この新作「ヴァインランド」では一つの文がせいぜいページの半分まででとどまっており、多少読みやすい。するとみんな、「ピンチョンもヤワになった」「軟弱だ」と悪口を言うのだから、勝手なもんである。


しかし、一応ピンチョンなので、この本もいろいろ話題にはなった。特にイギリス版の出版はかなりアレだったらしい。なんでも、版権を申請してきた出版社の代表が集められ、原稿が一つずつ手渡されてからカンズメにされて、感想文を書かされた後で入札になった、とかいう信じられないような話が伝わっている。むろんその原稿はあとですべて回収され、絶対に外にもれないよう細心の注意が払われた。その注意というのが、表紙の絵を担当した人物が、イメージをつかみたいから読ませろ、と要求したら、それすら拒絶されたというスゲーものだったらしい。


AVA編集長ブルース・アンダーソンはすぐに『ヴァインランド』を読んで、驚いた。数年前からワンダ・ティナスキーが書き送っていた手紙に、文体やテーマや言及される対象などまでが酷似していた。ヴァインランドという架空の街は、メンドシーノにそっくりだった(実際、その辺りの架空の町の話なのだ)。そして彼はすぐに確信した。
「ワンダ・ティナスキーはトマス・ピンチョンだ」と。
このスキャンダルは一躍文学界を駆け巡り、メンドシーノ住民の町おこしも兼ね備わり(そしてもの好きの陰謀論者たちも加わり)一大センセーションを巻き起こす。
ワンダ・ティナスキーの手紙の数々はまとめて『The Letters of Wanda Tinasky』として出版されているらしい。

文学研究のスティーブン・ムーアはワンダ・ティナスキーとトマス・ピンチョン同一人物説を裏付ける証拠としてつぎのように言っている。(『無政府主義的奇跡の宇宙』より)
◎ティナスキーは、ある手紙の中で、60年代にボーイング社に勤めていたと書いている。
◎「エイティ・シックス」(「シカトする」の意)などの俗語、洒落、歌詞、語句や文を並列する表現法、文学的引用など、両者の文体的類似点が多い。
◎細かく両者を見比べると、『ヴァインランド』とティナスキーの文章に共通して登場する要素が多く見られる。「ブレント・マスバーガー」というスポーツ・キャスターへの言及、『キング・コング』、『ゴースト・バスターズ』などの映画やテレビ番組や漫画のキャラクターへの言及、CAMP(「マリファナ栽培撲滅運動」)に反発する発言など。


その後ティナスキーからの手紙はピタリと来なくなってしまった。
もちろん、ピンチョンも(エージェントを通して)疑惑を否定している。


そしてここからが、日本語版Wikipediaにも木原善彦『トマス・ピンチョン 無政府主義的奇跡の宇宙』にも(なぜだか)書かれていないお話なのだ。

1998年に、シェイクスピア研究者であり自称「文学探偵」らしいドン・フォスターという男の主張により、ワンダ・ティナスキーの新たな正体が浮上した。

トム・ホーキンズというビート詩人だ。
ホーキンズはメンドシーノ郡で生活のために盗みや詐欺を繰り返して暮らしていたらしいが、1988年に妻を殴り殺し、そして自分は崖から飛び降りて自殺している。
つまり、ワンダ・ティナスキーの正体は、人殺しだった。
この殺人者がティナスキーだという根拠はどこにあるか。
1963年にホーキンズが「タイガー・ティム」の名義で出版した「Eve, the Common Muse of Henry Miller & Lawrence Durrell 」という本の中で、彼は「ウィリアム・ギャディスとジャック・グリーン同一人物説」を主張している。ウィリアム・ギャディスはご存知ポストモダンの最重要人物であるが、ジャック・グリーンという人はギャディスの研究者として知られる人物である。
そして、同じ「ギャディス=グリーン説」が、ワンダ・ティナスキーの手紙の中にも出てくるのだ。さらにティナスキーは手紙の中で「ギャディス=ピンチョン説」まで主張していたのだ。つまり「ギャディス=グリーン=ピンチョン説」である。(どこまでマジかはさて置き)
もし仮にAVA編集長のブルース・アンダーソンの「ティナスキー=ピンチョン説」を加えることが可能なら、つまりはこうなる。
「ギャディス=グリーン=ピンチョン=ティナスキー説」
なんともややこしい。
とにかく、ティナスキーの主張と同じことを、トム・ホーキンズは言っていたのだ。さらにホーキンズもボーイング社に勤めていた経験がある。そしてAVAに手紙が来なくなったくらいに彼は妻を殺し、自殺した。
そこでトム・ホーキンズとワンダ・ティナスキーが同一人物ではないか、という話になるのだ。
どんな巡り合わせか、ホーキンズが死んですぐに、ピンチョンの『ヴァインランド』が出版されるのだ。おそらく少なくとも、ティナスキーがピンチョンを意識していたことは明白だ。ピンチョンは『ヴァインランド』執筆中に、実際に北カリフォルニアに住んでいたと言われているから、ティナスキーはひょっとするとどこかでピンチョンに遭遇し、議論を交わすうちに知的好奇心をくすぐられたか、もしくは超話題作家に激しい嫉妬でもしたのかもしれない。まあピンチョンがその正体を明かすわけがないにしても。

ワンダ・ティナスキーの書簡集はすでに出版されているが、それなのに未だ、ティナスキー本人が名乗り出てこない。本当にホームレスなら、印税がっぽりいただきたいと思いそうだが。
あるいは彼女は、もうこの世にはいないのかもしれない。

ちなみに、山形浩生も、東京でピンチョンらしき人物に会って山手線に乗ったりゴジラについて語ったりしたという都市伝説のようなジョークのような話を書いている。つまりは、ピンチョンという生きる伝説が、ありもしない様々な憶測と妄想でもって文学好きのロマンを掻き立てるような、格好の対象なのだろう。
まあピンチョンは、アメリカ人独特のパラノイア的性格(ぼくの世代だと9.11以後にそれを露骨に感じたと思う)をかいてきた人だから、それはそれでピンチョンらしい利用のされ方ではあると思う。

最後に、木原善彦がワンダ・ティナスキーの手紙の一部を訳しているので、引用して終わりたい。




正直言って、詩ってみんなにとって大事なものだと思います。きれいな空気や食べ物や水がみんなにとって大事なのと同じように。私だって馬鹿じゃありません。アメリカ人が三ポンド一ドルのバナナを買っている影で人々が殺されているのはわかっています。人類の大半がお腹をすかしたまま床に就いて、お腹をすかしたまま目を覚ましていることも知っています。地球の富の大半がこの国にやってきて、莫大なゴミに変わるのも知っています。アダムとともに生まれた種、私の仲間の生き物たちが、一時間ごとにこの世から消えているのも知っています。虚栄と恐怖と憎悪のために地球が汚染されて滅亡に向かっていることもわかっていますし、私自身にも虚栄や恐怖や憎悪の気持ちがあることは知っています。それに対する直接の答え、究極の答えが詩だと思うのです。詩は詩神(ミューズ)の言葉なのです。詩神は凝った比喩なんかとは全然違う場所に存在しているのです。





ぼくはこのバージョンの表紙が結構好き。
レッドウッドと忍者とストラトとヘリと。

世界文学全集にも収録されてるから、現在本屋に置いてある『ヴァインランド』は三種類。
このバージョンはボブ・ディランとピンチョンについてかかれてある訳者解説が面白い。


2012/04/11

優先座席は爆破した方が良い。


友人がこんな体験談をきかせてくれた。
Mさんは、通勤するために電車に乗り、優先座席に座った。Mさんはまだ20代前半の、健康な女性だ。Mさんは、横の座席に座っていた中年男性からの強い視線を感じたが、無視していた。すると、中年男性は立ち上がり、すぐそばに立っていた女の子(小学生くらいか)に、「お嬢ちゃん、どうぞ座って」と言った。中年男性は立って、女の子は座る。駅に着くと女の子は立っている母親に「あのおじちゃんにお礼を言わないとね!」と言って立ち上がり、中年男性に「ありがとうございました!」と大声で言って電車をおりた。

この話をきいて、ぼくはMさんに「その男性は、これ見よがしに聖教新聞など読んでおられなかったか?」と聞いたが、どうも違うらしい。
この話をきいてにわかに沸騰してきた怒りをぼくはどういう風に説明すれば良いだろうか。
「そいつオカマ野郎やな」という一言でよろしいのだが、もう少し具体的に問題点を指摘してみたいとも思った。
ぼくは常々、優先座席の存在や車内の様々な暗黙のルール、暗黙の了解、良識、常識、マナー、というものに疑問を感じていたし、ブログにも何度も書いたことはあるのだが、もはやこの怒りはおさまらない。これを私は反逆行為とみなし、これより戦争状態に突入することを宣言する。


電車内では、お年寄りや体の不自由な方が乗車したときには、健康な若者は席を譲るというのがマナーである。譲るだけではなく、「どうぞ」と一声かけたりもする。
電車内では、健康な若者は、高齢化社会の日本において老人を敬う心を忘れてはならず、すぐさま彼らに敬意を表し、敬礼とともに「太平洋戦争はご苦労様でした」と頭の中で思いながら、席を譲るというのが、良識な行為だとされている。
電車内では、体の不自由な方は、立ったままにしておいては転倒などして危険であるばかりか、松葉杖などの凶器を持ち込む大変危ない存在であり、被害を被らない為に、その予防策として席を譲る、というのが経験上の得策である。
電車内では、体の不自由な方は「社会的弱者」であり、ほとんどの方が精神的にも臆病であり、他人に自ら声をかけて席を譲ってもらうなどという一人前の行為が出来ないので、普通は健康な若者が先に声をかけて席を譲る、というのが正当な順番である。
電車内では、すべてのお年寄りは体が弱いのである。生物学的には「死にもっとも近い人間」という根拠がある。
電車内では、すべての若者は健康状態である。
電車内では、かつてアメリカが白人専用の座席を設けていたように「人を外見で差別し、悪いことをする」という行為を恥ずべき行為であるとして、日本では逆に、「人を外見で差別し、良いことをする」という素晴らしい発想に至った。
電車内では、ただ席を譲るというだけではなく、「どうぞ」と大きい声で言うことにより、周りの乗客に対してのアピールとなり、優先座席という素晴らしい道徳を普及させることも重要だ。
電車内では、老人の意思には全く関係なく、もしくは老人の主義や健康状態など全く関係なく、一方的に席を譲るべきである。
電車内では、座席を譲った若者は、たとえ老人に「私はまだそんな歳じゃない」と叱られて断られたとしても、正義の行いをしたことは賞賛に値する。
電車内では、一般的に、座席を譲られた老人は、「ありがとうございます」と言わなければ「非常識」とされる。
電車内では、すべての席が良識的な席であり、老人や体の不自由な方が立ったままで良いというような車両は基本的には存在しない。
電車内では、とはいえ、なかなか声をかけることに勇気がいるし座席を譲るのが難しい場合もあるので、特別に「優先座席」もしくは「シルバーシート」という名前の、色の違う座席を「すみの方」に設けている。
電車内では、各車両のすみに特別に「優先座席」を設けているので、老人や体の不自由な方は、車両のすみに集中し、健常者は車両の中心に集まる。
電車内では、健常者が座る席と、老人や体の不自由な方が座る席は、色によって区別されている。
電車内では、老人が立っているにも関わらず、無視して座ったままでいる若者は、その若者の健康状態や主義や心理状態に全く関係なく、「非常識な若者」と認識される。
電車内では、老人とは、「見た目が年老いている人」のことである。
電車内では、座席を譲る行為は義務ではないにも関わらず、様々な報告例があり、日本人は大変良識があるとされる。
電車内では、座席を譲る行為は「思いやり」に基づいており、「思いやり」は正義であるという大前提がある。


ぼくは電車内では、自分に何のルールも設けていない。基本的には、どんな場合でも座席に座るし、人には席など譲らない。先輩と一緒に乗車するときには先輩に席を譲ったりするし、彼女と乗る時は彼女に席をゆずったりする。なんとなくしんどい時には、彼女より先にぼくが座ったりもする。だが赤の他人に席を譲ることはない。
しかし、目の前に立つ人を見て、「この人は座った方がいいな」と思い、なおかつ座席が全く空いていないときには、ぼくは黙って立ってその場から消える。それはその相手に対する思いやりなどでは全くなく、自分が気が済まないからだ。だからぼくは黙って席を立ってその場から消える。その後、全く別の人がそこに割り込んで座ったとしても全く関係ない。誰が座ろうとかまわない。ぼくは黙って席をたつだけだ。「どうぞ」なんて一言は絶対にかけない。「どうぞ」なんて言うやつは死んだ方がましだ。どんな権利を持って他人に着席を強要できるというんだろう。満員電車で立つ多くの客の中で、一体どんな根拠を持ってその客を座らせるべきだと判断できるのか。どんな人間も、ときには不調であったり、ときには快調であったりする。快調なときでさえもどうしても座りたいときもある。他人から席を譲られることを恥じる人もいる。全員が乗車料を払って乗車している。なんの根拠があって、一方的に正義を押し付けるような権利があるのだろう。ぼくは絶対に席など譲らない。ただ席をたって消えるだけだ。後のことは知らない。基本的には、どんな時でも座る。他人のことなど知ったことではない。
正義があるとしたら、それは自分一人のものだ。他人にとやかく言うものじゃない。もし自分が座席に座っていることで猜疑心に悩まされるなら、黙ってその場から立ち去るべきだ。「どうぞ」なんて声をかけるくらいなら被曝するか射殺される方がいい。

電車内に、包丁を持った男性が乗車したとして、その男性に「包丁は危険ですよ」と声をかけたりはしないだろう。もし「正義」によって何かをするとしたら、黙って電車をおりて、車掌に知らせるだろう。それは自分が助かるだけではなく他の乗客にも助かって欲しいと思うからだ。誰でもわかることだ。
しかしなぜ電車内にババアが乗車したしたときには、黙っていられないのか。なぜ「どうぞ」などと言いたがるのか。

そればかりか、色の違う座席を用意して、「弱者」をそこに押し込めようとする。収容しようとする。これはアメリカの白人専用の座席とは真逆の差別だ。老人や体の不自由な方は奴隷なのか?いっそのこと【老人収容所】とでもかけばいい。老人は目障りだから、車両のすみに移動してくれと言えばいい。それが堂々たる差別行為だ。差別行為を「正義」の名の下に詐称しないでほしい。差別を「思いやり」という言葉で転換しないでほしい。差別するなら堂々たる態度で差別するべきだ。アメリカは堂々と差別したから、黒人は社会的には奴隷だったが、人間であることは一度もやめていない。しかし「思いやり」が老人を奴隷にするなら、そして老人自身がそれに疑問を抱かないなら、それは彼らは心の中まで奴隷になってしまう。



電車内には不思議な常識がたくさんある。通話を禁止する意味もわからないし、優先座席では電源すら切らなくてはならない。

ペースメーカーに障害をあたえるという話があるが、全くおかしな話だ。
これについては、総務省が2006年に800MHz帯の携帯端末を利用した調査報告をしている。

以下、『電波の医療機器への影響に関する調査結果』より引用。



(1) 植込み型心臓ペースメーカについては、ペーシング機能への影響(注1)を生じる場合があることが確認されました。この影響は、携帯電話端末を遠ざければ正常に復する可逆的なもので、最も遠く離れた位置でこの影響が確認されたときの距離(最大干渉距離)は3cmでした。
(2) 植込み型除細動器については、ペースメーカ機能及び除細動機能のいずれに対しても影響は確認されませんでした。

注1  ペーシング機能への影響:外部からの電波の影響により以下の状態が発生すること。
(1) 心臓ペースメーカ等が設定された周期でペーシングパルスを発生している状態において、外部からの電波の影響を受けたことによりペーシングパルスが抑圧され、又は、設定された周期からのずれが発生してしまった状態。
(2) 心臓ペースメーカ等のペーシングパルスが抑圧されている状態において、外部からの電波の影響を受けたことによりペーシングパルスが発生してしまった状態。
注2  本調査では、植込み型医療機器へ及ぼす影響が最大となるよう、携帯電話端末の送信出力を最大にするなどの厳しい条件で試験をしており、調査結果(最も遠く離れた位置で影響が確認された距離等)を通常の通信状態における携帯電話方式間の比較に用いることは適当ではありません。


以上引用。


端末の送信出力を最大にした「厳しい条件」で、「可逆的な」影響がある最大の距離が3cmだ。
もちろん、携帯端末が原因で死亡した報告例は一件もない。



電車内で大声で通話したりしないということは、ただのマナーであって、マナーとはただの文化だ。文化は科学によってとやかく言われるものではない。私たちは、「電車内ではあまりうるさくしてはいけない」という日本人独特の文化によって、気をつかったりするのだ。そこに根拠など必要ない。ただの文化でいいのだ。
こと間違った科学によってマナーが「ルール」になってしまったら、本末転倒もいいところだ。




2012/04/07

同調するなら金を出せ



われらがヒーロー、曙が相撲をやめて2003年にK-1デビューし、ボブ・サップ相手に1ラウンドKO負けしたとき、誰もが「むむむむ。まあ、そうか」と思っただろう。
勝つか負けるかはよくわからなかった。曙ほどの相撲の達人なら、いくら当時輝かしい野獣の名をほしいままにしていた魔人ボブ・サップ相手とはいえ、「こりゃ、もしかするとわからんぞ」ってな気分だった。
しかし、これはこれ、あれはあれだった。無関係なことなのだ。すぐ負けた。
「まあ、そうか」

しかし世の中どうもこれはこれ、あれはあれとは考えることができないときがある。一度人間に信頼を寄せてしまうと、関係ないものまで根拠なしに受け入れてしまうものだ。
エルメスのバーキンとジェーン・バーキンが「影響」という点でしか関係がなかったとしても、買う人にとってはあまり関係なかったりする。しかしそれはいい。
ボブディランの歌は、とりわけ歌詞が素晴らしいが、なぜノーベル文学賞の候補に毎年上がるのだろうか。歌詞はもちろん文学ではない。歌詞は旋律とともにあるから。でも、これも、歌詞が文学とごっちゃになって取り違えてしまう気持ちはそれほどわからないでもない。
しかしU2のボノがなぜノーベル平和賞の候補になるのかということはまったくおかしな話だ。ボノが作る曲は素晴らしいが、それが即ち彼の政治的発言の正しさを証明しているかのような手放しの称賛を受けている。グラサン野郎の主張の正当性を考えるよりも先に、音楽に魅了されるのだ。良い声良い髭のボノはファンに「この音楽に同調するなら金を出せ」と言っているように思えるが、まず音楽とは語るものではないし、論ずるものでもない。音楽は音楽だ。あれはあれ、これはこれ、だ。
良い髭のアイリッシュ野郎の行動が恐ろしいと感じるのは、彼の主張がすべて正義に基づいているからだ。彼は正しい。例え社会学や科学的に間違った発言をしたとしても、根本的には正義という倫理観が彼を支えている。寄付することで飢餓問題が解決しないとしても、寄付自体は正義なのだ。だからやれよ、ということなのだ。
作家の高橋源一郎はそういうようなことを「正しさへの同調圧力」と呼んだけど、これぞ言い得て妙だ。「一緒にシャブ買おう」と言われたら「ほっといてくれ」と言い返すことができるが、「シャブなんかやめろ!」と言われれば「ほっといてくれ」とは言えない。正義に基づいた主張だからだ。
しかし人はみな自分で考える。それが正義にしろ悪にしろ「同調圧力」になった途端「思考停止」してしまう。有無をも言わさず正義に参加させられちまう。それが正義かどうか考える暇もないうちに。正義のレイプ。サンデル教授の熱血レイプだ。血の日曜日だ。

人間の良し悪しがその政治的に良いイメージにつながるのなら、またその逆もある。ノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアがその良い例だ。彼の主張が正しいという理由はただひとつ、「ノーベル平和賞を受賞したから」だ。こんな不都合な話もない。

内容ではなく人間を信用してしまえば、それは思考停止になってしまう。芸術に例えるなら、作品ではなく作者をみている状態だ。『KID A』が素晴らしければ、必ず次のアルバムも素晴らしい。それは「レディオヘッド」が素晴らしいからだ。そんなことってあるだろうか。
それは熱狂的なファンの心理だ。ファンは作品をみない。ファンは一人残らず頭の中すっからかんの奴隷野郎だ。ファンはアーティストが出した作品も、発言も、行動も賞賛する。
お気に入りのアパレルブランドがあれば、その系列店も素晴らしいと考えるのは妥当だろうか。

先日、Mさん一行と食事に行った。Mさんは「めちゃくちゃおいしいフォー」が食べられる店があるといって案内してくれた。しかし行き着いた場所は、韓国料理店になっていた。Mさんが店員に「ここベトナム料理屋だったよね」ときくと、店員は「この店にかわったんです。でも同じ系列店です」と言った。その発言に対してMさんは「同じ系列店かどうかは、知らん」と言ったが、ぼくも完全に同意だった。フォーが食いたいのだ。同じ系列店かどうかは知らん!あれはあれ、これはこれ、だ。

ボノの音楽が素晴らしければ彼の主張も正しいということを、どうやって証明すればいいだろう。

ルイス・キャロルの『亀がアキレスに言ったこと』という短い話がある。
これは『アキレスと亀』というパラドクスに基づいた話で、とてもポップでふざけた真面目な話で、ネットで閲覧できるのでぜひ読んでほしい。

簡単に要約すると、ある前提から結論を導き出すことは論理的に不可能だ、というパラドクスだ。
この短編を読むと、うん確かに不可能だな。と思うけど、どうにもまわりくどい。
これに関してピーター・ウィンチという哲学者はこう言っている。
「推論を身につけることは命題同士の論理的な関係を明らかにすることを教えれられればよいということでは全くない。それは何をするかを学ぶことなのだ」
何をするか、なんだと。なんだと!?
まったくもって、物語中のアキレスは思考停止状態だ。亀の背中からおりて一歩先に出れば、パラドクスは解決されるのだが、彼はそれをしない。考えない。行動しない。

信頼による極上の贅沢。クレジットカードのような関係は、思考停止のノックアウト野郎だ。
「あなたのサインを、みんなが欲しがる」(ダイナースクラブ宣伝文句)
まったく、ボノになったような気分だ。胸くそ悪いよ。

よく考えなくちゃいけない。

2012/04/06

レコーディング

氷青さんの曲をアレンジさせていただいた。そのボーカルレコーディングに、彼女の音楽ユニット、ミッレルーチのスタジオで、メンバーさんとともに参加させていただいた。
氷青さんからは「暗い、宇宙船のような」スタジオだと聞いてはいたが、いざ蓋をあけてみると、素晴らしく洒落たスタジオだった。

ぼくはレコーディングをただ見学していただけで、とくに技術的な力添えみたいなものは全くないのだけど、非常に落ちついた空間で優雅にコーヒーなどをいただいた。









 リーダー松本浩一さん

松本俊行さん

氷青さん


木石岳さん



彼らの表情を見ていただけたらわかるだろうが、みな、何をしにきたんだと言わんばかりの優雅な面持ちで自然なポージングを決めている。ここは、macaroomレコーディングのときのような、ふざけた録音方法や、険悪な会話や、にらみ合いいがみ合うメンバーもいない。国境は争わない。ここには、和ラスクやオーストラリアチョコレートやディオスやゲーテの詩などがそろい、大人たちが優雅に微笑みあいながら、美しい曲を、美しいインテリアに囲まれ、歌い、踊るのだ。見事なティーパーティーなのだ。