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2012/03/13

エロい女

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エロい女の例





中野香織『モードとエロスと資本(集英社新書)』を読んだ。
その中の一節。


テニスの選手マリア・シャラポワが流行させたエンハンスト・二プル(つけ乳首)というものが、2005年に注目された。自然の胸はブラジャーで隠し、そのうえで擬似二プルをアクセントとしてつけるという珍妙なファッションであった。シャラポワ自身がそれをつけていたのかどうかに関しては、憶測の域を出ない諸説が飛びかったままであったが、多くの女性が「二プルを透かしてみせる」ことをかっこいいとみなした結果、驚きの現象が生まれたのであった。あえて擬似二プルをつけ、それを透かして見せるというのは、どう見ても「エロい」ものであったが、少なからぬ女性が、「二プルが立っているのが、かっこいい」と模倣した。多くの男性の当惑は、全く無視されたまま。
同じころ、ベアミドリフ(へそ出し)ルックも流行し、へそ周りをへそピアスやタトゥーシールで飾って露出するファッションを、若い女性は積極的にとりいれた。多くの男性の「電車の中で目の前にこれがくると困る」という抗議は、みごとに聞き入れられないまま。
「エロかわいい」や「エロかっこいい」を承認し、実践する主体はあくまで女性であって、男性視線などはほとんど考慮されていないのである。(145-146頁)



ここで著者はこういった最近のエロいファッションというものを承認するのは女性であり、一方男性は困惑している、と主張しているが、これは不正確だと思う。
このつけ乳首とへそ出しの流行に関してぼくが思うのは、男性は「女をまんまと騙した」というべきだろう。
男は、表向きにはエロいファッションに当惑し、嫌悪する。一方女は、男の嫌悪など考慮に値しない。それは女同士で容認された(と思われている)モードだからだ。
ここでの女性の表向きの理由は「モテるから」だが、現実は男性を当惑してしまっている(ように見える)。
しかしここまでが、男の戦略である。表向きに当惑することによってエロいファッションを女性に容認させることに成功した。
しかしこの暗黙の了解を理解できない男もいる。そうした男たちは女のエロいファッションを性的なアピールの「記号」だと勘違いしてAVのような展開を妄想するが、実情はそうではない。そのジレンマに事実「当惑」してしまうのだ。
この男性側の勘違いはよほど鈍感な例だろう。
もちろん、エロいファッションは本来はそういった「記号」であった。キャバ嬢のファッションはそうしたわかりやすい記号であったが、『小悪魔ageha』以後、街中には無意味な記号が溢れかえっている。この変化に気づかない男性はよほど鈍感か、AVを観過ぎた現実逃避かだろう。
しかし著者の主張と違って、多くの男性は記号の無意味化をよく知っている。しかしそれを手を叩いて喜び賞賛することは逆効果だ。それは逆にそのファッションに性的なアピールを復活させ、マイノリティなモードにさせてしまう。
男はそうした危惧によって、「当惑し、嫌悪する」というフリをすることにした。表向きは嫌悪するが、実情はまんまと騙された女たちのファッションを受け入れ、喜んでいる。

全裸よりも衣服を着用する方がエロい、という常套句は、衣服が記号であることを考えればあたりまえだが、その意味作用は常に変化する。従って、究極的には全裸がエロいということも忘れてはいけない。全裸というエロスがあって、そこに至るまでのアプローチが変化するというだけに過ぎないからだ。
ロラン・バルトはセシル・ドランジュとの対談でこう述べている。

「現在、ミニスカートはエロティックだと言われます。だが五十年ほど前は、同じ形容詞がまさにロングスカートについて使われたのです。(中略)つまり、現在、スカートの長さは、もう一方の長さの極と比べて、できるだけ短い状況になるだろうと。このもう一方の長さの極もまたそれじたい相対的なもので、今から五十年前、1900年頃に長さの極に達しました。言葉を変えれば、ミニスカートは確かにとても短くみえますが、分析者が考慮にいれるのは次の事実だけです。それは非常に短いのではなく、全サイクルの中であたうかぎり最も短いのです。(中略)それでも、モードのリズムがふつうに規則的であり続けるなら、スカートは、季節による変化を重ねながら今日から少しずつまた長くなるはずですよ。たとえば2020年か2025年には、スカートは再びとても長くなるに違いありません。」(『ロラン・バルト モード論集』ちくま学芸文庫 163-167頁)

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