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2012/03/13

岳木石の好きなものの話

映画みたりしてると、その作品が傑作かどうかはさて置いて、自分の好みにビビっと来るときがあるでしょ、そのポイントは人それぞれ違うと思うんだけど、たぶんみんなあるんだろうと思う。

好みの女性とかでも、金髪の白人が好きな人は、そんなに可愛くなくても街中で金髪の色白姉ちゃん見かけただけで「ぎょっ」って見てしまうでしょ、そういうことが言いたいんです。
映画や本とかでもそういう好みがあるでしょう。

ぼくの場合は、救いようのない話が好きだ。救いようのないというのは、物語が進行しても事態が悪くなる一方だったり、解決されなかったり、そもそも何も始まらなかったり、ひたすら「耐え抜く」物語のことだ。
映画で言うならデイヴィッド・フィンチャー「se7en」やアレハンドロ・ゴンサレス・ イニャリトゥ(未だに覚えられない)「Babel」、ダーレン・アロノフスキー「レクイエム・フォー・ドリーム」「ブラック・スワン」、デイヴィッド・リンチ「ツイン・ピークス」みたいな映画(ドラマ)だ。救いようがないって感じするでしょ。
文学だったらウィリアム・フォークナー「八月の光」やコーマック・マッカーシー「ザ・ロード」、ジョン・バース「旅路の果て」といった作品は「ギョッ」となった。

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マッカーシーの「ザ・ロード」は、世界が何らかの原因で破滅を迎えた後の物語で、そこら中に灰が積もってる道をひたすら親子で歩いてゆく。マッカーシーは心理小説を嫌っているから、主人公が考えていることは全くわからない。ひたすら極限のシビアな世界を歩いてゆく、というだけの話。
こういうドMな世界がぼくはすごい好きだ。雨ニモ負ケジズム文学が。
みんなはこういう話好きだろうか?
例えば「ライフ・イズ・ビューティフル」のロベルト・ベニーニのように、クレバーでもって危機を笑いに変えたり息子に気付かれないよう試行錯誤するのは、あまりマケジズムとは思わない。ただひたすらじっと耐えるか、もしくはどんどん悪化していく様が好きなのだ。
フィクションだと、よく主人公が自分の生きる道を選択し、彼の意志によって世界の行く末が決まるようなことがよくある。「主人公の人生→世界の行く末」のような典型的ヒロイズム。でもぼくが個人的に好きなのは逆で、「世界→主人公」という構図で、主人公はそれに全く抗うことができない厳しい状況だ。選択権がない感じ。ヒロイズムとマケジズムはあまり仲良くないんだろう。カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」ではそれがすごく良く作られていて、ぼくはヨダレが出そうになるのだ。主人公は色々と奮闘するが、全ての人間の行動が、ある大きな力によって動かされ、それも今に始まったことじゃなくて人類史そのものが、ひとつの目的を成し得るためだったという壮大な設定は、まるで抗えない主人公のマケジズム根性をよくぞSFで書いた素晴らしいもんだ。

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まあ個人的にそういうのが好きっていうだけだから、あまり共感しないかもしれない。

もう一つ、個人的にすごく好きなタイプのものがある。それは、なんと形容すればわからないけど、ごく簡単にいえば、物語を捨てたような物語、って感じだろうか。小説だと、当然ストーリーというものがあって、主人公が苦悩したり世界に危機が迫ったり恋をしたりして進んでいくんだけど、まあそんな作り話はさて置いて、もっと別の部分を見せてくれるものが好きだ。言ってみれば、物語を蔑ろにしている文章、って感じでしょうか。これは本とか読まない人はあまりピンとこないかもしれない。だからちょっとだけ解説してみよう。
例えば、コメディ映画とか。
「最終絶叫計画」っていうパロディ映画が何年か前にあった。原題は「Screamovie」で、「スクリーム」を中心にパロっている。あれはストーリーなんかどうでもよくて、どの映画をどんな風にパロディにするか、というところをみせる。パロディの良し悪しだけだから、ストーリーなんか矛盾しまくってるし、どうでもいい。
コメディってのは昔からそうやって物語を超えてきた。それは物語以前に「笑い」という構造が先行しているから。古くは「ドン・キホーテ」、「トリスタラム・シャンディ」、「ガリバー旅行記」、今考えるととても前衛的に思えることを普通にやってる。
そういう小説を、アンチロマンなんて言ったりしたし、今日言うような「メタフィクション」の大先輩にあたるのは、みんなコメディだ(たぶん)
まあでも、ぼくはコメディが好きなわけじゃない。
映画だと、ウディ・アレン「アニー・ホール」、テリー・ギリアム「未来世紀ブラジル」、クェンティン・タランティーノ「キル・ビル」、ジャン=リュック・ゴダール「気狂いピエロ」、ヴィム・ヴェンダース「ベルリン・天使の詩」、ジム・ジャームッシュ「コーヒー・アンド・シガレット」、市川準「たどんとちくわ」、北野武「TAKESHI'S」とか。
最近だとスピルバーグの「スーパー・エイト」もそうだと思う。しっかりとしたストーリーのある映画だけど、それと同時進行で少年時代のスピルバーグの「作っていたかもしれないホラー映画」が徐々に製作されていくという二重構造は、事故言及的でもあるし、ファンサービスでもあるし、ただ単にスピルバーグ自身のお遊びかもしれない。

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小説だとジェイムズ・ジョイスやルイス・キャロルなど言語の仙人はもちろんだし、ウィリアム・バロウズ、ロバート・クーヴァー、イタロ・カルヴィーノ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、トマス・ピンチョン、ドナルド・バーセルミ、高橋源一郎、筒井康隆、清水義範など枚挙にきりがない。最近の好きな日本作家だと、川上未映子の「わたくし率イン歯ー、または世界」や磯崎憲一郎「赤の他人の瓜二つ」などは、ほとんどストーリーが機能していないのに読ませるだけの確信犯的な余談やお遊びや仕掛けが素晴らしかった。

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最近読んだウィリアム・T・ヴォルマン(William T. Vollmann)の「ハッピー・ガールズ、バッド・ガールズ(Thirteen Stories and Thirteen Epitaphas)」は、マケジズムとストーリーの軽視がちょうど心地の良い按配に煮詰まれた作品だった。
この作品の面白さを紹介しようと思ったんだけど、なんかもう色々書きすぎたので、それはもうAmazonのレヴューでもみてもらうことにしよう。
この作品の中で気になったのが、ケンという写真家だ。作中で、ケンは落ちぶれた底辺の様な地区に住んでいて、日本人と付き合ってふられたりタイ人の娼婦と結婚したりしているのだが、まぁ読んでくうちに、ケンという人物にどんどん惹かれていってしまう。
それで調べてみたら、ケンは実在する写真家だった。残念な地区に住むホームレスや娼婦やスキンズ達を写真に撮っていて、写真集はR指定だった。実際ヴォルマンの友人で、ヴォルマンはその写真集に文章で参加している。ヴォルマンはケンに初めて会った頃、「ケンがホームレスのキャンプへ迷うことなく足を運び、その全員と知り合いだったことに驚いた」らしい(訳者あとがきより)。ヴォルマンの文章は高橋源一郎がもっとクールでビートニクになったような生き生きとした文体で、ケンも僕の中のイメージではベン・アフレックそっくりなのだ。
そんなケン・ミラーの写真集が欲しい今日この頃。
Amazonで買おうかしら。



Ken Miller "Open All Night"より

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Thirteen Stories and Thirteen Epitaphas
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真ん中の黒髪女性がケンの元カノの日本人でしょうか?

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