三島由紀夫の『音楽』という本は、大学の先生が授業中に勧めていたので、すぐに買って読んだ。この先生は、大学入試の面接のときに、ぼくが「安部公房が好き」だと言うと、そこから彼は興奮して「安部公房は戦後最大の作家だ」とぬかしたので、ぼくも負けじと「中学生のとき、箱を被って下校し、郵便局員にとめられました。郵便局員に職務質問をされたのは初めてです」というと彼はさらに興奮して「君には良い点数をつけておく」と言って、まわりの教授たちを苦笑いさせていたような先生だ。
この先生はぼくが大学に入って1年ほどで亡くなってしまった。前立腺癌だったそうな。死ぬ少し前に「もう少しでベートーヴェンと北野武の作品の構造を比較した画期的な論文が完成するんだ!」というよくわからないことを言っていたくらいだから、相当しんどかったんだろう。
ともかく生きていたころの授業中(楽式論という授業だった)に、三島由紀夫の『音楽』を生徒に向かって勧めてきたのだ。
『音楽』の主人公は精神分析医で、そこに美しい不感症の女性が診察にくる。
物語中、精神分析医の妻であり看護婦である女が、不感症の女に嫉妬する場面がある。
精神分析医の妻がなぜ不感症の女に嫉妬したのかというと、それは不感症の女が男を下に見ているかららしい。女はセックスで男に勝つことができない。どんなに男を手玉にとる悪女を演じていても、事が始まれば声を荒げ、快楽に負けてしまう。
しかしこの不感症の女を、どんな男も満足させてやる事はできない。あらゆる技法を駆使し、どれほど時間をかけても、声を一切荒げない不感の女の前で、男は哀しく射精するのだ。
不感症の女は、男女のレースから抜け駆けしていて、男はその女を求めるが決して満足させることはできずに敗北するのだ。
女は性的弱者であることに何らかのコンプレックスがあるのかもしれない。お姉キャラのテレビ進出は、そうした性のレースから逸脱した勝者としての希望を映し出しているように思える。
男女の駆け引きから解放された真の自由に、暗に憧れる節はある。
アンドロギュノスという両性具有は、プラトンにまで遡る。
男女はもともと一つの体であったが、ゼウスの怒りにふれ、真っ二つにされてしまった。以降、彼らは自分の片割れを探し求めて旅をするのだ。
とすれば両性具有は人間の完全版であるから、自給自足の憧れにも似た自由なものを感じるのだ。
しかしお姉キャラが中性的なジェンダーを演じていないように、半陰陽者も、全く中性を演じることをのぞまない。
お姉キャラが中性的でないことは、ボードリヤールは、性倒錯者の、ジェンダーのステレオタイプのパロディーという風な感じで説明している。お姉キャラは口調も格好もまさに「女性のパロディ」というのが相応しく、リアルな女性とは全く違う。
半陰陽者はほとんどの人が「インターセックス」という第三の性の呼称を嫌い、女性もしくは男性として生きる。
性分化疾患者
完全なものへの憧れにも不完全なものへの憧れにも、無い物ねだりの感は否めない。
ぼくはもちろん「極端な男」であり、「男の中の男」である。もちろん極端な女を欲するのさ。髪も今日ばっさり切った。武術もやっている。ぼくは男の中の男さ。そうなのさ。
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