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2021/06/28

嘘つきアーティストと誠実な政治家(行動批評と我らのホーマー・シンプソン)

ぼくは音楽をやって生活しているくせに音楽家が嫌いだ。

ツイッターで、アーティストがやたらと気高いかっこいい文句を垂れ流しているのを見て、「はいはい、きっと素敵な芸術家のソウルをお持ちなのですね!」と心の中のメディチ家夫人が声を出し「どうぞ自分の世界だけでお過ごしください。哀れな人民を惑わしてしまわぬように、自分の世界だけで!」と付け加え、心の中の朝のチョコレートドリンクを一口。

詩人は危険だから、国外追放でもした方が良いと言った賢者は誰だっただろうか。

それから忘れられない映画『暴君ネロ』でのネロ大帝に対する詩人の最期の言葉。

どうぞローマに火を放ちください、どうぞキリスト教徒を虐殺してください、ですが、その下手な詩の披露だけはおやめください!


心のメディチ家。


ふとした時に、政治哲学の本を読むよりもジョン・レノンの歌の中にこそ世界平和の糸口が見つかるはずだ、などと思い込んでしまう時がある。大抵は、久しぶりにジョン・レノンの曲を聴いて感動した時なんかに。
また、ビリー・アイリッシュの素晴らしい曲を聴いていると、彼女が歌い上げる根暗っぽいティーネイジャー感覚に思いを馳せる一方で、その対極っぽい極端に優等生なティーネイジャーであるグレタ・トゥーンベリの主張をひとつひとつ読んで検討する気が失せてしまう。もちろんこの比較は全然フェアじゃない。

ぼくらはいつでも判断を間違ってしまう。コロナ流行中のオリンピックには反対しても、ミュージシャンのライブイベントには賛成する。なぜなら、政治家やそれに関わる大企業は嘘つきばかりで、ミュージシャンは真実を言うからだ。

ぼくらは直感的に、政治家は嘘つきでミュージシャンは真実を語っていると判断してしまう。

ただしこれにぼくは異議を申し立てる。
ミュージシャンは政治家なんかよりもよっぽど嘘つきで、無知で、自己中心的で、卑怯だ。そのくせ彼らは責任を取らされることもないし、任期もない

音楽家は音楽という自らの武器によってリスナーの感情に直接的に取り入って、彼らを思いのままに操る。良い音楽を聴いていると、本当にそれが真実を語っていて、世界の問題がすべて一瞬にして解決してしまうような錯覚に陥ることがある。音楽という抽象的な表現物に世界の問題の解決を求めるくらいなら、政治や経済や環境問題や哲学の専門書や論文に目を向ける方がよっぽど近道なはずなのに。
良い音楽はとても素晴らしい。存在それだけで素晴らしい。しかしだからといってそれが世界の問題を解決するとは限らない。それに、良い音楽を作るからといって、彼らのSNSでの発言が正しいとは限らない。良い音楽を作るからといって、彼らが嘘つきではないとは限らない。

良い音楽を作るアーティストは嘘をつかないはずだという直感的なエラーには「ハロー効果」というポップな診断名がついているので、その他の膨大に研究されている人間のエラーと比べて多少はそのバグに気付きやすい。ハロー効果は、「よい人間のやることはすべてよく、悪い人間のやることは全て悪い」というように評価に過剰な一貫性を持たせる働きをする。

ちなみに政治家が嘘つきであるという思い込みの原因は、普通の人が嘘をついた時よりも、政治家が嘘をついた時の方が報道されやすいということが原因だ。私たちは直感的に統計を考える時に、思い出しやすいもの、つまり利用可能性が高いものに判断が偏ってしまう。政治家の不正が報道された例はいくつも容易に思い出せるが、ミュージシャンの不正報道は思い出しづらい(というか報道される頻度が少ない)。このタイプの偏りの原因には「利用可能性ヒューリスティック」という名前がついている。

このようにエラーを起こす原因となる、(頭の中の)直感的な近道のことはヒューリスティックと呼ばれ、その結果起こる判断の偏りはバイアスと呼ばれる。ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーはこれらを研究して「ヒューリスティクスとバイアス」としてまとめた。カーネマンは心理学者だが、これらの業績で2002年にノーベル経済学賞を受賞した(トヴェルスキーは惜しくも受賞前に亡くなった)。とりわけ彼らの、ある状況下での選択に関する理論はプロスペクト理論と呼ばれているが、ここでは詳しく話さない。

ところでプロフェッショナルな場所に目を移してみる。音楽理論や作曲法は、これまで音楽の物理現象がリスナーにどのような影響を与えるだろうかということを真剣に考えてきた。例えば(すごく簡単な言い方をすれば)メジャーコードは明るく感じ、マイナーコードは暗く感じる、と言う風に。そこには想定される理想のリスナーというものがいて、メジャーコードを聴いて暗く感じたり、不協和音を聴いて安心感を得る、という変わり者のリスナーは想定されていない。

ある評論家がビートルズの楽曲について「とても独特で不思議なコード進行だ」と表現したとして、その評論を読んだ読者がビートルズのその曲を聴いた時に、その「不思議さ」を体感できない時がある。
批評家は、架空のリスナーを想定している。それは決して間違った聴き方をすることなく、過去のあらゆる先行する音楽を記憶しており、楽曲に関わる時代背景を完璧に理解し、作者の生い立ちまで把握しており、相当な処理速度で楽曲分析ができるようなリスナーだ。

でも実際にはそんなリスナーは存在しない。単純でつまらないと思えるような楽曲が実際には(専門家にいわせると)複雑なコード進行で構成されていたり、また複雑な構成に感じる楽曲は実はその逆であったりということは非常によくある。なんの変化も感じられないようなミニマルでつまらない楽曲が、映画のBGMになった途端に心を動かすのはなぜだろう。逆に映画本編を見たことがないサウンドトラックには心を動かされないことが多い。
リスナーが音楽を体験する時の直感的な判断と、批評家の論理的な解釈には時折ギャップがあるということだ。

また、批評家の頭の中にも、直感と論理的な判断が混在している。
たとえば評論や批評において、楽曲の選択にバイアスがかかっていないことなどない。
生存者バイアスというものを例に考えてみる。

第二次世界大戦中に海軍の分析センターでは、任務から戻った航空機が受けた損傷の研究を行った。研究の結果、最も損傷が多かった部位(敵から最も被弾した部分)を補強する、というためだ。つまり、敵に狙われやすい部分を補強すればさらに安全度が増すわけだ。

しかし統計学者のエイブラハム・ウォールドは、全く逆の提案をした。
つまり、「最も損傷が少ない部位を補強する」ということ。
これには生存者バイアスというものが関わっていて、何かの事象について考える時に、生きている人の話は参考になるが、死んでいる人の話は(死んでるので話がきけないので)無視される、ということ。
つまり、生還しなかった航空機の損傷が考慮されていないのだ。
帰還した航空機が受けた損傷は、「被弾しても助かる部位」であり、それ以外の部位に被弾した航空機は生還していない、ということ。
なので、最も損傷が少ない部位を補強するのが正しいことになる。


生還した機体の被弾部位は、被弾しても帰還できる可能性が高い部位でもある。

これには反省しないといけない教訓が山ほどある。ぼくも常日頃、アーティストはこういうやつばっかりだとか、こういう曲が多いからとか言うのだけど、それはつまり売れてるアーティストや人気のある曲の話でしかない。それをまるで楽曲全般のセオリーかのように話すわけだ。
ぼくらは成功した音楽家の批評や評論しか目にすることがない。
例えば、この曲のコード進行は素晴らしい、という意見は、全く同じコード進行で書かれた全く売れていない(さらに言うと名曲とは感じられない)曲が世界中に存在しているという事実を無視している。
ここでは売れていないアーティストを「非生存者」として喩えているので、非常に不謹慎ではあるけど。

音楽を聴く、また批評する、また表現する、というときには様々な方向性に、普段は気づかないバイアスがかかっている。
ぼくは最近こういうことを行動批評という言葉を使って考えるようになった。

行動批評は、ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーの提唱する行動経済学(Behavioral economics)の考え方を発想の基本軸としている。ちなみにこの英語由来の言葉は態度経済学とも訳せるが、芸術家の坂口恭平さんの提唱する態度経済はアティチュードの方の態度なので全く別物、お間違えなく。
実をいうと、さっきから言及しているバイアスやら直感的な判断のエラーといったカーネマンとトヴァルスキーの研究は、行動経済学の基礎理論になっている。

経済学者というものは、差し迫った問題、たとえば、失業中に仕事を探し出す最適の方法というような問題の解決法の発見に一年もかけておきながら、失業者はとっくの昔にその解決方法を知っていてそれに従って行動するであろうという理論を、平気でつくる類いの人たちなのである。経済学者が一年間も苦闘しなければならないような問題を、普通の人なら誰でも直感で解決できるとする想定は、見上げた謙虚さの発露なのかもしれないが、そんなにあっさり割り切っていいのかどうか、やや疑わしい。どう考えても、人びとが単に間違った答えを出すという可能性だってあるはずだ。
リチャード・セイラー『セイラー教授の行動経済学入門』(ダイヤモンド社)

批評家とリスナーの間にも同じようなことが言えるし、また創作者とリスナーにこれを置き換えることもできる。戦後の現代音楽以後、リスナーを置いてけぼりにしてきてしまった感というのはよく指摘されてきた問題だけれど、かならずしもそれは難解な作品だけにいえるようなことではない。

経済学ではこうした論理的に最適解を導いてすぐさま行動するという架空の人物を想定しており、ホモ・エコノミカスと呼ばれる。
批評の分野でもそうしたことは想定されてきた。
批評家のジョナサン・カラーは「理想的読者」を提唱した。また「理想的読者」はその元にノーム・チョムスキーの提唱する「理想的話者/聴者」がある。またこの対極に、デイヴィッド・ブライヒの提案する「批評家読者」があるし、他にも様々な文芸批評家が架空の読者について論じてきた。

行動経済学の関連書籍はだいたいがビギナー投資家や起業家向けの「成功するための行動法則」的なつまらない本ばかりで、特に「企業が消費者を騙して大成功するための裏技」的な利用のされ方で流行ってる「リバタリアン・パターナリズム」もしくは「ナッジ」という手法についての本が多い。
音楽はリバタリアン・パターナリズムそのものなので、ついでに以下にセイラーの言葉を引用する。

リバタリアン・パターナリズムは相対的に弱く、ソフトで、押しつけ的ではない形のパターナリズムである。選択の自由が妨げられているわけでも、選択肢が制限されているわけでも、選択が大きな負担になるわけでもない。タバコを吸いたいとか、キャンディーをたくさん食べたいとか、続けられないような医療保険プランを選びたいとか、老後の資金を貯められなくてもかまわないとかいう人がいても、リバタリアン・パターナリストはそうしないように強制することはないし、そうしづらくすることさえしない。それでもわれわれが勧めるアプローチはパターナリズムの一種とみなされる。
リチャード・セイラー / キャス・サンスティーン『実践 行動経済学』(日経BP)

よく紹介される例として、男性用小便器に記されている、ダーツのような丸い印。これは的があったら狙いたくなるという人間の習性を利用して、綺麗に公共のトイレを利用してもらおうというナッジのひとつだと言われている。
音楽は作者の意図をもって、リスナーを静かに誘導する。しかしそれに強制力はない。非常に弱い誘導だといっていい。


セイラーは「私たちはみなホーマー・シンプソンだ」と言う。間違った選択をして、矛盾する行動をして、感覚的に生きている。
行動批評は、別に「我々はホーマー・シンプソンから抜け出し、新人類を目指すのだ」と声高く叫ぶわけではない。
そうではなくて、「われわれはみなホーマー・シンプソンである!」と認めることだと思う。
直感的な判断によるエラーが音楽の需要や創作や批評にどのような影響を与えるか、ということは今の所ほとんどわからない。行動批評という言葉は手っ取り早いので批評という言葉になっているが、別にそれは批評のスタイルを指す言葉ではないと思う。音楽や絵画や映画を中心として、その周りにいる読者やリスナーや鑑賞者、それから作者や批評家といった人々のなんらかのアクションの不具合を観察していくことなのだと思う。ああ、ここに、こういう勘違いがありますね。これはあれですね、システム1(心理学では直感的な判断のことをそう呼ぶ)によるエラーですね、と言う風に。

我々ことホーマー・シンプソン


話を劇的に元に戻すと、
アーティストはみな嘘つきだ、と書いたけど、そんなことはない。
正しくは、
アーティストは政治家と同じような頻度で嘘をつく、ということ。
もしそうじゃないと思えるような統計データがあればみてみたい。その可能性は全然あるのだから。
ぼくもアーティストに対するうがった見方がある(つまり何らかのバイアスがかかっている)ので、信用性はとても低い。



2021/04/29

自分は年齢を意識してないと言う人へ 私が年齢をNGにした理由

 






以前にもブログに書いたことなのだけど、ちょっとした進捗情報。不思議と年齢について考える機会が多かったので。というかずっと考えている。


年齢差別による現状を話す時に、真っ先に返ってくるのは、

「私は年齢で人を差別したりしないし、普段年齢を意識してないよ」という大雑把な回答。

問題なのはあなた自身の感覚ではなくて、社会的な構造。

それに加えて、社会的な構造があなたの意識を定義しているということ。


多くの人が「自分は普段、他人の年齢なんか意識していない」と答えるが、それがまず最初の典型的な差別構造だということ。

差別は通常は意識されていないものの中にあるから。

年齢に対して意識していないと思い込んでいること自体が問題なのかもしれないと思う。


私たちは普段生活していると、(それが差別かどうかとは関係なく)様々な構造的な年齢意識の中に生きている。スマートフォンの契約になぜ関係のない年齢を記入するのか、アルバイトの募集要項にはなぜ年齢制限が記されているのか、またメディアは超高齢化社会の只中で若者VS大人たちという対立を煽っているし、ニュースではすべての出演者の名前とともに年齢がテロップで映し出され、年齢を言い表す様々な豊かな日本語表現や流行り言葉(ゆとり、ブーマー、熟女、ロリコン、高齢出産、大器晩成、早熟、童貞、婚期などなど)を駆使して会話する。もちろんこれらが差別ということではない。

私たちはそういうものの真っ只中で生きている、ということが言いたい。


そこから脱却する、もしくはその中に潜んだ差別的状況を改善する、というためには、ただひたすらに年齢についての差別構造を積極的に意識し、知っていくことから始めなければならない。


だから「私は普段人の年齢を意識していない」ということは、端的に年齢差別に加担しているといって言いすぎじゃないと思う。いやこれは圧が強い言い方なので撤回。


LGBTQのデモやパレードが日本で紹介されたり、それら差別構造について問題視され始めた頃に常に言われていたのは、それらを「よく知る」ことが先決だということだ。

なぜなら性的マイノリティは長らく存在しないと思われていたか、もしくは存在したとしてもごく少ないものと思われていたか、もしくは単にごくごく稀な病気か障害だと考えられていたのだから。


私たちは長らく続いていた年功序列という社会組織のシステムから脱却しようとしている。以前では考えられないほどに平均寿命は長くなり、また一方で若者の自殺率が問題となっている。超高齢化社会への突入で出てきたスケープゴートは「老害」という新語ばかりではない。それはJKという架空のブランドであったり、ミス〇〇という名の品評会であったり、独特の絵文字使いで知られる〇〇おじさんであったり、また選挙の度に大々的に報じられる若者の投票率の低さであるのだ。

○○歳とは思えない若々しさ、といったタイトルの記事を目にするたびに、ぼくは気絶しそうになる。こういったトピックが当の本人と年齢の繋がりを強いものにし、特別な重圧感を与えていることに対して、失神しそうになる。


断っておくと、年齢という指標はとても大事だ。

様々な病気のリスクは年齢を基準にして考えることができるし、古き良き儒教的な「年上には敬意を持つ」という文化も素晴らしい。

でも、だからこそ悲劇を招くのだ。

たとえば、女性にとって年齢は、否応なしに結婚と出産というあまりにも大きなテーマと結びつけて考えられることになるから。

なぜなら確かに妊娠適齢期(大嫌いな言葉だ)を考えることによって出産時の母体のリスクを減らせるし、婚活(これも大嫌い)が少子化を少しでも抑えてくれるかもしれない。だけどもそれらはとても個人的な問題であって、他人からとやかく指摘されることではない。医者であればともかくとして。

男性は「そろそろ結婚だな」と言い、女性は自嘲気味に自分を「売れ残り」と卑下し、ワイドショーでは会ったこともない芸能人が薬指の指輪を披露する。


考えてみれば、結婚、出産、ついでに言うならセックス、というとてもパーソナルなプライベートな情報を、年齢によって他人から精査されるという異常な状況を私たちは甘んじて受け入れてきた。


しかし現実に目を向けると、

成人女性の3人に一人は堕胎の経験があるし、

結婚経験者の3人に一人は離婚の経験があるし、

妊娠経験のある女性の3人に一人は流産の経験があるし、

男性の5人に一人は生涯未婚で、女性の10人に一人は生涯未婚で、

女性の6人に一人は生涯出産経験がなく、

12人に一人は性的マイノリティーだと「自覚」しているし、

5人に一人は同性に魅力を感じた経験がある。


数の問題ではない。このようなグラデーションをぼくらは普段ついつい無視して、存在しないものとして扱っている。

だから、就職面接で書く履歴書に年齢を書くことにはNOと言わなければならない。

これはアメリカでは違法なことなのだから。


同じように、ぼくは、1人のアーティストとして、年齢を非公開にすることにした。

それに対して「アイドルじゃないんだから」と思うあなたはまだまだわかっていない。


ぼくは大学生の時に、「人に年齢をきかない」というルールを設けて、以来一度も人に年齢をきいていないのだけれど、

もうひとつルールを追加。

すなわち「自分の年齢もいわない」というルール。


なので、数人で談笑している時に、誰かがぼくの年齢を聞いてきたときに大抵の場合、変な空気になるのだ。


何歳ですか? と聞かれて、

知りません と答えるから。


変な空気にするつもりは毛頭ないし、それどころか、ぼくのこの対応が、まわりの人たちに対して不親切というか、嫌な対応だ、という自覚すらしている。

それでもなぜ年齢を人に言わないか。


なぜなら、現代の価値観は、年齢という目線を越えることができるし、そうするべきだと思うから。その方がハッピーだと思うから。

容姿や性別による侮蔑表現が、バラエティ番組で見る機会が少なくなってきたのは、単に受けないという理由だろうと思う。誰もそんなことで笑わなくなってきた。そういう空気感なんだろうと思う。

だけれど、そういったものの根元にある年齢という価値基準は、まだまだ置き去りにされているように思える。

だからってなぜそれをぼくが実践する気になったのかというと、正直よくわからない。単なる気まぐれかもしれないけど、ひとまずご報告。


ついでに、音楽活動をする上での他のNGルールも合わせて発表しておきます。以下お見知り置きを。

1、年齢

2、住んでる場所

3、交際関係


確かに上記は、かつてのアイドルのNGリストのように思える。超有名人でもなければ、お人形的イメージ先行型の古き良きアイドルでもないぼくが、このタイミングでこれらを決めたことには大して意味はない。しかしなぜかずっと自分の中で引っかかっていた事柄なので一度決めてしまった現在、なんというかせいせいしている、というか正直気持ちが良い。


2021/01/22

西野亮廣『えんとつ町のプペル』が救いようのない最低の駄作だったという話

最近、西野亮廣さんの絵本『えんとつ町のプペル』を読んだので、これが話題作だということもあって、感想をつらつら綴ってみようと思い至った。批評ではなく、本当にただの感想。

というのも西野亮廣さんの絵本(もしくはそれを映画化した)『えんとつ町のプペル』について、大絶賛や大批判の声をきくのだけど、その膨大な感想のほとんどはプロモーションやセールスや制作の裏話、もしくは作者の人柄に関することなどで、作品それ自体の中身についての感想というものを目にする機会があまりなかった。

とはいえ、いきなり横道に逸れてしまうのだけど、西野さんは数年来、賛否の多いタイプのスターであるので、彼を批判するにしても褒めるにしても相応の需要があるものだ。芸人としても起業家としても、輝かしい成功を収めているように思える西野さんを、なんとか一発ノックアウトしたいという歪んだ民衆根性は確かにあるし、その気持ちもわかるのだけど、ぼくはそれがしたいわけではない。西野さんはある種の天才だとぼくは思うし、ここ数年のバラエティ番組の立ち回り(かなりキツめのいじられ方をされてきたように思う)も好きだし、イベントなどでの自己啓発感満載のトークにしても、その尋常じゃない行動力にしても、信念を貫く姿勢も、その発想力も、少なからず学びたい部分はある。ともかく、ただ1人の芸人が、たった1人で絵本をつくって、映画にまでするというのはとんでもない信念と努力と時間と計画と多くの人の協力がなければできなかっただろうと容易に想像でき、もうそこに関しては頭があがらないのだ。オンラインサロンが宗教っぽいとか、売り出し方が詐欺っぽいとか、ぽいぽいぽいぽい、そんなことはどうだって良い。売れたら勝ち。西野さんはすごい。

んで、

『えんとつ町のプペル』の感想

この作品はぼくにとって第一に最低の絵本であって、どこがどういう風に最低であるのかはこれから話すけれど、本当に読むには値しない作品であるということをはっきりと申し上げたい。


全ページ無料で読めるので、ぜひお読みください



絵について。

はっきり言ってなんの魅力もない絵。前景と背景の方法論が極めて機能的だと感じた。たとえば1ページ内に複数のコマがある漫画の世界では、極めて分かりやすい前景・背景の技術は目を見張るものがあるが、1ページないし2ページを基本単位とする絵本というものにおいては、背景といった概念はあるようでない。それは背景が細部までよく作り込まれているとかそういう話ではなくて、そもそも背景という概念がない。なぜなら絵本における1ページないし2ページというものは単に物語を説明したものではなく、それ自体が世界のほとんどすべてであって、読み手はたった1枚の絵を心ゆくまで堪能し、気に入ったページはいつまでも見ていたい気分になり、また何度でも見たくなる。画家がまず最初に画集ではなく絵本によって評価されるように、絵本は最小限の物語を与えられた画集に違いない。であるから、絵本に背景というものは存在しない。

それはピーター・スピアー『せかいのひとびと』のような細部まで描かれた絵であっても、またガブリエル・バンサン『アンジュール』のようなシンプルな絵であっても同じ。背景はあるようでない。

ピーター・スピアー『せかいのひとびと』

ガブリエル・バンサン『アンジュール』




もともと西野さんは遠景とキャラクターをはっきりとわけて描く作家ではなく、非常に細やかに書き込まれた遠景と近景の人物が溶け込んでいるようなタイプの絵を描いていた。しかしながら今作『えんとつ町のプペル』ではこの対立がはっきりと強調されてしまい、その原因が分業制の方法にあるのではないかと思った。

西野亮廣『Zip&Candy』

絵本、および絵画はもともとも分業制の多い現場であることは間違いないが、美術の分野で分業制を肯定的に広めていったのはアンディー・ウォーホルであり、日本の現代アートにおいてその重要性を知らしめたのは村上隆さんだと思う。村上隆さんは『芸術起業家論』の中でいわゆる現代アートの中でいかにして分業制を成功させるかということを強調したが、当時はそれに批判的な人も多かった。であるのでこれを令和の時代に西野さんが挑戦していることに対してウォーホルや村上隆と同じように批判がくることは想像できるが、唯一ウォーホルや村上隆と状況が違うのは、プロにとってはそれが極めて当たり前になっている状況で、一般の読者とは感覚が乖離している点だろう。絵の分業制はまったく新しいことではないのだから。

『えんとつ町のプペル』の絵に対して全く魅力を感じない原因は、これまで西野さんが描いていた作品とは違い、前景と背景の強調された、いわゆるキャラクター重視の作品になってしまっているところにある。

物語について。

絵本の物語において、ぼくが常々思っているのは、絵本は説教であったり道徳教育であったりまた教訓を学んだりするものではないということ。
良い絵本は、子供がやってはいけないこと、親からすればこんなことを子供がしては困るようなことがたくさんつまっている。現実にはできないタブーがつまった夢の世界だ。センダック『かいじゅうたちのいるところ』は、親の言うことをきかない子供が家を飛び出して、怪獣の国の王様になる物語だが、当時多くのPTAがこの内容に反対した。先に挙げたピーター・スピアー『きっとみんなよろこぶよ!』では、親のいない間に子供たちが家中に落書きをする話であり、『ああたいくつだ』では家中の機械やなんやらを解体しまくって自作の飛行機を作って親にこっぴどく怒られる。しかしかといって、親に怒られることで「これはやってはいけないことなんですよ」と学びを得るわけではない。


ピーター・スピアー『きっとみんなよろこぶよ!』


それになんといっても、絵本のすばらしいところは、物語としてたとえ一貫した説得力のある構成がなくても、絵や物語設定を含めた世界観に魅了されて、そもそもそれで納得できるところにある。
小説や映画であれば相当にシュールで前衛と思われかねないような物語であっても、絵本になったとたんにそうではなくなってしまう。長新太『ごろごろにゃーん』は飛行船にのった猫たちがごろごろにゃーんと鳴きながら海を渡っていくだけの話。青虫が蝶になるというただそれだけのエリック・カール『はらぺこあおむし』、熊狩りに家族で出かけるにも関わらず、熊に出会って一目散に逃げるマイケル・ローゼン『きょうは みんなで クマがりだ』など、枚挙にいとまがない。
そこに教訓もなければ説教もない。いや、『はらぺこあおむし』はどんなにパッとしない人でも成長して輝くことができる、とか、『クマがり』は熊に出会ったら逃げるということを子供に教えるものだ、とか、まあいくらでも言うことができるんだけど、そんなものはどうだっていい。とにかく愉快だったり奇妙だったり不可解だったりする絵の世界に没入できるのであって、そこに風刺やメタファーやアイロニーや裏テーマのようなものはない。

しかし『えんとつ町のプペル』は最初から教訓めいている。しかもその教訓というのは「お前が見たものを信じ抜け」というもので、最悪なことに、それは主人公の父親が言った台詞。父親が言ったことばをその通りに子供が受け取って実行する。これは絵本として最低の構図だとぼくは思う。

キャラクターについて。

全員白人で青い目か緑の目。
以上。
堀江貴文さんはこの作品のキャラが海外の読者には共感されるだろうと言ったが、この多様性の全くないキャラたちにどこの国の読者が共感するのか全くわからない。

町の描写について。

日本を含むアジアのサイバーパンク的スラム風の街並みと綺麗好きな郊外在住風白人キャラの登場人物たち。世界観が破綻しいていて心が乗らない。

思想性について。

稚拙。

えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会の風刺。(
作者のあとがきより引用)
行動すれば叩かれるというのが現代社会特有のものとはとうてい思えない。これが寓話であることはわかるが風刺としてはひたすらに弱い。古典ではセルバンテス『ドン・キホーテ』(これは傑作)を出すまでもなく、特にフランス革命以後ロマン派の最も凡庸なテーマ。近代以後で名前を出すとしたら、誰に笑われても自分の信念を突き通した男の物語『月と6ペンス』(モーム)は傑作だけど、これが現代社会の風刺だとは誰も思わない。なぜならこれは大昔から集団社会の中に常に存在するものであって、なんら同時代的テーマではないから。





2021/01/09

新年にだらだらと音楽制作しています。

新年早々に兄がうちで動画制作をする。兄は大学時代から映画制作をしていて、ぼくは思春期にそんな兄を見て育ったし、編集ソフトは何を使うのが良いかとか、そういうことを昔から相談してたのだけど、当時から彼はバリバリ自分で編集するタイプではないし、ここ最近はずっとmacaroomごとでも動画編集はすべてぼくがやっていたので、気づけば簡単な編集のノウハウをぼくが兄に教える、という逆転現象が起きている。



出来上がった動画は兄のYouTubeチャンネルで発表されてるので、チェックしてみてください。

木石南のYouTubeチャンネル

知久さんとは劇伴制作の新春ミーティングと新春レコーディング。集まるや否やコンビニへ直行、ビールとウィスキーと氷とつまみを買い込む。それでも4曲もレコーディングする、さすがプロ。やることはきっちりやりつつ、あとは野となれ山となれ。

知久さん持参のシンセが中心の録音。

音高など関係のないタイプの音色を、知久さんが足で鍵盤を抑えながら手で様々なツマミをいじる。

音高が関係するもの(つまり、五線譜通りに弾かねばならないもの)は知久さんが音作りをして、それをぼくが弾く。

ぼくも一応シンセ弾きなのだけど、ハードのシンセとこれまできちんと向き合ってこなかったタイプの音楽家、つまりはVSTソフトシンセ世代のゆとり鍵盤弾きということで、一方の知久さんは90年代にこのBass Stationというアナログシンセに惚れ込んで2台購入、以後愛し続けているというタイプのアーティストですので、音作りは完全に任せっきり。





emaruはみーくんと樹海(きみ)ちゃんの2人をキャスティングしたトーク番組というか、すべらない話のようなものを開催したいと仕切りに申しており、ボブは電話で知久さんに重大発表を行う(これについてはボブがまだ解禁してないので秘密)、みーくんは次の映像作品の打診をし、知久さんは(コロナの流行で)しばらくタイに行けないからどうしようかなと言いつつ呑気に笑っており、ぼくが淹れたコーヒーを(普段知久さんはコーヒーを飲まない)一口だけ飲んで「うむ」とだけ言う。


ぼくは、自分自身のたのしみのための音楽ではなくて、外に発表することを前提とした仕事としての音楽において、人生で最初の音楽作品は劇伴だった。それは高校生の時で、当時大阪芸大の学生だった兄が映画制作をするので、その音楽をつけてくれ、という依頼だった。ぼくは兄の映画が大好きで憧れてさえいたし、しかもぼくの当時の音楽は知り合いのバーでちょっとジャズ風のピアノを披露するとか、組んだばかりのバンドで演奏をする程度のものだったので、この依頼はぼくの中でちょっとした挑戦だった。

というわけでぼくの音楽家としてのキャリアは劇伴制作から始まったといって過言ではない。

兄に言われるままに、エゴラッピン風のロック歌謡や、スーパーカー風のエレクトロな音楽(今思えばこれがmacaroomの原型になった)、当時ぶいぶいいわせてて無敵なオーラを放っていた中田ヤスタカのCapsuleのパクリソング、素朴なピアノの小品、などなどを制作した。ぼくは当時から清水義範のパスティースとよばれる、文体模倣のようなものが好きだったので、いわばパクリとパロディで成り立つ音楽制作というものは性に合っていた。

音楽はそもそもパクリで成り立っていて、オリジナリティみたいなものは幻想に過ぎないけれど、それでも映画やドラマの劇伴はそのパクリ度合いが強くなる現場だろうと思う。チームを組んで作品を制作する時点で、まだできていない音楽に対する見解の一致が必要となる。だから、「今回の音楽はゴッドファーザー風にしましょう」とかいう感じでスタートするわけだ。

それはわりと音楽家の間ではネガティヴな意味合いで語られることが多くて、たとえばある巨匠音楽家が映画の劇伴で「○○風でお願いします」と依頼されて、ブチギレる、というエピソードは事欠かない。

だけどぼくは音楽は多かれ少なかれそんなものだと思っているので、なんとも思わない。

そういえば今回の劇伴制作のレコーディング(昨年に極秘で行われた)では、知久さんのマネージャーのわたせさんから、macaroomの音楽に登場する「よく似たフレーズ」に関する指摘があった。それですぐさまぼくはそのフレーズの元ネタがクリント・イーストウッドから借用したものだと認めて、その時にいたベテランエンジニアの人もイーストウッド好きっぽくて、少しだけ話が盛り上がった。

で、今回の新春レコーディングでは、知久さんの声も少しだけ録音したのだけど、それもイーストウッド主演映画からのパクリで、それに関してはちょっとぼくの思いつきで録った感じがあるので、実際にそれが採用されるかどうかは今の所わからない。