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2018/12/31

都合の良い偽善ライブハウスよ、オサラバ! ノルマとかギャラとか考える2018年最後の投稿




2018年の最後に、こうしてブログを書いている。
ぼくは今、音楽活動をやっていて、それから音楽に関係した執筆活動もやっていて、まあだいたいそんなところ。
ぼくらの音楽はまだ十分には人に認知されていないし、ぼくが思っているほど評価されてもいないので、常に悶々としながらこれからどうやって広げていくかということを夜な夜な(本当に文字通り夜な夜な)考えているのだ。

2018年にあった出来事をざっとおさらいしてみると、

まずmacaroomの3rdアルバムが発売された。イラストレーターの中村佑介さんに推薦コメントを書いていただいたし、アルバムの中身は非常に満足のいくものだった。
それから、ぼくが執筆した『やさしい現代音楽の作曲法』が出版された。
そして、ぼくらがつくった手作りの雑誌『weiwei』が発売された。
そして発売刊行記念イベントも。

現代音楽本の方も、様々なイベントがあった。
ぼくと川島素晴先生と、作曲家の新垣隆さんの三人で本屋でのトークイベント。
そしてゲンロンカフェでの、上記三人+渋谷慶一郎さんとのイベント。
ゲンロンカフェはシリーズ化して、藤倉大さんを招いた。

これに伴って、批評家の東浩紀さんともはじめてお会いして、
それからこれはタイミングが良かったのだけど、
小説家の高橋源一郎さんに数年ぶりにお会いして、
東さん、高橋さんとともにお食事する機会があった。

ライブでは、今年から本格的に兄が東京移住とともにカンフー演武で参加し始めた。
以前はゲスト出演が何度かあったという感じだが、今年はもうスタンダードメンバーな感じで。

そして元たまの知久寿焼さんとのライブイベント。ツーマン。
知久さんとは急激に仲良くなって、一晩飲み明かしたり公園で遊んだり、
とてもお世話になった。
知久さんとのコラボレーションはこれからも続いていくだろう。

それから、ボツになった企画もある。
兄と二人でトーク番組をやるという企画は、何度か撮影したけど、
あまりうまくいかなかったのでお蔵入り。

それから、ぼくがユーチューバーになるという企画は、
emaruからの猛反対、兄は反対はしないけど、うーん、という感じ。
それでボツというか保留になった。

それから、クローバーメディアというところで、
アイドル発掘プロジェクトに関わるようになった。
アイドルの音楽プロデューサーに就任したわけだ。

細かいところでいうと、
macaroomのサブスクリプション完全対応や、
それから、まだ契約したばかりだからあまり公言できないけど、
macaroom楽曲を完全に誰でも利用できるようにシステム化したりだとかあった。


ざっと考えてみただけでもこれだけたくさん。
まだまだ他にもあったかもしれない。

なんだか、非常に緊張感のある1年間だった。


ここ一年ですごく強く思ったことは、
自分の態度を貫くことはすごく大事だが、それよりも、
「自分の態度を発信する」ということがそれ以上に大事だということだ。

ぼくは、たとえば出版社への文句をブログに書いたけど、これは業界関係者に非常に読まれていて、すごく反響があったし、
それ以外のこと、たとえば著作権に関する記事は、実際にアーティストの方から感想を言っていただいた。

別にこれは、ブログを書いたら読んでくれる人がいるとかそういうことを言っているわけではなくて、
ここに表明した態度というものが、実際にコミュニケーションを生産する、ということ。

たとえば、出版関係の文句でいえば、
それ以後、出版関係の人と非常に話しやすくなった。

ぼくが関わる出版関係の人がぼくのブログを読んでいるかは不明だけど、
少なくともぼくは自分に嘘をついてツイートしたりしないから、
変な誤解をされることはない。
でも、いくら自分に嘘をつかないとはいっても、
「正解」を発信しないことには、理解されないのだ。

だから、ぼくは自分が思うことをただ単に素直でいるっていうだけじゃなくて、
「あえて発信していく」ということを選んでいきたいのだ。
これは、ぼくの態度の表明によって、コミュニケーションが実際に生産される、とうぼくなりの考え方というか、
2018年を駆け巡ったぼくの総決算的な結論なのだ。

だからぼくは、この年の瀬に、
最後にひとつだけぼくの態度を表明してこの年を終えようと思う。


というのも、以前に、兄と二人でツイキャスをやったことがあって、
その時に、話の流れでライブハウスの文句を言ったりしたのだけど、
それについて言葉でいうにはちょっと不十分だし、
しかもかなりウィスキーを飲みまくりの放送だったので、全然まともじゃなかったのだ。

だからここにしっかりと今の自分の意見を書いていこうと思う。

それは、ライブハウスのアーティストに対する態度とかそういうこと。
もっと具体的にいうと、ノルマ制とか、そういうお金の話。



バンドの知り合いの中には、
「ノルマ制」っていうシステムに反対するアーティストも結構いて、

「俺らはノルマ制なんてシステムではライブしません」

って言ってる知り合いのミュージシャンも結構いる。

クールなマニフェストにも、いや客が集まらんだけやろとも思えるこの宣言。

しかし実際のところ問題はノルマ制かどうかではなくて、ライブハウスがアーティストをどのように考えて扱っているか、というところがポイントなわけだ。

ライブハウスにとってみれば、アーティストはお店を利用してくれる「客」でもあるし、一緒にショーをつくっていく「仲間」でもあるし、またライブハウスがアーティストを育てるという意味では先生と生徒みたいな関係性だったりもする。

それに悲しいことに、我々アーティストは、みな対等ではない。
超VIPな扱いを受けるアーティストがいる横で、テキトーな扱いを受けているアーティストがいる。
そういう世界。

この世界を支配しているのは「集客力」っていう絶対的な数字であり、
素晴らしい音楽を奏でるとか、人が良いとか、見た目が可愛いとか、
そんなことは二の次三の次。

ぼくがimi/popというバンドやってた頃によく新宿のアンチノックというライブハウスに出てて、そこではライブが終わるたびにブッキング担当の人が「もっと○○な歌い方をしないとダメだ」とか「○○みたいな曲は作れるか?」的なアドバイスを言ってきたりして、そういうのをありがたがる人もいるだろうけど、ぼくらはそれが大嫌いだった。まあ、そのころのぼくは素直にそういうのが「嫌いです」っていうのを相手にも伝えていたから、アンチノックとぼくらはお互いに生意気な口のききあいみたいなことをしてて、別に彼らは悪い人じゃなくて、むしろ良い人たちばかりなのだけど、なんというか、個人的な趣味で言えば、全然合わないタイプだった。

そもそもぼくらは当時、両国にあるSUNSHINEというライブハウスで他のバンドと喧嘩になって、そのライブハウスを出禁になってライブ市場から締め出しをくらっているときに、「生意気なバンドがいるらしい」ってことで、生意気バンドのメッカともいえるアンチノックからお声がかかったのだから仕方がない。だからアンチノックの初ライブの時に「おお、おめえらが生意気なバンドか」ってフツーに言われたしね。んでぼくらは笑いながら「はい、生意気なバンドです(^-^)」って感じだった。

最終的にはウチのメンバーがアンチノックの人に殴られて、そこも出禁になったわけだけど、まあそれはいい。imi/popはそのあといろいろあって解散。

そういえば余談ついでに、
その頃、今では超有名になってしまったKEYTALKっていうバンドのドラムの八木くんがよくimi/popを観にきてくれてて、KEYTALKはまだ今ほど売れてなくて、「結構勢いがあって人気らしい」ってくらいな感じだった。
んで、KEYTALKと対バンしようってことになったんだけど、
ぼくらは他のライブハウスは基本的に出禁になってるから、アンチノックで対バンしようってことになって、八木くんも「アンチノック出たことないからいいね!」ってな感じだった。

しかし数日して八木くんから連絡あって
「ごめん、うちのプロダクションがアンチノックはNGだって。雰囲気が違うから」

それをきいたぼくらは、すっごく自分らがダサい気がして、めちゃめちゃ恥ずかしかった。
友人に断られるようなハコでうちらはライブしとったんかいな、と。

いや、別にアンチノックはハードコアやパンクの人たちにとってみれば聖地だし、全然恥ずかしくないハコなんだけど、
でも、そんときの、なんというか、KEYTALKという、めちゃめちゃメインストリームな雰囲気のバンドの、八木くんというめちゃめちゃ爽やかな青年に断られる感じが、すっごい恥ずいというか、
「すまんのう、うちらアングラじゃけえ」っていう感じで。

余談はこれくらいにして、
ライブハウスがアーティストをどのように扱うか、というお話。


あなたがもしワンマンで、そのハコを難なく満員にできるのであれば、
あまり意味がない。
その時点で、そのアーティストはライブハウスにとって重要な大事な顧客なんだから。

そうではなくて、
たとえば、ライブをしても数人しかお客さんが来ないようなアーティストや、
駆け出しのバンドでとりあえず大学の友人だけを呼んで客席埋めてる人たちとか、

そういうアーティストに対して、ライブハウスは「運営」という観点と「文化芸術の振興」という観点から、どのような制度をとらなくちゃいけなくなってくるのか、ということ。


んでもって、アーティストの方でも、徐々にライブハウスとウマが合わなくなって、
「俺らはノルマ制ではライブはしないんで。そこんとこ夜露死苦」
ってスタンスをとりはじめるわけだ。

しかし、ノルマ制っていうのが悪いわけじゃないし、
むしろありがたい部分もたくさんある。

じゃあ、何が悪いのか。
そしてどうすれば良いのか。

それを説明する前に、
そもそもノルマ制とは何か、っていうのを説明しましょう。
知らない人のために。

もちろん、ライブ経験のある人なら誰でも知ってる制度なんだけど。


◯ノルマ制というのは
ノルマ制っていうのは、
ライブハウスが、アーティストに対して、
「最低10人は集客してくださいね」とか
「最低5人は入れてくださいね」っていう
最低集客条件のことで、

たとえば、
「ノルマ10人」だった場合、
チケット代が1枚2,000円として、
2,000円×10=20,000円
が最低条件なわけ。

だから、そのバンドの名前で一人もお客さんが来なかったら、
アーティストはライブが終わった後で
2万円をライブハウスに支払うことになる。
逆に、10人お客さんが来れば、
支払いは0円。

あと、キャッシュバックというのもよくあって、

たとえば、
ぼくらがよく出るモナレコードというライブハウスでは、

ノルマ10枚、11枚目以後50パーセントバック

というような条件があったりする。
もちろん条件は毎回違うし、アーティストによっても違う。

この場合は、ノルマ10枚なので、
チケットが2,000円の場合、
一人も客が来なかったら
2万円をライブハウスに支払うことになり、
10人来れば、支払いは0円。
そして15人来れば、
11枚目以後、つまり5枚分のチケットの50パーセント、
つまり、
2,000円の半額の1,000円×5=5,000円が
もらえる、ということ。

だから、集客が15人だった場合は、5,000円のギャラをもらうような感覚なわけだ。

そして、この制度でもし40人の集客があった場合、
11枚目以後の20枚×1,000円=30,000円がもらえる。
だから、普段からだいたい40人くらい客が来るようなアーティストに対しては、
いちいち「ノルマ制」なんてことはせずに、
「ギャラは3万でお願いします」という感じでオファーがくる。
もしくは、
「ギャラは2万、集客によって増えます」という場合も。

◯ハードルは高い
しかしながら、
「普段から40人くらい客が来るようなアーティスト」
というのは、結構微妙な表現。
厳密な意味で言えば、彼らは必ずどこからのプロダクションに所属しているといって間違いない。
でももっと広い意味でいえばそうじゃなかったりする。
たとえば、
あるライブハウスでの企画イベントで、
たとえば50人くらい人が集まったとして、
それがスリーマンのライブだったとして、
3バンドで割ると、1バンドあたり平均17人。
もうひとつ例を出すと、
ワンマンライブで100人の人が集まったとしても、
「普段の」「平日の」イベントでは10人も集まらなかったりする。

普段のスタンダードな感覚で40人集まるバンド、っていうのは、
結構ハードルが高い。

というかむしろ、レーベルに所属していて、
いろんなニュースサイトにリリースのニュースが掲載されるアーティストでも、
このハードルはなかなか超えられない。

ということで、
集客力が十分でないバンドっていうのは、
彼らのようなレーベル所属のアーティストも含まれるわけだ

そういうアーティストにとってみれば、
ライブに出る度に、ライブハウスにお金を支払うことになる
しかも数万も。
ただしレーベルに所属すれば、たいして集客がなくても
無理やりギャラを請求することができるけど、
それは後述。

とにかく、普通は金を支払うわけだ。
数万を、バンドだったらメンバーで割って数千円だけど、
1人で活動してるアーティストなんかにとっては、結構痛い。

考えてもみたら、かなり悲しむべきことで、
良い音楽をつくり、
数ヶ月かけてイベントを企画して、
練習して、本番を迎えて、
数万の金を支払う、っていうのは、音楽活動としてそもそもどうなんだろう。


ノルマ制を設けてないライブハウスも結構あって、
集客力があろうとなかろうと、
「ノルマなし、機材費1,000円のみいただきます」とか、
「ノルマありません」だけとか、
むしろ、
「ギャラは○○円でお願いします」とか、
そういうハコは結構ある。
イメージ的には、小さいハコにそういうとこが多い気がする。
満席になったところで15人とか、そういうとこだと、
ハナからノルマにする意味がない。
だから、集客が難しいアーティストにとってみれば、
そういう場所を選びたいわけだ。


だからつまり、
「俺らはノルマ制でのイベントはやりません」
っていうのは、
「俺らは集客力ありません」
って言ってるようなもので、
こういった集客至上主義という現実から逃れたい人たちなのだ。

集客力があるバンドに対して、ノルマ制を設けるライブハウスなんていないからね。

◯ヒソミネについて
そこで、ぼくが常々ギモンを感じてるライブハウスがあって、
それが「ヒソミネ」というハコなんだけど、
そこについてちょっとお話しようと思う。

ヒソミネは以前、一度出演したことがあって、
スタッフはすごく優しかったし、対バンでもJobanshiさんという、
素晴らしいアーティストと知り合えたし、
それに関してはなんの文句もない。

ヒソミネは、自主レーベルを持っているということもあって、
なんとなく
「ヒソミネ界隈」といった雰囲気がある。
ぼくらがやってる「エレクトロニカ」と呼ばれるジャンルの
人たちが結構出演していて、
エレクトロニカ系のアーティストに
「ヒソミネとか出たことあります?」っていうのを
何度かきかれたことがある。

ぼくらも、そういう系のアーティストを見ると、
「ああ、ヒソミネに出てそうなアーティストだな」って感じで
みてしまう。
それが良いとか悪いとかじゃなく。

んで、
ヒソミネは、ノルマ制を設けていない。
どういう制度かというと、

ノルマなし機材費及び出演料としまして10,000円頂戴致します、ご了承下さい。
チケット6枚目以降チケット代より50%バック

という制度。

これはどういうことかというと、
チケット代が2,000円の場合だと、
集客が15人としたら、
[チケット代50%の1,000円]×[6枚目以後の10人]なので、
1,000×10=10,000円、
そして機材費及び出演料として10,000円支払うので、
結果的に、プラマイ0、ということ。

逆に集客が0の場合、
10,000円をライブハウスに支払いことになる

少し考えてみればわかるのは、
これはノルマ制とほとんどかわりない、ということ。
しかし何が違うのか。

さっきのモナレコードの例と比べて見ると、
モナレコの条件は

「ノルマ10枚、11枚目以後、50パーセントバック」

チケット代2,000円で考えてみよう。

集客が0の場合、
モナレコ出演だと、アーティストは2万円の負債、
ヒソミネ出演だと、アーティストは1万円の負債。

ヒソミネの方がお得だ。

では集客が10人の場合、
モナレコ出演だと、アーティストはプラマイ0
ヒソミネ出演だと、アーティストは5,000円の負債

モナレコは赤字がストップ。
ヒソミネは少しお金を支払う形に。

集客が20人の場合、
モナレコ出演だと、アーティストは10,000円の上がり
ヒソミネ出演だと、アーティストは5,000円の上がり

モナレコの方がお得だ。


つまりヒソミネの出演条件は、

集客が少ないことを前提とするアーティストが集う場所

ということだ。

ぼくが普段から、客が1人か2人しか集まらないとしたら、
モナレコに出るより、ヒソミネに出た方が借金が少なくてすむからね。

ところがどっこい、
モナレコは、たくさん集客があった場合にはたくさんギャラが入るのだ。

だから、
ヒソミネ界隈っていうのは、
なんとなく、
集客とは関係ない世界で音楽をやっている人たちが多くて、
しかも、これ以上集客を増やす気もない人たち、
そして、できるだけ借金を増やしたくない、という人たち、
という感じがするわけだ。

別にこれはヒソミネに出演している人たちを悪く言っているわけではなくて、

そもそもこういう制度ってどうなの?(怒)

と思うわけ。

客を増やすことを前提としない

という条件付きでアーティストにオファーする、
というのが、
なんか、
よろしくないとおもうわけ。

確かに、
集客が少ないアーティストに対してやさしい、
というのは良いのだけど、
現状ではなく、「今後も」客が増えないことを前提としている制度。

いや、たとえ普段の集客が少なかったって、
良い企画を組んだりとか色々していって、
将来的には客を増やしていこう、
っていう姿勢が全く微塵も感じられない、
というか、
もし仮に、奇跡的に、ヒソミネに出演しているアーティストが
通常で10人の固定客がつくようになったら、
ヒソミネを離れるべきだろう。
しかしそうはならない。

ヒソミネに出演している限り、
こうしたドグマからは逃れられないのだ。

だから、さっき言った
「ヒソミネ界隈」っていうのは、
そういう、アンダーグラウンドな香りというか、
「内輪でやってんなー」って感じがある。

というわけ。
だから、
ノルマが良いとか悪いとかいうわけではなくて、
その制度が何を前提として設定されているかを見極めるべきだと
思うわけだ。

だって、
「なぜノルマなんかあるんだ?」
って考えてみたところで、
「おめえらみたいな集客率じゃ、不安なので保険をかけざるを得ない」
っていう意味なわけで、
それに対して憤りを感じたところで、
現実にそんな集客力なわけだから、言い訳できない。
文句があれば、
初めから集客を望まずにヒソミネに出るか、
もしくは集客をなんとかするしかない。


◯ギャラをもらう
ギャラという制度がある。
これは、ノルマ制から格上げされた人々に与えられる、いわばゲスト扱いみたいなもの。
有名なアーティストはもちろんだけど、
それ以外にも、遠いところから遠征にきているアーティストにノルマを課すのは失礼なので、
普通はゲストという雰囲気で、ギャラを支払ったりする。
ツアーミュージシャンとかね。
レーベルに所属したアーティストは、ここらへんがシビアで、
ギャラによって自分たちの(一段上のプロとしての)立ち位置を担保しているのだ。
しかしながら、いくらレーベルに所属して、無料でMVをつくってもらって、
ナタリーに記事を書いてもらったところで、
ライブハウスにとって満足のいくレベルの客が集まるとは限らない。
たいして客が集まらないのに「ギャラください」って言われる。
レーベルも忙しいので、アーティストの宣伝なんかろくにしない。
「勝手にインスタとかで盛り上げてくださいね」って感じ。リツイートだけはしますよ、みたいな。
だからライブハウスからしてみたら、そんな中途半端なレーベル所属アーティストよりは、
元気一杯な大学生バンドが「地元の友人とか頑張ってめっちゃ呼びます!」ていう方がありがたいのだ。

◯ぼくらはどうか
とここまで書いて、ぼくらmacaroomはどうなのか。
条件なし(プラスもマイナスも無し)でライブに出ることもあるし、
ノルマ制の場合もあるし、ギャラ制の場合もある。
ぼくらのような立ち位置のアーティストが、一番微妙なところだと思う。
正直言うと、ノルマ制でも、ギャラ制でも、あまり変わりはない。
どうしてかというと、ノルマ制の場合は、キャッシュバックでいくらかお金が入り、
その額は、ぼくらくらいの知名度のアーティストが普通は受け取るであろうギャラと同じくらいだからだ。
だから、最初からギャラをもらうという前提でライブをしても良いし、
そういう場合も多いにある。
しかし、この水準にいるアーティストっていうのは、結構不安定なので、
ある日のライブには全然お客さんが来ない、というリスクもあったりする。
ライブハウスからしてみたら、
「んー、ギャラ制にしてもいいけど、ちょっと怖さもある」
っていうラインじゃないかな。
まあ、そのあたりはライブハウスのスタンス次第。

具体的な例でいうと、少し前に知久寿焼さんとライブをやったときなんかは、
ライブハウスからギャラをいただいたのだ。
それは知久さんが有名で集客もすごいので、そのバブルに乗って、ぼくらも恩恵を受けるわけだ。
しかしそのハコは、通常、ぼくらが出演するときはノルマ制を提案される。



2018年の最後に、それとなくふと思ったことを書いてみた。

(超有名ではない)アーティストのみなさん!
みなさんは、
このあたりの条件やなんやかんや、
独自の考えや哲学はありますか?
教えてください。


さて、2019年も私は非常にストイックに、過激に、アナーキーに駆け巡りますし、
そこそこのヒットというか大爆発は確実だと思われますので、
来年もまたmacaroomやぼく自身や、このブログもよろしくお願いいたします。

それではよいお年を!!!




2018/11/30

フレディー命日に想う、映画『ボヘミアン・ラプソディ』とぼくの変な青春



高校に入学したばかりのぼくというのは、ちょっと常軌を逸しているというか、入学初日に縄跳びを持って別のクラスの教室に入っていって、知らない生徒を縛り上げたあげく、また別のクラスに入って「今から歌を歌います」と宣言して、知らない生徒の机の上に逆立ちをして「ボヘミアン・ラプソディ」を熱唱する、ということをしていた。
このエピソードはこうやって文章にするとドタバタ漫画のような嘘くさい描写になってしまうが、まったく本当の話。

ぼくの高校生活はボヘミアン・ラプソディとともに始まったのだった。

ちなみに、ぼくの中学時代は、これと逆にボヘミアン・ラプソディとともに終わったのだ。

というのも、話を遡ると、小学校の卒業式の話になるのだが、
卒業式に自分たちが退場するときの音楽を何にするか、というのを生徒同士で話し合って決める、というときに、
女子は全員、当時流行っていたスピードというアイドルグループの曲で一致していて、
男子はみんな、どうでもいい、という感じだった。

そこで、ぼく一人がエルトン・ジョンの「スカイライン・ピジョン」にしようと提案して、
それでみごとに全員を論破した挙句に、
結局卒業式の退場BGMはエルトン・ジョンになったのだった。

それで、
中学校の卒業式の時にも同じような流れになって、
今度は、卒業生が全員で合唱する曲は何がいいか、
という話になって、
女子は全員、19というユニットの「紙ヒコーキ くもり空わって」という曲で一致していて、
ぼくだけがクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』を主張した。

そして議論になったのだが、
この時ばかりはぼくは女子たちにコテンパンにされて、
というのもぼくは基本的にクラスで女子たちに嫌われていたので、
もうボッコボコという感じ。

だから、ぼくはボヘミアン・ラプソディの思い出とともに、
負け戦に出かけ、中学校生活最後の春に散ったのだった。

そしてボヘミアン・ラプソディとともに幕開けした高校。
ここでぼくは初めてきちんとバンドを結成して、
まさにクイーンのような曲を作り始めるのだ。

サーカスきりんというバンドは、
ライブでは全員シルク素材の中国の表演服を着て、
ぼくがピアノ&ボーカル、そしてギターとベースとドラムスがいる、
全員がコーラスをして、
もちろんお化粧もして、
クラシカルな編曲とめまぐるしい展開、
木刀でキーボードをぶっ壊すなどの派手な演出、
そういう感じだった。

実際問題ぼくは、クイーンの(ピアノが主軸となる)曲はだいたい弾き語りで歌っていたし、CDもDVDもバンドスコアもピアノ譜も持ってたし、
それからフレディーがつけてたフォークのブレスレットを
手作りしてつけたりしていた。

その後、フォークのブレスレットは、映画『エレファント』で主人公がつけてたらしく、
ぼくがいつもフォークのブレスレットつけてるので、
映画好きの人に、「『エレファント』の影響?」ってきかれたことがある。
エレファントの主人公がフレディーから影響うけてるかどうかはわからあない。




だからぼくは、
世界エイズデー(12月1日)にはしっかりと
HIV検査に行ったし、
コンドーム推進派であった。

世界エイズデーとは名ばかりで、
オシャレして保健所に行くと、
中には深々と帽子をかぶってマスクをして黒いロングコートを着た、
完全に訳ありな女性が待合室にいて、
受付では名前ではなく番号で呼ばれ、
検査の前のヒアリングでは、
「検査を受けるにあたって、HIV感染に関して思い当たるような何かがおありですか?」
ときかれるので、
「世界エイズデーなので来ました。フレディ・マーキュリーのファンです。よろしくお願いします」
とこたえると、
「最近、外国の方と性交渉を持ったなど、思い当たる何かがおありですか?」
ときかれ、
「いや、世界エイズデーなので、きました」
「では、思い当たる節は、ないのですか?」
「あの、いや、今日って世界エイズデーで合ってます?」
「はい。世界エイズデーです」
こんな状況なのだ。

保健所で無料で検査できるので、ぜひみんな受けに行ってほしいね。
C型肝炎とか梅毒とかもついでに検査できるから。


映画『ボヘミアン・ラプソディ』をフレディ命日に
映画館に観に行くにあたって、
ぼくはあらかじめ細かくストーリーを予想していたのだが、
実際に観に行ってみると、ほとんど正解だった。
使用される楽曲も、展開も、登場するエピソードや決め台詞のようなものも、だいたい正解。
ネタバレになるし正解した部分については触れないけど、
あえてぼくの予想が外れた箇所を列挙すると、

・フレディとセックス・ピストルズ(シド・ヴィシャス)についてのエピソード出そうで出なかった。
・デイヴィッド・ボウイそっくりの役とマイケル・ジャクソンそっくりの役が(2つの該当曲のくだりにおいて)登場すると思ってたが、出なかった。
・エンドクレジットはあえて『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン』で厳かにおわると思っていたら違った。
・自宅でのパーティのシーンはもっと性的に過激なものを予想していた。
・ボヘミアン・ラプソディのMV制作のくだりがなかった。
・スマイル時代のライブの様子まで登場するとは思ってなかった(これは嬉しいサプライズ)
・FOXロゴのあの音楽に関しては、全く予想外(アイムハッピー。号泣)

ところで、
この映画がおもしろいのか、おもしろくないのか、
まだ観てない人にきかれたりするんだけど、
そんなもの、ぜーんぜんわからないし、
どーでもいいよね。
クイーンそっくりな人たちが、クイーンのライブ完全再現で
描かれるんだから、

それだけで、映画というエンターテインメントに感謝だね。
ぼくのへーんな青春と、へーんな人生のはじまりはじまり、っていうところに、フレディーがいるんだから。


2018/11/06

藤倉大『ソラリス』について、レム/タルコフスキー/ソダーバーグ と比較して



藤倉大さんとは、前日にゲンロンカフェでトークしたばかり。
ということで、ほとんど私情抜きには見れないのだが、
でも、レムは個人的に大好きだし、
ぼくとしてはたとえどんな作家であれこれをオペラ化してくれるんなら「やったあ!」っていう感じなのだ。

これについて、『ヴォツェック』や『ニーベルング』や、もしくは『松風』なんかを引き合いに出して批評するような芸当はぼくには出来ないけど、
「こういうことがありました」的な説明としてなら、少しばかりは観た人の参考になるようなことができると思う。

この作品、スタニスワフ・レムの原作を読んでいない人にとってはちょっと意味不明だったと思う。
タルコフスキー版を観てソラリスをわかった気になっている人は、藤倉版を観て「なーんだつまんないなあ」と思うかもしれないし、管弦楽が登場人物の心情を表現していると考えるなら「なんだか噛み合ってないなあ」という印象を抱くかもしれない。
そもそもレムにせよソダーバーグにせよ、この物語の主人公(?)たる「海」そのものを描くことを放棄しているのだから、それを描くこと自体に挑戦した藤倉版は、いわば世界初のソラリスの具体的な提示であるように思う。
タルコフスキーやソダーバーグを観た人にとってソラリスの海とは単に「意識を持った海」とか「不思議な海」といった理解しかしていないだろうから、このあたりの藤倉版の音楽的な提示はご理解いただけないかもしれない。

この作品をあえて
異星人とのコンタクト、という単純な物語におきかえてみても、
原作では海そのものとの接触は極端にほとんどない。
(逆に言うとその部分はめちゃくちゃ重要なのだけど)
そして2作の映画版では、それは、ハリーという幽体とのやりとりを軸に置くことで、
それを解決しようとしていたのだと思う。どっちの映画も好きだけど。

ともあれ、タルコフスキー版では、たった一言とはいえ、「欠陥のある神」についての言及があるところをみると、観客は「ふむふむ、これはなんだか神学的な議論になってきているぞ」という勘を働かせるのだろうが、「あれはなんだったんだ」という疑問だけが残る。そして衝撃的なラスト。



はい、藤倉版について。

このオペラの音楽的な構図はわかりやすい。
会話劇なので、基本的には歌い手は会話をしている。
内的独白のようなものもあるけれど、基本的にはセリフ。

管弦楽は、いわゆる昔ながらの手法としては、
1、物語描写
2、心情描写
をしているところもあれば、
また、
3、文節ごとの単語と旋律を厳格に結びつけるなどの作曲法由来のもの
などもある。

1でいうと、打楽器によるドアのノック音といった
描写そのもの、といってものもあれば、
後で詳しく説明するけど「ミモイド」の描写としてライブエレクトロニクスを
用いていたりなどがある。

ちなみに、
藤倉さんはいわゆるライトモチーフは「用いていない」
と言っていたんだけど、ぼくはこのオペラのライトモチーフに気がついたんだな。
あ、でもここでいうライトモチーフは、音楽理論的な意味合いとは少し違って、
映画なんかで使われるような意味合いに近いかもしれない。

それについても後で説明するけど、
念のため、ライトモチーフっていうのは、
たとえば物語の場面を表す時に繰り返し使われる短いモチーフのことで、
たとえばヒッチコックの映画なんかで、
犯人が現れた時は必ず「きゃんっきゃんっきゃんっきゃん」っていう
甲高いストリングスの悲鳴が流れるような印象づけというか、パブロフ条件付けみたいなこと。
客は、「きゃんっきゃんっきゃんっきゃん」が流れると、
「お、犯人があらわれるな」とわかるわけだ。

物語や心情と旋律の関わりでいうと、
登場人物のキャラクターが旋律や表現手法に現れている。
以下に簡単にまとめると、

●クリス・ケルヴィン
言動と思考が矛盾している=2人で演じる
1人はステージ、1人は舞台袖から変調されて客席のスピーカーから流れる
低い旋律、低い管弦楽

●スナウト
落ち着かないキャラクター
細かい旋律、フラッタータンギングなど

●ハリー
無垢だが、異様
オンビートの美しい旋律
コンピュータがほんのたまに変調して客席のスピーカーから残響として漂う。


たとえば、最も旋律的に美しいハリーの歌。
これは、ごくたまに、ライブ・エレクトロニクスによって
客席を取り囲むいくつものスピーカーから変調して流れ、
さらに残響音として残る。

これはすごく異様で、音がぐるぐるまわって楽しいんだけど、
似たような手法が歌ではなく管弦楽の方にも使われている。
このMax使ったエレクトロニクスで会場ぐるぐる手法は、
ハリーの声と管弦楽において現れるのだけど、
この時に管弦楽が何を表しているのかというと、ソラリスの海を描写している。

海=ハリーであるので、
同じ手法が歌い手と管弦楽で時たま使われるということになる。
これが、さっき言ったぼくなりのライトモチーフで、
いわばネタバレというか、ハリー=海ということがわかるわけだ。

それで、なぜハリー=海か、という説明は
もちろん物語を知っている人は全員わかっているだろうから省くけど、
原作ではミモイドという言葉がこれを説明している。

この言葉は、藤倉版において結末間近になって印象的に歌われる。
ミモイド。
ソ連では検閲の対象になった重要な議論。


ハリーは、人間の見た目をしていて人間のような思考をするので、
ソダーバーグにおいては過去(地球)と現在(惑星ソラリス)の交錯を
カッコ良いジョージ・クルーニーに演じさせるわけだし、
タルコフスキー版においても(ある種ホラーな)恋愛的描写が成立するわけだ。

それに対して海。
海は、というか水は、老師も鴨長明も言っているとおり、形を持たない。
だから、「形状」とか「容姿」とかそういった言葉からは対極にある。


物語としてみれば、レムの『ソラリス』を映画化したタルコフスキーもソダーバーグも、
レムファンが批判するほど変なことはしていないし、ぼくはどっちの映画も大好き。
そもそも密室劇たるこの作品は、ソダーバーグもタルコフスキーも現代演劇を見ているような
おもしろさがある。

ところが、どうしても映像が原作と食い違ってしまう点は、
例えば小説では「ソラリス学」と題されて様々な(架空の)研究が登場するのだけど、
これが結構長くて、ハードで、しかも結構重要なパートだったりする。
こういった試みは、
メルヴィルの『白鯨』や、日本だと夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんかで
紡がれてきた系譜で、
こういうものはだいたい「映像化不可能」とか言われるのが関の山。
とはいえ白鯨だって映画化しているし、ソラリスについてはご覧の通り。
レムはその後『完全な真空』や『虚数』でこの手法を極端に実践して
「ポストボルヘス」とか言われたりする。

ソラリス学というのは、そのものズバリ、
惑星ソラリスについての100年間くらいの研究、
ということなのだけど、
たとえば、
「海の中に巨大な赤ちゃんが浮いている」というような
重要な場面は、この研究の中で言及されるし、
それから、ソラリスの海における「形状」の問題というのは、
このソラリス学の中で提示される。
だから、ほとんどこの作品のテーマともいえる部分の発端は、
ここにある、といっても過言じゃないわけだ。

ソラリス学における形状の問題というのは、
「アントロポモルフィズム」という言葉が使われるけど、
レムの魂胆としては人間中心主義を批判したもので、
つまり、「人間の形をしたもの」という、不思議なお約束、
たとえば神にしても、宇宙人にしても、とにかく、
知的レベルの高い生命は、必ず人間と同じような見た目になる、
っていう意味不明な約束事なのだ。

なぜ、知的生命体は、必ず人間の形をしているのか?
という疑問。

アレクセイ・トルストイやイワン・エフレーモフらソ連時代の作家に対して、
レムは、非常にこの辺のところを的確にストイックに批判したのだと思う。

そこで、
クラーク=キューブリックの「モノリス」や
マイケル・クライトン「スフィア」のような
「完璧な形状」
ではなく、
そもそも形がない、というソラリスの海を作り出した。





そして、この形状の問題に対して、
藤倉さんは、管弦楽とエレクトロニクスによって、
再現しようとしたわけだ。

だって、こんなもの、映画で描けるはずがない。
ところがどっこい音楽なら・・・って思うよね。
単純に音楽の方が有利だと思う。
形がないということは
藤倉版ソラリスにおいては、歌い手たちとの対立によってすごく絶妙に描かれていたな。

だって、歌い手は物語や単語を、「旋律」によって描写しているのに対して、
管弦楽の方は、そうではないのだから。

そして、ハリーによって提示されたエレクトロニクスの残響音は、
やがて管弦楽が描く「海」の残響音と重なる。

ここでめちゃくちゃ「今更ながら」なことを言うけど、
「現代音楽」っていうのは、なんかとっつきにくいし、
難解で意味不明、という音楽なわけでしょう。
それはまあ一般的なイメージとしてあるわけだ。
藤倉大という作曲家も、とりあえずは「現代音楽の作曲家」ということになっていて、
「意味不明な音楽を作る人」と言いかたもできるわけだ。

そこで、

ソラリスというのは、
レムの原作においては、
「わけのわからないもの」
を象徴する存在なので、
これはとっても現代音楽的なイメージとぴったり合うわけだ。

そして藤倉さんは、これを、単なる弦のトレモロによる海の描写ではなく、
ライブエレクトロニクスを使って(つまり人力を超えて)
理解不能なものにした。

もっと普通っぽく言うと、
「決してコミュニケーションのとれない相手」とか、
「決して理解できないもの」とか、
そういった対象としてソラリスの海がある。

ソラリスには思考があるのかも、意図があるのかもわからない。
ただ、人間に対する「反応」があることだけがわかっている。
だからソラリスが生命体なのかすらわからない。
そして、この「わからなさ」は、
「ソラリス学」において徹底的に議論され、
さらに物語を通して登場人物たちの間で議論され、
さらに主人公クリス・ケルヴィンの独白によって考えられた結果、
「わからない」
という結論でおわるのだ。

正体不明、理解不能、しかしものすごーく人智を超えた存在。

これはほとんど神と人間の関わりにたとえることができるので、
そういうことで、神学的な議論が展開されていく。
タルコフスキー版においてもそれはもちろん(形は違えど)強かったし、
藤倉版では、まずもって歌詞の中にその議論が現れる。

そして、最も重要な
「欠陥のある神」の議論。
そしてタルコフスキーやソダーバーグでは描かれなかった、
最後のソラリスとの接触。

これは、藤倉版では明確に描かれている。
つまり、ホワイトアウト。
光の壁。
神の降臨? いやいや。
ソラリスの静止した巨大な波との接触。

音楽ではなく照明で。作曲家らしからぬ演出。
素晴らしいラストだったね。感動したなあ。



2018/10/16

JOURNAL181013



TikTokでMVを撮るぞ、という企画、の撮影2日目。

前回の撮影が、個人的にはあまりうまくいかなかったので、
兄に相談して、3人で再挑戦。

普段だったらMVは兄がだいたい監督しているので、
兄がいて当然、なのだが、

このTikTok企画はぼくが単独で思いついて、もう勝手にわがままに始める、というタイプの企画で、
似たような試みでいえば、「mizuiro」という曲で渋谷ハロウィンの映像を撮影したときも、
こんな感じだった。

とはいえ、mizuiroの時も、撮影に関してのアドバイスや、
こんな感じの編集にしたらどう、という感じのことは
事前に兄にきいたりしていたので、
共同作業といえば共同作業だったのだけれど。

しかし今回は本当に自分で勝手に始めたのだが、
結果的には思うようにいかなかった。

ということで、気を取り直して再挑戦。

兄も、実はこのTikTok企画には良さを感じていたらしく、
それだったら最初っから誘って欲しかったというような目で訴えられた。

ということで、
今回は、渋谷、六本木あたりを中心に、
いわばベタな場所(たとえば渋谷スクランブル交差点)ばかりを撮影。

とはいえ、これも実験に近い形での撮影だし、
きちんとしたMVというよりは、軽い気持ちの紹介ビデオというくらいの感じなので、
どうなるかはわからない。
いずれにしても、軽い軽い気持ちで取り組んでいることをお忘れなく。

ところで、
これとは全然別に、きちんとしたMVを撮影するという計画もあって、
それは来月くらいになりそうだけど、おそらくこっちはかなり良いものになるんじゃないかなと思う。


2018/10/13

神の子テイラー・スウィフトの失楽園とフォース覚醒

なんか気づいたら、テイラー・スウィフトがなんか選挙について発言したらしくて、
なんだ、そんなことでニュースになるの!って思ってたけど、
よくよく考えて見れば大統領の2倍、1億超えのフォロワー数、、、、
ああ、そりゃあニュースなるね。

で、以前も彼女についてはブログで書いたけど、
やっぱり彼女の見た目のことについてもう一度なんか書きたいな、と。
タイミング的にちょうどいいし。
テイラー・スウィフト好きだしね。


EDM的世界とカントリー的世界の対立軸において、
たとえばステレオタイプなイメージでもって、
EDMのLGBT擁護や、カントリーの右翼的なイメージが、
現実のところどうなのか、というのはあまり関係がない。
(たとえばカントリーを聴く人のうち、黒人はどのくらいいるかとか)
そうではなくて、イメージの問題だ。
だって、テイラー・スウィフトは、とっくに、何年も前から、アイコンになってしまったんだから。
カントリー世界だけじゃなくて、古き悪しきアメリカの差別的なイメージや、それから2012年以後は反人種差別のEDM世界との対立として、彼女は、それを体現するのにぴったりな見た目だった。

ブロンド、青い目、白人、スリムで身長178cm。
テキサス、それからナッシュビル、カントリー音楽。

テイラー・スウィフトはアイコンと呼ばれるにふさわしく、またギリシアの神々がその容姿について語られることが非常に多いのと同じように、彼女もまたその容貌が現実の人格を超えて神格化されるのだ。

テイラー・スウィフトについて語る時、彼女の容姿について語らないわけにはいかない。
なぜなら彼女の見た目は、彼女が属していると世間一般に思われているコミュニティを象徴しているからだ。

見た目というのは不思議なものだ。
淀川長治がウディ・アレンについて解説していたのをおぼえているけど、彼はアレンのことを
「ニューヨークのユダヤ人を象徴する顔」だといっていたなあ、と今さら思い出す。
ウディ・アレンの容姿は、ニューヨークのユダヤ人を象徴していたと。
ぼくら日本人は、『ニューヨーク』や『アニー・ホール』で、
主人公を演じるウディ・アレンがなぜあんなに華麗にモテ男になれるのかが理解できないでいる。
「あんなガリガリのハゲ爺さんがどうして」と。
それはまた、見るからにシャツから体臭が臭いそうなセルジュ・ゲンズブールが同じようにモテモテであることにもいえて、
異なる文化に生きる我々は単一のハリウッド的白人的クールなイメージから脱却することはできずに、
なぜウディ・アレンやゲンズブールがモテモテなのか不思議に思う。

だって、テイラー・スウィフトが可愛いことには我々は満場一致で同意。
でも、ニッキー・ミナージュのかっこよさについてはどう思う?
ニッキーをセクシーだと思う? これについては意見がわかれないだろうか?

ニッキー・ミナージュについて語る時も、
スウィフトと同様に、容姿について触れないわけにはいかない。
今をさること2年前の、
アリアナ=ハリセンボン議論においてこのことは非常に微妙な形で議論を巻き起こしたのだから。
さてここで、もう一人重要人物が出てきた。
アリアナ・グランデだ。

テイラー・スウィフト、ニッキー・ミナージュ、アリアナ・グランデ。

アリアナ=ハリセンボン議論というのは、この両者が争ったことを意味するのではなく、
この両者における絡みの中で生まれたひとつの議論のことだ。
お笑いコンビのハリセンボンの近藤春菜と、アリアナ・グランデが、
日本テレビ『スッキリ!!』で共演した時の話題。
以下『Wizzy』から引用。

 司会の加藤浩次(46)が、4月から同番組レギュラーのハリセンボン・近藤春菜(33)の容姿が「マイケル・ムーアやシュレックに似ている」という持ちネタで、アリアナのことも笑わせようとした。加藤がアリアナに「(近藤の顔をさして)会ったことあるんじゃない? 映画監督でさ」と定番のフリをやり、近藤が「マイケル・ムーア監督じゃねぇよ!」とツッコむ。近藤の十八番ネタであるが、このやり取りを見てもアリアナは笑わない。通訳が説明しても笑わない。加藤が近藤を指さしてもう一度「マイケル・ムーア監督(に似てる)」と言うが、アリアナは「今日初めて会いしました」と返答。シャレは通じない。続いて、加藤は「アニメの、緑色のね?」と「シュレックじゃねぇよ!」をやらせるが、アリアナはやはり笑わなかった。十八番でクスリとも笑わせられなかった近藤は落ち込んだ顔を見せ、再び「シュレックじゃないから!」とアピール。するとアリアナは、「シュレックだと思いませんでしたよ、すごくかわいい!」と発言したのだった。
 アリアナはCM中、近藤に「あなたは本当にマイケル・ムーアに似てないから。私が約束する」と声を掛けたそうだ。近藤がメイクや衣装などであからさまにマイケル・ムーアのモノマネをしていたらまた別なのかもしれないが、素の容姿がオジサンや緑色の怪物に似ていることをネタにして笑いをとろうというのは、アリアナには通じなかったのだ。
(中略)
 今の日本では、ブスやデブやハゲは笑いの対象であり、美形でスタイル抜群の男女を賞賛することが「当たり前」とされている。この「当たり前」を前提としてテレビをはじめとしたメディアコンテンツはつくられ、笑いの線引きがされてきた。しかしポリティカル・コレクトネスについては、日本でもこれから先そう遠くない未来に真剣に議論し、速やかに実行しなければならない日がくるだろう。そのころ、今の「当たり前」に沿った笑いのとりかたしか知らない芸人たちは頭を抱えるかもしれない。


以上。

この話題は、「ぽりてぃかる・これくとねす」という意味不明な外来語も相まって、
先進国の常識というものを我々野蛮人が叩きつけられるという、
幕末黒船以来の意識改革を迫られて、
よくわからないが「ブスなどをネタにしては恥ずかしいらしい」ということで、
右向け右で、
このアリアナ・グランデ発言の賛同者が声をあげていったのだ。
少したって、例えば「ガキの使い」における浜田さんのエディー・マーフィー仮装のような問題が、
続々と現れるのだ。他にも、たとえば欅坂46のナチス仮装、乃木坂の女性蔑視の歌詞など。

この、ぽりてぃかる・これくとねす、を体現するアーティストが、
ニッキー・ミナージュというわけだ。
アメリカのラッパーでありシンガーソングライターである彼女は、自身の体型についてのコンプレックスと、また逆に体型から受けた恩恵をよく理解していると思う。
彼女はトリニダード・トバゴ出身のアフリカ系アメリカ人で、不良で、どっぷりした体型で、派手な格好をしていて、もちろん、人種差別についての発言をよくする。

そんな彼女は、2015年のMTVのミュージックビデオ・アワードの時に、自身の体型についての発言をしたことがあった。
「私がスレンダーで別の人種だったらノミネートされていたのに」という内容のツイート。
ニッキーはこのとき、やたら乗りに乗っていて、『アナコンダ』は最優秀ヒップホップ・ビデオ賞を受賞している。しかしながら、最高賞の「ビデオ・オブ・ザ・イヤー」にはノミネートされていなかったのだ。

アリアナ=ハリセンボン議論によって今や我々は、ニッキー・ミナージュを見てそのアナコンダ級の体型を笑うことはできない。いやむしろ、この感じがかっこいいに違いないと思い込むところから開国が始まるのだ。

しかし実は問題はアメリカ国内にあって、ニッキーは自身のスタイルに自信を持ち、あの雰囲気をセクシーだと誰もが思っているという、壮大な倫理観と正義感による騙し合いの最中にいるのだ。
つまりは王様は裸で、誰も彼女の体型についていじることはしないし、むしろ「彼女はセクシーだ」って賞賛する、けれども、実際はどうだろう。スリムな女性とニッキーのような女性では、まるでメディアでの扱われ方が違うのだ。誰もが、ニッキーのことをセクシーだといいながら、実際の所、その全員がスリムな女性を求めている。そのことに、ニッキー自身は痛いほど気づいている。
「おいこら、どうかんがえてもノミネートされるべきちゃうんか」
いや、そのとおり、あの年のニッキーの勢いは誰もが認めるだろう。

「もしあのビデオにスリムな女性が出ていたら、ビデオ・オブ・ザ・イヤーにノミネートするだろうね」
と彼女は言った。

このことについては以前もブログで書いたけど、
一応もう一回書くと、
ツイッター上で彼女に対してテイラー・スウィフトがリプライを送ってきたのだ。

「私はあなたが好きだし、あなたの味方よ。女同士で喧嘩させるなんて、あなたらしくないじゃない」

テイラーはビデオ・オブ・ザ・イヤーにノミネートされていたし、ニッキーの発言が自分をさしていると思えるだけの自覚はあるのだ。テイラーは、まさにこのような点で、自分の容姿からくるシンボリックなイメージを一任されてきたのだ。
逆を言えば、アリアナ=ハリセンボン議論で提示されたテーゼを象徴するシンボルがニッキー・ミナージュであり、これは先進国の反人種差別的な態度を示す、いわば最先端のアイコンなわけだ。
そしてテイラー・スウィフトはその真逆にある、いわば前時代的な、古い、昔ながらの、悪しきアイコンであり、それは過去の人種差別を彷彿とさせ、南部の田舎町を思い起こさせ、リンチや人種差別ジョークを想起させるのだ。


もちろん、それはカントリー音楽という不思議なジャンルの音楽を象徴するものだったし、カントリー音楽の対立軸として2012年以後台頭したEDMというジャンルから見ればそれは悪なのであった。
EDMというジャンルはつかみどころがないが、その中でもプログレッシブハウスと呼ばれるジャンルは最も商業的に成功をおさめており、このEDMを代表する雰囲気がある。その特徴は自己啓発な歌詞の内容で、強きアメリカをイメージする啓蒙応援ソングといったものが多いのだが、しかしながらそれは古き良きステレオタイプのアメリカではなく、多種多様な人種を受け入れる姿勢を持った新しいアメリカ、つまりオバマ大統領的な夢と希望を持ったアメリカであった。若くして亡くなったアヴィーチやゼッド、カルヴィン・ハリスやデイヴィッド・ゲッタといった超有名どころのDJが、ジェニファー・ロペスやセレナ・ゴメスやジャスティン・ビーバーのようなまたまた超有名な歌手たちに楽曲提供をして、またピットブルやニッキー・ミナージュなどのまたまた超イケイケラッパーとフューチャリングさせるという、ハリウッド超大作のごとく怒涛のコラボ、コラボ、コラボ、こりゃあ売れる! 国家ぐるみで取り掛かったEDMの経済戦略は大成功で、というのも、アメリカはこれまでクラブカルチャーの孤島だったのだから、ハウスやテクノ、ヒップホップを生み出した国が、今度は本当に世界にメインストリームな文化をEDMというひとまとめの商品として再構築したのだ。それはギャングスタラップのアップデート版のトラップ、シャッフルダンスの流行とナイキの光るスニーカーのバウンス、かつてのイビザ島のセレブ音楽を担うことになるトロピカル・テクノ、そしてシティポップの担い手となるフューチャーテクノ、大きなフェスのために開発されたビッグルーム、そしてプログレッシブハウス、それにK-popが乗っかった。MTVの第二世代が訪れた。ユーチューブとFancam、ダンスカバー動画の時代だ。
EDM台頭とともに、テイラーは第二の選択の必要に迫られたのだ。彼女はこれまで、アメリカ国内で1位をとったことがなかった。なぜなら彼女はカントリー歌手だからだ。彼女はカントリー部門において1位を受賞するという、いわばグローバルにみれば「ダサい」ミュージシャンだったのだ。
それが、2012年にすべての総合ジャンルにおいて1位をとることになる。あの有名な「ネヴァー・エヴァー」と歌うやつだ。
この曲で彼女は完全にカントリー歌手であることを世界に向けて隠蔽し、まるでアリアナ・グランデやケイティ・ペリーと同じ土俵にいるかのように見せかけたのだ。完全な隠蔽だ。そのくせ、国内、特に南部では、同曲の別アレンジをラジオで放送していたのだ。もちろん、カントリー風のアレンジ。そう、彼女はカントリー歌手とポップ歌手という完全なふたつの人格を、国内(南部)と海外で使い分けていたのだ。しかも、これは公式には好評されていない!
つまり、これまでのカントリーファンからみれば、今までと変わらぬテイラー、世界的にみればポップス化したテイラーが出てきたのだ。2012年以後のこの姿勢は、その後も継続することになる。

そして2015年のMTVビデオアワード。
「もしあのビデオにスリムな女性が出ていたら、ビデオ・オブ・ザ・イヤーにノミネートするだろうね」
という、ブラック系アナコンダ・ボディのニッキー・ミナージュ。
それに対して、ビデオ・オブ・ザ・イヤーにノミネートされて白人でスリムで身長178センチ、青い目にブロンド、カントリー歌手のテイラーが、
「私はあなたが好きだし、あなたの味方よ。女同士で喧嘩させるなんて、あなたらしくないじゃない」
という。
風刺画のような構図だ!
この騒動に、ケイティ・ペリーが参戦してきた。
「女性を侮辱して大金を稼いだ女が、女性同士の喧嘩はやめましょうなんて皮肉ね」
ケイティ・ペリーがいうのは、MTVの該当曲、「Bad Blood」のことで、
これはケイティ・ペリーのことを皮肉った曲だという噂。
しかしながら、ただそれだけのことじゃない。
「テキサスからきたカントリー女は黙ってろ」ということだ。

ここ数年のアメリカ政界での注目株といえば、
ヒラリーVSトランプの大統領選で、
これに関して、アーティストであれば発言しないということ自体が違和感があった。
事実、ほとんどのアーティストは何らかの意思を表明した。
そしていわゆるEDM周辺のポップは、トランプを批判して、ヒラリーを支持していたのだ。
ケイティ・ペリーやレディ・ガガ、アリアナ・グランデがそうしたツイートをして
世界中で拡散される中で、
テイラーただ一人が何もつぶやかないのは、非常に違和感があるのだ。
これは、アメリカ的アンガージュマン精神からいうと、
卑怯なやつだ、ということなのだ。
それを、なんだ今更、と。

もっといえば、2016年にテイラーは、少しだけ政治的な発言をして騒がれたことがあった。
そして今回のこと。
完全にフォース覚醒。

思うけど、テイラーは2500年前に生まれていたら、
たぶん神々のうちのひとつとして書物に残っていただろうね。
もしくは神の子か。

この構図って、彼女がうんぬんって話じゃないんだし。
それは、「ノーマ・ジーンとマリリン」とか、また「本当のジャクリーヌ・デュプレ」とか、
そういうもので散々見てきた。
デュプレはちょっと記憶違いかもしれないけど。

実は、今回の発言うんぬんについては、
あんまニュースもみてないし、発言の全文をみたわけではないので、
よくわからない。
まあ、なんか、それなりに良いことを言ったのだろう、と思っている。
たぶん。

2012年以後のグローバルな試みは、完全に成功しているのだから、
彼女はいつまでもカントリーのイメージに固執する必要はない。
それで失楽園になったって、かまわないだろう。
ルシファーと同じで、
カントリーのコミュニティに媚びへつらっているよりは、
楽園を追放されて自由でいる方が良いと判断したのかもしれない。

んで、それに対する対立軸側、フォース側の反応は、どうなのだろう。


それについてはまた調べてみようっと。