藤倉大さんとは、前日にゲンロンカフェでトークしたばかり。
ということで、ほとんど私情抜きには見れないのだが、
でも、レムは個人的に大好きだし、
ぼくとしてはたとえどんな作家であれこれをオペラ化してくれるんなら「やったあ!」っていう感じなのだ。
ぼくとしてはたとえどんな作家であれこれをオペラ化してくれるんなら「やったあ!」っていう感じなのだ。
これについて、『ヴォツェック』や『ニーベルング』や、もしくは『松風』なんかを引き合いに出して批評するような芸当はぼくには出来ないけど、
「こういうことがありました」的な説明としてなら、少しばかりは観た人の参考になるようなことができると思う。
「こういうことがありました」的な説明としてなら、少しばかりは観た人の参考になるようなことができると思う。
この作品、スタニスワフ・レムの原作を読んでいない人にとってはちょっと意味不明だったと思う。
タルコフスキー版を観てソラリスをわかった気になっている人は、藤倉版を観て「なーんだつまんないなあ」と思うかもしれないし、管弦楽が登場人物の心情を表現していると考えるなら「なんだか噛み合ってないなあ」という印象を抱くかもしれない。
そもそもレムにせよソダーバーグにせよ、この物語の主人公(?)たる「海」そのものを描くことを放棄しているのだから、それを描くこと自体に挑戦した藤倉版は、いわば世界初のソラリスの具体的な提示であるように思う。
タルコフスキーやソダーバーグを観た人にとってソラリスの海とは単に「意識を持った海」とか「不思議な海」といった理解しかしていないだろうから、このあたりの藤倉版の音楽的な提示はご理解いただけないかもしれない。
この作品をあえて
異星人とのコンタクト、という単純な物語におきかえてみても、
原作では海そのものとの接触は極端にほとんどない。
(逆に言うとその部分はめちゃくちゃ重要なのだけど)
そして2作の映画版では、それは、ハリーという幽体とのやりとりを軸に置くことで、
それを解決しようとしていたのだと思う。どっちの映画も好きだけど。
ともあれ、タルコフスキー版では、たった一言とはいえ、「欠陥のある神」についての言及があるところをみると、観客は「ふむふむ、これはなんだか神学的な議論になってきているぞ」という勘を働かせるのだろうが、「あれはなんだったんだ」という疑問だけが残る。そして衝撃的なラスト。
はい、藤倉版について。
このオペラの音楽的な構図はわかりやすい。
このオペラの音楽的な構図はわかりやすい。
会話劇なので、基本的には歌い手は会話をしている。
内的独白のようなものもあるけれど、基本的にはセリフ。
管弦楽は、いわゆる昔ながらの手法としては、
1、物語描写
2、心情描写
をしているところもあれば、
また、
3、文節ごとの単語と旋律を厳格に結びつけるなどの作曲法由来のもの
などもある。
1でいうと、打楽器によるドアのノック音といった
描写そのもの、といってものもあれば、
後で詳しく説明するけど「ミモイド」の描写としてライブエレクトロニクスを
用いていたりなどがある。
ちなみに、
藤倉さんはいわゆるライトモチーフは「用いていない」
と言っていたんだけど、ぼくはこのオペラのライトモチーフに気がついたんだな。
あ、でもここでいうライトモチーフは、音楽理論的な意味合いとは少し違って、
映画なんかで使われるような意味合いに近いかもしれない。
映画なんかで使われるような意味合いに近いかもしれない。
それについても後で説明するけど、
念のため、ライトモチーフっていうのは、
たとえば物語の場面を表す時に繰り返し使われる短いモチーフのことで、
たとえばヒッチコックの映画なんかで、
犯人が現れた時は必ず「きゃんっきゃんっきゃんっきゃん」っていう
甲高いストリングスの悲鳴が流れるような印象づけというか、パブロフ条件付けみたいなこと。
客は、「きゃんっきゃんっきゃんっきゃん」が流れると、
「お、犯人があらわれるな」とわかるわけだ。
「お、犯人があらわれるな」とわかるわけだ。
物語や心情と旋律の関わりでいうと、
登場人物のキャラクターが旋律や表現手法に現れている。
以下に簡単にまとめると、
●クリス・ケルヴィン
言動と思考が矛盾している=2人で演じる
1人はステージ、1人は舞台袖から変調されて客席のスピーカーから流れる
低い旋律、低い管弦楽
●スナウト
落ち着かないキャラクター
細かい旋律、フラッタータンギングなど
●ハリー
無垢だが、異様
オンビートの美しい旋律
コンピュータがほんのたまに変調して客席のスピーカーから残響として漂う。
たとえば、最も旋律的に美しいハリーの歌。
これは、ごくたまに、ライブ・エレクトロニクスによって
客席を取り囲むいくつものスピーカーから変調して流れ、
さらに残響音として残る。
これはすごく異様で、音がぐるぐるまわって楽しいんだけど、
似たような手法が歌ではなく管弦楽の方にも使われている。
このMax使ったエレクトロニクスで会場ぐるぐる手法は、
ハリーの声と管弦楽において現れるのだけど、
この時に管弦楽が何を表しているのかというと、ソラリスの海を描写している。
海=ハリーであるので、
同じ手法が歌い手と管弦楽で時たま使われるということになる。
これが、さっき言ったぼくなりのライトモチーフで、
いわばネタバレというか、ハリー=海ということがわかるわけだ。
それで、なぜハリー=海か、という説明は
もちろん物語を知っている人は全員わかっているだろうから省くけど、
原作ではミモイドという言葉がこれを説明している。
この言葉は、藤倉版において結末間近になって印象的に歌われる。
ミモイド。
ソ連では検閲の対象になった重要な議論。
ハリーは、人間の見た目をしていて人間のような思考をするので、
ソダーバーグにおいては過去(地球)と現在(惑星ソラリス)の交錯を
カッコ良いジョージ・クルーニーに演じさせるわけだし、
タルコフスキー版においても(ある種ホラーな)恋愛的描写が成立するわけだ。
それに対して海。
海は、というか水は、老師も鴨長明も言っているとおり、形を持たない。
だから、「形状」とか「容姿」とかそういった言葉からは対極にある。
物語としてみれば、レムの『ソラリス』を映画化したタルコフスキーもソダーバーグも、
レムファンが批判するほど変なことはしていないし、ぼくはどっちの映画も大好き。
そもそも密室劇たるこの作品は、ソダーバーグもタルコフスキーも現代演劇を見ているような
おもしろさがある。
ところが、どうしても映像が原作と食い違ってしまう点は、
例えば小説では「ソラリス学」と題されて様々な(架空の)研究が登場するのだけど、
これが結構長くて、ハードで、しかも結構重要なパートだったりする。
こういった試みは、
メルヴィルの『白鯨』や、日本だと夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんかで
紡がれてきた系譜で、
こういうものはだいたい「映像化不可能」とか言われるのが関の山。
とはいえ白鯨だって映画化しているし、ソラリスについてはご覧の通り。
レムはその後『完全な真空』や『虚数』でこの手法を極端に実践して
紡がれてきた系譜で、
こういうものはだいたい「映像化不可能」とか言われるのが関の山。
とはいえ白鯨だって映画化しているし、ソラリスについてはご覧の通り。
レムはその後『完全な真空』や『虚数』でこの手法を極端に実践して
「ポストボルヘス」とか言われたりする。
ソラリス学というのは、そのものズバリ、
惑星ソラリスについての100年間くらいの研究、
ということなのだけど、
たとえば、
「海の中に巨大な赤ちゃんが浮いている」というような
重要な場面は、この研究の中で言及されるし、
それから、ソラリスの海における「形状」の問題というのは、
このソラリス学の中で提示される。
だから、ほとんどこの作品のテーマともいえる部分の発端は、
ここにある、といっても過言じゃないわけだ。
ソラリス学というのは、そのものズバリ、
惑星ソラリスについての100年間くらいの研究、
ということなのだけど、
たとえば、
「海の中に巨大な赤ちゃんが浮いている」というような
重要な場面は、この研究の中で言及されるし、
それから、ソラリスの海における「形状」の問題というのは、
このソラリス学の中で提示される。
だから、ほとんどこの作品のテーマともいえる部分の発端は、
ここにある、といっても過言じゃないわけだ。
ソラリス学における形状の問題というのは、
「アントロポモルフィズム」という言葉が使われるけど、
レムの魂胆としては人間中心主義を批判したもので、
つまり、「人間の形をしたもの」という、不思議なお約束、
たとえば神にしても、宇宙人にしても、とにかく、
知的レベルの高い生命は、必ず人間と同じような見た目になる、
っていう意味不明な約束事なのだ。
なぜ、知的生命体は、必ず人間の形をしているのか?
なぜ、知的生命体は、必ず人間の形をしているのか?
という疑問。
アレクセイ・トルストイやイワン・エフレーモフらソ連時代の作家に対して、
アレクセイ・トルストイやイワン・エフレーモフらソ連時代の作家に対して、
レムは、非常にこの辺のところを的確にストイックに批判したのだと思う。
そこで、
クラーク=キューブリックの「モノリス」や
マイケル・クライトン「スフィア」のような
「完璧な形状」
ではなく、
そもそも形がない、というソラリスの海を作り出した。
そして、この形状の問題に対して、
藤倉さんは、管弦楽とエレクトロニクスによって、
再現しようとしたわけだ。
だって、こんなもの、映画で描けるはずがない。
藤倉さんは、管弦楽とエレクトロニクスによって、
再現しようとしたわけだ。
だって、こんなもの、映画で描けるはずがない。
ところがどっこい音楽なら・・・って思うよね。
単純に音楽の方が有利だと思う。
単純に音楽の方が有利だと思う。
形がないということは
藤倉版ソラリスにおいては、歌い手たちとの対立によってすごく絶妙に描かれていたな。
だって、歌い手は物語や単語を、「旋律」によって描写しているのに対して、
管弦楽の方は、そうではないのだから。
そして、ハリーによって提示されたエレクトロニクスの残響音は、
やがて管弦楽が描く「海」の残響音と重なる。
ここでめちゃくちゃ「今更ながら」なことを言うけど、
「現代音楽」っていうのは、なんかとっつきにくいし、
難解で意味不明、という音楽なわけでしょう。
それはまあ一般的なイメージとしてあるわけだ。
藤倉大という作曲家も、とりあえずは「現代音楽の作曲家」ということになっていて、
「意味不明な音楽を作る人」と言いかたもできるわけだ。
そこで、
ソラリスというのは、
レムの原作においては、
「わけのわからないもの」
を象徴する存在なので、
これはとっても現代音楽的なイメージとぴったり合うわけだ。
そして藤倉さんは、これを、単なる弦のトレモロによる海の描写ではなく、
ライブエレクトロニクスを使って(つまり人力を超えて)
理解不能なものにした。
もっと普通っぽく言うと、
「決してコミュニケーションのとれない相手」とか、
「決して理解できないもの」とか、
そういった対象としてソラリスの海がある。
ソラリスには思考があるのかも、意図があるのかもわからない。
ただ、人間に対する「反応」があることだけがわかっている。
だからソラリスが生命体なのかすらわからない。
そして、この「わからなさ」は、
「ソラリス学」において徹底的に議論され、
さらに物語を通して登場人物たちの間で議論され、
さらに主人公クリス・ケルヴィンの独白によって考えられた結果、
「わからない」
という結論でおわるのだ。
正体不明、理解不能、しかしものすごーく人智を超えた存在。
これはほとんど神と人間の関わりにたとえることができるので、
そういうことで、神学的な議論が展開されていく。
タルコフスキー版においてもそれはもちろん(形は違えど)強かったし、
藤倉版では、まずもって歌詞の中にその議論が現れる。
そして、最も重要な
「欠陥のある神」の議論。
そしてタルコフスキーやソダーバーグでは描かれなかった、
最後のソラリスとの接触。
これは、藤倉版では明確に描かれている。
つまり、ホワイトアウト。
光の壁。
神の降臨? いやいや。
ソラリスの静止した巨大な波との接触。
音楽ではなく照明で。作曲家らしからぬ演出。
素晴らしいラストだったね。感動したなあ。
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