Pages

2017/02/15

カレー屋のエベレスタンティズム、ウンコの思い出


年始に、macaroomのメンバーと、台湾出身の音楽マネジメントの王さんと4人でカレー屋に行った。
macaroomの台湾進出を目論む大事な会議が開かれようとしていたからだ。


写真はカレー屋のがなかったので別の日の中華にいったときのやつ。


その頃、ぼくは年末年始をまたいでルイ=フェルディナン・セリーヌの『なしくずしの死』を読んでいたせいで、ウンコに取り憑かれていた。この分厚い上下巻の小説にやたらとウンコがたくさん出てくるせいだ。
初夢はウンコを撒き散らす夢だったし、1月だけでも4回もウンコを漏らす夢を見てしまった。
そして、ぼく、emaru、ボブ、王さんの4人でカレー屋に行った際も、
「カレーもウンコみたいなものですから」とわけのわからないことを朦朧としながらつぶやいて全員から引かれていた。
しかしとにかくそこのカレーはおいしかった。

その時に、カレー屋の壁に掛けてある写真に目を奪われた。
エベレストのパノラマ写真だった。
ぼくはよく行くカレー屋で、それと全く同じ写真を見たことがあったのだ。
しかし、ぼくがよく行くカレー屋とその店は店名も違ったし場所も全く違う。系列店とは思えなかった。
それを言うと、emaruも、ボブも、確かに別のカレー屋でこの写真を見たことがあるというのだ。台湾から来た王さんはあまりピンときていなかった。
ボブは「日本でカレー屋を始めると、カレー協同組合みたいなのからこの写真を送りつけられてくるのかね」とか言っていた。
店員を呼び出してきいてみるが、日本語がクソミソに通じず、解決しなかった。


年始のカレー屋での疑問は、なんとなくぼくの心に残っていたのだが、
昨日ふと、その答えが見つかった。

それは、インドカレー屋の店員は結構ネパール人が多い、ということだった。

年始にいったカレー屋の店員も、ネパール人だといっていたし、ぼくがよく行くカレー屋の人もネパール人だった。

そして、ネパールでは、海外留学生の50パーセントがオーストラリアか日本で、すぐとなりのインドへ留学する人はたった7パーセントしかいない、というのだ。
インドとネパールは関係が深いが、そのぶん仲も悪かったりする。日本と韓国のようなものだ。
そしてネパールは結構貧乏で、インドや中国からの輸入に頼り切って国民の生活を支えている。

さて、インドカレー。
カレーといえばインド。それは中村屋のころから変わらず、ずっとそうだ。
カレーはインドの料理なのだ。
カレー屋で働く少し肌の黒いアジア人は、インド人にちがいない。
カレーのルーを発売して、何かキャラクターを書こうと思ったら、インド人をイメージして、ターバンでも巻かせたりする。

しかし、実際には違う。
結構、ネパール人が多かったりする。

しかしものごとはブランドイメージだ。
ネパールカレーなんていうより、インドカレーという方が手っ取り早い。
こりゃ妥協だ。
しかしそれはネパール人にとって屈辱でもある。

だから、エベレストの写真を飾るのだ。
エベレストは世界で最も有名な山。
知らない人なんていない。
誰だって知っている。

しかし、エベレストはどこにあるのか??
ネパールだ。
ネパール人は考えた。これを飾っていれば、この店がネパール的なアイデンティティーを持っているということが誰の目にもわかると。
つまり、アメリカで料理屋を営む日本人が、富士山の浮世絵を飾ったり、
日本でバーを経営するアメリカ人が自由の女神の写真を飾ったり、
そうすると、確実に「あ、日本人の経営者だな」とか「アメリカンスタイルの店だな」とかわかるわけだ。

しかしネパールの場合はそうはいかない!
我々日本人は、圧倒的にあの辺のごちゃごちゃした地域のことを知らないのだ!
というか、全体的にあの辺をインドだと思っている!
ネパールだけじゃない、パキスタンや、バングラデシュもだ。


このことに気づいたとき、ぼくは深く反省した。
なぜあの時、エベレストの写真を見て気づかなかったのだろう。
ウンコのことしか考えていなかったのだ。

以前、別のインドカレー屋の人に、
「インド人ですか?」ときいたことがある。
すると、「バングラデシュ出身」だとこたえがかえってきた。
「インドにはいったことある?」ときくと、
苦い顔をして、
「ない」といったあとで、
「インド、あまり好きじゃない」とつけくわえた。

ぼくは、確かに、スコットランドやイングランドやウェールズや北部アイルランドらを総称して「イギリス」ということには抵抗があるし、なるべく「スコットランド人」や「イングランド人」と呼ぶように心がけてきた。
だって、北朝鮮と韓国が戦争している真っ最中に彼らを「朝鮮人」とまとめるのは失礼かもしれないし、
それはアイヌの人を「日本人」といいきってしまうようなものだから。

しかし、インド周辺に対しては理解が足りなかった。

というわけで、たとえ「インドカレー」を自称している店であっても、必ずしもインドアイデンティティーにどっぷり満足している店だとは限らない、ということだ。
もちろん「ネパール料理」や「バングラデシュ料理」を自称している店もあるが、そればかりじゃない。
「インドカレー」とかいてあるにもかかわらず、ネパールアイデンティティーを持ちながら、日本人の「あの辺一帯インドよね」的な視線に耐え抜きながら、ささやかにエベレストの写真を飾ってリトル自己主張をしている店もある、ということだ。
これは、貧乏で、あまり世界に胸を張って自慢できるものがないネパールが、
完全に自信を持ってイントロデュースできるものがエベレストだということだ。
これを「カレー屋におけるエベレスト運動(エベレスタンティズム)」と呼ぶことにした。
「エベレスト精神」は言い換えれば「プロテスト運動」ともいえるし、「ナショナリズム運動」ともいえるし、「反グローバリズム」ともいえるし、「ああ! 外人=西洋人と思っている日本人よ!」の嘆きともいえる。

中村屋にインドカレーを伝えたのがインドの革命家だったという逸話を考えても、
やっぱり民族と料理というのはわりと大事なことなんだろう。

ともあれ、「モモ」という肉まんのような料理がある。
これはネパールの料理(もとはチベット)らしいので、
これがメニューにあったら「おや? エベレスト運動家の店かな?」と思ってみると良い。
壁にエベレストの写真が飾ってあったら確実だ。
店員に「ネパールのどこから来られたんですか?」ときいてみることをおすすめする。
店員は「カトマンズ出身です」とこたえながら「革命は近い」と感じることだろう。

セリーヌ『なしくずしの死』


2017/02/03

芸術格差を考える(第10回 : 鈴木福くんさようなら!〜著作権クーデターの最期〜)

【目次】

第10回 : 鈴木福くんさようなら!〜著作権クーデターの最期〜





ぼくはかれこれ9回も、知的財産、とりわけ著作権の問題を念頭に、芸術格差について考えてきた。
そして今回が栄えある10回目だ。
もともと全10回を予定していたので、ちょっと堅苦しいけどとりあえずここで結論(まとめ)のようなものをだしたい。
ぼくがこの連続記事で考えていたことはなんだったのか、
何が問題で、どうするべきなのか。
それはいくつかの論点にまとめることができたので、まず以下にそれを示したいと思う。そして、それからやっぱりぼくは音楽をやっているので、今後の日本の音楽がどのように変わっていくのか考え、良い感じにまとめあげてこの連続ブログを終わることができたら、と思う。

ちなみに、この連続ブログでは、著作権および特許の「お金の問題」、つまり経済の問題を中心に考えていったので、あまり思想的なことは話していない。たとえば、そもそも作品にオリジナリティというものが存在するのか、といった哲学的な問題は、まったく触れていないわけじゃないけど、あまり中心ではない。


まず、このブログでなんとなくだらだらと書いていたことというのは、いくつかの項目のどれかに当てはまっているということがわかった。
ひとつひとつ簡単に説明していくけど、すでに書いたことなので、詳しくはリンク先を読んでほしい。

・著作権使用料には格差がある

まったく、最近でもJASRACのことが問題になっている。少し前は喫茶店なんかの徴収に関することだったし、最近は音楽教室の徴収だ。ところで、こういってかき集められたお金は「アーティストのもとに還元されている」とまともに思っている人がいるが、実際は全然違う。正しくは「秋元康のもとに還元されている」だ。どういうことかというと、徴収されたお金は、売れた枚数分や流れた回数分がアーティストに支払われるわけではないからだ。
つまり、著作権使用料は、
「たくさん売れているアーティストにはたくさん入り、あまり売れていないアーティストにはあまり入らない」のではない。
これは完全に間違っている。
実際には、
「たくさん売れているアーティストにはたくさん入り、あまり売れていないアーティストには全く入らない」のだ。
そのあまり売れていないアーティストが、実際には様々な場所で他人から使用されていたとしても、だ。
たとえば、ぼくがやっているmacaroomの楽曲は喫茶店やバーやクラブやラジオやテレビやCDショップで流れるが、それによる印税は事実全く入っていない。これらのお店やテレビやラジオに、JASRACは当然ながら徴収にくるのだが、認識すらされていない我々にその金が分配されることはない。
これについては、第4回の私的録音補償金制度とJASRACの話を参考にしてほしい。

・著作権と印税は関係ない

著作権がなくてもアーティストはロイヤリティを受け取ることができる、というのは考えてみれば当然だが、見落とされがちだ。「著作権がなくなったらアーティストがお金をもらえなくなるじゃないか!」とかわけのわからないことを言う人がいるからだ。印税は、出版社やレーベルとの契約によるものなので、著作権自体の効力は全く関係ない。著作権は印税の保証ではなくて、競争の抑制だからだ。
同じ時代に生きた二人の超超超流行アーティスト、チャールズ・ディケンズとスティーブン・フォスターの例を考えてみた。
ディケンズは著作権の確立していなかったアメリカで出版社と独自の契約を充実させ、著作権先進国の本国イギリスよりも稼いでいた。
一方でヒット曲を連発していたフォスターは契約がうまくいかず、38セントの所持金を残して貧困のまま亡くなった。ディケンズについては第2回、フォスターについては第9回を読んでほしい。ぼくはディケンズとフォスターという二人の天才を考えて、「二人ともアーティストとして天才だが、ディケンズは商才があって、フォスターには優しさがあった」と結論付けた。ディケンズは金儲けし、フォスターは貧乏だった。ディケンズは奴隷制に賛成し、フォスターは反対していた。

・著作権は創作物を増加させない

著作権によって創作のインセンティブ(やる気・刺激)が増加するというデータは全くないどころか、むしろその逆のデータの方がたくさんある。やや荒削りなリサーチとしては、著作権がなかった時代の作品の数と、著作権確立後の作品数を比べてみればよい。第7回では、著作権によって競争が激減し、競争もイノベーションも減ったという事実をバッハやヴェルディらの音楽出版の例から考えた。
印税自体が創作のパワーとなっているのは、「すでに売れているアーティスト」に限られている。秋元康がいまよりももっと稼ぐためにプロデュースをし続けるというのは不思議ではないからだ。
しかしそもそもお金のないアーティストが印税を目当てに創作活動を開始するのは、論理的に見て非効率すぎる。第1回にはヘンリー・ダーガーというやや極端な例をあげて考えた。ダーガーは最も著作権の恩恵を受けていないアーティストというだけではなく、最も多く創作したアーティストだといえる。(至上最も長い小説の著者という観点から)

・著作権自体のコスト(弊害)には格差がある

著作権によって守られたコンテンツは、一般的には金銭的な解決がなされるが、それにはおおきなコストがかかる。これについては、第4回でジョナサン・カウェットの映画『カーネーション』を例にとって考えた。
しかし、大企業や売れているアーティストは、これを簡単に解決できる金があるので、これが芸術の新規参入を阻害している側面がある。特許も含めた知的財産による新規参入の阻害は、第4回に詳しく書いたので参照してほしい。これを特許におきかえると、今現在なんらかの開発をするためには、すでにある特許のせいで莫大なロイヤリティを払わなければならない。そのおかげで企業は特許合戦を繰り返す。Microsoftは20,000件の特許を持っている(第3回参照)。
また、そもそも知的財産には莫大なコストがかかることが多い。特に医薬品に関しては、大企業に取っても特許はマイナスでしかない。医薬品の特許の弊害は大手製薬会社にとってもマイナスだし、もっと重要なのは、薬を必要としている貧しい国にとっては完全な死活問題である、ということだ。如何に知的財産が格差を生むかということは、第9回の記事を読んでほしい。

・パブリックドメインには競争と収益がある

著作権によってまったく保護されていない創作物、つまりパブリックドメインはお金になるのか? 第2回の記事で、著作権のない創作物について書いた。政府所有のパブリック・ドメイン書籍の売り上げが、政府だけじゃなくそれを勝手に出版したところにまで十分な利益があるという話。同じものがネットで無料で公開されているにもかかわらずだ。また、売り上げだけではなく、イノベーションももたらすことの例としては、オープンソースの競争と発展について考えた。著作権の悪しき代表ディズニー自体が、数多くのパブリックドメイン作品によって収益を上げているのも皮肉だ(第2回参照)。
それに、著作権なんかに保護されていなくても、アーティストは他の競合社よりすでに有利な立場にいる。それが先行優位性というもので、補完物売り上げがその代表的な例だ。これについては細かくは書かなかったが、第5回の後半に簡単な仕組みを考えてみたので参考にしてほしい。
また、逆に言えば著作権は競争を無くし、新規参入を阻害する。著作権が競争をなくすという例は、ヴェルディらの時代の音楽出版については第7回、初期の特許による弊害は第1回、企業のサブマリン特許や特許合戦は第3回、医薬品の特許による弊害は第9回を参照。

・著作権は法を超えた権力を持つ

著作権によって法も国家も超えた巨大な権力組織が出来上がってしまうことは、最大の社会問題だと思う。この始まりには、第1回に書いたワットの蒸気機関を例に取ったレントシーキングがある。そもそもなぜ権力者が露骨な買収を繰り返すのかについては第2回にディズニーのロビー活動を例に考えた。著作権延長法を考えた時、それは永遠に書き換えられていき、以前に書かれた法は全く無視されることになる。つまりもともと法でもなんでもなく、巨大な利権によって動かされているに過ぎないという側面がある。ありがたいことにトランプ大統領就任によってTPPの脅威(第4回参照)はなくなったが、ヨーロッパ各国の著作権がアメリカに合わせる形で延長しつつある。これは必然的に(無意味に)拡大する傾向がある。ボルドリン&レヴァインはこれを「冷戦時代の核兵器」とたとえている(第3回参照)。
第4回には同じような問題でペイオラの話も書いているので読んでほしい。
さらに困ったことに、著作権とともに企業が多国籍化する傾向がある。著作権が国や法を超えて権力を持つようになる傾向について、オリンピックやFIFAが国家以上の影響力を持っていることを考えてみたが、それについては第6回で書いた超帝国の部分を読んでほしい。また日本の昨今のレコード大賞裏金問題や秋元康帝国については第8回に書いた。また、たった300円で誰でも味わえる身近な裏金体験、賄賂体験を第2回に書いた。

・パクリが競争と発展を生む

第2回ではパロディや引用のアートに触れ、第3回の記事ではパクリ疑惑の様々な例や裁判の様子を書いた。判例法や司法積極主義の問題、オリンピックのエンブレムの話とグラウンド・ゼロタワーののこと。ゼロタワーのパクリ裁判では判事は「これがパクリだとは誰も気づかない」と言っているにもかかわらず盗用だとしている。これはそもそも矛盾していないだろうか。如何にパクリに根拠がないかがということ。
パクリ疑惑で訴えられたことによって発展した文化も大いにある。最近ではその代表例がMP3であり、LINEやSkypeでおなじみP2Pファイル共有だ。MP3は裁判に勝ったが、P2Pは負けた。しかしどちらも消えることはなかった。ちょっと思想的な話になるが、第1回の前に書いた「著作権について、宣言」でも、そもそも作品にオリジナリティが存在するかということを書いた。



まとめとはいえ、ちょっと堅苦しくなってきた。
こんなことが書きたかったわけじゃない。
というか、こういうことが知りたかったら、専門家の本を読んでいる方がよほど信ぴょう性に長けるし、話がうまい。たとえば、この連続ブログで大いに参考・引用させてもらっているボルドリン&レヴァインの『<反>知的独占』 を読めば良いのだ。
そうじゃなくて、ぼくはただの音楽家、アーティスト、作家、芸術家、言い方はなんでも良いけど、として、自分の身の回りにおこることや、普段見かけたニュースについて考えていきたい、というのがそもそもこのブログのはじまりなのだ。
たかだかブログ、という感じだ。
とはいえ、長くなる。
現代日本では、長い文章を書くだけで褒められるので、ぼくのブログを読んでくれた人はやたらと褒めてくれる。
とにかく、これはただのブログなので、本当に著作権について考えたい人は、福井健策の著作や、ボルドリン&レヴァインの著作を読んだら良い。

ということで、ここはブログらしく、2016年に起こったことをぼくはゆっくりと考えているところだ。
今年はいろんなことがあったなあ、と考えている。

2016年は音楽をやっている人間にとっては、芸術格差の年だったなあ、と改めて思うのだ。

まず、1月にベッキーの全くどうでも良い不倫騒動がワイドショーを騒がせた。
そしてパナマ文書が4月8日に公開された。
スプリングセンテンスという言葉がアホみたいに流行ったが、
同じ文春でも、レコード大賞裏金問題(第8回参照)についてはまったくテレビでは語られなかった。
テレビ曲は懸命な判断だったし、パナマ文書にしても重要な企業名は伏せられていた。
そしてオリンピック招致の裏金問題、これも実際の企業名は修正されていた。
この間にいろいろあった。
欅坂46のナチス騒動、
HKT48の女性蔑視騒動、
SMAPの解散、など。
そしてASKA氏のめちゃくちゃ報道されまくった覚せい剤騒動、

そしてオリコンはついに秋元康とジャニーズで二分されてしまった。

2016年 CDシングルランキング(年間)

 1位 : AKB48『翼はいらない』250万枚
 2位 : AKB48『君はメロディー』148万枚
 3位 : AKB48『LOVE TRIP / しあわせを分けなさい』141万枚
 4位 : AKB48『ハイテンション146万枚
 5位 : 乃木坂46『サヨナラの意味』96万枚
 6位 : 乃木坂46『裸足でSUMMER』89万枚
 7位 : 嵐『I seek / Daylight』84万枚
 8位 : 乃木坂46『ハルジオンが咲く頃』80万枚
 9位 : 嵐『復活LOVE』56万枚
10位 : 嵐『Power of the Paradise』

11位 : 欅坂46『二人セゾン』58万枚
12位 : SMAP『世界に一つだけの花』
13位 : 欅坂46『世界には愛しかない』32万枚
14位 : 欅坂46『サイレントマジョリティー』30万枚
15位 : SKE48『チキンLINE』シングルを31.2万枚
16位 : NMB48『僕はいない』初動3日間で35.0万枚
17位 : HKT48『最高かよ』初週335,712
18位 : SKE48『金の愛、銀の愛』1週間で32.6万枚
19位 : Hey!Say!JUMP!『真剣SUNSHINE』
20位 : HKT48『74億分の1の君へ』初動売上は239000

これを系列ごとにわけると、

 1位 : 秋元康
 2位 : 秋元康
 3位 : 秋元康
 4位 : 秋元康
 5位 : 秋元康
 6位 : 秋元康
 7位 : ジャニーズ
 8位 : 秋元康
 9位 : ジャニーズ
10位 : ジャニーズ
11位 : 秋元康
12位 : ジャニーズ
13位 : 秋元康
14位 : 秋元康
15位 : 秋元康
16位 : 秋元康
17位 : 秋元康
18位 : 秋元康
19位 : ジャニーズ
20位 : 秋元康

というわけだった。

AKB48


秋元さんの部分を、SoundScan Japanによる全国のCD・ビデオソフト店および広域チェーン店、書店、家電量販店等とEコマース各社で販売された音楽・映像ソフト全ての商品POSデータを基に算出した『2016年年間売上動向』による計測を追加してみると、

 1位 : 秋元康 : 250万枚
 2位 : 秋元康 : 148万枚
 3位 : 秋元康 : 141万枚
 4位 : 秋元康 : 146万枚
 5位 : 秋元康 : 96万枚
 6位 : 秋元康 : 89万枚
 8位 : 秋元康 : 80万枚
11位 : 秋元康 : 58万枚
13位 : 秋元康 : 32万枚
14位 : 秋元康 : 30万枚
15位 : 秋元康 : 31万枚
16位 : 秋元康 : 35万枚
17位 : 秋元康 : 33万
18位 : 秋元康 : 32万枚
20位 : 秋元康 : 23
(11〜20位は数字がないため、オリコン、ビルボードで発表された初動3日間もしくは発売一週間の売り上げ)

計:1,224万枚

一枚を1,000円と換算すると、
122億4千万円の売り上げ。
作詞者への印税が10パーセントだとすると
12億。

シングルだけ、ですよ。アルバムも含まれちゃあいないし、DVDだって含まれちゃあいない。

それなのにもかかわらず、SoundScan Japanによる全国のCD・ビデオソフト店および広域チェーン店、書店、家電量販店等とEコマース各社で販売された音楽・映像ソフト全ての商品POSデータを基に算出した『2016年年間売上動向』の10分の1を、秋元康のシングルだけでまかなっている。
そして年間ランキングの1位から50位までで、アイドルではない人たちのランクインは、たった5組しかいなかった。

さて、こうして日本の音楽シーンの2016年は幕を閉じた。
そして、2017年だ。



以前までは、売れないミュージシャンは夢を見ていた。
2010年ごろまでの話だ。
以前は、インターネットの個人消費、マイスペースやユーチューブ、そしてサウンドクラウドが、音楽を細分化させるという話が多かった。
そう、「昔みたいに、国民的なアイドルが出にくくなった時代」といわれていたのだ。
音楽の好みは細分化され、それぞれがインターネットで好きな物をきいたり買ったりする。もうマスメディアは驚異ではなくなった。
売れていないアーティストが自由に音楽を発信できる。取次やディストリビューションを介さずに、ダイレクトにファンにCDを売ることができる。
2009年に相対性理論がインディーズながらオリコンウィークリーでトップテン入りして、「ポスト・YouTube世代のポップ・マエストロ」と呼ばれるのだ。
2009年にはのちにカラオケで好意的なヒットとなる『女々しくて』をゴールデンボンバーがリリースする。
YouTubeやニコニコ動画から火がついた神聖かまってちゃんはインディーズバンドの良きプロモーション成功例だった。
もはやレガシーメディアは必要無い、細分化の時代が到来だ。

音楽が自由になったと誰もが思っていたのだ!!
2010年までは!!

そう、2010年は世界的にもインターネットの驚異を見せつけられた年であった。
2010年から始まったアラブの春だ。アラブ圏の独立運動は、アルジャジーラの後押しだけでなく、ツイッターやフェイスブック、ハッカーや欧米情報共産主義のプログラマーたちが活躍した。
やや過剰な言い方だが、フェイスブック革命とまでいわれた。

しかし、だ。
2010年のオリコン年間シングルにおいてAKB48が初めて1位を獲得する!
そしてどうなったか。
2016年までの7年間、すべて、毎年、1位になったのだ。
これはどうしたことだろう?

ゴールデンボンバーは2009年にリリースした楽曲が2013年頃にカラオケ43週1位となり、翌年のJASRAC大賞まで受賞する。
しかし、このときにもすでに、オリコンのシングルランキングではAKB独占が続き、ゴールデンボンバーは全くの圏外だった。
ニコニコ動画で火がついたゴールデンボンバーは、まさに日本がかかえるCDの売り上げと、実際の流行とのギャップ、ねじれを象徴するバンドだった。

CDの売り上げは握手会や総選挙によって著しく数字を書き換えられ、レコード大賞は発足当初のジャーナリズム精神は失われてプロモーションへと様変わりした。

時を同じくして、K-POPのアーティストは日本から撤退する(あんなにもてはやされていたのに!)。
さらに同時期にアメリカで大ブームとなったEDMへとK-POPは方向転換する。
レーベルごとの売り上げで見た場合に、シェア率は圧倒的にアメリカが1位で、日本は2位だった。

なので、日本の音楽がいつから右傾化したかというと、やはり2010年あたりからだと思う。
ためしに2004年あたりの年間オリコンランキングでも見てみれば良い。現在と違って非常にいろんなジャンルが混ざっていることがわかるだろう。ロックバンドもポップユニットもシンガーソングライターもアイドルも、男も女もいろいろいる。

こういった音楽の内向きな傾向が新規参入と競争、発展を著しく阻害していることはわかっている。
これは帝国になる。そして多国籍な動きをみせるだろう。事実、AKBらの多国籍な動きは進んでいるし、オリンピックに秋元康が関わっていること、それからナチスのコスプレ、時代錯誤の男尊女卑ソング、などをみて明らかに帝国主義的な動きが加速している。

しかしながら、これと著作権の問題が、どのように関わってくるのか。
それはたとえばアイデアという知的財産が超帝国を生むことを考えた第6回の記事を参照にしてほしい。

帝国の終焉にはいろいろあるが、この知的独占の問題には、デモやクーデターは起こりうるだろうか?
暗殺は起こりうるだろうか? もちろん音楽業界での死、という意味でだ。

クーデターという意味では、文春が暴いたレコード大賞裏金問題(第8回参照)は、ある意味ではクーデターだろう。
実際に2016年のレコード大賞にはLDHのEXILEも、J Soul Brothersも、E-girlsも、ノミネートされなかった。LDHはレコ大が「一億円のプロモーション費用を払う価値が有る」と判断したのだから、少なくともこのことは1億円の損害だということだ。


さて、これからどうしよう


ぼく自身のことを考えよう。
今後、音楽活動をしていくにあたって、これらの考えは、何か特になっただろうか。
たぶん、全然なってないだろう。
しかし考えてしまった以上、今後の音楽活動にはなんらかの制限がかかってしまう。
自由には活動できない。というか、売れれば売れるほど、「お前あんときブログに書いとったんはなんやったんや」といわれてしまう。

そこで、ぼくはなんとなく、今後どういう態度で創作すべきか、ということを考えた。

それは、芸術労働者というものと、それに反するフォスター的態度との対立だ。

第9回に書いたスティーブン・フォスターの「親愛なる友人と、やさしき心よ」という言葉。
フォスターは印税生活的に、つまり商業的に大失敗した人なので、これを参考にするのはいささかおかしなことだ。
うむ。しかしそれで良い。しかし、フォスターだって頑張って出版社との契約をしていった。あまりうまくはいかなかったが。
契約が苦手なのだ。それは仕方がない。しかし頑張る。これが労働者だ。芸術労働者であるということ。
しかし創作は好きでやっていて、やめられないのだから、根本的には労働とは違う。対価は関係ないから。

フォスターのこの悟りのような言葉は、本当に必要なものがなにか、という問いに近い。

オリコンのベスト50の中に、アイドルではないものがたった5組しかいなかったことからわかるように、いま現在、才能あるクリエイターがアイドルソングの中にその才能を見出している。
いってみれば大喜利だ。
アイドルソングというお題があって、その中で自由に個性を出しているのだ。それはそれで楽しい。本当はもっと違うことがしたいけれど、大喜利は訓練としては非常に良い。実力がつく。そしてそれで名が売れたら、いつか自分の本当につくりたいものを作る、というわけだ。これは芸術労働者の態度だ。労働。

しかしこの考え方は大きなジレンマがある。
だって、そうしてアイドル業界を盛り上げてしまうことによって、前より一層本当につくりたいものの需要が失われてくるからだ。これはクリエイターたちへのしっぺ返しといっていい。

だから、こうしたことに断固としてノーという勇気が必要なわけだ。
もちろん、お金のためにそういうことをしたりする。ぼくだってやっている。芸術労働者の側面があるのだ。

だけれど根本的に自分がどう思っているかということは自由に発言し、主張していかなければならない。

このブログ的にいえば、「いつまでたっても鈴木福くんではいられない」ということだ。
都合の良いように演じているのは終わりにしなければならない。

ぼくはこのブログで鈴木福くんの名前と画像を何度も使ったが、それは純粋無垢の象徴、というわけじゃない。
都合の良い無垢さ、ということだ。(福くんには罪はないので、どうかエゴサしてもこのブログは読まないでほしい)
これは、フォスターのいうやさしき心とは似ているようで全く違う。

さようなら、鈴木福くん!
グッバイ、福くん!

ぼくにとって、親愛なる友人と、やさしき心とは、どういうものなのか。
ぼくは芸術を労働として甘んじなければいけなくなるときに、その都度、毎回、フォスターの言葉を反芻し、究極的に判断していかなければならないのだと思う。それが今回のブログのなんとなくの結論だ。


最後に。
著作権は魔法じゃない。
たった一曲つくったものが、
自分の全く知らない関係ない土地、つまり地方の喫茶店やバーで流れていて、
それらが取りこぼしなくすべてお金になって自分の懐にかえってくる、永久的に。
それが本当だとしたら、これは魔法だ。
でも、アーティストは魔法使いではない。
どんな素晴らしい曲であれ小説であれ映画であれ、地方の喫茶店を半ば恐喝して金をむしり取るほどの価値はない。

どんなに苦労して臨床実験を繰り返して完成した新薬だって、それが貧しい国に薬を高額で売りつける理由になってはならないのと同様に。