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2016/12/22

如何にして私は性同一性障害のフリをして会社で働いたか

ここに書く話が、果たして誰かに伝わるだろうか、とも思うのだけど、ふと数年前の出来事を思い出したのでここにしたためる。


ヴィンチェンゾ・ナタリの映画『Cube』では、立方体に閉じ込められた男女が罠を避けながら脱出を試みるが、一人が「これは国のしわざだ」といい、別のひとりが「国がこんなことをするわけないじゃないか」と笑う。
字幕ではそのような感じだったと思うけど、実際に口から出た言葉は「Big Brother is not watching you」だった。

Big Brother is not watching you.
国がこんなことをするわけないじゃないか。

欧米の映画では会話にBig Brotherという言葉がよく挿入されるが、日本語字幕では大抵カットされている。

ビッグ・ブラザーは、ご存知ジョージ・オーウェルの伝説的なディストピア小説『一九八四年』に登場する独裁者。タイトルはこうやって漢数字で書くのがよろしく、アラビア数字で『1984年』と書いたり、「いちきゅうはちよん」と読んだりするのはよろしくなく、やはり『一九八四年』と書いて「せんきゅうひゃくはちじゅうよねん」と読むのがよろしい。




一九八四年ときいて何を思い浮かべるかはひとそれぞれだが、ぼくの場合、非常にしばしば以前勤めていた会社を思い出す。

ぼくは一昨年、日々のゴーギャン的ゴッホ的生活に耐えかねて、会社に就職した。
どこでも良いから手っ取り早く就職できるところを選んだが、一応出版関係で、編集部に配属になった。

当時ぼくは、たまたま電車の行き帰りにオーウェルの『一九八四年』を読んでいたのだ。

入社すると、まず最初に新入社員がやるべき最初の仕事をいただいた。
それは、『会社脳の鍛え方』という本を読み、その感想を書いて、それをもとに上司とディベートする、というものだった。



ぼくはまるで自分がオーウェルの世界に入りこんだような錯覚をおぼえた。

その会社では、早朝、新入社員はオフィスの掃除をし、会議室に椅子を並べ、ホワイトボードを用意し、先輩方を会議室に案内するところから1日がはじまる。
会議室では、スティーヴン・R・コヴィーの『7つの習慣』をもとに、社長のありがたいお話がはじまるのだ。つまりは社内の自己啓発セミナーだ。もちろん笑いは一切なしで、社員はほんの数ミリも肩を動かすことなく正しい姿勢で拝聴していなければならない。



入社初日にぼくは編集部の課長から気に入られ、二人きりで昼食に連れていってもらった。
そこで彼は、会社から歩いて数分の社員寮に住むことをぼくに提案し、
「もう定員に達しているから、キッチンで寝れば良い」といい、また「プライベートは一切ないから、その分一日中仕事のことだけを考えていられる」といった。
「そのくらいのやる気を見せて欲しい」と、彼は親切にもぼくに言ってきたのだ。

そして、「とりあえずその長い髪を切ろうか」といい、「そのくらいのやる気は見せてほしい」といった。


翌日、人事部長から、ぼくのクレジットカードを課長に預けるように指示された。
ぼくがクレジットカードの借金で苦しんでいるというのをきいて、もうこれ以上使わないようにするためらしかった。


数日後の早朝自己啓発セミナーでは、
22が常に5であることを意識せよ
という文句がテーマだった。

ぼくはちょうどその日の通勤中にジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んで、似たような文句が出てきて、ペンで線を引いたのを覚えていた。

自由とは、2足す2が常に4であるという自由である。

ぼくはその時に、はっきりと自分が現実にオーウェルの予見したディストピア世界にいるのだということを確信した。

そしてぼくは会社を辞めることを決意するとともに、課長および人事部長に長いメールを送信した。入社五日目のことだ。

以下は当時のメールの一部抜粋(個人名などは削除)だ。注釈まで丁寧につけているのがちょっとおもしろい。

(以下引用)

まずはじめに、もしこの文章を読んで不快な思いをしてしまうことがありましたら、それは一重に私の表現力の乏しさ故であることと思います。くれぐれも私は誰か一個人の人間性や言動などを非難するつもりが全くない、ということを知っていただいた上で、読んでくださることを願っています。私が抱える問題は私自身の内側にあるものです(それを会社ではインサイド・アウトとおっしゃっています)ので、それを非難するつもりはありません。そうではなくて、私がお聞きしたいのは、現在私が不当に要求されていることとその「現状」に対してのみです。それだけはどうか勘違いなさらないでいただきたいので、これを序文にかえさせていただきますので、重ねてご容赦ください。

会話文等を記述する際は、なるべくその発言者を()内に表記しましたが、敬称などは省略している場合があります。
注釈については最後にまとめて表記しています。

私は以下の三点にしぼって、お聞きしたいと思います。その三点とは、

・編集部について
・生活について
・身だしなみについて

です。


(中略  : [編集部について]はここでは関係ないので割愛


【生活について】
私が金銭的な理由で通勤用の定期券を買えずに悩んでいる際に、それを聞きつけ心配した課長代理が昼食に誘ってくださいました。そのときに課長代理は、私に社員寮に入るよう勧めてきました。
「君がやる気があるのなら、社員寮に入りなさい。家賃も電車代も払わなくて済むよ。社員寮は今満員で部屋はないから居間で寝ることになる。それにプライベートは一切ないけど、電車に乗らなくてすむから朝まで仕事もできる。そのくらいのやる気は見せてほしい(課長)」
さらに課長は「人生を変えよう」とも言ってくださいました。しかし私はプライベートの一切ない居間で寝るという〈やる気〉を知りません。
それは誰にとっても許されざることで、憲法に明記された「最低限度の文化的生活」から著しく逸脱したものであります。
私は定期を買うお金がない、ということで悩んでました。しかしそれはクレジットカードをつくり、それで定期を購入するということで解決しました。その旨を人事部に伝えたところ、
「クレジットカードを作ったら、課長代理に預けなさい。そのくらいのやる気を見せてほしい(人事部長)」
クレジットカードを第三者に渡すことは禁止されていますし、それをすることの〈やる気〉を私は知りません。
この精神態度は、上司から読むように指示され渡された『会社脳の鍛え方』という本に象徴的に現れています。もちろん私は『会社脳の鍛え方』という本を全く否定しません。一般的によく目にする自己啓発本の範疇であると思います。しかし、私は、ベッドもない居間で寝て、クレジットカードは上司に預け、朝まで仕事する、そういう「会社脳」を育まねばならないという現実を知りました。
人生を変え、会社に服従する奴隷になるのも悪くはないかもしれません。そういう人生を歩んだ人が、後々になって、素晴らしい生き甲斐を見つけることもあるでしょう。
しかし知っておいていただきたいのは、私には私の人生がある、ということです。
私には(中略)小説家になるという夢があります。その夢をいつか叶えるという覚悟をして会社に就職しました。そんな夢がしょうもないと思うかもしれませんが、私は私なりに真剣でした。小説家を志す人が、編集部で働くということは決して珍しくはありません。
私は会社のために全力で働き、会社の利益を考えて最善の行動をするつもりです。
しかし私は自分の魂を売って奴隷的な「会社脳」を育むつもりはありませんし、憲法に明記された「最低限度の文化的生活」を捨てる気もありません。


【身だしなみについて】
実務が始まるにあたって、私は髪を切るように指示されました。
その理由は、以下のようなものでした。
・お客さんになめられないようにするため(課長)
・編集部には髪の長い人はいないから(人事部長)
以上の理由は、大変に全うなご意見であり、その意味も大変よくわかるものです。お客さまと顔を合わせる機会の多い仕事だからこそ、身だしなみは整えなければならないことは当然であると私も認識しております。身だしなみのせいで、お客さまが不快な思いをし、結果的に会社に不利益を与える可能性も考えられます。しかしながら、そうした意見に対して、私は単純なひとつの疑問があるのです。
それは、女性はなぜ髪が長くて良いのか
ということです。
おそらくこの疑問を読んでいるあなた方は、一笑に付しておられるでしょう。まるで子供の意見だとお思いになられるでしょう。なぜなら、男と女とでは、服も違えば果たす役割も違いますし、与える印象も違います。それは生物としての違いでもありますし、文化的な違いでもあります。女性の髪が長いことは当然ですし、男性が髪が長いことは違和感があります。こうした違和感をお客さまにあたえることで、もしかしたら利益に差が生まれるのではないかと考えるのは当然のことだと思います。
しかし現代の社会では、そうした当然のことは、「考えてはいけない」ということになっています。
なぜならば、男女は均等な雇用機会が与えられてなくてはならないからです。
私は、女性社員用の制服を着て出社した男性社員を解雇した会社が、不当解雇だと認定された事例を知っています。もちろん、男性が女性社員用の制服を着ることは「おかしいこと」ですし、お客さまから見れば「不快に感じる」こともあるかもしれません。しかし、そんなことは「考えてはいけない」のです。
そこでさらに私は、失礼ながら重ねてひとつの質問をしたいと思います。
「髪を切りなさい」と命令された男性社員が、もし実は性同一性障害であったとしたら、どうお考えになりますでしょうか。
これは、私が性同一性障害かどうかということとは全く関係ありません。私がもし仮に性同一性障害であったとしても、それは誰にも言いません。なぜなら性的な差別というものは何よりも堪え難いものであるからです。もしそのことをまだ誰にも告白していないのだとしたらそれは、自己同一性に関わる重大な「自分だけの秘密」であり、誰にも侵されてはならないのです。
私は、もし髪が長いことが明らかに業務に支障をきたすような業種に就いており、なおかつ男性も女性も平等に髪を短くしなければならないのであれば、甘んじて髪を切ります。
ひとつ忠告しておかなくてはならないのは、「髪を切るというたったそれだけのこと」でさえ、相当に思い悩む人もいるということです。例えば性同一性障害の方や、宗教的信条などを持つ人などがそうです。
しかしそういう人は、髪を切らなくて良いところに就職すれば良いではないか、とお思いになられるでしょう。当然のご意見です。しかし問題なのは、「性差によってその違いが生じる」ということです。これは男女が同等の内容で業務をする場合の職種に限ったことであり、例えばキャバクラ嬢などの「性差自体が業種に深く関わる業種」などはこれにあたりません。そうでない職業、つまり編集業などの、性差が深く関わる業種でない場合には、完全に男女の均等な雇用機会がなければならないのです。
ある男性にとっては、髪を切る切らないという違いは、その人の自己同一性に関わる重要な問題であります。
以上の問題は、もちろん「個人的」なものではなく完全に「社会的」差別が生み出した問題であることを、どうか認識いただきたいのです。
そうした現代特有の差別という概念にとらわれていては、企業は利益をあげられません。しかし何度も言いますが、「そんなことは考えてはいけない」のです。
二十代の若者の死亡率の半分が自殺であり、その原因のほとんどが就職に関することであることはよく知られています。これは資本主義的な利益優先の、「数字がすべて」という競争社会が生み出した差別の問題であり、憲法にある生存権を著しく乱す問題であります。


【総論】
(中略)
入社後に求められた社員寮とクレジットカードの譲渡は憲法の生存権およびカード会社の規約(※3)に反することです。
男性だけ髪を切らなければ編集ができないというのは、男女雇用機会均等法に反することです。
私の現状は、この不当さを要求されており、受け入れるかどうかの瀬戸際にある、ということです。私は、それを受け入れるかわりに得ることができるであろう金銭的対価、つまり給料を前に、その瀬戸際にいるのです。
私はこの不当な要求を受け入れ、生活していかなくてはなりません。
パワーバランスについてははっきりしていることと存じます。

大変長くなりましたが、私が考えお伝えしたいを考えていることは以上です。稚拙な文ですが、一人で考えしたためたものであります。反駁されたいことも多々あるのではないかと存じます。
以上のことについて、どのようにお考えか意見をお聞かせ願いませんでしょうか。


【注釈】

[※1][※2]は[編集部について]の注釈なので割愛

※3例えば、私がこの度発行したカードの会員規約によると、「カードの所有者は、当社に属しますので、他人に貸与、譲渡、質入れしたり担保提供等に利用したりして、カードの占有を第三者に移転することは一切できません(第34)」「会員が次のいずれかの事由に該当したときは、本規約に基づく全ての債務について当然に期限の利益を失い、直ちに責務の全額を一括して履行するものとします。(略)②商品の質入れ、譲渡、貸与、その他当社の所有権を侵害する行為をしたとき。(第171)」とある。


(以上引用)


翌日になって早速緊急ミーティングが開かれた。ぼくと課長、そして人事部長の三人で。

人事部長はぼくにいった。
「君は性同一性障害なのか?」
「それはどちらでも良いでしょう」とぼくはいった。
「いや、君が性同一性障害なのか、ということで問題はかわってくる」
「いえ、全然かわりません」

ぼくは、会議が開かれる前から、この質問を予測していて、絶対にぼくが性同一性障害かどうかという結論を出さないでおこうと決めていた。
実際問題重要なのは、「もし性同一性障害だったら」ということであり、なおかつ「もしそれを告白できない人だったら」ということだった。

ぼくは、サン=テグジュペリ『夜間飛行』における、危険な橋の建設途中で人が死に、夜間の郵便飛行で若い飛行士が死ぬのなら、それにどれだけ意味があるのかという「橋を渡るだけで人を傷つける」の言葉のような態度であり、オシリペンペンズの『カリスマ太郎』における「今、世界中で起きてるあらゆる問題すべてに俺が関係している」のような態度だった。
ぼくはなぜだろう、すべての性同一性障害に苦しむ若手社員の苦しみをすべて背負い込んでやろう、という気分になっていたのだ。




そしてぼくは入社六日目にして課長、人事部長に対して、次のようにいった。

「日本には、自殺者が年間一万人から三万人くらいだといわれています。若者の死因の半分が自殺で、その大多数が仕事に関係することだといわれています。つまり、ぼくが言いたいのはですね、その三万人は、お前らが殺したんだ、ということです」


ぼくは晴れて退職することがきまった。
しかしながらすぐに退社するわけではなく、その月いっぱいは働くということになった。

そのうち、ぼくと同時期に入社した同い年の男と話すようになり、彼も今月で辞めると言い出した。
彼は兵庫県伊丹市出身で、松本人志のラジオ「放送室」をほぼすべて聴いているというツワモノだった。
「最終日に一緒に漫才しません?」と提案したのはぼくだった。
ぼくらはビッグ・ブラザーたる会社において、月の終わりの同日に退職する。退職する日にぼくらはサプライズで漫才をしてやろうということになった。みんなの勤務中に。

詳しいことは書かないが、当日、「こんなにすべることがあるのか」というくらいにすべった。
誰にも予告せずに急におっぱじめたので、ほとんどの社員はぼくらの方を見向きもしなかったし、ほとんど無視されている中で、ぼくらは「こんな会社は嫌だ」というふうなベタな漫才を勝手に繰り広げた。クスリとも笑いはおきなかった。
そして最後、
「ええ加減にしなさい。辞めさしてもらうわ」といって、どうもありがとうございましたー、と手を振りながらそのまま退社した。拍手はなかった。
結局のところ、会社を辞めるということと、漫才を辞めさしてもらうわ、というのをかけて言いたかっただけの漫才なのだが、それでもすべりっぷりは尋常じゃなかった。

冷や汗をかいたぼくらは漫才衣装のまま会社の外でタバコを吸い、様々な感情が入り乱れながら雄叫びをあげまくった。

一人の社員が会社から走って出てきた。ほとんど話したこともない先輩だった。

「あなたたちの行動は、素晴らしいと思います」と彼はいった。
「ぼくも薄々この会社おかしいなと思ってましたけど、今日、さっきの漫才みてはっきりしました。ぼくも辞めます」

ぼくらは、たった一人でも感動してくれた観客がいたことで、漫才をやってよかったと胸をなでおろしたのだった。


さて、これが、ぼくが性同一性障害のふりをして短い期間を過ごした会社での物語だ。この時以来、ぼくは会社で働いていない。



2016/11/18

芸術格差を考える(第8回:アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ)

【目次】


第8回: アイドルと出来レース、そしてドナルド・トランプよ


最近、とある出版社から依頼されて「EDM」の入門書を書くことになった。
EDMというのはElectronic Dance Musicの略で、最近流行っているダンス系の音楽のことだ。
ぼくは長らく「出版歴なき小説家」を自称していたので、晴れて出版されることとなり浮かれていたのだが、よくよく考えてみるとEDMはぼくにとっては天敵のようなものだった。
池袋のタワーレコードにぼくらmacaroomのCDが並べられた際、「エレクトロニカ」のコーナーがあって、あろうことかmacaroomは大先輩ブライアン・イーノと並べられていた。エレクトロニカ・コーナーはたった一つの棚しかなくてタイトル数も少なかったが、その横には広いスペースに所狭しとEDMのアーティストがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。



タワレコの店員は、「今はEDMが人気ですからねえ。でも(エレクトロニカの)この棚だけは絶対に死守します」と熱い思いを告白していた。
まあ、我々のアルバムが大ヒットしていないのは別にEDMのせいではないのだが、しかしながらもし仮に今エレクトロニカが大ブームだったとしたら、我々は結構良い立ち位置にいるんじゃないかと夢想したりもする。
 いやまあそんなつまらない想像は、京劇をやっている人や、ノイズ音楽やってる人や、フレスコ画書いたりしている人など、少数派創作者全員が思っていることだろうからさして意義のあることではない。

 さて著作権を中心としながら芸術格差について考えるという悲しい連続ブログを開始してから8回目となったのだが、だんだんと出来レースたる業界のことや、口に出すのも恐ろしいビッグな企業なんかもぼくなりにわかるようになってきた。最終的にはこの格差から抜け出して、こんなブログなんか忘れてしまえるような覇者たるビッグネームになって、JASRAC大賞でも受賞してしまうのが究極の理想なのだが、このままぼけーっとしているだけではなんにもならないだろう。
 思えば、ぼくが大学生になったばっかりの頃、初音ミクが世間を賑わせていた。あの頃に、自分がやりたい音楽など二の次で、続々と「初音ミクP(正しい使い方ではないかもしれない)」へと変貌を遂げていった友人たちのなんとたくましいことよ。人気を得るために好きでもないものをやる、したたたかさ、下衆さ、こういったことの重要性をいままでどれだけ見てきたかわからない。

ここ最近でもっとも芸術格差について考えさせられたのは、文春がすっぱぬき、テレビでは報道されることのなかった三代目 J Soul Brothersのレコード大賞裏金問題だ。ぼくは本当に何年ぶりのことか、コンビニで文春を購入した。

レコード大賞の問題にしても、プロダクション同士のやりとりなのだから、アーティストは被害者だということもできるわけだ。そういう風に思えば、大賞は返上するより他に道がないように思えるのだが、実際はそういう風にはならない。
自分に対して一億円がかかっていて、プロダクションがそれだけ期待しているというのはとんでもないプレッシャーだろうし、実際の所どんな気分なのか想像もできない。
客を騙して作品を売ることはゆるされないけど、そうはいっても業界では常に騙しあいながらイメージをコントロールするのが当たり前になりすぎているし、それほど悪いことをしているともいえないかもしれない。あるアーティストがどうやってデビューできたかというのは、本当のところには誰にもわからない。誰も本当のことはいえない。津田大介も、レコード大賞の記事に対して、当たり前のことが当たり前にすっぱ抜かれただけだという風なコメントをしていた。業界に長くいればいるほど、こうしたことには驚かないだろうし、自分に果たしていままでそういったことが全く身に覚えがないかと問われるとちょっと答えに苦しむだろう。
 しかしぼくのように、今までにどんなレーベルともプロダクションとも契約したことのないアーティストは、まったくもって鈴木福くん級の純粋無垢なドリーマーなのだから、「えっ! れこーど大賞って金で買われてたの?!」と仰天してしまうのだ。



 福くんたる我々は、純粋に良いものが正当に評価され世に出て行くのだと思っているし、金で大賞を買うなんてのは映画や漫画の中の出来事だと思っている。

 この度文春が書いた記事というのは、バーニングプロダクションから三代目J Soul Brothersの所属するプロダクションLDHへと渡った一億円の請求書がすっぱ抜かれたもので、2015年のレコード大賞グランプリ受賞の働きかけを裏付けるものということだった。文春はこれについてLDHに問い合わせたところ、数日後にLDH代表のHIROが謎の辞職をするということになった。

 ボブ・ディランはともあれノーベル賞を受け入れたが、かつてサルトルはこれを断った。
 そして同じようにミスター・チルドレンもかつてレコード大賞を拒否して、その後数年経って何が起こったのか、またもやグランプリを受賞して今度はそれを受け入れた。

 この連続ブログでは以前、ラジオDJがお金を受け取って楽曲を放送するペイオラというものについて書いた。ラジオはどこまでが企業の宣伝なのか、どこまでがDJの個人的なおしゃべりなのか判断がつきにくく、それでいてなかなか影響力が(かつては)あったので、宣伝なのかそうでないかははっきりとわけなければならない。
 いまでもツイッターで、ステマすれすれの投稿があったりして、よくかけだしの全然名前のしらないモデルなんかが「ここの脱毛よく行っててめっちゃ安いしオススメ」なんて大嘘投稿してたりするけど、それでも下の方にはきちんと「プロモーション」という表記がある。だから一応はこれは広告なのだとわかるのだけど、ラジオはそれがわかりにくい。
だから宣伝は宣伝の時間としてきっちり用意しておいて、それ以外の部分での裏金はゆるされないわけだ。

もっとも、ニヒリスティックや現代の若者からいわせれば、「そんなもん日常茶飯事でしょ?」というだろうし、そもそもレコード大賞や紅白歌合戦などというものに大した期待もないし、存在すらどうでも良いと思っているかもしれない。
しかし、そんなニーチェ的ゆとりティーネイジャーがニコニコ動画やクソつまらないユーチューバーに走るのも、テレビの出来レースっぷりが蔓延しすぎているせいではないのか。

女性蔑視感満載の歌詞で大炎上したHKT48の『アインシュタインよりディアナ・アグロン』、ナチスの将校に扮して顰蹙を買った欅坂46、これらを束ねるドンたる秋元康さん。
そしてLDH元代表でEXILEをたばねるHIRO氏。
彼らが大会組織員会の理事や文化・教育委員会に選ばれている2020年東京オリンピック。
そしてオリンピック自体が大会招致の賄賂がニュースとなった。
レコード大賞にしても、EXILE系列とAKB系列は一騎打ちだし、JASRAC大賞も同じくこの両陣営が常に争っている。
 こういう場所を、ぼくは常に雑誌の記事やネット記事でしか知らず、現実に自分のこととして置き換えて考えれるほど柔軟な頭も持っていない。だから好き勝手に文句を言ったりすることができるのだが、これは売れるための姿勢としては大変よろしくない。もっとも賢い正攻法は、触れない、ということだろうから。
 とても自由に自分の言いたいことを発言しておきながら、核心部分には決して触れない有吉さんやマツコさんのような選択がもっとも求められているに違いないのだから。



 そういえば、勝谷誠彦さんの番組にゲストでロンブーの田村淳さんが出演した際、勝谷さんから「どうして報道番組に芸人が呼ばれるのかね」という質問に対し、淳さんは間髪入れず「バランス感覚が良いからです。突飛なことも言いそうだし、言っちゃいけないことは言わない」と答えていた。
 続けて「視聴者の空気も読むし、テレビ局サイドの空気も読む、今やそれが芸人の立ち位置なんです」
 松本人志さんが、放送禁止用語と戦うよりもむしろ、放送禁止用語という枠内で笑いを追求することにシフトチェンジした結果、過剰な自粛テロップやピー音の連発などの定型が出来あがった。それは本当に面白いし、今のテレビの笑いのスタンダードのようになっている。けれど果たして芸人とはそういうものだっただろうか。

 会社で作り笑いに疲れたOLは自由気ままで媚び諂わない猫に理想の姿を見出すし、反抗精神のなくなったミュージシャンは路上でホームレスと間違われるボブ・ディランや孤独な姿がパパラッチされるキアヌ・リーヴスに理想の姿を見出すし、アニメの児童ポルノに反発するオタクは魔法少女まどかマギカやエヴァンゲリオンに難しい神話や哲学を見出すようになる。

 HKT48の女性蔑視に近いようなことは、差別に敏感なアメリカでもよくみるし、プログレッシブ・ハウスと呼ばれるEDMの多くの曲がステレオタイプ的強いアメリカを歌うものに違いない。しかしながらそれ自体はさほど問題はなく、究極的には無関心であったり黙っていることが問題なのだとしたら、アメリカはほとんどの場合、日本よりも進んでいる。ぼくはロシア出身でアメリカのEDMを支えていたZeddの曲がEXILEとなんら変わらない思想を持っているにもかかわらず、「もしトランプが勝つなんてことがあったらロシアに帰ります」とツイートし、実際にトランプ当選のあと自分のパスポートの画像をツイートしてアメリカへバイバイした。アリアナ・グランデのようなかわい子ちゃんまでがトランプ勝利に対して「恐ろしい」とツイートしている中で、日本のアイドルはどうしてナチスになりすますことができたのだろうか。しかし同時にぼくは、アメリカ的な無関心を最もよく体現している音楽がEDMなんじゃないかとも思っている。あんたらEDMにも責任の一端はあるんじゃないの、と、無責任にも思っちゃうわけだ。


 YouTubeのおかげで、ぼくのようなアーティストでも、もしかしたら奇跡的に大ヒットすることはあるだろう。
 だけど決してPPAPの大ヒットのカラクリは誰にもわからない。
 マスメディアの影響力が弱まり、インターネットを始めとする新たなメディアに分散されたせいで、結局のところどこまでが出来レースでどこまでがガチなのか全然わからないのだ。どこまで福くん的な良い子でいればいいのかわからないし、一見自由で無鉄砲な発言をしているタレントがどこまであらかじめテレビ的にフィルタリングされたものなのかわからない。社会的なニュースが出ると同時にとても真実とは思えないような陰謀論がささやかれるし、得体の知れない人物が一見科学的とおもえるような論調で食品の怖さを訴えるブログがシェアされる。
 急死したAV女優や自殺したアナウンサーの報道にかすかな違和感を感じたとしても、それ以上の詮索はネットに出回るカオスな都市伝説の域を出ない。
 それこそオリンピックや日本最大の音楽レーベルやテレビ局の噂になってしまうと、本当にわからない。大統領選ともなればもっとね。




2016/09/23

芸術格差を考える(第7回:テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。)

【目次】

第7回: テイラー・スウィフトよ、ややこしいことするなかれ。




音楽をやっている人なら、「好きなミュージシャンは?」ときかれて即座に答えるのは難しいだろう。
それは逆に言えば、「おれは何でも聴くよ」って答えるひとがいかに何一つ聴いていないかを、いままで痛いほど経験してきたからだ。だから願わくば「何でも聴くよ」なんて大嘘は答えないようにしておきたいと、誰しも考えるようになる。
ぼくも、よく「シガー・ロス好きでしょ?」とか、意味もよくわからないが「北欧系好きそう」とか言われたりして、ええ、ええ、好きですよ、ってはにかみながら答えるようにしているが、自ら「私は○○が好きだ」というのはなかなか難しい。

まず最初に思いつくのはサイケデリック・トランスというジャンルがとてつもなく好きだ、というのが本当の真実で、これはもうよだれが出るほど好きなのだ。
サイケデリック・トランスは、省略して「サイケ」とだけ言うことが多いのだけど、そういうとヴェルヴェット・アンダーグラウンドやゆらゆら帝国を想起させてしまうことが多い。
しかし、ギャルが踊りチンピラが踊る「クラブ」というところでは、サイケといえばサイケデリック・ロックではなくサイケデリック・トランスのことを指すにきまっているのだ。それがパリピというのもだ。

同じサイケとはいえ、日本のサイケデリック・トランスのクラブにはヒッピーの香りもフラワーの色合いもビートの倦怠もないし、当然ラブ&ピースもない。ほとんど下着姿でどぎついメイクに肌の黒いギャルと角刈りサングラスにピチピチの黒Tとセカンドバッグで肌の黒いチンピラが、LSDなんていう神聖なドラッグではなく、シャブやMDMAなどの下衆いドラッグとテキーラを服用し、両手をレーザービームにかざしながら「おいっ! おいっ!」と無意味な奇声を発しながら踊る、そういう非常に空気の悪い現場なのだ。
とはいえ、音楽そのものは良い。



サイケデリック・トランスの聖地がイスラエルだということはクラブではよく知られたことなのだが、一般的には知られていない。
最近、イスラエルの大衆文化を紹介する本を読んだのだけど、そこにはサイケデリック・トランスのことは一切触れられていなかった。それを読んだぼくは「!!!!!????」となったのだが、これは一体どういうことだろう。
そう、イスラエルはクラブ文化において世界で最先端であることに間違いなく、街中のど真ん中、それも聖地エルサレムなんかでレイブが勃発するほど平和な場所であり、サイケのDJの多くがイスラエル出身であり、「なぜイスラエルなのか」という問いには誰も答えることができない。DTMで少しでもミックスというものを経験したことがあるひとなら、WAVESというイスラエルの素晴らしい世界標準のプラグインを利用したことがあるだろう。



そこで、なぜイスラエルの文化としてサイケが紹介されないのか。
うん、その気持ちはわかる。
考えてもみたまえ。ニュースでパレスチナ問題についてみたことがあるだろう。アラブ人とユダヤ人の複雑で根の深い争いは島国日本人には到底理解できるわけもなく、ただ我々にはイマジンを合唱することくらいしかやれることはない。しかし、実際には、聖地エルサレムにおいて、アラファトもモサドも関係なくアラブ人やユダヤ人がLSDをキメて安らかにサイケに合わせて踊っているのだとしたら、それはイスラエル的にも、国連やその他西欧諸国にとっても望ましい姿ではない。西洋の中東介入の負の遺産がこんなハッピーな副産物を生み出すことはやっぱりイメージとしてよろしくない。
そういうわけで、イスラエル的には、サイケという文化は、公には認めていない、というか「やるぶんには構わんが、イスラエルという看板は背負わんでくれ」といったところなのじゃないかと思うわけだ。

そして、ぼくはこういった音楽、つまり、「輸出には適さない音楽」こそが真の民族音楽だと思うのだ。
なぜなら、日本がいくら輸出向けに「カブキ、ウキヨエ、素晴ラシイデショ」といっても、歌舞伎も浮世絵も今の日本人にとってみれば馴染みも興味もない。輸出向けの作られた文化で、死んだ文化、まあ遺産ということだ。そうではなくて、現在の生きた民族音楽や民族芸術とは一体何かと考えたら、やっぱりグローバリズムとは逆をいくような「これは恥ずかしくて輸出できない」と国民が思うような音楽だと思う。そしてこれは本当に恥ずかしいことだけど、AKBや嵐なんかがそうなのかもしれない。

全く同じようなことを、アメリカのカントリー音楽に感じる。
アメリカは現在、「EDM」という新たな商業音楽を輸出することに必死だが、これまでのところ概ね成功している。EDMという言葉が一般に浸透したのは2012年ごろで、今やクラブのみならず広くポップスにおいてEDMは業界全体を席巻しているように見える。
しかしアメリカ国内の事情をみればねじ曲がっていて、カントリー音楽という、我々日本人からすれば随分古臭い音楽が未だに聴かれ続けているのだ。
キング・オブ・ポップと呼ばれたマイケル・ジャクソンは全世界で驚異的なセールスを記録したが、アメリカ国内ではカントリー歌手の方が売れている。これは意外だが、事実だ。
カントリーは完全にアメリカ国内向けの音楽で、なおかつアメリカで最も売れている。

それもそのはず。
カントリー音楽というのは、そのほとんどがアメリカ万歳ということを歌詞にしているか、イエス様万歳ということを歌詞にしているかで、カントリー歌手は米軍基地などを主なツアーの拠点とするか、キリスト教右派が多数を占める地区を拠点としているかといった具合で、男尊女卑著しく、女は必ずブロンドで星条旗の柄のビキニにロングブーツとハイハット、男は筋肉あってナンボでたくましいヒゲとウィスキー、古き良き、いや古き悪しきアメリカ白人のステレオタイプを体現しまくっているのだ。
こんな音楽、アメリカ以外の人が聞いてもわけがわからないどころか怒り出すにちがいない。

我々は、ベトナム戦争やイラク戦争に反対し、権力に歯向かってきた自由と平和の「ロック=アメリカ」と世界に憧れて育ったが、一方でセールス的に大ヒットしつつも国外には輸出されないのは「戦争・キリスト・男尊女卑」三拍子揃った「カントリー=アメリカ」だったのだ。

ところでこういってカントリーをディスっているけど、ぼくはカントリーが大好きだ。
特に、南北戦争を題材にしたジョニー・ホートンの戦争バラッドものの歌なんか、一周回ってパンクになっている。

キリスト系の歌も、天才ジョニー・キャッシュのものだと、とてもカッコ良い。



そしてなんだかんだいって、アメリカ人はやっぱりアホだなあ、と感じさせる名曲&名MVが多い。歌詞もキャスティングもテキトーな小道具もロケーションも、全部が全部、墓穴を掘っているようで素晴らしい。



アメリカ国内で大ヒットした新人カントリー歌手は、アーティストの進むべき方向性として、次の二者択一をせまられる。
すなわち、このままカントリー歌手としてアメリカ人に愛され続けるか、もしくは、カントリー以外のジャンルに改造されて世界的なヒットを目論むか。

後者の例のひとつが、テイラー・スウィフトだ。
彼女は未だにカントリー歌手という触れ込みで紹介されることがあるが、多くの人が「あれのどこがカントリーなの?」という鈴木福くん的無垢な疑問を持たざるを得ないだろう。
テイラー・スウィフトはカントリーから脱出し、世界的に愛される存在となったわけなのだが、カントリー出身であるという経歴は拭うことができない。
2015年にテイラーがMTVのミュージックビデオ・アワードの最優秀賞にノミネートされたときのこと。
女性ラッパーとしてEDM周辺の話題曲に引っ張りだこのニッキー・ミナージュが、ツイッター上で「私がスレンダーで違う種類のアーティストだったらノミネートされてたのに」という皮肉たっぷりのツイートをした。彼女の肌はブラックで、それからお肉たっぷりお尻でっぷりの体型で、とても美人とはいえないのだけど、彼女はこのツイートの別の種類(different ”kind”)のkindに強調をつけている。彼女はトリニダード・トバゴ出身で、インドとアフリカのハーフ。

それに対して、(自分に対することだと勝手に思った)テイラーがツイッター上で「女どうしで喧嘩させるなんてらしくないね」とツイート。挙げ句の果てにはお節介にも「私が受賞したら一緒にステージに上がりましょう」と。
彼女は純粋なピースフルな気持ちで言ったのだろうけれども、端からみれば「ややこしいことになってきた」と全員が頭を抱えて思ったにちがいない。

身長178cm、スリムでブロンド、青い瞳の受賞者テイラー・スウィフトと並んで、お肉たっぷり黒人ニッキー・ミナージュがノミネートすらされていないのにステージで並ぶなんて、なんて皮肉な光景だろう!




さらにそこにケイティ・ペリーも割って入り、混乱を極めたけれども、テイラーは見事大賞を受賞したのだった。



女性を貶めてとんでもなく稼ぎまくった女が、女同士の喧嘩はやめましょうなんて見せびらかすって、なんちゅう皮肉なことよ。

テイラー・スウィフトは、その美しい姿をみれば「はっっ!!」と見惚れてしまう絶世の美女だが、一方でその容姿そのものがカントリー音楽に内包される不都合なアメリカを体現している。
テイラーがカントリー出身でなければこれほど女性蔑視キャラにはならなかっただろう。

そろそろ著作権の話に移りたいのだけど、とっかかりを見失ってしまった
音楽(芸術)とお金の話、そしてその格差の話を続けてきて今回で7回を迎える。
クラシック音楽の話をしたいなと思いつつ話が全く違う方向に流れてしまった。
クラシック音楽といえば、ロマン派とよばれる時代の音楽のイメージが強いが、著作権という観点から見てもその時代はようやくヨーロッパ全体にそれが定着し始めた時期だった。
それ以前のヨーロッパは、イギリスを除いてまだまだ著作権は整備されていない。

たとえば、あの有名なバッハの末っ子で、同じ名前のヨハン・クリスチャン・バッハは、当時のアン法のもとで訴訟を起こして、適用範囲の拡大を獲得した。1777年のこと。ドイツはまだ論外なので、その後のベートーヴェンは著作権の恩恵には預かれなかった。ベートーヴェンは謝礼金、つまりギャラをもらって大作を書いたのだ。佐村河内氏のニュースで現代のベートーヴェン問題が話題となったが、厳密に言えば佐村河内氏は印税を受け取ってはならないのだ。現代のベートーヴェンならば、だけど。
しかしシューマンやブラームスは著作権の時代を生きている。
ヴェルディはイタリアに新たに導入された著作権制度を経験した初めての作曲家だ。
アン法が現在の著作権の原型だということを見てもイギリスが著作権先進国というか最初は唯一の国であったことは間違いないし、当時ロンドンは世界でもっとも影響力のある世界都市だった。オランダの勢いが劣り始めたころだ。
そんな素晴らしいイギリスで、1780年から1850年までの間に、有名な作曲家が何人いるだろうか。
いや、こういった重箱の隅をつつくような疑問はそもそもいやらしいのかもしれない。しかし、ヘンデルもエルガーもホルストもこれには該当しない。
F. M. Schererの1984年の著作によると、著作権制度の導入は、結果として作曲家を減らすことになった、というわけだ。

ヴェルディの例では、著作権制度を充分に活用することで得られる報酬が増えると、作曲活動は大幅に減少することとあった。

同じくシェラーは、著作権の登場以前と以後で、イギリスの作曲家がどのくらい増えたのかというデータを出している。
人口100万人につき著作権成立前の時期(1700~1752年)の作曲家の数の平均は0.348人だが、成立後(1767-1849年)では0.141と半減している。

全く同じことが特許権にもいえて、1851年の世界初の万博では、特許のある国とない国両方の展示が陳列する形となったのだが、

たとえば19世紀のスイス(特許なし)は、一人当たりの展示物の数が、水晶宮での博覧会に参加した国々の中で二番目に多かった。また、傑出したイノベーションに与えられるメダルのうち、圧倒的に多くが特許法のない国の展示物に授与されている。(ペトロ・モーザー)

ここでの引用はほとんどボルドリン&レヴァインによる共著『〈反〉知的独占』によるところが多いのだけど、現在参照しているのは「知的独占はイノベーションを増加させるか?」という章。
なので著作権や特許権が存在することによって、作品や発明がどれだけ増えのか、ということに関して述べている。

当然著者の結論としては「そんなものはない」と言いたいところだが、彼らの紳士なところは、その真逆にもおもえるような証拠も提出している点だ。とはいえこういったアンチテーゼは適度に出せばより一層真実味が増してくるのだけど。

そこでぼくは、市場が追いつけないような、もしくは市場に置いてけぼりにされるような、もしくは国家に無視されているような、そういった芸術に興味が湧いてきたのだ。それらが流行すればするほど金になるので、もちろんカントリー歌手が稼ぎ出す印税はものすごいんだろうけど、それでもほとんど(他ジャンル改造なしでは)輸出されることはないし、できればサイケのように無視していきたいのだ。

前回の記事で書いたように、著作権は多国籍企業が政府よりもやや上にあるかのようにみえる現在のグローバリズムにおいて精神的にも経済的にもとても影響力を持っているし、これからもっと影響力を持つようになると思う。
9兆円の著作権使用料を握るアメリカが、新規参入をより一層妨げるような仕組みをどんどん強化していくと同時に企業は多国籍化していく。

しかし一方で、アメリカはEDMはばんばん輸出してYouTubeで数十億の再生数を連発しながらも、真にアメリカで愛され続けるカントリー音楽はひっそりと国内に閉じ込めて大事に大事に育てている。秘蔵っ子ってなもんだ。
サイケトランスはカントリーとは事情が違い、イスラエルのみならずインドやフィンランドなど変わった場所で熱狂的に支持されているようだが、それぞれインドはそれがゴアトランスと呼ばれ、フィンランドではスオミトランスとよばれるように、地名がそこに冠されているのはなんとなく「東京ディズニーランド」のようなただたんにフランチャイズ化した地域分類とは違うようにおもえる。

つまり、ぼくは今まさに筆舌を尽くしてとてつもない強引な結論に読者を導こうと必死なのだが、
こういった現代のグローバル化し難い音楽は、かろうじて多国籍化する知的財産と対抗することができるのではないでしょうか、と、ちらっと、思い立ったのだ。

とはいえ、その国特有のどんなに閉鎖的な音楽であっても、稼ぐ見込みがあるなら輸出したいにきまっている。
だから、テイラー・スウィフトのような半人半獣の歌手が現れるのだ。
テイラーの上半身は、ブロンドに青い目、白い肌に高い身長でスレンダーな、そして敬虔で保守的なカントリーガール。下半身はピースフルでLGBTや人種差別にも敏感なEDM的な自由の女神。
テイラー・スウィフトがこの間でどっちつかずな言動を繰り返しながらもグローバルに人気を得続けることは必死だろう。でもこの問題には原宿系から飛び出したきゃりーぱみゅぱみゅやカワイイ文化からkawaii metalを生み出したBABY METALも、それから完全輸出型で頓挫したクールジャパンも、それから日本から七つの海に飛び出した海賊王たちも、やはり閉鎖的な現代の民族音楽からは絶対に脱出したいに違いないのだから。


2016/09/11

世界未来学会議の結果報告


9月10にmacaroomが企画したイベント『macaroomの世界未来学会議』無事終了しました。
イベントは、4組のアーティストの演奏と、店内での展示によるものでした。
展示はぼくが選んで制作したので、ややおこがましい言い方をすれば、キュレーターデビューという感じです。
ただし、わからないことだらけだったので、キュレーターでもあり芸術振興に携わる林容子先生のご協力を得て、展示のコンセプトを固めていきました。


下北沢mona recordsを会議室としてイベントを開催。



設営作業中



貼り付けてるよ



オープンするとすぐに満員に。写真は演奏直前のlomaさん。



ウェルズの怒りが待ち受けているよ。


100年前に描かれた狂った未来予測が待ち受けているよ。








SF雑誌の草分け、アメイジング・ストーリーズが待ち受けています。


出演者のひとり、Jobanshiさんがまるで展示作品の作者のような佇まいで待ち受けています。



トイレはこちらです。


トイレの鏡の上にもあ。大昔のユタ州の新聞から。





気づいたら演奏時間が迫ってきた。




ツイッターでつぶやかれた「congress」というワードをふくむツイートを3Dビジュアルの中でリアルタイムに投影。結構みんなツイートしてくれたみたいでよかった。

こういう曲順でした。

01 mizuiro
02 shinkirou dropper
03 homephone TE
04 congress
05 dreamy_fish
06 yume
07 tsuiraku

ところで、
ライブ終わりで興奮状態に陥ったボブが、Twitterで楽曲ごとのシステムの解説をおっ始めたので、ありがたく引用しましょう。


ボーカルの声域ごとに違ったエフェクトがかかるので毎度違った複雑な音ができあがります。


 本来ならぼくがカッコ良いリズムパターンを作って、それを本番でカラオケのように再生すれば済む話だけど、なんとかリアルタイムにカッコ良いリズムを生み出せないかと何度も手直しして今のシステムになりました

 プロジェクターで映し出される粒子が、だんだんとemaruの顔になっていきます。実際にリアルタイムにカメラで撮影しながら加工処理して映し出してますが、みんな気づいたかな?

 曲も良いいんだけど、なんといっても映像楽しかったね。まさにリアルタイムに世界中のTwitterでつぶやかれている「congress」というワードを含むツイートを拾って3Dヴィジュアルとして表示するという凄技でした。お客さんも結構その場で「congress」含んだツイートしてくれたみたいで、「私のツイート表示されてました」とかいわれて嬉しかった。あんまみんなノッてくれないんじゃないかと思ってたから。


ボブ曰く「ライブでやりたいことの全て」がつまっているだけあって、めっちゃ演奏が大変。リハーサルではemaruは一度も成功しなかったが、なんとか本番は乗り切れたという感じだろうか。


これもリアルタイムにカメラで撮影しながら加工して映像を映し出してます。


最初にランダムっぽいギターから始まるんだけど、それが段々進化していって曲になっていく。とはいえ、アルゴリズムというのは確定的なものじゃないので、毎回パターンは違うし、どうなるかわからないときもある。そこは神のみぞ知る、それが遺伝的アルゴリズム。


そして、




お客様からすごいプレゼントをいただいた。これはすごいぞ!
第四間氷期はまさに、未来予測の小説。
人工知能が未来を話し始めるというおはなし。箱男は私の永遠のバイブル。

おともだちもきてくれました。



今回の未来学会議のために作成したパンフレットです。
はたしてみんな読んでくれただろうか?



2016/08/19

芸術格差を考える(第6回:macaroomの未来学会議)(ちょっと休憩)



ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』では、多国籍企業が国家を牛耳るみせかけのユートピアな世界が描かれている。
レムの名前は、映画好きの間ではタルコフスキーの『ソラリス』の原作者として有名だし、文学畑の間では『完全な真空』のようなメタフィクションの現代例として知られているし、SFファンの間では「言わずもがな」な存在だろう。

不思議なラストシーンが有名なタルコフスキー版も良いが、なんてったって原作。『白鯨』そっくりな学術的なパートだけでもおもしろい。


なんとなくの経験では、メタフィクションという技法が説明されるときに、最も良い例として紹介されるのは、古くは『ドン・キホーテ』や『トリストラム・シャンディ』、少し下るとボルヘス、現代文学ではイタロ・カルヴィーノ『冬の夜一人の旅人が』、そしてレムの『完全な真空』が非常に多いイメージだ。(と思ってためしにWikipediaをみてみたら、上記の中から二つが紹介されていた)
レム作品の中で、『泰平ヨンの未来学会議』は、おふざけ満載、というか『博士の異常な愛情』的なブラックジョークのSFなので、どれだけ評価されていたのかよくわからないし、実際問題ぼくがこの本を読めたのは、この本が映画化されたことに出版社が便乗した再販のおかげだった。泰平ヨンとストレンジラブ博士、どっちが多く語られるか考えてみたら、10:0でストレンジラブ博士の勝利だろう。

映画版では、おふざけ感もあるが、どっちかというとシリアスな作り方をしている。映画もとてもおすすめ。

著作権についての連続記事なので、一応説明しておくと、タイトルの借用は著作権侵害にはあたらない。
ということで、ぼくはさっそく自分がやっているmacaroomという音楽ユニットの自主企画イベントのタイトルを『macaroomの世界未来学会議』と名付けることにした。

未来学会議(という名の普通のライブイベント)を開催するにあたって、キュレーターであり日本の芸術振興に携わる、ある女性学者のもとを訪ねた。大学でアートマネージメントなどを教えている先生だ。
というのも、会議室(という名のライブハウス)では、未来予測に関する過去の様々な作品を展示しようと考えていたからで、ぼくはもちろんキュレーションなんかやったこともなかったからだ。

そしてぼくは彼女から良いアドバイスをもらえたらと思い、実に5年ぶりくらいにその女性学者とファミレスで再会した。
彼女にとってはぼくは多くの学生のうちの一人なので、ほとんど初対面も同然だった。
彼女はちょっと話し出すと止まらないタイプの(たとえるならば坂口恭平のような)人で、ぼくがキュレーションについての質問をすると間もなく脱線に次ぐ脱線、イリュージョンと混沌の魔術的討論会がはじまったのだ。

話は未来学についてから始まり、ジャック・アタリからテロの話へ、ISIS、そして相模原の障害施設の事件から知的障害から優性思想と人工中絶、そしてマリファナの話からマジックマッシュルームの話へ飛び、かと思うとバタイユの男根の話からモンサントと遺伝子組み換え、キリスト教原理主義、そしてイスラム原理主義からまたテロの話へ、そしてグローバリズムの問題へと!!
異常気象のおかげで狂ったハエがテーブルの上で交尾を始めるのをよそに、ぼくも負けじと汗をかきながら話しまくった

そこで彼女は、ぼくがジャック・アタリの『21世紀の歴史』を読んだことがないということを不思議がっていた。「当然あなたも読んでるでしょ?」という感じ。そして読んだことがないと知ると、「絶対に読むべき」だと。
なぜ読んだことがないか、といわれるとよくわからないが、本ってそんなもんだろう。
ともかく、買って読んだ。

ジャック・アタリは欧州復興銀行の初代総裁を務めたりしているので、経済学者、ということができるし、ややいかがわしい経歴にする場合は、未来学者、ということもできる。
2006年に刊行された『21世紀の歴史』は、半ば予言書のようなもので、俄かには信じがたいトンデモなお話がたくさん書いてある。
とりわけアメリカのサブプライムローン破綻と世界恐慌を予測したことで世界的に注目を浴びることとなった。
アタリはフランスのミッテラン政権では大統領補佐官を務め、サルコジ政権では『21世紀の歴史』のヒットとともに、アタリ政策委員会が発足された。

市場が民主主義を打ち負かすことにより、国家なき市場という前代未聞の様相を呈する。すべての理論家によれば、国家なき市場は、談合の横行、遊休生産設備の発生、金融投機行為への助長、失業率の上昇、天然資源の無駄遣い、違法経済行為の横行、反社会勢力の拡大などをうながすとの意見で一致している。一九一二年の中国、一九九〇年のソマリア、二〇〇二年のアフガニスタン、二〇〇六年のイラクがまさにこの状態であった。超帝国の行き着く先も同じであろう。

それぞれ、辛亥革命直後、ソマリア内戦からソマリ会議前のソマリア、タリバン政権崩壊後のアフガニスタン、そしてイラク戦争。とくにイラク戦争においては、占領政策が実験的に民営化されていて、運輸、インフラ整備、軍隊などを民間の多国籍企業がやっていた。2006年には民間軍事会社のブラックウォーターがイラクの民間人17人を殺害するという事件が起きている。アメリカ政府はこの殺害に正当性がなかったことを認めながらも、契約を更新している。

ぼくの世代は、地下鉄サリン事件はほとんど記憶になく、2001年の9.11テロ事件が、初めてドラえもんや名探偵コナン以外のテレビ番組、つまりニュース番組を見るきっかけとなった。そのときぼくは13歳だった。
だからブッシュ大統領がスピーチする「悪の枢軸」という言葉も非常によく覚えていて、子供ながらに「なんちゅうこと言うんや」と思っていた。

《超帝国》というのはジャック・アタリの造語で、多国籍企業が国家のかわりに台頭してすべてがお金で解決されるような社会のことをいう。

こういうことは現実にも起きているので、すぐに思い浮かべることができる。依然としてなくならないタックスヘイブンの問題や、企業のレントシーキングなど。
今話題のオリンピックなんかその代表だろう。東京オリンピックの招致委員会のマネーロンダリング問題も話題になった。実際、アタリも、オリンピックやFIFAのような機関は、超帝国、つまり民間が国家をガバナンス(統治)する良い見本だと書いている。

FIFAは、メディアがサッカーに注ぐ莫大な資金をすでに管理しているが、資金の管理体制が確立されているわけでもなく、またその使途についても不明瞭である。FIFAは選手の禁止薬物使用を管理するFIFA独自の検査機関をもっているが、これはFIFAの意のままである。世界の果ての極小サッカー・クラブまでが、FIFAが本部のあるスイスから発令する、ごくわずかなルールの変更にもしたがう義務がある。



この本によると、超帝国において支配的立場となる《サーカス・劇場型企業》になる資質を備えている娯楽産業として、ディズニーの名を挙げている。

デ・ィ・ズ・ニ・ー・の・レ・ン・ト・シ・ー・キ・ン・グ。

これでぼくが書きたかったことというのは大体おわった。

アメリカの著作権が、俗にミッキーマウス法と呼ばれていることが、だんだんおもしろくなってきた。
実際、以前にも書いた知財部門のニューヨーク州弁護士、福井健策もTPPの著作権条項の話をしながら「誰のための著作権か」といっている。

レムの描くふざけた未来は、すべての人々が、自由に生きることができ、全員が常になんらかの娯楽、芸術を体験しながら生活している。
映画版だと、ミラマウントという大企業が世界を制していて、長崎支社が画期的な発明をする。

アタリの予想においても、芸術家は《超ノマド》と呼ばれ、超帝国をぐいぐいひっぱっていく存在だ。

観客の感情は常にモニターされ、監視され、見世物の展開に組み込まれていく。無償行為は新たな消費をサポートするために利用される。自己監視は結局のところ、不安を解消するためのものだということを悟られないために、情報・ゲーム・娯楽で粉飾する。政治に置き換わるものとは、人気のないフリーの興行関係者である政治家が演じる純粋なパフォーマンス・ショーである。

著作権の問題は、こうした未来の市場のあり方を明確に反映している。

たとえば、前回の記事で書いた、先行優位性や補完物売り上げ、というもの。

楽曲はmp3で違法に出回り、誰もCDを買おうとしない。
しかし、mp3を違法に手に入れた人たちは、実際にお金を払ってアーティストのライブに足を運ぶし、その場でサインをしてくれたらCDだって買う。
これは、mp3とインターネットによって住所不確定となった芸術作品の台頭によって、芸術家がまずノマドにならなくちゃいけないということだ。
ぼくら音楽家は、ノマドなコンテンツをほとんど無料で提供するかわりに、実際に世界を旅しながら芸術活動をしていかなくてはならない。

こういったノマド化の先駆けとなるのがまずアーティストなので、アタリは《超ノマド》と区別した。
日本国が、モンサントなどの企業というよりは、無形で住所不確定なTPPという怪物によって脅かされているように、企業もまたノマド化して、そして国家を統治していくことになる。(いや、ぼくは実際、極度の経済音痴なので、盲目的に「TPPは悪だ!」と言いたいわけではないし、何も知らない。そう言えるくらい経済に明るくなりたいものだ)

オリンピックがいまも行われているみたい。

オリンピック(エンブレム)にしても、STAP細胞(コピペと特許)にしても、佐村河内さん(ゴーストライター)にしても、知的財産によって、だれかがスケープゴートされるようなニュースが頻発している。

こうしたことを考えながら、我々は9月10日の『macaroomの世界未来学会議』の準備を進めている。

この機会にぜひmacaroomのライブを観に来て、未来について考えていきましょう。
未来作品は、ほとんどがディストピアばっかりで気が滅入ってくるのだが、中にはふざけた愉快なものもある。
あまり絶望的になりすぎないように良い展示ができたらな、と考えているので、みなさん遊びにきてください。





『macaroomの世界未来学会議』
下北沢mona records

出演
ハイとローの気分
Jobonashi
loma
macaroom

OPEN:18:00 / START:18:30
前売:2,000円 / 当日:2,500円


そしてたまには、ぼくらmacaroomの音楽を紹介。



今日はボルドリン&レヴァインの著作からの引用は無し。