とはいえ、ぼくは彼の著書など読んだこともないし、メディアでの発言もあまり意識して気に留めたこともない。なのでほとんどぼくの勝手な想像に過ぎないことを最初に言って、ある程度の反論を見限ってしまおうと思う。
ポール・ワトソンの主張など日本においては「なあに馬鹿げたこと言ってんだい」てえなもんだろう。
ポール・ワトソンとはどういう人か、(全く知らない人のために)少しだけぼくの偏見も交えて書こうと思う。
ポール・フランクリン・ワトソン(英: Paul Franklin Watson、1950年12月2日は、カナダの環境活動家。グリーンピースの元メンバーで反捕鯨団体シーシェパードの設立者。日本の調査捕鯨を妨害した容疑で海上保安庁から国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際指名手配中。2012年5月13日、コスタリカのサメ漁船に対する航行妨害の容疑で出ていた逮捕状に基づき、フランクフルトでドイツ当局に逮捕されたが、保釈中に逃亡した。(Wikipediaより)
・国際環境保護団体グリーンピースの元メンバー
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・非暴力なグリーンピースの方針に対立し、脱退
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・海洋保護団体シーシェパードを設立
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・反捕鯨を掲げ、捕鯨船などに体当たりなど暴力行為を繰り返す
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・アメリカおよびカナダ政府からテロリストと名指しされている
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・アメリカ連邦高裁から海賊(海上武装勢力)の認定を受けている
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・ICPOから国際指名手配中
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・ドイツで逮捕されるが、脱走。フランスへ亡命中
現在人権問題に敏感なフランスはワトソン氏を拘束していない。これはフランスが反捕鯨の立場を貫いているという理由も関係しているかもしれない。日本政府はフランス政府にワトソン氏の身柄引き渡しを交渉している。
文化的に捕鯨をしてきた日本としては、とんでもない敵である。こっちからしてみれば「お前ら白人が捕鯨したくて開国要求してきたんちゃうんかい」という感じだ。
だがとにかく、文化や歴史は関係ない(としよう)。
現代の話。
ワトソン氏はヴィーガン(乳製品や卵を含む動物由来のものを一切食べないスタイル)を貫いている。
動物愛護の観点からヴィーガンやそれに近い菜食主義になる人は多い。
ところで、ワトソンらの言い分はおそらく、「動物を殺すことは一切ゆるさん」ということらしく、ぼくは「そんな文化も無視しまくったよくわからん主張がよくまかり通るな」と思う反面、「確かに人類はやり過ぎた。そろそろ人類は滅亡した方が良いのではないか」と思う。
彼らのような極端な主張は、結局は利己的である我々からすればアホとしか言いようがない主張だが、地球尺度の愛で持って考えれば、それはそれで良いではないか、とぼくは思うのだ。
ところで、実はぼくも菜食者のなのだ。もちろんヴィーガンではないし、魚はわりと食べる。牛豚鳥を食べなくなった。
肉を食べなくなった理由はいろいろあるのだが、特に「これ!」という決定打のある意見というにはなくて、なんとなくふわーっと菜食になった。
不思議なことに、なんの打ち合わせもしていない兄が同時期に菜食者になっており、我々は電話でとても驚いた。兄もぼくと同じで、なぜ菜食になったかという理由が(あるにはあるが)ほとんどない。
ただ、菜食になると、大抵食事の席で「どうしてベジタリアンなの?」ってきかれてしまうので、そのときに答えを用意しておかなければならない。
何て答えるべきか。
兄は電話でぼくに、そういうときに答えるべき台詞が見つかったと言った。
「世界中のあらゆるものに喪に服している」
というのが彼の(体面上の)答えだった。
しかし自分がベジタリアンということほど恥ずかしいことはない。
なぜなら日本でベジタリアンといえば、大抵はおばはんであり、性欲丸出しな感じでホットヨガなんかやったりして、有機栽培の野菜や玄米をすすめてきて、心が穏やかになったとか匂いに敏感になったとかありもしないことをつらつらと語って黒髪にエスニックなブレスレットに麻のカットソーから自慢の腹を出し、ステラ・マッカートニーの非レザーショルダーポシェットを慣れぬ手つきで抱える、そういう人のことを言うからだ。
ベジタリアンを自称する(白人の)セレブ達の名前をすらすらを言うことができ、動物がどのような方法で毛皮になるのか諳んじることができ、ときには科学的なことを言い、ときにはスピリチュアルなことを言う。自分が綺麗になることしか考えておらず、ほとんどが未婚である。
欧米のベジタリアン流行が
「第三世界に目を向けるインテリのステータス」
だとするなら、
日本のベジタリアンは
「《第三世界に目を向けるインテリのステータス》が流行する欧米に目を向けるおばはんのステータス」
といったところだろう。
確かにロラン・バルトは「わたしたちは衣服を着るのではなく、思想を着る」と言ったが、こういったおばはんたちは毛皮よりも遥かに分厚い性的欲求を着込んで街を歩いているようなものだ。
ファッションとしてのベジタリアンが横行する中、革命家を気取って過激な行動に出るポール・ワトソンの生き方は、まことに素晴らしいものだとぼくは思う。
昔、何かの本で誰かが(本当に忘れた)言っていたのだが、アメリカの長い黒人差別の歴史の中で、黒人が「平等」を訴えることに違和感を感じる、と著者は言っていた。
つまり、こんだけ虐められたのだから、「平等」なんていう理性的で野暮なことを言わず、「白人差別」をする方が自然だと。しかしそうはならない。これは民族的な違いなのだろう。それを見事にしてしまったのがマルコム・Xであり、そういう意味で彼は必要だったと著者は言っていた。
「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか」
「白人が我々に対して『何故白人を憎むのか』というのは、強姦した者が相手に対して『オレが憎いか』と発言するのと同じだ」
ポール・ワトソンも同じように、ある種同感できるところがある。
これを「必要悪」とかむしろ「不必要善」とか言ってしまうのは大変失礼だろう。
ただ実際、我々日本人にはこれを受け入れることは到底不可能だ。
動物愛護の観点から菜食主義者であるナタリー・ポートマンは、
絶対に毛皮など動物由来の衣服を着ないが、
映画『ブラック・スワン』では見事に動物そのものになった。