Pages

2015/05/30

素晴らしきシーシェパードと卑しき菜食主義

実を言うと、あの悪名高いシーシェパードの創始者、ポール・ワトソンの気持ちが少しだけわかる。

とはいえ、ぼくは彼の著書など読んだこともないし、メディアでの発言もあまり意識して気に留めたこともない。なのでほとんどぼくの勝手な想像に過ぎないことを最初に言って、ある程度の反論を見限ってしまおうと思う。

ポール・ワトソンの主張など日本においては「なあに馬鹿げたこと言ってんだい」てえなもんだろう。

ポール・ワトソンとはどういう人か、(全く知らない人のために)少しだけぼくの偏見も交えて書こうと思う。

ポール・フランクリン・ワトソン(英: Paul Franklin Watson1950122は、カナダの環境活動家。グリーンピースの元メンバーで反捕鯨団体シーシェパードの設立者。日本の調査捕鯨を妨害した容疑で海上保安庁から国際刑事警察機構ICPO)を通じて国際指名手配2012513日、コスタリカのサメ漁船に対する航行妨害の容疑で出ていた逮捕状に基づき、フランクフルトでドイツ当局に逮捕されたが、保釈中に逃亡した。(Wikipediaより)

・国際環境保護団体グリーンピースの元メンバー
  ↓
・非暴力なグリーンピースの方針に対立し、脱退
  ↓
・海洋保護団体シーシェパードを設立
  ↓
・反捕鯨を掲げ、捕鯨船などに体当たりなど暴力行為を繰り返す
  ↓
・アメリカおよびカナダ政府からテロリストと名指しされている
  ↓
・アメリカ連邦高裁から海賊(海上武装勢力)の認定を受けている
  ↓
・ICPOから国際指名手配中
  ↓
・ドイツで逮捕されるが、脱走。フランスへ亡命中

現在人権問題に敏感なフランスはワトソン氏を拘束していない。これはフランスが反捕鯨の立場を貫いているという理由も関係しているかもしれない。日本政府はフランス政府にワトソン氏の身柄引き渡しを交渉している。

文化的に捕鯨をしてきた日本としては、とんでもない敵である。こっちからしてみれば「お前ら白人が捕鯨したくて開国要求してきたんちゃうんかい」という感じだ。
だがとにかく、文化や歴史は関係ない(としよう)。
現代の話。
ワトソン氏はヴィーガン(乳製品や卵を含む動物由来のものを一切食べないスタイル)を貫いている。
動物愛護の観点からヴィーガンやそれに近い菜食主義になる人は多い。

ところで、ワトソンらの言い分はおそらく、「動物を殺すことは一切ゆるさん」ということらしく、ぼくは「そんな文化も無視しまくったよくわからん主張がよくまかり通るな」と思う反面、「確かに人類はやり過ぎた。そろそろ人類は滅亡した方が良いのではないか」と思う。

彼らのような極端な主張は、結局は利己的である我々からすればアホとしか言いようがない主張だが、地球尺度の愛で持って考えれば、それはそれで良いではないか、とぼくは思うのだ。

ところで、実はぼくも菜食者のなのだ。もちろんヴィーガンではないし、魚はわりと食べる。牛豚鳥を食べなくなった。
肉を食べなくなった理由はいろいろあるのだが、特に「これ!」という決定打のある意見というにはなくて、なんとなくふわーっと菜食になった。
不思議なことに、なんの打ち合わせもしていない兄が同時期に菜食者になっており、我々は電話でとても驚いた。兄もぼくと同じで、なぜ菜食になったかという理由が(あるにはあるが)ほとんどない。

ただ、菜食になると、大抵食事の席で「どうしてベジタリアンなの?」ってきかれてしまうので、そのときに答えを用意しておかなければならない。
何て答えるべきか。
兄は電話でぼくに、そういうときに答えるべき台詞が見つかったと言った。
「世界中のあらゆるものに喪に服している」
というのが彼の(体面上の)答えだった。

しかし自分がベジタリアンということほど恥ずかしいことはない。
なぜなら日本でベジタリアンといえば、大抵はおばはんであり、性欲丸出しな感じでホットヨガなんかやったりして、有機栽培の野菜や玄米をすすめてきて、心が穏やかになったとか匂いに敏感になったとかありもしないことをつらつらと語って黒髪にエスニックなブレスレットに麻のカットソーから自慢の腹を出し、ステラ・マッカートニーの非レザーショルダーポシェットを慣れぬ手つきで抱える、そういう人のことを言うからだ。
ベジタリアンを自称する(白人の)セレブ達の名前をすらすらを言うことができ、動物がどのような方法で毛皮になるのか諳んじることができ、ときには科学的なことを言い、ときにはスピリチュアルなことを言う。自分が綺麗になることしか考えておらず、ほとんどが未婚である。

欧米のベジタリアン流行が
「第三世界に目を向けるインテリのステータス」
だとするなら、
日本のベジタリアンは
「《第三世界に目を向けるインテリのステータス》が流行する欧米に目を向けるおばはんのステータス」
といったところだろう。

確かにロラン・バルトは「わたしたちは衣服を着るのではなく、思想を着る」と言ったが、こういったおばはんたちは毛皮よりも遥かに分厚い性的欲求を着込んで街を歩いているようなものだ。

ファッションとしてのベジタリアンが横行する中、革命家を気取って過激な行動に出るポール・ワトソンの生き方は、まことに素晴らしいものだとぼくは思う。

昔、何かの本で誰かが(本当に忘れた)言っていたのだが、アメリカの長い黒人差別の歴史の中で、黒人が「平等」を訴えることに違和感を感じる、と著者は言っていた。
つまり、こんだけ虐められたのだから、「平等」なんていう理性的で野暮なことを言わず、「白人差別」をする方が自然だと。しかしそうはならない。これは民族的な違いなのだろう。それを見事にしてしまったのがマルコム・Xであり、そういう意味で彼は必要だったと著者は言っていた。

「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか」

「白人が我々に対して『何故白人を憎むのか』というのは、強姦した者が相手に対して『オレが憎いか』と発言するのと同じだ」


ポール・ワトソンも同じように、ある種同感できるところがある。
これを「必要悪」とかむしろ「不必要善」とか言ってしまうのは大変失礼だろう。
ただ実際、我々日本人にはこれを受け入れることは到底不可能だ。




動物愛護の観点から菜食主義者であるナタリー・ポートマンは、
絶対に毛皮など動物由来の衣服を着ないが、
映画『ブラック・スワン』では見事に動物そのものになった。


2015/05/25

P・T・アンダーソン『インヒアレント・ヴァイス』感想




 P・T・アンダーソン監督『インヒアレント・ヴァイス』観ました。キャスト、スタッフともにビッグネームが集結した傑作でした。
前作『ザ・マスター』と違い、ホアキン・フェニックスのアドリブはあまりないような感じがしました。演者が終始ふざけまくっているので抱腹絶倒なのですが、話が早すぎて観客はずっと「この人誰?」と必死で食らいつきながら観なければなりません。

映画の見どころを私なりにまとめてみましたので、観ようか迷っている方の参考になれば幸いです。


『インヒアレント・ヴァイス』(Inherent Vice)は、トマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』を原作に、ポール・トーマス・アンダーソンが映画化した2014年のアメリカ映画。主なキャストはホアキン・フェニックス、ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、キャサリン・ウォーターストン、リース・ウィザースプーン、ベニチオ・デル・トロ、ジェナ・マローン、ジョアンナ・ニューサム、マーティン・ショート。
同作品はアカデミー賞とゴールデン・グローブ賞にノミネートされている。
あらすじ
1970年、ロサンゼルス。マリファナ常用者である私立探偵のドク(ホアキン・フェニックス)は元恋人のシャスタ(キャサリン・ウォーターストン)に不動産業界の大物ミッキー・ウルフマン(エリック・ロバーツ)にまつわる事件の調査を依頼される。(Wikipedia)



原作との違い
この映画は大抵「ポストモダン文学」という言葉とともに語られることの多い米文学者トマス・ピンチョンの長編小説『LAヴァイス(原題は同じくInherent Vice)』を原作としている。
ピンチョンは現代文学で最も難解な作家といわれていて、代表作『重力の虹』では、ピューリッツァー賞に推薦されながらも審査員全員一致で「理解不能」と却下されたという伝説がある。当時全米図書賞の審査員だったトルーマン・カポーティーが「《重力の虹》を理解しているのは世界でぼくだけ」と言っていた。ただ、『LAヴァイス』の方はピンチョン作品としては最も読みやすく、エンターテインメントな要素が強い。とはいえ、原作を読んでいなければ観客はほとんど意味不明かもしれない。登場人物が一体何者なのか追うだけでも一苦労だし、話はどんどん展開していく。主人公とヒロインのロマンスを期待していた人はがっかりするだろうし、ドタバタコメディとしては(相当笑えるけど)低脳なネタばかり。ミステリー風のどんでん返しは(少なくとも映画版では)ほとんどないし、社会的なメタファーのようなものを期待してもほとんど読み取れないだろう。つまり、ギャグシーンに笑いながら「インヒアレント・ヴァイスってどういう意味だ?」って思っているうちにエンドクレジットを迎える危険が十分だ。
もし、物語の進行についていくことが不安なら、次のことに気をつけて映画をみると良いかもしれない。
「ウルフマンという大富豪にどのような心境の変化があって、最終的に何を望んでいたか」
「最終的には誰が悪者だったのか」


映画の思想的なテーマとしては、端的にいって「アメリカという国固有の欠陥は修復可能か」という感じだった。

映画は《ほとんど》原作と一緒で、展開もセリフもぼくがおぼえているかぎりはだいたい一緒だった。だからピンチョン好きのぼくとしてはずっと興奮していることになる。正直、映画館で冒頭のシーンからずっと「きゃー」と黄色い声をあげるのを押し殺していた。
原作とは違う点ももちろんあって、とくにオチが違ったし、割愛されているキャラクターは多かった。
個人的に好きだった聖なるサーファーが出てこなかったのは残念。彼はオチにも関わってくるので、当然そのオチも割愛されていた。
原作からの変更点での最大の功績は、ナレーションだと思う。
原作では三人称で書かれていたが、映画では主人公のミステリアスな友人の語りで進行する。この妖しい語りがとても良くて、登場人物のごった煮感とサイケな演出に一役買っている。この女優はジョアンナ・ニュートンというハープ奏者で、映画に出るのは初めてだということ。







PTA
数年前に初めてPTアンダーソンがピンチョンを映画化すると聞いたとき、「どんぴしゃやがな」と思った。
ピンチョンの小説はやたらと登場人物が多く(『重力の虹』では優に400人を超える)、真面目で暗い話のくせに登場人物は漫画のように安っぽい。大抵ドタバタコメディのようなふざけた演出があって、小さなエピソードが幾重にも紡ぎあわされるようなものが多い。
アンダーソンの最近の作品『ゼア・ウィルビー・ブラット』や『ザ・マスター』ではそれほどではないけど、以前の『ブギーナイツ』やとくに『マグノリア』は、割とピンチョン的だった。複数の登場人物がぱっぱぱっぱと入れ替わって、絶望的な物語だけどもふざけている、そういう感じだったから、ピンチョンを映画化するなら絶対にアンダーソンかタランティーノかテリー・ギリアムしかないだろうと思っていた。




サブリミナル
映画化にあたってチャンドラー原作の『三つ数えろ』を下敷きにしているとか衣装は『マペット』からインスパイアされてるとかいろいろきいたけど、もっとも気になったのは明らかにサブリミナル的な効果を演出している箇所。
画面に映る複数の人物がランダムに動いていて一瞬(本当に一瞬)「最後の晩餐」になる場面や、他にも様々な何らかの引用やオマージュがサブリミナル的に多用されていた。
これはたぶん、ピンチョンの原作の重厚で複雑に絡み合った文章を映像にするための工夫であろうと思う。たぶん見逃しているところがいっぱいあると思うけど。




キャサリン・ウォーターストンがとにかく美しい
とにかくヒロインに見惚れてしまう。どうしてこんなにも見惚れてしまうのか考えたが、つまりぼくはヒッピー女が好きだということだ。シャスタ・フェイ・ヘップワースという名で登場するこのヒロインは、めちゃくちゃにはしゃぎまくったヒッピー青春を経て、現在は落ち着いた大人の女性になっている。回想シーンで出てくる無造作な長髪と露出しまくったカリフォルニア・ヒッピーのファッションが可愛くて仕方がない。ほぼ下着で街へ出てヘロイン探し求める場面はそれでけで幸福に頓死だ。









ヒッピーたちの「あるある」
原作でもそうだが、映画の中にはヒッピーというかドラッグカルチャーの「あるある」がふんだんに盛り込まれている。神秘的な方法でヘロインを探し出す場面や、ジャンキーがパラレルなテレビドラマにはまるところや、(当時の)対ヒッピーのやっつけな取り締まりや、ファッションやインテリアやその他嗜好品など、サイケデリックに一度は足をつけたことのある人ならだれでも「ああ、こういうことよくあるわ」と頷き感動するにちがいない。原作ではこのあたりのヒッピーあるあるが1ページごとに無限に出てくるので、まわりの健全な観客とは違うポイントで涙してしまったジャンキーの方は原作も読むことをおすすめします。






『重力の虹』映画化は誤報
最後に、PTアンダーソンが『インヒアレント・ヴァイス』と同時に、ピンチョンの最難解小説『重力の虹』の映画化もすすめているという話が数年前からずっと出回っていたが、これは残念だが誤報だったよう。これは海外のニュースサイトの「『重力の虹』でおなじみの作家ピンチョンの小説をPTAが映画化」という記事を、日本人が誤読したのがきっかけみたい。個人的にはこの作品はテリー・ギリアムのような人が撮ってほしいと思うし、もちろんPTAも良いかもしれない。でもとにかく長いし複雑な話なので、映画化するとしても原作とは全く違ったかたちにするか、一部だけを映像化するという以外にはやりようがないと思う。もしきちんと原作通りに映画化するとすれば、『ハリー・ポッター』シリーズよりも長く、『8 1/2』よりも錯綜とし、『少林サッカー』よりもくだらない、興行収入はゼロに等しく、批評家たちからだけ絶賛されるような映画になること必至だろう。
複数の監督がそれぞれ気に入っている場面だけを映像化するようなオムニバス作品、というのが現実的かもしれない。



音楽はPTAの常連になりつつあるジョニー・グリーンウッド(レディオヘッド)がこの度も担当しているけど、今作はどちらかというと『ブギー・ナイツ』のように、懐かしのヒット曲がほとんどで、OSTはちょっとしか聞けない。
オープニングでCanの「Vitamin C」が流れるのがとてもかっこよかった。kとは無縁の曲だけどこんな使われ方するなんて素敵、と思いました。
ところで、作中にはRaioheadの未発表曲が使用されているということなのだが、全然どれかわからなかった。なぜなら後で知ったことだが、楽曲はRadioheadだけど、トム・ヨークは歌っていないし、メンバーも演奏はしていないらしい。なので、結果的に作中のどれがRadioheadの曲なのかわからなかった。まあこれはどうでも良い話。





2015/05/11

その子の見た目と性格

たとえば、合コンをするときに相手に求めるものが外見だったとして、しかしながら相手の内面が全く考慮されないということはないだろう。

相手に外見を伝えるのは簡単。写メでも見せれば良い。
性格を伝えるのは難しい。

「野球ってどんな子?」ってきかれたとして、外見を言うのは容易いだろう。
「相手にボールを投げて棒で打ち返されるかどうかを競う遊びで、もし打ち返せたら、その人は嬉しそうに周辺を走って一周するんだよ」

しかしその子の性格を伝えるのはやや難しい。
「軍国主義教育の名残で、頭は坊主にして何も考えずとにかく周囲と一体になることが求められるプロパガンダの一種だよ」

どうしても少し堅苦しい言い回しになってしまう。


そういえば立川談志さんは、落語を説明するとき、「正座して面白おかしく物語る伝統的な話芸」という外見はいわず、「業の肯定」と性格を一言で言い表した。落語の登場人物はみなだらしなく、見栄っ張りで、だめだめなひとばかり。

色んな女の子の性格を考えてみたい。

ワールドカップがどんな性格の子かをきかれたら、こう答えると伝わるかもしれない。

「おばさんや無趣味の男性がスポーツバーなんかではしゃぐ期間のことだよ。欧米風のスキンシップをとることが良しとされてるよ」



スポーツバーの様子(東京夢企画)


エグザイルの性格であれば
「ある時期にフェミニズムが調子に乗りすぎた反動だよ。やっぱり男女格差って楽だよね、っていう発想のもと、徴兵制度復活に備えてみんながジムに行くことを喚起しているんだ」

AKB48の性格は
「ある時期にフェミニズムが調子に乗りすぎた反動だよ。やっぱり女の子は馬鹿でいいよね、っていう発想のもと、産めよ増やせよを目指して全国の子供のお肌露出度をあげるために頑張っているよ」


アメトーークの性格は
「みんなで空気を読もう」


音楽にも様々な外見と性格がある。
パンクロックは、外見は単純な三和音のブルース進行やエイトビートな女の子、性格は「とにかく壊せ」な女の子。

ブルースは
「明日も仕事か」

カントリーは
「我が国万歳」

フォークは
「我が国だめね」

パラパラは
「アゲアゲ」

トランスは
「サゲサゲ」

サイケは
「神とは何か、また我々は何者なのか、が完全にわかった」



そりゃもちろん、映画や本にだって性格はある。

ドストエフスキーは
「みんなでべしゃろう!」

村上春樹は
「アメリカ人に生まれたかった」

宮崎駿は
「この時代に物申す!……という私のかっこいい様をあの少女に伝えたい。できれば関係を持ちたい」

司馬遼太郎は
「余談だが」

ワンピースは
「(友達についての)気持ちを大声で叫ぶと気持ち良いぞ」

テラスハウスは
「臭いものに蓋」


ワンピースのワンシーン


もちろん国にだって性格はある。もしかしたらそれは憲法のことかもしれないし、イデオロギーというのはそのことかもしれない。アメリカは「幸福の追求」な子で、日本は「平和好き」な子……これはちょっと表面的すぎて的を射ていないかもしれない。



だんだん自分が何を記述しているのか、ただ皮肉を言いたいだけなのか要約したいのかわからなくなってきた。
でも、ひとによって性格の捉え方はまた違ってくるだろうね。

とにかく、
みんなも、その女の子が可愛いかは置いておいて、どんな性格なのか考えてみると楽しいよ。

だって、もしその子と付き合っていく気があるんなら、たぶん性格もそこそこ大事だから。