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2013/02/11

ぼくがブルース・ウィリスだったとき




今思いだすのは、地震と原発事故があったときに、「神」ということを口にした連中だ。普段、ぼくは様々な出来事の多大な影響の中にあって、しかしそれが神の仕業であるなんてことをきいたことがない。神を信じる人などいないからだ。しかし地震が起こったときに、何人かの連中は神の仕業だといった。ツイッターや、確か、テレビでも。まるで預言者のように、神にかわって語るかのようだった。
地震が起こったとき、ぼくは千葉県のよく分からない農村地帯の電車の中にいた。電車が止まって、ぼくは最悪の事態を想像した。そして目の前に一人でいる女の子をみて、もし次にでかい揺れがきたときにはブルース・ウィリス並みのジャンプでその子を助けるのだという妄想に必死だった。それから車内の全員に指示をする。その想像の中のぼくの台詞のひとつひとつが、なぜか映画の吹き替えのようなイカした声なのだ。
それから思い出すのは、ニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだときだ。当時中学一年生だったが、ニュースで映像をみたときに、瞬時に「第三次世界大戦が始まる!」とアホみたいに思った。政治も歴史もよくわからないぼくだったが、とにかくなぜかそういう風に感じたのだ。

緊急時に、つまり想定外の事態のときに、人は経験的に事を対処するということが出来ないので(だって経験していないから)、その解決策をフィクションに求める。SF映画やホラー小説や、聖書の中に。そうして出てくる物語は、なるべく壮大に、なるべくドラマチックに、なるべく派手な形をとってお披露目されるのだ。
歴史というフィクションもある。ぼくは第一次、そして第二次世界大戦があったという事実を知っているので、その物語の延長線に、わけもわからず「第三次が始まる!」と早合点したのだ。しかし歴史も、数ある「成り得たかもしれない結果の中のひとつ」だとしてみれば、大いにフィクションだ。
逆にいえば……
   例えば……
スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』という小説がある。その小説では第二次世界大戦でナチスが勝利をおさめることになっている。
現実の、つまり学校で習ったナチスの敗北が「成り得たかもしれない数ある結果の中のひとつ」に過ぎないとしたら、同じく「成り得たかもしれない」ナチスの勝利も、現実と同じだけの意味をもつ。しかしそれは、本で書かれたり、映画を観ることで初めて意味をもつのだ。
緊急の事態においてぼくたちは(今までの実体験は通用しないので)フィクションにその解決を求める。だから、爆発的に様々な場所で物語が語られるのだ。そして、そういうときに語られる物語というのは、たいていの場合、大変つまらない。ただドラマチックでゴージャスに仕立て上げられただけの空虚な大作だ。
震災のときに、「ついに人間が今までしてきた利己追及のしっぺ返しがやってきた」なんていわれてもおもしろくもない。
原発の時にみなが口にした「人間のエゴへのしっぺ返し」というもので真っ先に思い浮かんだのは、リチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』だった。これは第二次世界大戦下のアメリカにおける「日本への仕打ち」と「核開発」がテーマになっていて、自己の利益を追求するあまり最後にアメリカがしっぺ返しをくらう、というかなり壮大な物語だった。それをタイトルの「囚人のジレンマ」という言葉が言い換えているわけだけど、この言葉、みなさんは知っているだろうか。きいたことはあると思うけど。
つまり、ここで肝心なのは、
囚人のジレンマというのは、いくら論理的に考えても「しっぺ返しは免れることはできない」ようなシステムなのだ。原発の問題が、しっぺ返しだか神の御業だかわからないけど、リチャード・パワーズのこの小説は、難しい経済学の概念を、フィクションに置き換えてくれた、という点で素晴らしい。
緊急時においてぼくたちはフィクションによって現実をとらえるのだから、こういうことは物語として語られてこそ意味があるかもしれない。

ところで、ぼくはあの三月十一日にブルース・ウィリスになった。重要なのは、目の前に座る女の子に、なるべく変態だと思われずに、彼女を救い出すことだった。

 ――ありがとうと伝えてくれ。
 ――なんだって?
 ――愛しているとは何度も言ったが、ありがとうとは言ったことがないんだ。
 ――ばかやろう、そういうことは、自分の口から言え。

ぼくはそんな風に架空の黒人警官とやり取りをしながら彼女の様子をうかがっていた。しばらくして電車が緩やかに動き出した。
「最悪の事態を想定しなさい」というのはどういうことかというと、「最も派手なフィクションをつくりなさい」ということだろう。
ぼくはあの日、世界で最も派手な男、ブルース・ウィリスになった。メル・ギブソンにも少しなった。ジャッキー・チェンは強いが、派手さでいえばまだまだだった。
女の子はずっとPSPをやっていた。彼女は現実で大変なことが起きているのも気にせず、ゲームの世界に没頭していた。
彼女の手の中には、果たしてどんなゴージャスなフィクションが展開されていたのだろうか。

      二〇一三年、ミネソタ。













2013/02/09

みんなよく読むし書く。がしかぁし!

母が書いた小説を読んだ。母は一昨年ころからなぜか小説を書き始め、ぼくはこの度初めて読んだのだが、もうすでに三作目らしい。一昨目はすでに新人賞に送ったらしい。iPhoneにWordを添付して送られてきたので、苦労してベッドの中で読むことになったが、なんとか読了した。
読み終えてすぐ母に電話した。感想を伝えると、母は冒頭の出だしの文章を自慢し、「宮本輝みたいやろ?」と言ってきた。実に宮本輝みたいな書き出しなのだ。母は昔から宮本輝に一途だ。
ぼくはこの小説を読んで、田中慎弥に通ずるテーマ性を見出したが、母は田中慎弥が嫌いだった。
「こんな小説をかくおかんが田中慎弥嫌いっていうのがよくわからんわ」
と言うと、母は田中の小説について
「宮本輝は、ああいう風には書かん」
と言って、それから笑って
「宗教みたいやな、おかん」
と自分でいった。
これには二重のブラックな笑いを含んでいる。


ぼくも実は小説を書いている。小説は書き終えたらまず誰かに読んでほしいと思うのだが、なかなか読んでくれる人がいない。5分ほどで読める短い話ならいいが、長編となると印刷だけで大変だし、最近は本を読みたいと思う人があまりいない。
いつも知り合いが数人と、家族が読んでくれるだけだ。身内が読むために小説を書いているわけじゃない。ルイス・キャロルじゃあるまいし。
音楽もぼくは作っているが、音楽は誰でも聞いてくれる。Skypeで送れば5分後には感想を言ってくれる。
小説はなかなか読んでくれない。
あまり普段小説を読む人も少ない。
職場で小説を読んでいると、ほめられたりする。
本を読むのが好きだというと、かっこいいといわれたりする。
なぜあんたは本を読まないんだときくと、難しいからとかいう。

しかしみなさんSNSのリーディングには必死だ。電車でも、食事中でも、話しながらでも、寝ながらでも、FacebookやTwitterやブログの精読をしている。そしてそこに書いてあることについて考え、イラついたり、悲しんだり、喜んだりする。
読むだけじゃなく、書いたりもする。好きな歌の歌詞や、時事ネタや、職場の文句や、友人との出来事や、食事のことや、行った場所などを、書いたりする。そしてその反応がどうであるか必死の思いで追走する。

しかし彼らは小説を読みも、書きもしない。

ぼくはSNSの流行とともに、一般の人と文学は近い関係になったのだと思っていたけど、たぶん違うだろう。
なぜならSNSやブログの読み書きというのは、結局のところコミュニケーションだからだ。作者と読者とのメッセージのやりとりが、より迅速なものとなって一般化したのがSNSだ。
しかし文学はコミュニケーションなど全く存在しない。小説は、作者が読者になんらかのメッセージを伝えるものではないし、伝えようとしても伝わらないものだ。
僕たちは中学生のころに「作者の意図はなにか」ということを三十字以内で書かされたりしたが、そんなものは誰にもわからないし、作品とは関係がない。
言葉とはコミュニケーションツールであり、人から人へメッセージは伝わるはずだ、という架空の信仰は、ブログやSNSによって特に根付いてしまったような気がする。
そういう人は「Facebook辞めようと思います」ということをFacebook上に書いたりすることや、「リツイートしまくる人はなんなんだ」ということをツイートしたりすることの矛盾や下品さを省みないだろう。美意識よりも言葉の内容そのものが重要なので、批判や自慢だけが一方的にばら撒かれてしまう。

よくぼくは小説を「わけのわからないまま」読むことがある。それで結局最後までわけのわからないことがある。別に前衛的なものに限ったことじゃなくて、例えばヘミングウェイみたいな小説を読むときもそういうことがある。実をいうとほとんどの小説がそうかもしれない。これがもし会話なんかでそんなことになればぼくはただのコミュニケーション障害になってしまうだろう。つまりSNSではそういう事態は許されない。
そういうとSNSは自由なもので、わけのわからない文章なんかざらにある、と反論されるかもしれない。
しかしわけのわからない文章だと断定できるものは結局はコミュニケーションだとう前提がそうさせている。
だから小説は能動的なようである意味受動的なものなのだ。
わからないまま、とにかく読み進めていって、気がついたら読了している。その読後感は、とても口では言い表せないにしても、とにかく「作者の意図がわかった」とかそういうことじゃない。

そうは言っても、本を読むことが好きな人はたくさんいるだろう。ぼくの知り合いにも、多くはないが、そこそこいる。
SNSをやっている人はというと、友人のほとんど全員だ。

今日は特に意味のない文章を書いたが、ぼくの意図が伝わっただろうか。それともわけがわからないだろうか。どちらにしても本望です。