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2012/10/11

わしは魚類をみながらサンドイッチを頬張った


穂村弘の短歌に次のようなものがある。

オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂

ぼくはこの短歌をよんで、転校生とサンドイッチという安直な組み合わせに思わず立ち上がってからまた座る。居ても立ってもいられないという良い表現がある。
中学生の頃は給食だったが、修学旅行かなにか、体験学習とでもいうものだろうか、どこかの水族館に行ったことがあるが、そのときの弁当がサンドイッチだった。いや、小学生のころだった。弁当というのは楽しみなもので、箱を開けてみるまで中身がわからない。ロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ』という映画の中にこんな感じの台詞がある。
人生は箱入りチョコレートのようなもの。開けてみるまでわからない。
ぼくは弁当箱を開けた。中は真っ白だった。ぎっしりと白いソフトなパン(縦横2:1の長方形)が並んでいた。手にとって横からみるとそれはサンドイッチで、具はすべてハムとキュウリだった。ぼくは愕然とした。一口食べた。この一口目の味が、弁当を食べ終える最後の一口まで全く変わることなく続くのだ。口直しになるものは何もない。永遠にハムとキュウリ。他の人の弁当をみれば、文字通り色とりどりだ。ぼくの弁当は白紙だった。真っ白なのだ。
ぼくは恥ずかしさのあまり、友人と中身を交換するということさえしなかった。
このトラウマは兄も全く同じように体験したということを後で知った。
後にコーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』を読んだ時、主人公がトルティーヤを持って馬でメキシコを旅するのをみて、あの頃のぼくはカウボーイだったんだ、と思うようにした。
転校生についても、小学生時分のことはなぜかよく憶えている。
夏姫とかいてナツキと読む女の子が大阪から転校してきた。ぼくはその子を漱石と呼んでいた。その子は金髪だった。その頃の僕には髪を染めるという発想自体がなかったので、ほとんどイノセントな顔で「なぜ金髪なのか」ということを彼女にきいた。すると彼女は「大阪じゃみんな金髪やからうちも目立てへんように金髪にしてんねん」と可愛い大阪弁で言った。目立てへんように金髪にするというこの発想のあまりの衝撃に、ぼくは脳髄までやられてしまって「それならこっちじゃみんな黒髪なのになんで黒染めせえへんねん」ということは全く考えもしなかった。

とにかくぼくはこのサンドイッチと転校生という組み合わせがトンチンカンなものにしか思えないのだけど、それはたぶんぼくだけだろうし、もしかしたら兄くらいはわかってくれるかもしれない。弁当がサンドイッチなんて糞くらえなのだ。
たとえばぼくが、自分の小学生時代の思い出の話をして、これこれこういう理由により、この短歌はクソである、と言ったなら、たちまちショートカットやボブヘアーの女子たちに叩かれるだろうし、一部のおかまっぽい男にも批判されるかもしれない。でも、これが、ぼくの思い出じゃなくて、たとえば聖書やシェイクスピアの作品を引用するのだったらどうだろう。
人はただ突っ立って生きているわけじゃなくて、考える葦なわけで、今までに少しはまともなことを考えたりすることも何度かあったりする。だからどんな作品だろうと人は自分の思い出と比べながら読む以外に方法はない。ただの葦、考えない葦に読ませれば話は違うんだろうけど、そんなやつがいるとしたら生まれてこのかた植物状態だろうし、いや、植物状態でも葦状態ってわけじゃないから、耳できいたり、考えたりはするんだろう。
ただ、ぼくが個人的な思い出でもって作品を良いとか悪いとか言うことができないっていうのに、批評家たちはなぜ堂々とシェイクスピアや聖書の話をするんだ?ということを考える。
映画や小説の新作が出る度に、みんなこぞって「これは明らかに『ゴドーを待ちながら』のシチュエーションを……」だとか「この二人はカインとアベルにおける……」とか言うのだが、確かに、作品をみたときに思い出したことっていうのは人に言いたくなるものだ。だがしかし、「明らかにこれは~の引用である」と言われたところで、もしぼくが黒人のサックスプレイヤーならこう言うだろう。
ーーSo what?

もうプレッシャーが酷い。どこまで教養の裾を拡げるのだろう。
ニュートンが「巨人の肩に乗って見ている」と言ったのは、「過去に色んな人がいろんなことをやったおかげで楽だった」ということだろう。だったらなぜ、読む人が苦労して巨人の足元までおりていかなけりゃならないんだろう。
しょうもない恋愛小説を読んで、たとえばそれがニーチェの思想と似ているからと言って、その小説が素晴らしい!と手放しで喜ぶのはニーチェファンだけだろう。オマージュっていうのはそういうものだ。オマージュはファンがやることだし、ファンに対してやるものだ。ファンサービスなんだからファンは喜ぶだろうし、確か本谷由紀子の小説で、彼氏の安部公房全集をぶん投げるシーンがあって、そこでぼくはイエーイ!ってな感じで喜んだ。安部公房は大好きだけど、安部公房好きの男はなんか腹立つからだと思う。それからケルアックの小説で、セックスの後にジェイムズ・ジョイスを朗読して解説するというシーンがあって、そこでもぼくはイエーイ!っていう感じだった。とにかくそういうファンサービスはファンにとっては嬉しいもんだ。たまにアヴリル・ラヴィーンとかがボブ・ディランの曲を歌ったりして全く何がしたいかわからないけど、でもやっぱりファンにとってはイエーイ!ってなるもんなのだ。
でもそれがどうなんだって言われると、どうってこともないだろう。みんなそれぞれ色んな思い出があるから、作品を見て好き勝手に興奮したり憤慨したりするのだ。巨人の肩にせっかく乗ってるのに、わざわざそこからおりていくもんなのだ。
だから、ぼくもこの穂村弘の短歌をよんで、好き勝手に苛立ったりしてみたのだ。こんな個人的な思い出だけで批評なんかできないって思うかもしれないけど、批評なんて結局そんなものだと思う。ただ、ぼくの思い出とシェイクスピアじゃあ共有される可能性が全然違うんだけど。




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