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2012/10/30

小顔にみせる方法(モダンホラー編)

女の子はよくプリクラやデジカメなんかで写真を撮る時に、より小顔にみせるために顔に手をそえたりするでしょう。あごがでかい女性はあごに手を添え、顔がまるい女性は頬に手を添える。
そのテクニックをもっとも実践しているのが、アメリカのモダンホラーの巨匠にしてとてつもなく大きな顔を持つ、スティーヴン・キングだろう。




ぼくと君の国歌論



一人称や二人称を含むネーミングについて考えていた。
YouTubeやMySpaceやUstreamについてを。ひょっとしたらこういったネーミングセンスはみうらじゅんの「マイブーム」に始まるのではないかと思っていた。いや、そんなわけはない。もっと始まりがあるはずだ、そう思っていろいろ考えていると、当然かもしれないが、ある歌のタイトルが浮かんできた。
『君が代』である。これこそがYouTubeやMySpaceやUstream、マイブームといった一人称二人称ネーミングの根源である、という風にぼくの方で勝手に決めてしまった。
『君が代』の「君」が「you」ではなくて「天皇」のことだというのはなんとなく知っていたが、それでもこの歌を英語にするなら絶対に『Your Generation』にするべきだろう。これはThe Whoの『My Generation』に匹敵する一人称二人称ソングの予感だ。
「千代に八千代に」の部分は「for ever and ever」で間違いはないだろう。これはベタなポップソングだ。そうなると続きの部分も訳してみたくなるものだが、「さざれ石の巌となりて、こけのむすまて」は急激に堅苦しくなってしまってぼくには手に負えない。ここは大胆に、The Whoの歌につなげてみるというのはどうだろうか。

Your Generation

Your generation is
For ever and ever, baby
People try to put us d-down (Talkin' 'bout your generation)
Just because we g-g-get around (Talkin' 'bout your generation)
Things they do look awful c-c-cold (Talkin' 'bout your generation)
Yeah, I hope I die before I get old (Talkin' 'bout your generation)

英語だとYouは「あなたたち」という複数代名詞として認識されてしまう。それを「baby」をつけたことで「お前」という単数代名詞だとわかるようにした。

しかし、ロッカーたちにとって国歌というのは体制を皮肉るいい材料になる。
セックス・ピストルズはエリザベス女王在位25周年の祝典のとき、テムズ川で『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を歌った。この曲は国家と同名の彼らの代表曲なのだ。
おもしろいことに、エリザベス女王在位50周年の祝典ではブライアン・メイがバッキンガム宮殿の屋上で一人で『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を演奏したのだ。この滑稽な動画をYouTubeでみたときぼくは「なにやってるんだこいつは!!」と手を叩いて歓喜した。この国歌アレンジのインスト曲は、クイーンのアルバムにも収録されていて、発売時はパンク全盛期だったからクイーンはパンクの連中に批判されまくっていた。クイーンとピストルズは同じスタジオでレコーディングしていたこともあるようで、そのさいにシド・ヴィシャスがクイーンのレコーディングを邪魔してきたらしい。当然ながらフレディー・マーキュリーがぶちぎれてシドの胸ぐらをつかんで外にぶん投げたらしい。ブライアンはインタビューで「パンクはファッションだ」と言っていた。
そんなブライアンがバッキンガム宮殿屋上で演奏する国歌はもう思想とか通り越してマグロ一本釣りの漁師のような立ち振る舞いで、わけもわからずかっこ良いのだ。

一人称二人称の話に戻ろう。
「自慰」という言葉もなかなか素晴らしい一人称二人称表現だ。英語で「Fuck you」とか「Fuck yourself」という言い方があるが、これは自慰にすごく似ている。ちなみに英語では自慰は「Hand's wife」という愛すべく表現がある。
ウディ・アレンの『アニー・ホール』という映画で、次のようなセリフが出てくる。

Masturbation is sex with the person you love the most.
(自慰とは、あなたが最も愛する人とのセックスです。)

これを一言でいうなら「自他愛」だろう。自分という他人を愛する行為なのだ。

ウディ・アレンはアメリカという国で(それもほとんどニューヨークを舞台に)映画をつくっているけど、アメリカでは自慰行為の市民権はいまだに肩身の狭いものみたいだ。それは聖書のせいでありキリスト原理主義のせいであるという話はよくきくから、それを考えるとウディ・アレンのこの発言は相当にインパクトのあるものだろう。






アメリカの性事情はどんなものだろうか。

先日『ブロークバック・マウンテン』という映画をみた。アン・リーという人が監督で、今はなきヒース・レジャーが出ていたりする。
町山智浩という映画評論家がこの映画について語っていたのをきいて、「みてみるか」という気になったのだ。
この映画は60年代のワイオミング州が舞台で、カウボーイ二人が恋をするという、ゲイをテーマにした静かな映画。町山智浩曰く「カウボーイはアメリカ人にとって《男》の象徴で、日本でいう侍のようなもの」らしい。その男の象徴カウボーイがゲイというのは、アメリカではあってはならないことだと。
劇中、恋する相手がヒースに「一緒に牧場を経営しよう」と言い寄るが、ヒースは「馬鹿を言うな。この国でそんなことが知られたら殺されちまう」という。ワイオミング州は実際にゲイのカウボーイが撲殺されたりしているところなのだ。
ここでぼくは日本人として大島渚の映画『御法度』を思い出してしまう。なんせカウボーイは日本でいう侍なので。
この映画は新撰組に加納惣三郎という美青年が入隊して、そっから男色沙汰が始まるというフィクション。原作は司馬遼太郎の『前髪の惣三郎』だ。実際、新撰組は男色が流行っていたということがあったらしい。原作では土方歳三は隊内の男色流行に気づいてはいるが、「そんな個人の趣味で除隊にするのもなあ」という感じ悩んでいる。沖田総司は「男が男を追いかけるなんてぼくには理解できません」という。
みな、のんきなもんだ。別にゲイというだけで撲殺したりなんかしない。あの荒くれ者の新撰組であってもだ。

アメリカと日本で、こんなにも違うものか、と思う。
どれもこれもすべてキリスト教のせいなのだろうか。

ここで今度はアメリカ国歌『星条旗』に立ち向かわねばならない。

トマス・ピンチョンというアメリカの作家の『メイスン&ディクスン』という小説がある。独立前のアメリカが舞台で、後に南北戦争の境界線となる「メイスン&ディクスン線」という境界線をひいた測量士の物語だ。
この中で、酒を飲みながらギターを弾き、歌うシーンがある。いずれ自由になれば、こんな下品な歌でも、国歌として歌われる日がくるかもしれんしぜえ、といって笑い合う。そのとき彼らが歌っていた下品な歌というのは、『天国のアナクレオンへ』という歌だ。当時は酒飲みが歌う歌として英米で流行していた。しかしこれは後に歌詞がかえられて『星条旗』というタイトルで本当に国歌になるのだ。
では『星条旗』の元ネタである『天国のアナクレオンへ』とはどういう歌なのか。
アナクレオンというのはギリシアの伝説的詩人で、飲んだくれで、下品な詩ばかりかいていた。この歌は酒飲みの憧れである詩人アナクレオンに捧げた歌なのだ。そしてなにより、このアナクレオンがよく詩にしていたのが「少年愛」なのだ。ギリシア時代、少年愛はおかしなことではなかった。
同性愛の精神を受け継いだ酒飲みの歌が、後に国家になり、その後長い時を経てゲイのカウボーイが撲殺される国になってしまった。

日本では四十八手なんていうものがあるが、西洋では色んな体位が認められたのは実存主義時代、とりわけボーヴォワールの主張に始まる。
ウィリアム・バロウズはそのものズバリ「おかま」という小説を書いているが、発禁になったのはむしろ当然だろう。
グレフェンベルグがいわゆる「Gスポット」についての論文を発表し、始めてクリトリスではなく膣内でオーガズムにいたることが発見されたのも、ボーヴォワールの体位解放と同じ頃だ。それよりはるか以前にフロイトが同じことを主張したが、全く相手にされなかった。

ぼくは、大きな課題を前に、ブログのまとめ方がわからなくなってしまった。
時代は流れていくが、決して進化するというのは良くなるということではない。何かが原因で、どっかでゲイの歌が国家になり、何かが原因でゲイが殺されるようになる。
ところでこんな絶望的な歴史観のなかで、唯一永遠に変わらないといわれている「愛」を、歌にして君に贈ろうと思う。届け、この思い、ってなもんだ。ラヴソングを、君に贈ろうと思う。それが締めだ。はい、ほう、レッツゴー!


細石が巌となって
苔が生えるまで、
君は永遠に、ベイビー





2012/10/22

なぜブリリアント・グリーンは英語にきこえないか


先日、久しぶりにバンドでライブをした。友人のバンドメンバーが結婚して、その二次会、三次会をライブハウスでやるということだった。
結婚した主催者は、当初ぼくに二次会にmacaroomで出てくれといったが、それは断った。メンバーの予定が合わず、なにより主催者がなぜmacaroomを選んだのかが曖昧だったからだ。

かわりに友人と三次会でブリリアント・グリーンというバンドのコピーバンドをやることになった。ほとんどきいたこともないバンドだが、曲は簡単だったので問題なかった。2曲やるうちの一曲は英語の曲だったが、それが酷い曲だった。歌詞カードをみれば英語が書いてあるのだが、歌は英語にきこえない。『Greenwood Diary』という曲。ネットで色んな人の批評を読んだが、そこでの結論はボーカルの発音が悪いということだった。確かにボーカルの発音は間違っているところもあるが、問題はそうじゃないとぼくは思った。問題は詞の作り方そのものだった。彼女は英語の歌詞を、日本語のリズムで切り刻んで歌っていた。具体的にいうと、音節(Syllable)という英語のリズムではなく、モーラという日本語の単位で詞をつくっていた。たとえば、「diary」という、その歌のキーワードとなる単語があるが、ブリリアント・グリーンはこの単語を4音符に当てはめて歌っている。「dai.a.ri.i」だ。最初の「dai」は音節をおもわせるが、後半はあきらかにモーラのリズムだ。英語であれば「diary」は3音節で、3音符ないし2音符に当てはめるのが普通だろう。アリシア・キーズの『Diary』、ブリトニー・スピアーズの『Dear Diary』もともに3音符だ。さらにこの2曲とも、前半の音節にアクセントがくるように、音程が下がっている。ブリリアント・グリーンの曲は4音符目が音程が高くなり、アクセントとは一致しない。
J-Popにも英語の歌詞は多いけど、とかくみんなボーカルの発音ばかり気にして、良いとかわるいとか言いたがるけど、歌詞の作りが英語的でなければ英語の発音はできない。

そういえば、阿久悠が対談の中で、カタカナで表記された『ウォンテッド』という曲についてこんなことをいっていた。

「だからこれ、英語でなきゃだめなんですよ。ところが、どうしてもこの時点まではね、通らなかったです。片仮名でウォンテッドと書いたものには一回もお目にかかってない。だから嫌これ、英語でなきゃだめなんだ、さんざん言ったんですけどね。」
阿久悠『A面B面』


彼は感覚的に、この曲はカタカナのウォンテッドではなく英語のwantedであると感じているが、本人はその理由まではわかっていない。なぜ「ウォンテッド」じゃなく英語の「Wanted」でないとダメなのか、というのは、簡単なことだ。
「ウォンテッド」をモーラで区切ると
「ウォ・ン・テ・ッ・ド」
となり、
英語の「wanted」を音節で区切ると、
「wan.ted」
となる。
これは曲の音符数と一致しているので、違和感なく歌唱できる。
さらにアクセントに注意してみると、両者は
「《ウォ》ンテッド」(《》がアクセント)
「WANted」(大文字がアクセント)
となり、これも英語が曲と一致しているといえる。


英語的なイメージで阿久悠はこの詞をつけたから、カタカナではどうしてもつじつまが合わなくなってしまう、ということ。



今日は短いけどそういう話。みんな、発音の話もいいけど詞はリズムとアクセントも大事だよ、という話。

2012/10/19

メトロポリス

初めてフリッツ・ラングの『メトロポリス』という映画を観た。フィルムがかなり紛失しているみたいで、1割くらいはただの説明なんだけど、すごく面白かった。とりわけ労働者たちのデモのシーンはすごかった。国というのがあればいつだってこういうことは起こるかもしれないんだとよくわかる。

















ところでツイッターでこんな文章をみた。


「世界」の駅乗降車数ランキング
1位・新宿駅
2位・池袋駅
3位・渋谷駅
4位・大阪駅(梅田駅含む)
5位・横浜駅
6位・北千住駅
7位・名古屋駅(名鉄・近鉄含む)
8位・東京駅
9位・品川駅
10位・高田馬場駅”


たとえばK-POPがオリコンランキングに入れば「作られたブーム」だとかいうのに、なぜこのランキングには疑問を抱かないのだろう。
これが作られた真っ赤な嘘だということがわからないのは、本当にしょうもない愛国心だと思う。

『ホテル・ルワンダ』という映画をみた。ルワンダの虐殺のころ、ぼくはとっくに生まれているはずだけど、最近までほとんど知らなかった。
ぼくはウィリアム・ヴォルマンという作家の『蝶の物語たち』という小説を読んで、虐殺というものに興味を持った。「虐殺というものに興味を持った」というとしょうもないサブカル女みたいだけど、そういうこっちゃない。『蝶の物語たち』はカンボジアのクメール・ルージュによる虐殺のお話だった。
ぼくは世界の虐殺について調べて、その中に当然ルワンダのことものっていた。
ルワンダではフツ族がツチ族を虐殺した、ということがあって、9.11テロでは3000人の人が亡くなったけど、ルワンダでは一日8000人が殺され、それが百日間続いた、というような次第だった。
それをきくと「なんて野蛮な民族だ」と思うけど、『ホテル・ルワンダ』をみるとそのへんの事情がよくわかる。まず最初にルワンダという国は非常に発展しているということ。舞台となるホテルもぼくは今まで泊まったこともないようなゴージャスなものだった。それからツチ・フツという民族に外見的な違いはなく、お互いに友人だったり家族だったりする。事実上ツチが支配していたけど、社会的差別のようなものは感じられなかった。
しかしあるとき、民族的な意識が急に生まれる。きっかけはフツの大統領の暗殺。ここから一気に虐殺の流れになって、民間人が民間人を殺し始めるが、もしこれを完全なフィクションだとしてみるなら、あまりに唐突なストーリーだと思うだろう。でも事実、唐突に虐殺は始まった。80万人が死んだ。これは、外見的にも全く意味などなさない民族意識が起こしたものなのだ。なにがツチとフツをわけるかというと、身分証明書にかかれてある文字だけだ。




中国や朝鮮半島との問題は、ツイッターをみているとびっくりするほど変動的に情報があふれだす。前日にはなかった中国批判でタイムラインが埋め尽くされる。
国があって、ぼくらのような人間がある。その二つをつなぐものは何か。
その答えは、『メトロポリス』においては明確にしめされている。

「頭と手をつなぐものは、心でなければならない」

この映画で頭とは知識層や権力者で、手とは労働者を意味している。
この映画では、労働者を暴動にけしかけるリーダーのような存在が出てくるが、実はそれは科学者がつくりだしたべっぴんのアンドロイドなのだ。アンドロイドに心はない。こいつはびっくりするほど動きがアシモにそっくりなのだ。ところでアシモってのはアイザック・アシモフから?だったらフリッツ・ラングに因んでラングにしたほうがいいね。


様々なことについて考え、よく検討する。でも一旦火がつけばどこだって暴動になり、どこだって戦争になる。この二つをつなぐ心というものを、果たして持ち合わせているだろうか。

ここで、高杉晋作の最後のうたの下の句を思い出す。有名な、アレンジド・バイ・DJ望東尼

「すみなすものは心なりけり」

うん。非常に良い。ひょっとすると高杉晋作先生の上の句よりもいいんじゃあなかろうかという気がしてこないでもない。



2012/10/11

わしは魚類をみながらサンドイッチを頬張った


穂村弘の短歌に次のようなものがある。

オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂

ぼくはこの短歌をよんで、転校生とサンドイッチという安直な組み合わせに思わず立ち上がってからまた座る。居ても立ってもいられないという良い表現がある。
中学生の頃は給食だったが、修学旅行かなにか、体験学習とでもいうものだろうか、どこかの水族館に行ったことがあるが、そのときの弁当がサンドイッチだった。いや、小学生のころだった。弁当というのは楽しみなもので、箱を開けてみるまで中身がわからない。ロバート・ゼメキスの『フォレスト・ガンプ』という映画の中にこんな感じの台詞がある。
人生は箱入りチョコレートのようなもの。開けてみるまでわからない。
ぼくは弁当箱を開けた。中は真っ白だった。ぎっしりと白いソフトなパン(縦横2:1の長方形)が並んでいた。手にとって横からみるとそれはサンドイッチで、具はすべてハムとキュウリだった。ぼくは愕然とした。一口食べた。この一口目の味が、弁当を食べ終える最後の一口まで全く変わることなく続くのだ。口直しになるものは何もない。永遠にハムとキュウリ。他の人の弁当をみれば、文字通り色とりどりだ。ぼくの弁当は白紙だった。真っ白なのだ。
ぼくは恥ずかしさのあまり、友人と中身を交換するということさえしなかった。
このトラウマは兄も全く同じように体験したということを後で知った。
後にコーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』を読んだ時、主人公がトルティーヤを持って馬でメキシコを旅するのをみて、あの頃のぼくはカウボーイだったんだ、と思うようにした。
転校生についても、小学生時分のことはなぜかよく憶えている。
夏姫とかいてナツキと読む女の子が大阪から転校してきた。ぼくはその子を漱石と呼んでいた。その子は金髪だった。その頃の僕には髪を染めるという発想自体がなかったので、ほとんどイノセントな顔で「なぜ金髪なのか」ということを彼女にきいた。すると彼女は「大阪じゃみんな金髪やからうちも目立てへんように金髪にしてんねん」と可愛い大阪弁で言った。目立てへんように金髪にするというこの発想のあまりの衝撃に、ぼくは脳髄までやられてしまって「それならこっちじゃみんな黒髪なのになんで黒染めせえへんねん」ということは全く考えもしなかった。

とにかくぼくはこのサンドイッチと転校生という組み合わせがトンチンカンなものにしか思えないのだけど、それはたぶんぼくだけだろうし、もしかしたら兄くらいはわかってくれるかもしれない。弁当がサンドイッチなんて糞くらえなのだ。
たとえばぼくが、自分の小学生時代の思い出の話をして、これこれこういう理由により、この短歌はクソである、と言ったなら、たちまちショートカットやボブヘアーの女子たちに叩かれるだろうし、一部のおかまっぽい男にも批判されるかもしれない。でも、これが、ぼくの思い出じゃなくて、たとえば聖書やシェイクスピアの作品を引用するのだったらどうだろう。
人はただ突っ立って生きているわけじゃなくて、考える葦なわけで、今までに少しはまともなことを考えたりすることも何度かあったりする。だからどんな作品だろうと人は自分の思い出と比べながら読む以外に方法はない。ただの葦、考えない葦に読ませれば話は違うんだろうけど、そんなやつがいるとしたら生まれてこのかた植物状態だろうし、いや、植物状態でも葦状態ってわけじゃないから、耳できいたり、考えたりはするんだろう。
ただ、ぼくが個人的な思い出でもって作品を良いとか悪いとか言うことができないっていうのに、批評家たちはなぜ堂々とシェイクスピアや聖書の話をするんだ?ということを考える。
映画や小説の新作が出る度に、みんなこぞって「これは明らかに『ゴドーを待ちながら』のシチュエーションを……」だとか「この二人はカインとアベルにおける……」とか言うのだが、確かに、作品をみたときに思い出したことっていうのは人に言いたくなるものだ。だがしかし、「明らかにこれは~の引用である」と言われたところで、もしぼくが黒人のサックスプレイヤーならこう言うだろう。
ーーSo what?

もうプレッシャーが酷い。どこまで教養の裾を拡げるのだろう。
ニュートンが「巨人の肩に乗って見ている」と言ったのは、「過去に色んな人がいろんなことをやったおかげで楽だった」ということだろう。だったらなぜ、読む人が苦労して巨人の足元までおりていかなけりゃならないんだろう。
しょうもない恋愛小説を読んで、たとえばそれがニーチェの思想と似ているからと言って、その小説が素晴らしい!と手放しで喜ぶのはニーチェファンだけだろう。オマージュっていうのはそういうものだ。オマージュはファンがやることだし、ファンに対してやるものだ。ファンサービスなんだからファンは喜ぶだろうし、確か本谷由紀子の小説で、彼氏の安部公房全集をぶん投げるシーンがあって、そこでぼくはイエーイ!ってな感じで喜んだ。安部公房は大好きだけど、安部公房好きの男はなんか腹立つからだと思う。それからケルアックの小説で、セックスの後にジェイムズ・ジョイスを朗読して解説するというシーンがあって、そこでもぼくはイエーイ!っていう感じだった。とにかくそういうファンサービスはファンにとっては嬉しいもんだ。たまにアヴリル・ラヴィーンとかがボブ・ディランの曲を歌ったりして全く何がしたいかわからないけど、でもやっぱりファンにとってはイエーイ!ってなるもんなのだ。
でもそれがどうなんだって言われると、どうってこともないだろう。みんなそれぞれ色んな思い出があるから、作品を見て好き勝手に興奮したり憤慨したりするのだ。巨人の肩にせっかく乗ってるのに、わざわざそこからおりていくもんなのだ。
だから、ぼくもこの穂村弘の短歌をよんで、好き勝手に苛立ったりしてみたのだ。こんな個人的な思い出だけで批評なんかできないって思うかもしれないけど、批評なんて結局そんなものだと思う。ただ、ぼくの思い出とシェイクスピアじゃあ共有される可能性が全然違うんだけど。